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イスラエルが悔い改めなければキリストは再臨しない

キリストの再臨とは何か。現在私たちが生きていることを全く誤解しているということが、性根に染みるような形で理解できないと、キリストの再臨は分かりません。キリストの再臨ということが思想的に分かっても、歴史の実体として自分の心に染み込んでこないのです。つまり、自分が生きていることが、本当に生きているのではない。これは神から見れば、死んでいることだということが、名実共に理解できないといけないのです。  現在、人間が生きているのは、固有名詞の人間として、肉体的に生きているのです。これは精神的には死んでいることになるのです。なぜなら、死なない命、永遠の生命をつかまえていないからです。  人間の実体は霊魂であって、肉体ではないのです。死ぬに決まっているということは、肉体的に生きているのを自分だと思っているからです。それで死ぬに決まっているのです。  死ぬに決まっていることが分かっていながら、そこから抜け出すことがなかなかできないということについて、よく考えなければいけないのです。  皆様が現在生きていることが死んでいることだということは、概念的には分かるのですが、現在生きているという感覚がどんなものかが、よく分かっていないのです。今、私たちは生きています。この生きているということ、固有名詞で生きていること、肉体的に生きていること、この世のならわしとして生きていることが、生きているのではなくて死んでいるのだということは、聖書を勉強した人は概念的には分かるのです。ところが概念的な分かり方というのは、本当に分かっていることにはならないのです。ここが難しいのです。  私たちはこれから抜け出さなければいけないのです。概念的に、私たちが今生きていることは、実は死んでいることだ、それは肉体的に生きているからであって、これは必ず死ぬべき命である、必ず死ぬべき命であるということは、すでに死んでいることになる。こういうことは理論的に分かります。理論的に分かったら、それから抜け出せばいいのです。  つまり、今生きている自分から抜け出して、現象的に生きていない領域、神の国に入っていけばいいのです。ところが入れない。なぜ入れないかということです。皆様は現象的に生きている自分にそんなに執着していないと思っているでしょう。ところが現象世界から抜け出せないのです。抜け出せないという気持ちになっているのです。  女性の場合は肉体的なエクスタシーから、なかなか抜け出せません。男性の場合は金儲けと女性のエクスタシーから抜け出せません。こんなものは大したことではないと、理屈では考えますが、なかなか抜け出せないのです。  学者は自分の学説が必ずしも真理だとは思っていません。人間の学問は、死んでいく人間が考えたものであって、永遠に通用するものではないことを、学者自身が知っているのです。  ある大学の教授は、もしキリストの復活が本当に分かったら、今までしてきた学問が全く役に立たないかもしれないので、それが怖くて復活を信じないというのです。復活が分かれば、政治も法律も哲学も、すべて役に立たないことになるのです。学者は今の文明や学問が、間違っていることを知っているのです。法律や哲学は、人間文明が造りあげたただの概念にすぎないのです。こんなものは本当の真理ではないことを、学者は知っているのです。  本当の真理は、死人が甦ったという事実です。死人が甦ったということは、甦っただけで終わるなら甦りにはならないのです。  イエス・キリストの復活は、宗教ではありません。イエスは甦って、山の中で仙人のように暮らしていたのではない。彼は第三の天という地球存在の上にいるのです。物理現象の上です。これはこの世、ザ・ワールドの上を意味するのです。現象世界の上です。これが第三の天で、そこにキリストがいるのです。御霊を受けると、第三の天のことが分かるのです。新約時代は、第三の天が反映していることが分かるのです。  それはアウシュビッツの事件だけでも分かるのです。ユダヤ人問題は第三天がなければ、発生するはずがないのです。キリストが復活して神の右に座しているという、絶対的な事実があるのです。この絶対的な事実があるので、現在、ユダヤ人が世界をリードしていながら、彼らは流浪の民になっているのです。  六百万とも七百万とも言われるユダヤ人が、アウシュビッツ等の強制収容所で殺された。こんなバカなことがなぜ起きたのか、全く白昼の死角というべきことです。白昼に暗闇があるのです。  第三の天が現世の上にあるから、こんなことが起きたのです。これが神の処置です。やがて、上にあるものが下に下りてきます。現在、学問、宗教、政治、経済がこの世をおさえていますが、これが空中の権を握っている状態です。第三の天が空中に下りてくると、空中の権を持っている者が地におちるのです。  キリストの復活を信じなくても、やがて学問の権威はなくなるのです。国家の王権、政治権力、軍備の絶対性、核兵器の保有数というものは、何の価値もなくなるでしょう。その時初めて、人間文明に三文の価値もないことが分かるのです。  それはなぜかというと、復活したイエス・キリストが第三天にいるからです。イエス・キリストという大将が、この世をしっかり見つめているのです。復活して第三天に頑張っているのです。このキリストが下りてきたらどうなるのか。地上のあらゆる支配権は、すべて没収されるのです。これがイエス・キリストの再臨という問題です。  再臨は必ず実現します。実現しなければ、復活した意味がないからです。キリストは全世界を歴史的に治めるために、今、天にいるのです。キリストが今、第三天にいるということは、人間歴史が根本から叩き潰されることを示しているのです。それを人類は知らないだけです。  文明の前途を知るためには、キリストの復活という大テーマを、どうしても知らなければならない責任があるのです。特に文明の指導者である学者は、これをどうしても知らなければならない責任があるのです。  再臨を知ることは、復活の実体を知ることなのです。復活を知れば、その続きに再臨があることを知ることができるのです。再臨と復活をつなぎ合わせて見ることをしないのです。だから、第三天におけるキリストが、今どのような状態で神の右に座しておられるかが、分からないのです。  今キリストが神の右に座して待っている。なぜ待っているかが分からないのです。キリスト教の神学では、全然分からないのです。なぜキリストが待っているのか。イスラエルの回復を待っているのです。キリストはこの地上のどこに再臨するかと言いますと、橄檻山(オリブ山)に再臨するのです。聖書の預言に、「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ」(ゼカリヤ書14・4)とあるからです。橄檻山の回りにいる人間が、キリストを歓迎するのでなかったら、キリストは立てないのです。再臨できないのです。ですから、イスラエルの回復は、キリスト再臨のための絶対必要条件なのです。

創世記に次のような記事があります。 「彼はおまえの頭を砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(3・15)。  悪魔がキリストのかかとを砕いたのです。かかとを砕かれると、立てないのです。彼は一人子のかかとを砕く、一人子は彼の頭を砕いたのです。キリストと悪魔の闘いは、こうなっているのです。  へビがキリストのかかとを砕いた。地上に立てないようにしたのです。現在イスラエル民族が、キリストに反抗して、悪魔の考えに同意している。これがかかとが砕かれたことです。  これに対して「キリストはへビの頭を砕いた。」イエス・キリストの十字架によって、肉の思いが否定された。これはへビの頭が砕かれたことになるのです。頭を砕かれたことは致命傷です。悪魔の思想、考え方がすべて否定されたのです。ところが、ユダヤ民族がイエス・キリストの復活を受け入れない。このために、世界中に、依然として悪魔の思想がのさばっているのです。  このために、私たちはキリストのかかとを修理してあげなければならない。イスラエルを顧みたまえという祈りをしなければならないのです。キリストの足が、地球上に立てるようにして頂きたいという祈りをする必要があるのです。この願いは、第三天におけるキリストの祈りですから、必ず聞かれることになるのです。  キリストのかかとを修繕しなければならないことが分かっている学者も、宗教家も、世界にいないのです。  へビがキリストのかかとを砕いたのですから、この修繕をしなければならない。この役割を与えられた人は、第三天のキリストに最も近いグループの一員です。第三天のキリストのボディーと言えるようなグループです。これは神の教会です。これが黙示録のフィラデルヒヤの教会の預言になって現われているのです(ヨハネの黙示録3・7~13)。  頭の骨(男性) があばら骨である骨の骨(女性の本質)を勉強すると、骨の骨のまねができる。これが信仰です。頭の骨があばら骨の惚れ方のまねができるようになると、初めて人間の頭が本当の働きをすることができるようになるのです。そのために、男性はどうしても女性の勉強をしなければならないのです。特に今の男性は、頭とハートがばらばらになっているのです。  神はアダムを深く眠らせて、あばら骨を取ってエバを造ったのです(創世記2・21)。一人の人格を二つに分裂させたのです。深く眠らせたということは、殺したということです。イエス・キリストが肉によって殺されて、人屋に下った。それと同じように、アダムは殺されたのです。キリストが人屋にまで下ったことによって、彼の妻である教会が生まれたのです。アダムが深く眠らされたということと、キリストが十字架につけられたということとは、はっきり同じことなのです。  肉の思いがなぜ漂霊現象になるのか。現世の思いが、なぜ人間の魂に抱きついて離れないのか。自分の霊魂がなぜ肉の思いに抱きつかれているのか。固く抱きつかれているから、動けないのです。霊魂が肉の思いに抱きつかれているから、肉の思いで金縛りになっているのです。世につける思いから出られないのです。  キリストの再臨を待望しょうとすると、この世の思いから、離れなければいけないのです。  肉の思いとはどういうものか。肉の思いは万人に共通する思いのように見えますけれど、実は一人ひとりの思いなのです。共通する所もありますけれど、肉の思いの特徴は普遍原理ではなくて、特殊原理です。どういうことか言いますと、自分一人がちょうど入れるような塹壕になるのです。自分がすっぽり入る穴になるのです。しかも、自分の穴というのは、自分の思いで自分が造っている穴です。自分が造ったものですから、出たくないのです。自分としては入る所は、ここしかないのです。穴そのものが、実は自分そのものです。  自分の思いが自分の穴であることは分かっていますが、この穴しか入る所がないと思えるのです。ここなのです。  人間の肉の思いというものは、自分が掘った穴で、そこしかないと思えるのです。出なければならないことが分かっているが、出て他に入る穴があるかというと、ないと思えるのです。  ところが、そこを出なければいけない。どうしたら出られるかというと、神の御霊によって教えられるという、たった一つの方法があるのです。実は自分が造った穴というのは、底なき穴です。底があるとその穴に住んでいられるのですが、底がない穴は困るのです。ヨハネの黙示録にありますが、悪魔が閉じ込められるのが底なき穴です。人間の肉の思いは、自分が造った穴です。底がなくても、自分の体にあっている間は、つっぱっていると、穴に入っていられるのです。神を信じると、穴にいられなくなるのです。  人間の肉の思いは底なき穴に入っています。実は現在の文明は底なき穴です。これがサスペンスの状態です。文明の正体は、底がない穴です。これは悪魔が造った穴です。神がその底を抜いてしまった。十字架によって、見事にその底が抜けたのです。  現象世界は、神がいくらか認めていたものです。肉体的に生きている人間を認めていたのですが、イエスの十字架によって肉が消えたのです。肉が消えたということは、現象世界を成立させている地盤が、消えたということを意味しているのです。  自分の常識が肉の思いだということが分かると、底がないことが分かるのです。自分の肉の思いを考えてみて下さい。底がないのです。例えば肉的に何かを望んでいると仮定して、その望みに底があるかどうかを考えてみて下さい。  例えば、五千万円の貯金があるとします。それが永久にあるという保証はないのです。仲の良い夫婦がいるとします。その夫婦が永久に一緒にいたいと思ってもできません。健康も不動産も貯金も、友情も同じです。染み食い、錆つくのです。なぜか、底なき穴だからです。これから出なければいけない。これから出ることは幸いかもしれませんが、出るのです。穴から出るとどうなるか。そこに神の国があるのです。  自我意識があってもいい。穴から出たらいいのです。穴から出さえすれば、自我があっても構わないのです。穴の外は自我が通用しない世界です。そこが神の国です。自我が通じない国に入ってしまうと、自我意識は何の値打ちもなくなるのです。神の国に入ってみて下さい。鼻から息をしていることが、神だということが分かるのです。目が見えるということ、お茶を飲むこと、ご飯を食べることが、すべて御霊の働きだということが分かるのです。  インマヌエル (神共にいます)という状態しかない。これがイエスの御名です。イエスの御名の中に入っているのです。霊を渡すというのは、穴を渡すということです。穴から出れば、自我があろうがなかろうが、関係ないのです。自分が自我を捨てようと思わなくてもいいのです。  だいたい自分で自我を捨てようと思ってもできないのです。とにかくこの世は底なき穴です。人間の思想は穴です。人間が生きていること自体が、底なき穴です。自分の命がありながら、それをどうすることもできないのです。自分の健康でも財産でも、自分の家族でも、自分の思うとおりにならない。自分の願いを自分で叶えることができないということが、底なき穴であることを示しているのです。  この世が底なき穴です。日本の社会も世界の文明も、全部底なき穴です。人間が考える学問、人間が持つ理想は全部底抜けの穴です。この穴にいる人は、全部死んでしまいます。だから、この世(穴)から出なければいけないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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