top of page

FOLLOW ME:

  • Facebook Clean Grey
  • Twitter Clean Grey
  • Instagram Clean Grey

RECENT POSTS: 

ユダヤ人の不信仰によって世界中の人間は皆死んでいかなければならない

ユダヤ人がイエスの復活を信じないので、人間は皆、死ななければならないのです。こんなばかなことがあってもいいのかと、言いたいのです。ユダヤ人は宗教観念のために、イエス・キリストを信じていない。そのために世界中の人間が、未だに死ななければならないのです。  今から約二千年前に、イエス・キリストが復活したことにより、人類は死ななくなっているのです。ところが、未だに、人間は死んでいる。ユダヤ人の不信仰のために、人類は死に続けているのです。2000年もの間死に続けているのです。イエス・キリストの十字架、復活によって、人類から死が消えた。そして、すべての人に、復活の命が与えられたのです。これが新約時代、キリスト紀元の時代です。この秘密に気がついている人が、世界にいないから困るのです。世界中の人間は、何とバカなのかと言いたいのです。  ユダヤ人の宗教観念のために、世界中の人間は死んでいかなければならない。2000年間も死に続けているのです。こういうことを放っておいてもいいのでしょうか。私は、これに、腹がたってしょうがないのです。もういい加減に、キリスト紀元が分かってもいいのです。  人間は自分がいると思いこんでいます。自分はいないのに、自分がいると思いこんでいる。だから死ななければならないのです。  なぜ人間は、病気になるのでしょうか。だいたい、人間に病気があることが、おかしいのです。人間に肉体があって、病気があって、万物があることがおかしいのです。  肉体をもっていて、痛みを感じるのは、宇宙的な条件です。私たちが経験している病気は、神が感じている痛みを、神にかわって感じているのです。これがすばらしい栄光なのです。  ユダヤ人の不信仰が、そのまま肉体の痛みとして感じられる。神が感じていることが、私達にも感じられるのです。こういう方法で痛みを感じなければ、ユダヤ人の不信仰が直接感じられませんので、このように神が仕向けているのです。病気はこのように考えることができれば、感謝しなければならないことになるのです  パウロはすべてのことに感謝せよと言っています。これがなかなかできないのです。痛いと感じた時に、すぐに感謝できないといけないのです。  だいたい、生理機能、心理機能、五官があることが、あたりまえと思っています。これが大変な間違いです。私達が毎日経験していることが、驚きにならなかったらいけないのです。  目に見える形で地球があります。森羅万象が見えるのです。他人が見えるのです。お互いに話をすれば理解できます。こういう経験ができることが不思議です。これは、お互いに神だからできるのです。  こういう経験をなぜしているかと言いますと、お互いに神であることを知りあうためにしているのです。  宇宙の本体は神です。命とは何か。命というのは人間がそう名づけているから命と言えるのであって、そう名づけなければならない何かがあるのです。  人間がいる、花が咲く、鳥が鳴くということが、宇宙にあることがおかしいのです。人間はこれを命と呼んでいますが、宇宙に何か動いているものがあるのです。動いている状態を形容すると、命になります。機能的な形容名称が命です。人格的形容名称が神です。存在的形容名称が、有りて在るものです。そういうものが宇宙にあるのです。それが、「ある」という妙なものになって、現われているのです。こういう妙なものは、だいたいあるはずがないのです。  有とか在はあるべき道理がないのです。それがあるのです。「ある」ということは、哲学ではどうしても説明できないのです。  現代人の一番悪い点は、哲学思想がないことです。哲学思想がないために、神学思想がないのです。  宇宙を哲学的に考えて、あるべき道理がないものが、地球にあるのです。「有」とは何か。仏教では説明ができないのです。一休禅師は有を全く知らなかったのです。弘法大師も、親鸞も、日蓮も、日本の偉いお祖師さんが、有を知らなかったのです。  日本の偉いお坊さんに、有が分からないのです。なぜ分からないかと言いますと、神が分からないからです。  「有」「在」は、一番ありふれたものです。富士山がある。地球がある。花が咲いている。風が吹いている。これをあらしめているのが神です。  なぜ富士山があるのか、なぜ地球があるのか、なぜ花が咲き、風が吹いているのか。それを説明しているが聖書です。  女性には求める気持ちがあふれています。女性がなぜ美しく見えるかです。女性は与えられる当体の姿をそのまま現わしているのです。これが女性の美しさです。  女性がどうしてつくられたかと言いますと、かつてエデンの園で、神がアダムに、あの手この手を使って、神目身を知らせようとしたのに、アダムはどうしてもそれに気がつかなかった。そこでアダムという男性の一番重要なあばら骨を一本(ハート)を抜き出して女を造ったのです。これは旧約聖書の創世記の二章に書いていますが、男性の一番重要な部分が外に現われたのです。男性から見ると、女性は素晴らしいのです。素晴らしくみえるのです。だから男性は女性がほしくてたまらないのです。女性をねたむ程に愛せざるをえないのです。  これと同じように神は男の魂を、ねたむように愛しているのです。なぜなら神自身の、最も素晴らしい部分をとって、人がつくられたからです。神から見ると、人の魂がたまらなくいとしくみえるのです。  皆様は哲学的に考えることができないために、聖書の真髄に入りこむことができないのです。もっと哲学的に考えるのです。聖書のどこでもいいのですから、一箇所でいいからつかまえるのです。。例えば神は愛であるという箇所、又イエスの言葉で分からないところを、アスクするのです。アスクし続けると、御霊が答えて下さるのです。その言葉が命になるのです。  私達は料理を見るとおいしそうだと思います。まず肉の思い(人間の常識)でおいしそうだと思うのです。肉の思いでおいしいと思っただけでは、霊的(本質的)にどういう意味をもっているか分からない。そこで霊的に見るとどうなるかを考えるのです。常識的においしいと思っている場合と、魂でおいしいと思っている場合と、どういう関係になるか。おいしいものを食べると魂にどういう関係があるか。こういうことが分からなければ、現世に生きていることが魂の救いにはならないのです。  人間の五官は全部魂です。魂で生きていますから、実はこの世に生きているのではない。前世を生きているのです。今、天にいるということが分かるのです。そうすると死なないことが分かるのです。  現世と前世、肉と霊の壁がなくなるのです。霊と肉が自由に行き来できるのです。現世に生きていることが、そのまま前世にいる状態にいるのです。生れる前の状態で今、ここに生きているのですから、死なないのです。生きていながら死がないのです。これが永遠の命を経験している状態です。  肉体的にはこの世を去りますが、魂は生まれた所に帰るのです。イエスはどこから来て、どこへ行くかを知っているといっています。そのように私達も言えるのです。上からきて、上へ帰るのです。この世の父、母はどういうものか。この世の両親のことは、あまり神経を使わない方がよいのです。  両親がいなければ、実はこの世に生まれたことはなかったのですが、この世に生まれた以上、父も母もないのです。この世に生まれたことによって、この世の父も母も消えているのです。  命をはっきり見ることができれば、神が父母を通して私を生んでくれたということが、分かるのです。人間の立場から見れば、父も母もありますけれど、神がそういうかっこうで、人間を生んでいるのです。  この世の父と母は、忘れてしまったらいいのです。イエスは母親のことを全く忘れていたのです。出会っても、女よと言っていたのです。現世の親、兄弟、子供は、皆トリックみたいなものです。ただ混乱を起こさないようしなければなりませんが、それでいいのです。  人間はその人が生きていることが、そのままその人の常になっているのです。常が生きているかっこうで現われているのです。これを魂と言います。  人間が生きているのは魂であって、精神状態をかえてしまいますと、自分が生きているということがなくなってしまいます。霊の思いは命です。霊の思いで生きていますと、肉の思いで生きている自分は、なくなってしまいます。そうすると死ぬべき自分は消えてしまうのです。これをとしえの命というのです。  死ぬということはないのです。生きているということが、生れる前の状態が現われているのです。だから死ぬことはないのです。  こういうことが少し分かったら、それをしっかりとつかまえてしまうのです。そうすると気持ちが切り替えられるのです。  この世に出てきたことは、新しく生まれるチャンスを与えられたのであって、そのチャンスをつかまえるのです。この世に出てきたから、神の命をつかまえられるチャンスになるのです。  遠慮しないで、死なない命をつかまえたらいいのです。これを芥子種の信仰といいます。芥子種は、種の中で一番小さいものですが、育つと大きくなって、枝に鳥が巣をつくるのです。芥子種が信仰の秘訣です。ぜひこれをつかまえて頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


bottom of page