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心を騒がすな

 イエスは「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい」と言っています(ヨハネによる福音書14・1)。

 心を騒がすなと断っているのです。ところが、人間は神を信じ、私を信じなさいと言われると、途端に心を騒がすのです。自分が信じなければならないと考える。信じなければならないと考える心が、心を騒がしていることになるのです。心を騒がさないで、神を信じることが、なかなか難しいのです。

 人間は自分の立場があるという妙な妄念を持っているのです。これは非常に奇妙な妄念ですが、自分の立場があると考えている。そこで、神を信じよと言われると、自分が信じなければならないと考えるのです。

 あなたがたは心を騒がすなとイエスが言ったのは、実はお前たちの立場は何もないということを言っているのです。信じなければならないと考えたり、何か自分が得をしなければならないと考えている。そういうことをすることが、心を騒がしているのです。

 自分の立場がある。自分という人間がいると考えるから、信じようという無駄な気持ちが起きてくるのです。聖書が信じられないと言ってみたり、自分が救われたいと考えてみたりするのです。

 何でも服従しますというと、服従する自分がいるのです。信じますというと、信じるという自分がいるのです。これがおかしいのです。

 服従するというのは、主体を持った自分がいるのです。主体性を持った自分が、服従すると考える。これがいけないのです。人間は自分が生まれたいと思わないのに生まれてきた。従って、今生きているということは、人間自身に主体性があるのではないのです。

 自分が生まれたいと思って生まれたのなら、自分の意志によって生まれたのですから、自分が生まれたことについて、自分の意志が責任を持たなければならないことになります。

 自分が生まれたいと思わないのに、知らない間に生まれてきたということは、人間が今生きていることについて、人間自身に主体的な資格がないということを示しているのです。主体的な権利もない。従って、主体的な立場もないことになるのです。それを人間は自分の立場があると考えるのです。

 人間が考える自分の立場は何処から生まれてきたのか。人間自身が考えている立場、例えば、人に服従するにしても反抗するにしても、その自分の立場は何処から生まれてきたのでしょうか。これを真面目に考えてみればいいのです。自分の立場を持たないものが、自分に服従することができるのでしょうか。

 人間が神に服従するとします。人間が神に服従することは嘘です。できるはずがないのです。私たちは神の言葉を受けることはできます。受けるというのは、主体性を持って受けるのではないのです。

 人間の立場は受け皿です。受け皿というのは消極的なものであって、与えられるものを受け止めるだけです。ちょうど、鏡に物が映るように、鏡自身が鏡の中から何かの映像を出すのではない。鏡の前に出てきたものを、鏡が映すようなものです。これを受けるというのです。人間にはそういう能力はありますが、これも人間が持っている能力ではありません。神から与えられた能力にすぎないのです。

 キリストを受けるという能力でさえも、人間自身の能力ではないのです。神から与えられた能力によって、キリストを受けること、イエスを受けることはできます。

 信じるというのは能動性、積極性を意味するのです。そういうことが、人間にできるはずがないのです。それを信じることができるとか、服従することができる、あるいは、反対することができると考えるのです。

 私は神を信じたいと言いますが、そんな奇妙なことが人間にできるはずがないのです。また、信じないこともできないのです。

 私たちがイエスを受け止めることができるとすれば、初めて主にありて信じることができるのです。キリストを受け止めることによって、自分の主体がイエスであるという認識を持ちますと、イエスが主であると口で言い現わして、信じることができるのです。イエスにありて、神を信じることができるのです。

 その場合でも、自分の意識が働いているのではありません。イエスを主体として認めたというその事がらに付随して、神を信じるという能力が仮に付与されたというだけのことです。どこまでも自分が主体となるのではない。イエスが自分の主体であることを認識するのです。認めるのです。認めるというのは受け止める事です。

 味到とは味そのものに到りつくということであって、味わい尽くすこと、よくよく知り尽くすことを意味するのです。神を信じる、キリストを知るということは、神やキリストを味到することをいうのです。

 キリストを知るというのは、ギリシャ語の原語ではギノスコーという言葉を使っていますが、これは味わい知ること、味到することをいうのです。ギノスコーというのは、アダムがエバを知ったという知り方です。アダムがエバを肉体的に知ったのです。そのように、キリストを知るのです。

 これは信じるのとはだいぶ違います。アダムがエバを知ったようにキリストを知ることになりますと、信じるのとは全然違います。

 砂糖を舌の上にのせると、砂糖を知ったことになるのです。砂糖の味を味到したのです。聖書のいう「信じる」とはこのことをいうのです。キリスト教でいうように、キリストが主であると信じますとは、全く違います。

 イエスが主であると口で言い現わせと言っているのです。口で言い現わすというのは何か。信じるも信じないもない。イエスは主であるに決まっているのです。だから、そのことを素直に言い現わせと言っているのです。信じて言い現わせとは言っていないのです。

 信じるというのは、神がイエスを死人のうちから甦らせたことを信じよと言っているのです。これは信じるという言葉が使えるのです。この場合でも、神の処置を受け止めるということです。イエスが復活したのは、信じても信じなくても事実です。事実というのは信じなくてもいいことをいうのです。

 そうすると、神がキリストを甦らせたということは、信じなくてもいいことです。それを受け止めることを、死から甦らせたことを信じるというのです。その場合でも、人間の意志が主導的に働いている訳ではないのです。

 人間の意志が主導的に働いて、信じるとは意志の決定であると愚かなことをキリスト教の人々は言いますが、そんな事をいうから神が分からなくなるのです。これは心を騒がせていることです。意志を決定することは、心を騒がさなければできないのです。心を騒がさなくて、意志の決定ができるはずがないのです。

 お菓子を買うとか、ジュースを買うという程度のことなら、意志を騒がさなくてもいいのですが、自分の人生を根本から左右するような大問題になりますと、心を騒がさないで淡々と信じることはとてもできるはずがないのです。できるはずがないことを、キリスト教はできると言っているのです。そんなことを神が命じるはずがありません。イエスはそんなことを私たちに薦めるはずがないのです。

 「口でイエスが主であると言い現わしなさい。心で死人のうちから彼を甦らせたと信じなさい」。これは当たり前のことを言っているのです。何も片意地を張って頑張らなければならないことではないのです。

 自分自身の本体をじっくり見れば、神によって私たちはこの世に送り出され、神の処置とキリストの贖いによって、現在人間が生かされているというその事がらが成り立っているのです。人間存在の意味を黙って受け止めるだけのことです。弁え知るだけのことです。分からなかったら聞いたらいいのです。信じようと思って、頑張る必要は少しもありません。

 人間が信じようと思って頑張れば、人間の心が騒ぎます。人間の心は罪人の心です。人間は生まれながらの罪人です。仏教的に言えば、無明煩悩の塊です。

 無明煩悩の人間が信じたらどうなるのか。無明の人間が信じているのですから、その信じ方は無明的であるに決まっているのです。

 「肉から生まれるものは肉である」とパウロが言うように、無明から生まれる者は無明である。そうすると、人間が信じることが無明であることになるのです。

 罪人が神を信じるとすれば、信じること自体が罪の行いになるのです。肉の心を持ったままの人間が神を信じれば、間違いを犯しているに決まっているのです。それで、「心を騒がすな」と言っているのです。黙って受け取りなさいと言っているのです。

 つまり、自分が生かされていることがそのままイエスそのものであるということについて、御霊の教えを受け止めて、自分の本質、実質が、イエスの御名であることを悟り、知って、味到しなさいと言っているのです。

 自分自身が現在生かされていることをじっくり味わうなら、自分の本質がイエスであることが、勝手に分かるのです。固有名詞の人間ではない、イエスであることが、勝手に分かるのです。

 神の御名、神の力、神の恵みと愛によって、現実に生かされていることが、自分自身であることが分かるのです。これが、イエスの御名を受けるということになるのです。

 これは自分が信じたことではありません。自分の本質が御霊によりて明らかにされただけなのです。信じたことではないのです。自分の本質が御霊によって明らかにされて、私の本質がイエスであり、イエスが私の主体である、私自身の本質であるということを、口で言い現わせと言っているのです。

 そうすると、自分自身の本質が自分ではないことになるのです。固有名詞の自分ではないことになる。そこで、自分の立場が一切消えてしまうのです。これを経験しなさいと言っているのです。

 もっと教えられたいと思う、信仰をもっと増やし変えられたいと思う。自分がもっと引き上げられたいと思う。そういうことは、皆心を騒がしているのです。

 現在生かされているという事だけで、すでに神とキリストによって自分が保たれていること、自分の本質がイエスの御名であり、自分の将来が第三の天にいますキリストご自身の栄光につながっていくものであることを、単純に信じたらいいのです。

 どうして、自分が幸せになろうと思うのでしょうか。自分自身が幸いになろうと思うことは、その人がイエスを信じていないことを、告白していることになるのです。

 現在、私たちの主なるイエス・キリストは第三の天において、神の御座の右に座しておいでになるのです。これ以上の幸いがあるでしょうか。これが私たちの主です。無条件にその事実を受け入れるなら、神はイエスの祈りを聞きたもうたように、私たちの祈りをも聞きたもうのです。

 聞きたもうても、聞きたまわれなくても、私たちの実質はイエスです。私たちが納得できても、納得できなくても、私たちの本質には少しも変わりがありません。従って、自分の気持ちを納得させなければならないとか、自分がもっと分からなければならないとかを、考える必要はないのです。

 今ここに、自分がいるという事だけでいいのです。私たちはイエス・キリストの十字架によって、一度死んで甦っている。イエス紀元に生きている人間は、神の目からご覧になれば、十字架を通過しているのです。無意識のうちに、十字架を通過しているのです。従って、私たちが生きているという事実は何処にもありません。

 パウロは言っています。

 「あなたがたはキリストと共に甦らせられたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命はキリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ人への手紙3・1~3)。

 自分の立場を考える必要は毛頭ありません。「おまえたちの命はキリストと共に神の内に隠れている。地上に生きているおまえたちの命は、ただの譬である。譬である命をなぜそんなに大切にするのか。なぜ聖書に書いてあるとおりにしないのか」と言っているのです。

 人間が聖書を学ぶ時には、人間の肉性に従って聖書を学ぼうとするのです。そこで、私の信仰を増したまえと祈りをするのです。イエスの弟子たちがイエスに言ったように、私たちの信仰を増やして下さいというのです。

 ところが、現実に生かされているということが神なのです。神の御名です。そうして、生かされているという神の御名、エホバの御名が、そのまま救いです。これをイエスの御名というのです。エホバの御名が救いであることを認識する状態、気持ちがイエスの御名です。

 信じるというのは、この気持ちになるだけのことです。生かされているということが、神の御名です。しかも、神の御名が自分自身の魂の救いです。これがイエスの御名です。神の御名を救いとして受け止めたその気持ちが、イエスの御名です。この御名を信じたらいいのです。

 現実に生かされているということがそのまま救いであることを、受け取ったらいいだけのことです。分からないことを信じるのではありません。例えば、ある人を信じるとか、ある会社を信じるとか、ある思想を信じるということは、神に対しては必要ありません。すでに信じているのです。

 生かされていることが、信じていることになるのです。

 人間は明日が来ることを知っています。明日が来ることをなぜ知っているのでしょうか。神に生かされているから分かっているのです。明日が来るに決まっていることを知っているのは、神だけです。神が人間と共にいるのです。共にいますことが、生かされているということです。

 神が人間と共にいる。だから、人間は明日があることが自然に分かるのです。それ以外に、人間に明日があることが分かる理由は何処にもありません。

 明日があるだけではない。来年があることも人間は知っている。来年まで生きているかどうか分からない人間でも、来年があることが分かるのです。なぜでしょうか。

 あるべからざることが人間の心理状態にあるのです。未来を知っているということです。このことが、人間が神に生かされていることの証明になるのです。

 生かされていることが、そのまま神の御名です。これを信じない方がおかしいのです。自分が生かされているということが、神の御名ではないと思う方が、よほどおかしいのです。

 もし神が共にいましたまわなければ、心臓が動いているという理由がないのです。消化機能、排泄機能が動いているという事実が、神の御霊の働きになるのです。

 地球が回っているという事実です。電場と磁場が働いている。これが御霊の働きであって、人間が生かされているということは、何処から見ても神の御霊によることは明らかです。

 神が共にいます。インマヌエルということが人間の命です。この命が救いです。一体何が難しいのでしょうか。これは信じなければならないほど難しいことなのでしょうか。それを今更信じなければならないとなぜ思うのでしょうか。

 そこで、人間の意識を整理する方法について、熟練しなければならないのです。顕在意識を整理する、仕分けすることについて、熟練する必要があるのです。

 顕在意識は現実に生きている感覚です。人間の五官によって感じている感覚です。これが、そのまま顕在意識になっているのです。

 ところが、人間は目で見ている、耳で聞いている感覚を、無意識に肉の思いで意識してしまうのです。目の働き、耳の働きが肉の働きをしているのではありません。目の働き、耳の働きは本来神から植えられた生理機能であって、霊なるものです。肉体の機能ではありますが、実は霊の機能です。

 それを認識する思いが肉の思いになっている。そこで、五官の働きすべてを肉の感覚として、人間の心に影響しているのです。これが般若心経がいう五蘊になるのです。

 肉の思いで受け止めるすべての受想行識が、五蘊になってしまうのです。

 五官は本来霊なるものです。それを肉なるもののように、人間の思いが歪めて受け取っているのです。なぜそのようになるのかと言いますと、固有名詞の性格をそのまま自分自身の人格であるように考えていますので、自分の利害得失の考えに基づいて五官を用いるのです。

 自我意識という偽りのキャラクターに基づいて考えているために、人間の五官が人格的に受け止めないで、性格的に受け止めることになるのです。肉性的に受け止めることになるのです。そこで、目の使い方が間違ってくることになり、耳の使い方が間違ってくることになるのです。

 すべてのことに対する認識が間違っているのです。顕在意識が肉の思いに凝り固まってしまうことになるのです。

 顕在意識は現実に私たちが五官を通して、直感している非常に素朴な意識ですが、これを固有名詞的に受け止める結果、素朴な顕在意識が全部神に逆らう意識になるのです。

 顕在意識ほど素朴な意識はありません。それをあるがままの意識、ナチュラルな意識で受け止めないで、自然に逆らう感覚で受け止めてしまうのです。これが性欲の逆性です。セックスを自然のままで受け止めないで、不自然な状態に焼き直して受け止める。そこで、欲望が発生するのです。

 人間本来の願いが変質されてしまう。歪められてしまうのです。理性の働きが欲望の働きにすり替えられてしまうのです。それをよく考えて、顕在意識というものをどのように整理していくかということを、訓練しなければならないのです。

 人間の五官は、未生以前、生まれる前に父なる神に植えられた機能です。それを生まれた後の人間の肉性によって用いるために、歪められて、肉の感覚で人生を左右してしまうことになるのです。

 般若心経は「無眼耳鼻舌身意」と言っています。五官はないと言っているのです。ないと言っても、五官がなかったら生きていられないのです。

 現実に、五官によらなければ見えないし、聞こえない。味わうことも、匂いを嗅ぐこともできないのです。ですから、五官がないのではない。五官の用い方が間違っているのです。般若心経でさえ、言い方が間違っているのです。私たちは五官をどのように用いるべきかを勉強しなければならないのです。

 まず、自分が生きていることがイエスである。固有名詞の自分が生きているのではないということを、いつでも考えれば、自我意識によって、五官を用いることがなくなるのです。そうすると、五官による感覚を正しく受け止めることになるでしょう。

 これは口でいうように簡単なものではありませんが、毎日、毎日、訓練するのです。ご飯を食べている時も、人と話をする時も、一つひとつ自分の機能の働きを見極めて、神の御名を崇めるということをするのです。

 自分が生きているのではない。自分が生きていることの本質はイエスなのだということを、いつでも口で言い現わしながら生きていれば、自分の本性がイエスであることが、自分の理性にだんだん染みてくるでしょう。強引に染みこませるのです。

 自我意識を踏みつけるのです。固有名詞というばかなものがあるはずがない。これは現世に生きていくための仮の名前に過ぎないのであって、人間の本性と固有名詞とは何の関係もないのです。

 固有名詞の人格性を自分の人格と思ってはいけない。人間は人格という言葉の使い方を知らないのです。人格という言葉と、性格と個性という言葉をはき違えているのです。個性は人格ではありません。性格です。キャラクターであって、パーソナリティーではありません。

 人格という言葉さえも正確に受け止めることができないのです。正確な意味において、人間は個性は持っているが、人格は持っていないのです。

 人格を正しく持っていたのはイエスだけです。肉の人間は人格さえも持っていないのです。性格を持っている。誰の性格かと言いますと、悪魔の性格を持っているのです。これを人格だと思い込んでいるのです。

 個性豊かな人間と言っています。学校教育では個性を尊重すると愚かなことを言っているのです。こういう間違った概念から抜け出さねばならない。そうすれば、五官の働きを正常に評価することができるのです。

 「あなたの目が正しければ、全身が明るいであろう」とイエスが言ったように(マタイによる福音書6・22)、自分の人生の本当の姿が、明々白々に見えてくるでしょう。

 この宇宙には善もないし悪もない。利益もないし損害もない。ただあるのは、霊なる事がらと肉なる事がらがあるだけです。神と悪魔がいるだけです。その他には何もないのです。

 従って、人間自身にとって善もないし悪もない。神ご自身にとって、善であるか悪であるかの違いはあります。霊であるか肉であるかが問題です。人間の立場から、あれが良い、これが悪いという必要はないのです。

 善悪の木の実を食べると、直に肉の思いになってしまいます。五官は何を見ているのでしょうか。白いものを白く見ている。丸いものを丸く見ている。あるがままの状態がエホバの御名です。これがそのまま救いになっているのです。

 人間の五官の働きは、現実に神の救いを見ているのです。天地万物によって、神の御名を見ているのです。神の御名がそのまま救いです。私の目は神の救いを見ていると言ったらいいのです。

 私たちがお茶を飲んだら、救いを飲んでいるのです。ご飯を食べたら、救いを食べているのです。霊に従いて見るなら、すべては皆善ばかりです。そこには善はあるが、悪はないのです。損もない。霊に従いて見るなら、すべては皆善ばかりです。

 そこで、私たちは人間的な意味において、正義人道の観念を完全に放棄しなければならないのです。正義人道がいけないのです。

 正義というのは、人間が罪を犯して考え出したのです。罪人だから正義を考えるのです。自分の存在を義としなければならない必要があるのです。

 人間は罪を犯したから、正義という概念を製造したのです。正義人道はどこまでも、人間が製造したオナニー的な思想であって、すべて肉の思いから出ているのです。これを完全に放棄しなければならないのです。

 正義人道の概念はすべて罪です。これは善悪を考えているのです。これは正義だ、あれは不義だと考える。これがいけないのです。

 私たちはただ、「あなたがたの目が正しければ、全身が明るいだろう」というイエスの言葉によって生きたらいいのです。現在何を見ているのか。何を聞いているのか。エホバの御名を見ている。エホバの御名を聞いているのです。

 自分の立場を捨てるのです。従って、正義人道という考え方は必要ではありません。神の義というのは、宇宙の公義です。宇宙の広義です。宇宙の義です。万有を貫く神の義です。これは正義というような小さなものではありません。人間が考えられる正しさではありません。あるがままの公義です。これが神の義です。

 正義人道を考えないことが、本当の義です。考えることが不義です。ユダヤ人は正義人道を考えた。神の義に従わずに、自分の義を神の前に立てようとした。これがユダヤ人の間違いでした。

 私たちがしなければならないことは、私たち自身が現在生かされていることが、イエスにおいて然(しか)りとなることです。これだけです。

 私たち自身が現在生かされている実質、本質がそのままイエスの御名ですから、自分の本質に目覚めさえすれば、私たちの存在がそのままイエスにおいて然りとなるのです。私たちが生かされていることが、イエスにおける然りとなるのです。もう然りとなっているのです。

 これ以上、私たちがしなければならないことは何もありません。ただ心を騒がさないで、神を信じ、また、イエスの御名を信じることだけでいいのです。これしかないのです。することが強いてあるとすれば、イスラエル伝道です。他には何もありません。

 ただ心を騒がさないで、神を信じ、また、イエスの御名を信じることだけです。これしかすることがないのです。

 あるとすれば、ユダヤ人伝道だけです。イエスの名において、神の選民に福音を伝えなければならないのです。これは神の御名が救いであることを教えられている私たちには、どうしてもしなければならない責任です。「主の御名においてきたる者に、祝福あれ」と彼らに言わせるためには(マタイによる福音書23・39)、主の御名の救いを彼らに与えなければならないのです。

 これを私たちがしなければ、誰がするのでしょうか。主の御名が救いであることは、今、私たちだけが言えることなのです。主の御名が福音であることを、どうしても伝えなければならない責任があるのです。

 私たちがしなければならないことはそれだけです。後は皆神がして下さったのです。すでに、イエス・キリストにおいてすべてのことがなされたのです。「事終わりぬ」とイエスが言ったように、事が終わっているのです。

 そこで、私たちがしなければならないことは、良き行いでもないし、すばらしい信仰を持つことでもない。堂々たる預言をすることでもない。ただ自分の部屋に入って、隠れた所にいます神に祈ることだけです。

 自分の五官が働いていることが、自分の部屋です。しかも、五官の働きがエホバの救いを見ているのです。エホバの救いを経験しているのです。この事実をユダヤ人に伝えなければならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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