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莫大な教育

 創世記の一章一節に、「初めに神は天と地とを創造された」とあります。天とは一体何か。地とは何か。天と地との差異は何でつけるのでしょうか。霊とは何か、肉とは何かです。

 人間が住んでいる地球を地としますと、二節にある「地は形なく、むなしく」という言葉と、どういう関係があるのかということです。

 天と地を造ったという場合の地は、アース(earth)でもないし、グラウンド(ground)でもないのです。神が天という本性と、地という本性を規定したのです。神が規定した天と地というのは、何を規定したのか。地については「形なく、むなしく」とありますが、天については説明していないのです。どのような概念、事がらを神は天として規定しているのでしょうか。

 人間の考え方、人間社会は地を意味します。「地は形なく、むなしく」という言葉が一章二節にありますが、この時の地が形なくむなしくであったでしょう。地という言葉の概念には、形なくむなしくという性格が永遠について回るのです。

 学理学説の基本概念は、すべてユダヤ主義から出てきたものです。今まで哲学が発想しなかった新しい発想が、私たちの信仰から生まれてくるはずです。これが現在の学問が地であるということを指摘することになるのです。

 私たちが示すのは天であって、今の学問はどんなものでも全部地になるのです。例えば、天文学も地であり、医学も地です。信仰は天です。信仰がなぜ天なのか。自然科学がなぜ地なのか。これは今までの人間の考え方にはなかったものです。

 今の文明は形なくむなしくです。形があれば、目的論的なものが発生するのです。形があるというのは、節度があるということです。形があり、動きに節度があれば、おのずから目的論的なものが発生するはずです。

 文明には形がないということと、もう一つむなしいという面があるのです。むなしいということは、価値がないということを意味するのです。

形がないということは。目的論的なものがないし、定形がない、法則を持っていないことを意味しているのです。発展性がない、終極がないことを意味しているのです。

 むなしくとは価値がないことです。無価値であることをむなしくというのです。皆様がこの世に生きてきたという気持ちが、形なくむなしくということです。皆様の人生に、形と目的論的なもの、価値論的なものを持って頂きたいのです。

 ユダヤ文明には目的論的なものと、価値論的なものがありません。ユダヤ文明が何のためにあるのか分からないのです。例えば、現在の自然科学が何のためにあるのか、非常に近視眼的な目的はあります。数学に数の概念を明らかにするとか、数的に何かを説明するという目的はありますが、数的に何かを説明するということが、何になるかということです。数学の直接目的は数についての学ですが、これが人間存在に何の価値があるのかということです。

 人間は今まで何の目的もなく、とにかく生きてきたのです。世間並に生きてきたのです。ところが、世間並という言葉はおかしな言葉です。生きている間は仕方がないとしても、やがてこの世を去らなければならないことはよく分かっているのです。世間という考え方も、永続する訳ではないのです。そうするしかないから、そう生きているというのが世間一般の考え方です。

 一章二節には、「闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた」とあります。今までの人間の生き方が、闇と同じ考え方によるのです。自分の方針とか、自分のイデオロギー、自分の理解のしかたによって、人間は生きてきたのですが、それが何になるのかということです。

 世間並という概念は、世間に生きている間は通用しますし、そうでなければならないと言えるのです。バスや電車に乗る時には世間並の考え方が必要です。しかし、世間並の概念がなくても、バスに乗れば車掌が教えてくれるのです。

 私はよく海外に行きましたが、バスに乗る時にどうしたらいいのか分からないので、人々に聞いて分かりました。タクシーのひろい方も、日本とは違っていましたので、これも聞いたら分かりました。分からないことは何でも現地の人に聞けば教えてくれるのです。

 生活の概念は生活の方便としては必要ですけれど、命の実体という点から考えますと、世間並の考え方、常識は完全に無意味です。

 神を信じて生きることになりますと、世間並をカバーして生きることができるのです。神を信じる生き方の中に、おのずから世間並という考えが包含されてしまうのです。あえて、世間並という思想を持っている必要がないのです。

 悪魔は初めから、形なくむなしくということを選んだのです。この悪魔の選択が知的、または世的と言われる概念の基礎になっているのです。

 皆様は自分には自分の判断の仕方があると考えています。これが形なくむなしくなのです。人間は自分の判断があってはいけないのです。自分の判断、自分の受け取り方があってはいけない。

 自分の受け取り方がなぜ必要なのでしょうか。現世において、なぜ幸せにならなければならないかです。自分が現世で幸せになろうとすることが、形なくむなしくです。

 何のために現世で幸せになるのか。目的がありません。喜び悲しみとは何かと言いますと、自分が喜び楽しんでいるだけです。自分が喜び楽しんで何の価値があるのか。もしそれが永遠の命に連結しない状態で自分が喜んでいても、何にもならないのです。

 人間が世間並に生きているということ、自分なりの幸せ、自分なりの立場、自分なりの経験を容認すること自体が、悪魔と同じ立場に立つことを意味するのです。

 極端な言い方をしますと、一切自分を信じてはいけないのです。良かれ悪しかれ、自分の感覚を一切信じたらいけないのです。自分の感覚を信じると、たちまち形なくむなしくなるのです。

 皆様は自分の思いの外に出て考えることができないのです。神がアブラハムに与えた祝福の実体は何かです。肉体人間が自分だという概念が根本から間違っているのです。

 自分の記憶を信じている間は預言者にはなれません。預言者はエホバかく言うであって、分かっても分からなくても、エホバの言うことを黙って受け取っていかなければならないのです。黙って神に従うのです。これしか方法はありません。

 信仰は恋愛と同じです。感受性がない恋愛はばかみたいなものです。

 今の人間は生きていることについて、目的もないし、価値も全く持っていません。政治家や評論家はごく低い目的しか分からないのです。かつて、ドイツ観念論が人間の目的らしいことを言いました。デカルト、カント、ショーペンハウエルが目的の代用品のようになったのです。それをマスターしたところで、何の価値があるのかということです。

 現代文明に何の価値があるのでしょうか。現在の日本の政治には、国家目的がありません。国家目的を持っていない政治が、一体有り得るのかということです。国家目的がない政治に、政治目的があるはずがないのです。

 予算編成という目的はあるでしょう。予算編成は国家目的がある場合に限って、価値が生じるのです。国家目的を持たない国が、予算編成をすることがナンセンスです。

 人生目的を持っていない者が、明日の目的があると言って頑張っているようなものです。明日の目的があっても、人生の目的がないのです。人生の目的を踏まえてこそ、明日の目的、自分の会社の経営目的が成立するのです。人生の目的を考えないで、ただ自分の生活目的を立てたところで、何にもならないのです。

 国家目的のない国家、人生目的のない人生は、全く地は形なくむなしくと言われているような、悪魔の境涯そのものです。無目的であること、無価値であることが地です。

 人間が生きている実体は何か。人間が生きているのではない。神が生かしているのです。従って、自分の見解がある道理がないのです。神がその人にいろいろな経験をさせたのであって、固有名詞の人間が経験したのではない。生かしている神を経験しているのです。神の栄光を経験しているのです。従って、栄光を神に帰すると、その人は格段に成長するのです。

 人間はいろいろな記憶をたくさん持っています。その記憶に基づいて考えることが悪いのです。人間の記憶が神に敵しているからです。自分で自分の命を勝手に生きてきたから、自分の記憶になるのです。人生は神によって営まれてきたのですから、神に生かされてきたのです。従って、皆様の記憶は一つもありません。神が経験させてきたのです。人間は経験と記憶を取り違えているのです。

 経験は人の役に立ちますが、記憶は自分自身の役に立つだけです。しかも、自分が地獄へ行くためにだけ役立つのです。

 記憶は自分の霊魂を裁く土台になるのです。なぜそうなるのかと言いますと、記憶を持っている人は自分が生きてきたと考えていたからです。その人は真っ向から神に対立しているのです。

 自分の何十年間の記憶を考えている人は、必ず地獄へ行くのです。何十年間の記憶を消すためには、五百億年位はかかるでしょう。もっと長い時間がかかるかもしれません。

 とにかく、一日は千年のごとしという形で、一日の記憶をなくすためには千年かかるのです。だから、記憶をなくさなければいけないのです。記憶を持ったままでいたら、必ず地獄へ行くからです。

 世間の人は記憶ばかりで生きています。自分が生きてきたと思っています。自分の力で生きてきたと考えているのです。だから、自分の記憶の缶詰になっているのです。この記憶を神が徹底的に裁くのです。これが地獄です。

 天使長は地は形なくむなしくという考えを、未だに持ち続けているのです。自分が生きているというのは、それを意味しているのです。これは地に生きているのです。天使長は自分自身の人生を地にしてしまったのです。

 神に与えられたポストに対して、自我的な角度からそれを理解した。自分が天使長だと考えた。自分が天使長ではなくて、神が彼を天使長にしつつあったのです。天使長にしてしまったのではないのです。

 神が人を用いるのは、しつつあるという状態で用いているのです。進行形の状態で用いるのです。天使長はしつつあるという状態を考えないで、自分は天使長だと考えた。これが固定概念になったのです。

 神に与えられたポストの責任は考えなければいけませんが、ポストが自分だと考えてはいけないのです。この点が難しいのです。

 肉体的に生きている人間は、自分の記憶を持っています。自分の記憶があったのでは、神の言葉の有り難さが本当にしみこんでこないのです。エホバの御名を崇める楽しさ、恋しさが分からないのは、自分を持っているからです。自分が受け取るのをやめて、魂で直に受け取るのです。そうすると、エホバの愛、アバ父がはっきり分かるのです。

 イズ(is)は現前そのものです。いいも悪いもありません。賛成も反対もない。イズはイズです。これを崇めることが神を崇めるというセンスです。

 自分の経験を抜きにして、自分が理解しようとしないで、そのまま受け取ってしまうのです。これが崇めるということです。拡大することです。崇めるというのは、マグニファイ(magnify)することでありまして、拡大することです。これをしていると、辛子種の信仰になるのです。

 肉体的に生きている自分を可愛がらずに、生かされているという事がらを可愛がったらいいのです。これが霊です。「わが霊は救主を崇める」と言っています。霊は生きている事がらです。魂は機能です。

 「霊が救主を喜ぶ」、自分が生きているという事がらを通して、救主を直に受け止めるのです。魂が神に愛される方法は、無条件で神のなさり方を受け取ることです。

 これは男女の関係でも同じことです。男のやり方を女が素直に受け止めると、自分が嬉しくなるのです。そうしたらいいのです。いろいろ文句を言うからおかしくなるのです。

 森羅万象があることに対して、疑問を持つのです。天地の真理はあるべきだし、あらねばならないことです。現象世界は一体何であろうかという素朴な疑問を持つのです。さらに、現象世界に対して、疑いを持つ自分という個的存在がある。これは何だろうかということです。

 大体、森羅万象が宇宙にあるはずがないのです。世の初めの宇宙に、元来、命はあったに違いありませんが、それ以外に何もなかったのです。地は形なくむなしくでした。地は形なくむなしくという状態の淵に、ルシファー(天使長)が立ってから、問題が起きたのです。そこで、神が神であることを証明しなければならなくなったのです。

 ルシファーが淵の表に立ったことを、私たちはどのように考えるかです。

 森羅万象という奇妙なものがこの宇宙に存在するというのは、実におかしいことです。ましてや、人間という奇妙なものがいて、この宇宙を批判したり、神があるとかないとか言っているのです。人間がいること、森羅万象があることが、宇宙に何の関係があるかです。地球があることで、宇宙に何の影響があるかということです。

 やがて天体が燃えるでしょう。燃えるに決まっています。太陽から火が噴き出して、地球も万物も燃え尽きるでしょう。神がちりを地球上に必要としているのは、人間が人間の目的を果たすまでの間です。人間が目的を果たしてしまえば、もはやちりの必要はなくなるのです。そうすると、ちりである大空は巻物を巻くように消えていくのです。

 人間が存在している目的が終われば、太陽が膨張して地球はその炎に呑み込まれてしまうでしょう。これが火のバプテスマです。水のバプテスマと火のバプテスマとがあるのです。

 人間はちりです。ちりである人間が暴虐をした。そこで大空に異変が起きて、雨が降るようになったのです。それまで、地球上には雨が降らなかったのです。

 「神が大空を造った」(創世記1・7)。この短い言葉の中に、驚くべきことが含まれているのです。神がちりをばらまいて大空を張った。これによって森羅万象ができたのです。森羅万象によって、ちりの働きを見せているのです。大空の効用をよく見せているのです。

 人間は自分が植物のことを理解できると考えています。動物のことも理解できると考えています。そうではない。ちりでなかったら理解できないのです。ちりでなかったら、植物を養うことはできません。人間は自分の力で植物を養う、動物を養うと考えています。これがすべて地獄へ行く原因になるのです。

 人間の記憶が人間の魂をさんざん痛めるのです。五十年かけて溜め込んだ記憶を、五百億年かけて、一つひとつ解消していかなければならないことになるのです。

 生きているうちなら、すぐにでも自分の記憶を消すことができます。十字架のおかげで消すことができますけれど、死んでしまったら、十字架の働きは及びません。聖書もありませんし、指導者もいませんから、自分自身で自分の記憶を一つひとつ消していかなければならないのです。記憶が少しでも残っている間は、神に許してもらえないのです。分厘までも償わなければならないのです。

 このような明々白々の地獄の原理、地獄で霊魂が裁かれる原理を、人間は毎日経験しているのです。これを逆にしたらいいのです。自分はいない、自分はいないということをはっきり言い続けるのです。自分がいなければ、自分の記憶はないからです。

 自分がいなければ何があるのか。神の栄光が自分という格好で現われているのです。このままの状態で、第三の天に属しているのです。なぜ自分がいると思わなければならないのでしょうか。なぜ自分が理解しなければならないと思うのでしょうか。

 第三の天のキリストを信じながら肉体を持っているということは、イエスであった彼が今ここにいるのです。自分が理解しなければならないとか、自分が救われなければならないとか、自分が幸せにならなければいけないとか、そういうばかげたことをなぜ考えるのでしょうか。

 自分が幸せになって、何になるのでしょうか。自分が生きていたという事実がないのに、幸せになる自分がどうしているのでしょうか。もし、自分がいるという事実があれば、その人は必ず地獄へ行くのです。これをよく考えて、自分はいないという原理を徹底して頂きたいのです。

 森羅万象は宇宙に存在するはずがありません。宇宙にあるのは、ガス体の恒星と惑星だけです。恒星と惑星の世界になぜ花が咲くのでしょうか。なぜ雪が降るのでしょうか。これはすべて大空の働きによるのです。味も、色も、形も、香りも、栄養も、全部大空の働きによるのです。だから、人間は味や形や色、香りが分かるのです。これが認識できるのはなぜか。私たち自身がちりだから分かるのです。そうでなければ、そういうことが認識できる人間が宇宙に発生するはずがないのです。

 ちりでなければ人間がありうるはずがありませんし、また、ちりの人間として現われているということは、神の約束という大目的があるからです。

 とにかく、自分の存在に対して、万物の存在について、不思議だと思わないことが図々しい考えです。見ていることの不思議さ、車が走っていることの不思議さ、歩いていることの不思議さを感じなければならないのです。

 存在に対して、命に対して不思議さを感じない。これは本当に不敬虔です。自分の記憶を信じているからそうなるのです。

 神に生きようと思ったらどうするのか。丁寧に生きるのです。丁寧に生きるというのは、自分に生きないことです。自分が見ているのではない。見せられているのです。これが自然の考えです。

 目で見ているということに対する敬虔の念が必要です。すべて人間の挙措動作が、そのまま敬虔につながっていくのです。これをしないと、神と共に生きることができないのです。

 神がいなければ物が見えるはずがないのです。ちりがなければ絶対に見えません。ちりがなければ聞こえないのです。五官の働きの原理は全部ちりです。おまえはちりだと言われるのは、最も光栄なことです。おまえはちりだというのは、おまえは最も尊いものだという言い方です。神自身の機能の代弁をするものだと神が言っているのです。神の全能を代弁するのがちりです。

 人間には百四十億の心理機能の源泉と、一兆四千億の生理機能の源泉があるのです。これが一人の人間を造っている。これはどう考えてもちりに決まっているのです。こういうものが人間なのです。

 私の記憶とか、私の立場、私の幸せがあるはずがないのです。私の気持ちをどうこういう必要がない。ただ丁寧に生きるだけです。挙措動作はそのまま神と人のつながりです。

 神は見せている。聞こえさせている。人間は聞いている。能動性と受動性とが働いているのです。この関係がどんな挙措動作にもついているのです。あまり精密に考えなくてもいいのです。目が見えるのは神のおかげだと考えたらいいのです。一文無しの尼入道でいいのです。誰でもやろうと思えばすぐにできるのです。やれないのはやる気がないだけのことです。

 「神は自分にかたどりて人を造り、その人をちりにした」と聖書に書いているのです。そのちりを大空にばらまいたのです。私たちの知覚神経を、自分勝手な理屈をつけないで、非常に素朴に了承して用いるとしますと、聖書の言葉に従って地球が具体的に存在していないということがはっきり分かるのです。私たちの心理構造を素朴に信じるか信じないかだけです。

 人間は自分の体、機能があるというばかばかしい妄想に捉われている。これは例えようのない愚かなことです。ありもしないものをあると思い込まされているのです。天使長ルシファーという神から離れた人格が、こういう考えの源泉を形成しているのです。

 旧約の預言者は自分が何を預言しているのか分からなかったと書いていますが、旧約の預言者が新約の預言をせよと言われても分からなかったでしょう。

 神の言葉を伝えるためには、人の習慣性を呑み込んで、できるだけその習慣性をときほぐしてあげるという親切心がいるでしょう。聞きたい者は聞け、嫌なものはやめておけというのではなく、できるだけ理解してもらえるような言い方をしなければならない責任があるのです。

 山上の垂訓は(マタイによる福音書五章~七章)、同じことをいろいろな局面を展開して述べています。初めから人間はいないということを述べているのです。こういう配慮は必要なことです。

 肉体人間がいるとか、現象世界があるということの間違いは、リビングがはっきり分かれば理解できることです。リビングを見れば、マインドの間違いが分かるようにできているのです。人間にリビング(生きていること)を与えているのは、マインドをリビングにおいて用いるためなのです。ところが、人間はリビングを与えられていながら、リビングから出発しないで、マインドというペースを勝手に造っているのです。

 人間はマインドとリビングを全く違うものと考えていますが、リビングがマインドでなければならないし、マインドがリビングでなければならないのです。

 人間がマインドの使い方を間違えたのです。人の思うところは常に悪のみであるということになりますと、人間のマインドによって人間のリビングの根本が破壊されてしまったことになるのです。そうすると、神が大自然を保っている必要がなくなるのです。その結果、天が巻物を巻いていくようになっていくのです。

 ノアの洪水の時には、天地を巻いてしまわずに、水で覆ってしまつたのです。これは暫定的な処置です。ノアという義人がいましたから、全部滅ぼしてしまうことはしなかったのです。洪水前後の事情と人間のリビングに対する神の仕打ち、これが地球にどのような曲折をもたらしてきたのか。これだけが地球の運命を知るためのたった一つの道なのです。

 日本人は全く無知蒙昧の民族です。聖書のことを全く知らないのです。ノアの洪水のことなどは、全くのお伽噺に聞こえるのです。近代文明は人間を全く無知蒙昧にしてしまったのです。

 人間は肉の思いの虜になっています。これから抜け出すことができないのです。机は叩いたら音がします。あるように見えますけれどないのです。人間の肉的経験は経験とは言えません。記憶です。肉の記憶で肉体的に経験したことは、経験ではなくて記憶です。記憶がその人を地獄へ連れて行くのです。

 叩いたらあると思える。見たらあると思えるという感覚を原罪と言います。人間は現世に生まれて、わずか七十年か、八十年の経験しかしていません。その経験が完全なものであるという証明がどうしてできるのでしょうか。

 目に見えるものがあるという思考方式は、悪魔が造ったものです。悪魔が肉の思いを創作したのです。目に見えるものがあると思う人は地獄へ行くことになるのです。なぜ地獄へ行くことになるのかというと、悪魔の思いに同意したからです。ユダヤ人はあると言い切っているのです。

 地球が確かに現存するに違いないと言ったところで、それが一体何のプラスがあるのかということです。やがて地球は消えるに決まっています。消えるに決まっているものが実在したとしても何の意味があるのかということです。

 自分がいるとしても、やがて消えていきます。消えていくものは原則的にはないのです。実在していません。ただ一時的な形で、あるように見えるだけです。そう思えるだけで実在していないのです。

 肉の思いで見ると、いかにも物質があるように思えるのです。地球があったとしても、それが一体何のプラスになるのか。何のプラスにもならないのです。仮に地球が永遠に存続するとしても、私たちの永遠の命が保証されるという実証がないなら、あってもしかたがないのです。

 肉の思いというのは、その思いだけで人間の魂を縛り付けるのです。人間はこの世に生まれてからの後天性の思いによって、魂が縛られているのです。魂だけでは、縛っている肉の思いを断ち切ることはできません。自分は縛られているから、どうにもならないと思い込んでいるのです。

 自分がいないということを言い続けるのです。そうすると、自分がいないことの実体を聖霊が知らして下さるのです。そうすると、肉の思いという縄目がほどけてしまうのです。物があると思っている人は、必ず地獄へ行きます。実際、物はないのです。ないものをあると思っているからいけないのです。

 やがて地球は消えるのです。消えるに決まっているということは、今もないことになるのです。永遠に実体的に存在するものなら、地球は消えるはずがありません。

 現象は実体ではないのです。

 人間を人間としているものがあります。これが神です。ロシアの科学者が「科学の原点になるもの、存在することの原理になるものが、もし神だとすれば、私たちはそれを信じない訳にはいかない」と言っています。

 女が女「であること」の原点が神です。男が男「であること」の原理が神です。

 人間の生活には立つにしても座るにしても、挙措動作の一つひとつが非常に合理的でなければできないのです。人間の肉体構造は物理的な合理性によらなければ、動かないようにできているのです。

 人間の視覚神経と五官の関係は、非常に微妙なものがあるのです。百四十億の脳細胞と、一兆四千億の細胞が集まって、人間形態になっているとすれば、その原理は何によるのか。植物、動物のあらゆるものに対する形成原理、生存原理は何なのか。

 神がちりに形を与えて人を造ったのは何のためかと言いますと、空の鳥と海の魚、家畜と地に這うものを治めさせるためです。全地、森羅万象を治めようとすれば、まず人間に神はどのような事前教育を施したのか。

 これを精密に検討すると、人間が人間であることに含まれている機能性、能力性は予め備えられていることが分かります。鼻から命の息を吹き込んでリビング・ソールになった時に、そのような完全性が予め具備されていたのです。神の事前教育をどこでどうしたのか。そして、現世に生まれてから、経験を積んでいるのです。

 生まれるまでの経験と、生まれた後の経験とが、どのようにマッチされるべきかです。その総和が何を意味するのか。神はこれを狙っているのです。

 人間はこの世に生きるために生まれてきたのではありません。この世で幸せを掴むためではありません。人間はこの世で幸せを掴むために生きていると錯覚していますが、これは全くこの世の習わしです。

 私たちが掴まえなければならない幸せは、そんな小さなものではありません。この世で七十年、八十年の愛の幸せを掴まえたいというのは、人間を全然知らないものの考えです。

 自分、自分というのなら、自分を大きく見たらいいのです。神と同価値において自分を見るのです。そうして、神に同意するのです。神のようになるのではなくて、神と一つになるのです。

 そのように自分自身を名付けるのです。そうすると、私たちが現在生きている状態で、この世に生まれてきたという意識に基づいて自己認識をしていることが、大変な間違いであることが分かるのです。

 それではどのように経験していけばいいのか。記憶をするのではなくて、経験をするためには毎日どのような気持ちで生きていけばいいのか。

 子どもになったらいいのです。人間は誰でも全知全能者の子どもになれるのです。生まれる前の経験と生まれた後の経験とをどのようにつなぎ合わせていくかです。ここに人間完成の秘訣があるのです。

 大体、人生というものは母物映画みたいなものです。難しく考えなくてもいいのです。単純に考えて、無邪気になって考えたらいいのです。

 記憶を持って死んだら、必ず地獄へ行きます。記憶が魂を縛っているからです。記憶に縛られたままでいると、生まれる前の経験が一つも役に立たないのです。

 神は生まれてくるまでの経験を重視しているのです。人をこの世に送るまでに、神はその人に大変な教育をしているのです。莫大な経費を使って訓練しているのです。そして、魂を開かなければならない経験を、現世でさせられているのです。

 従って、生まれる前に与えられた栄光と、今生きている時に与えられつつある神の導きをきちっとつなぎ合わせていけば、必ず驚くべき成果を勝ち取ることができるのです。これがアブラハムに与えられた祝福です。

 それに何と書いてあるのかと言いますと、キリストと共に神の相続人になるとあるのです。これをパウロが言っているのです。三回も四回も述べています。

 キリストと共に神の相続人になる。これが神がアブラハムに与えた命題です。死んでから天国へ行くのとは違います。キリストと共に、千年の間、王となるのです。これを神は断言しているのです。

 釈尊が色即是空と言い切った。なぜ言い切ったのかと言いますと、明けの明星を見たからです。明星が真理である以上、現世は空に決まっているのです。

 しかも、釈尊が明けの明星を見た時に感じたのは、千の千倍、万の万倍というべき、例えようのない偉いお方、如来を見たのです。これが法華経に出ているのです。これが須彌山における大菩薩会議です。大如来会議です。

 釈尊は何を見たのか。ちりを見たのです。ちりというすばらしい如来を見た。やがて、それが現われることを悟ったのです。釈尊はちりの世界を見たのです。

 人間がこの世に生きているのは、僅か七十年か八十年です。長くても百年位です。ごく一過程の現象です。

 その前に、神は無限の年月を要して、ちりを教育していたのです。そうして、この世へ送ったのです。従って、如来のようにこの世に来たのです。真実のように現われたものを如来というのです。皆様は神の元にいましたが、真実を知るために、この世に遣わされたのです。

 人間がこの世に生まれてきたのは、とんでもないことです。真実のように出てきたのです。人間は如来であることが当たり前です。これが無量寿如来、無量光如来です。南無不可思議光です。正信偈は法蔵菩薩因位時と言っています。法蔵菩薩が彼の位についた時に、法蔵菩薩の中にある南無不可思議光と無量寿如来に目覚め、彼自身が仏国浄土に生まれたとあります。これができなければならないのです。

 ところが、皆様は現世に生まれた自分を自分だと思っているのです。この世に生まれた肉体人間を、自分だと思っている。神はそんなものを生んだのではありません。神が莫大な教育をしたのは、そんな人間ではありません。神は十分精算があってそれをしたのです。その真実を現世で肉体を持って現わしているのです。これが人間創造というすばらしい構想です。

 自分が救われなければならないのではない。現世において経験したことを、前世の経験とどのようにつなぎ合わせるのか。それをどのように有効に用いるかです。

 前世の経験が永遠の経験ですから、これを現世の経験につなぎ合わせた者だけが、神の相続人になるのです。これは大変なことです。

 現世に生まれた固有名詞の自分を、絶対に信じたらいけないのです。自分はいないといつも言うのです。

 現世における記憶を経験に切り替えてしまうことです。経験の理解の仕方だけで、神の相続人になれるかなれないかが決定されるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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