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人間の主体性

 現在の人間は不完全であり不幸せであると思えるので、肉的ではあっても、とにかく立ち止まっていることができないので、前進しようと考えるのです。前進が進歩になっていなくても、人間は同じ所に立ち止まっていることができないのです。

 それは自分自身が死ぬべきものであり、不完全極まりないものであるから、そこに立ち止まっていることは、ますます腐ってしまい、崩れてしまうことを知っているからです。だから、無意識に前進せざるをえないのです。

 現在の人間は人間自身がはっきり知っているように、不完全そのもの、愚かそのものです。ばかそのものです。

 愚かで不完全な自分を、どうして脱ぎ捨てようとしないのか、自分の気持ちをどうして脱ぎ捨てようとしないのかと言いたいのです。

 イエスを自分の主として、あるじとして受け止めたらいいのです。あるじとして受け止めるということが、イエスが自分の主体であることを確認することになるのです。

 自分が自分の主体ではない。イエスが自分の主体であることを確認し、イエスと同じ生き方をしたいと考える。また、毎日の生活をイエスとして生きたらいいのです。

 神の約束、神の天地創造は、宇宙の流れ、大自然のリズムです。このリズムに従って、毎日の生活を整えていくことが、本当の信仰です。これをしないで、いくら聖書の勉強をしてもだめです。

 頭で理解しただけで、自己完成ができるものではありません。イエスが自分の主体であると受け取るのです。今日まで生きていた自分のことを自分だと考えないで生きるのです。イエスとして生きるのです。

 現前において五官が働いていること、神に養われて生かされていることが自分なのであって、自分が生きているのではないし、自分が幸せにならなければならないものではないのです。

 イエスは父の御心を行って生きていたのです。約束の真髄に生きていたのです。そういう生活でなかったら、いくら聖書を勉強しても、絶対に救われる見込みはありません。

 天にいますあなたがたの父の御心を行うものだけが、天国に入るのです。父のことをなぜ本気になって、毎日の生活をしようとしないのでしょうか。これをした方がずっと楽です。

 悩んだり、苦しんだり、思い煩ったり、人を騙したりする哀れな生活をやめて、神の子としての自覚を持って生きるのです。これを行えば、人間的な苦しみ、悲しみからすぐに逃げ出すことができるのです。

 人間は前進しています。今日も前進しています。それは、現実の自分が不完全だということを知っているから、前進していくのです。

 人間は肉的にだけ前進していますから、悪い方向に向かうことになるのですが、私たちは霊的に前進したらいいのです。世間の人が進んでいる方向ではない、別の方向に、神の国に向かって進んでいけばいいのです。

 パウロは、「罪の惑わしによって死ぬべきものとなった古い人を脱ぎ捨てて、義と聖とによって造られた新しい人を着よ」と言っています(エペソ人への手紙4・22~24)。このようにしたらいいのです。これをしないで聖書を学んでいることは、無駄なことをしているのです。

 なぜイエスを自分の主体として受け取らないのでしょうか。人間は自分の力で自分が生きているのではありません。神に生かされているのですから、人間が神の子であるという客観的事実が、人間の本当の主体です。客観的事実を自分自身の主体として受け取ることが、現実に乗るということです。現実に乗っていくのです。御霊のレールの上をすべっていくのです。

 そうすると、肉の思いは死であって、肉の人間が消えて、霊の人間が自分の本体であることが分かるのです。

 世間の人は地獄への街道を行くのですが、私たちは神の国への街道を行けばいいのです。そのためには、イエスが自分の主体であることを確認して、彼の名前こそが私たちが生かされている本体であることを弁えて、イエスの名において生きるのです。イエスが自分の主体であることを信じて生きるのです。これが聖書を信じるということです。

 イエスという客観的存在の人間が、実は自分自身の主体的存在であること、これが主体性の確立です。自分自身の主体を確率するということが、客観的に存在するイエスが自分の主体であるという事実に目を覚ますことになるのです。

 イエスが人間の主体であることは事実です。復活して第三の天において、神の右に座せしめられている神の御子が、実は自分自身の主体であることになるのです。

 このことについては、聖書全体と天地創造の原理、ユダヤ人問題の原理を勉強すれば分かるのですけれど、要するに、今生きている主観的な人間は死ぬべきもの、不完全なもの、未完成なものです。こういうものを自分だと思っている人は、必ず不幸になるのです。

 死ぬべき自分は自分自身ではないのです。もはや復活して、神の右に座しているお方こそ私たちの命です。私たちの主体です。それをスムースに受け取ることをなぜためらうのでしょうか。

 皆様は幸福になることをなぜ嫌がるのでしょうか。自分の自尊心やプライドを持っていることによって、その人は必ず不幸になるのです。不幸になるべき人生を捨てて、現に復活している人の命を自分のものとして受け取ることを、なぜ嫌がるのでしょうか。このことをよく考えて頂きたいのです。 

 なぜ愚かなことを今日もしているのでしょうか。自分の思いを切り替えてしまうことが、どうして嫌なのでしょうか。

 ただ思いを替えてしまえばいいのです。「肉の思いは死である。霊の思いは命である」。これをただの言葉としてではなくて、神の言葉として受け取って頂きたいのです。

 イエスを信じるということは、人間存在の本質がイエスであることを確認することです。自分の主体性を確認することになるのです。

 人間の主体性の確立がイエスを信じることになるのです。イエスを信じなければ、人間存在の主体性を確立することはできないのです。

 かつて、日本はアメリカと戦争をしました。なぜ日本がアメリカと戦争をして負けたのでしょうか。

 日本の国民が主体を持っていなかった。軍閥に引っ張られて、自分自身で考えることをしなかった。自己存在に対して、非常に無責任であった。国の方針に盲目的に引っ張られていった。その結果、惨憺たる敗戦の苦労を味わうことになったのです。

 そこで、昭和二十一年か二十二年頃に、主体性の確立という言葉がしきりに流行ったのです。実存主義の角度から、主体性の確立という言葉が盛んにもてはやされたのです。

 その時の主体性の確立という意味は、現実に存在する人間の主体を考えていたのです。つまり、肉の人間の思いで生きている人間の主体性を確立すると言っていたのです。固有名詞の人間の主体性の確立と言っていたのです。

 ところが、固有名詞の人間の主体性とは何かと言いますと、固有名詞の人間には本来、主体性が存在しないのです。

 おかしなことですが、固有名詞の人間の主体性というものは立派にあるように思えるのですが、固有名詞の人間の主体性というものは、自我意識そのものであって、自我意識というのは客観的な根底がないのです。

 人間に自我意識がどうしてあるのか。自我とは何かということを哲学的に考察していきますと、自我意識の根拠は何処にもないのです。

 デカルトが「我思う故に我あり」と言っています。これが西洋哲学の第一原理になっていますけれど、西洋哲学がそういう概念を創作しただけであって、「我思う故に我あり」という程、乱雑ででたらめな概念はありません。

 我が思うから我があるということになりますと、思うということがあるから我があるということになるのです。思うというのは心理機能の働きを意味するものであって、人間の心理機能が、人間自身の本性を意味するかどうかです。

 人間の心理機能は人間が造ったものではありません。人間が造ったものではない心理機能に基づいて思うことをする。自分自身の心理機能を自分で創造して、それによって物を思うことができるなら、「我思う故に我あり」と言えるかもしれません。ところが、自分自身の心理機能を自分で造ることはできません。そんなことは全く不可能です。

 人間存在が一つの構造です。機構のようなものです。肉体的なものと、心理的なものが集まってできているのが人間です。

 肉体は地球上のあらゆる元素が集まって、人間の肉体ができている。あらゆる要素がより集まっているということになりますと、人間の肉体というべき特別の物体があるのではありません。物質要素という宇宙物理が人間の生理構造になって、人間の肉体を造っているのです。物理的要素と心理的要素の科学的な構造、科学的な機構が人間存在になっているのです。

 人間が働くとか、考えるという能力は、人間自身が造ったものではありません。人間のあらゆる能力は、人間以外のものによってできているのです。宇宙構造の人格的原点から発生しているのです。

 人間の生理機能は宇宙の生理機能によってできているのですが、人間の心理機能も人間自身が造ったものではなくて、神と言わなければならない人格によって造られているに違いないのです。

 人間存在は物理的な構造機能と、心理的な構造機能との寄り合い所帯みたいなものです。

 我思うという思いは心理機能であって、人間自身の機能ではないのです。人間が考えるという機能は、宇宙にある心理機能の分派です。それは宇宙に神が存在することの証明になるのです。

 宇宙に神が存在する。人格機能が存在する。心理機能の原点となるべきものが存在する。つまり、人間の心理能力の可能性が人間の他にあるのです。

 人間存在の可能性、思想的可能性が人間存在以外になければならない。これがなければ、人間の心理構造がありうるはずがないのです。

 人間の主体性を確立しますと、人間自身のものではないことになるのです。人間の主体性が人間の外にあることになるのです。人間存在の中には人間の主体性がなくて、人間存在の外に人間の主体性がある。これは哲学ではどうしても分からないのです。

 人間は何のために生まれてきたのか。何を目的として現在生きているのか。客観的な意味においてはっきりした結論を出すことができないのです。何のために生きているのかという結論が出すことができないということは、人間自身の主観的存在は人間自身の一人よがりでしかないのです。

 人間自身の主観概念は客観性を持っていないのです。何のために生きているのか分からない人間は、主体性の確立をすることはできるはずがないのです。従って、実存哲学でいう主体性の確立は、荒唐無稽なでたらめなものになるのです。本当の意味での主体性は人間自身には存在していないのです。

 人間が生まれてきたことも、生きていることも、自分自身の力によるものではありません。自分自身の力で生まれてきたのではないとすれば、人間が存在することは自分の意志ではありませんから、主体性はないのです。

 例えば、地球の主体性は何かと言いますと、地球自身であると言って答えになるのでしょうか。地球の主体性は地球を造ったものにしか持つことができないのです。

 すべて被造物の主体性というものは、被造物自身ではないのです。犬の主体性は犬自身にはないのです。もし犬の主体性が犬自身であるとすれば、人間が思うとおりに犬を訓練することはできないのです。

 馬でもラクダでも象でも、動物自身に主体性があるとすれば主体性は絶対ですから、人間の意志によって動物を訓練することはできないのです。

 主体性は神聖にして犯すべからずものです。本性、本質そのものです。犬が犬の本質、本性をはっきり持っているとすれば、その本質、本性を人間によって訓練することができるはずがないのです。

 ところが、人間はそれができるのです。場合によっては、犬の本性をほとんど変心させるくらいの高度な訓練もできるのです。

 犬に芸を教えたり、盲導犬のように盲人の道案内もできるようになるのです。人間の理性の基準に基づいて犬の訓練を徹底的に行いますと、犬が普通の犬ではなくなってしまうのです。そのように、犬の本性を変えることができるのです。

 犬自身は犬の主体性を持っていません。主の主体性は人間の方にあるのです。だから、犬の訓練ができるのです。

 このことは人間の場合でも言えるのです。人間がもし本当に主体性を持っているなら、人間の力によって人間自身の性格を変更することができるはずです。

 ところが、それができません。人間がいくら自分自身の原罪をなくそうと考えても、死ぬべき運命から逃れたいと考えても、人を憎むような根性をやめたいと考えても、人間自身の力量ではどうにもできないのです。

 ちょっと人を憎まないでおこうという形くらいはできます。そういう格好くらいはできますが、それはどこまでも格好であって、その人の本心が人を憎まなくなったこととは違うのです。原罪から抜け出すことはできません。

 人間自身の業(ごう)を、自分の力で果たすことはできないのです。人間の罪を人間自身がなくすことはできないのです。これが宗教では分からないのです。

 宗教は人間には主体性があると妙な気持ちを持っているのです。釈尊も初めはそういう感覚を持っていたらしいのです。そこで、自分が悟れば自分の人生が何とかなると考えていたのです。

 ところが、釈尊はいくら悟っても、死ぬべき運命から逃れることができなかったのです。死ぬという状態を破ることができなかった。人間自身のあり方を根本的に修正することができなかったのです。

 犬なら何とかできるでしょう。心理機能的な意味において、犬は人間より程度が低いですから、高い人間が訓練することができるのです。

 犬ができないことを、人間はすることができるのです。心理機能の次元が人間の方が高いからです。ところが、人間の場合は自分自身の主体性を持っていませんから、自分自身のあり方を変更することができないのです。人間の原罪をどうすることもできません。人間が死ぬという運命をどうすることもできないのです。

 こういう点から、人間の主体性は人間には存在していないということができるのです。人間は動物と同じように被造物ですから、被造物は自ら主体性を持つことができないのです。

 では被造物の主体は何処にあるのかと言いますと、造化の主(あるじ)にあるのです。造化の主が主体です。造られたということが、人間自身の主体です。これが根本的な主人公です。人間を造った根本的な主、人間の主人公、いわゆる可能性の根拠が父なる神です。父なる神が人間の主体性になるのです。

 父なる神がいなければ、人間の能力が現われてくるはずがないし、人間が理性的に考えたり、理性的に行動したり、理性的に生活できるはずがないのです。

 理性が人間のあらゆる能力を貫いている。人間の能力を貫いて働いている理性の根源は、人間自身の主体性であり、人間自身の根本性であるのです。この根本性を神以外のものに尋ねるのは無理なのです。

 ところが、日本には神が多すぎるのです。八百万もあるのです。それは碌でもない宗教の神です。嘘っぱちの神ばかりです。本当の神は一つもありません。日本の神という神は、紙屑みたいな神ばかりです。これが宗教の神です。困ったものです。本当の神は日本には一つもないのです。

 そこで、日本人は神と言われると、初めから信用しないのです。信用する気にならないのです。日本で神と称していることがおかしいものであるに違いないことを、日本人の霊魂は鋭く嗅ぎつけていますから、神という言葉を聞けば、宗教の神であるに決まっているのです。そこで、日本人は神という言葉に対して、心から敬意を表することができないのです。できない人間になっているのです。これが異邦人の悲しさです。

 日本人の概念には仏教の概念が強く入り込んでいますから、仏教でいう所の神は、聖書の神とは全然違うのです。摩訶不思議な力を持つものばかりです。例えば、西遊記の孫悟空が色々な神に出会いますが、そういう神ばかりです。神霊科学に類するような神です。そういう概念が日本人にはあるのです。

 日本人は神に対する不信感があるのです。これは異邦人の非常に悲しい習性です。異邦人は神を知らないのです。「神なくキリストなく」という言葉が聖書にありますように、異邦人には神という概念が生まれながらにして、全く存在していないのです。このことを私たちは知っておく必要があるのです。

 異邦人は初めから正確な神の概念を持っていないのです。これを承知して、彼らに福音を伝えるのでなかったらいけないのです。神を信じなさいといくら言っても、本当に神が信じられるはずがないのです。

 まず私たちが異邦人であることをよく知らなければいけないのです。人間自身の主体性が神です。造り主こそ私たちの命の本源であること、そして、私たちの人格の主体であることを知るべきです。

 私たち自身の人格の主体性、命の本源が神なのだということを、事あるごとにいつでも何回でも思い返すような見方をしなければならないのです。

 日本人は神という言葉に対して、生まれながらにして嫌悪感を持っているのです。ところが、日本人の魂は誠の神から出たのです。誠の神から出た魂を持っていますから、日本人がいう神がとんでもないものだということを、日本人の魂は知っているのです。だから、神を信じなさいというと、つい眉唾物だと思うのです。

 日本人が言っている神は、ほとんど眉唾物です。だから、神に対して反発するのです。神に対して軽蔑を感じるのです。

 皆様もそうでしょう。神に対して本当に兜が脱げないのは、日本人にど根性があるからです。日本人の根性がはっきりなくなっていない。イエスになりきっていないのです。イエスになりきっていないから、聖書の絶対性と言われても概念では分かるものの、何かもう一つ神に対して軽蔑心があるのです。そうして、神を警戒するのです。

 神を警戒しない人は神を敬遠するのです。神を敬うというよりは、神を遠ざけるのです。「神さんが見てござらん」という訳で、小人閑居して不義をなすのです。

 生長の家では人間は神の子であると言いますが、誠の神を全然知らないのです。天理教でも、大本教でもそうです。日本でいう神とは神霊科学の神を言っているのです。聖書でいう霊なる神ではありません。神霊科学でいう次元の神です。宗教的な神霊次元の神です。これを神だと言っているのです。

 こういう事に対する根本的な認識がなければならないのです。キリスト教の神学は、神の御名、神の実体を知らない人たちによって造られたものです。

 使徒行伝時代のイエスの弟子たちは、もちろんユダヤ人たちでありましたし、また、神の約束を信じようとしていた人たちです。それ以後の人々は、聖霊を確かに受けていた人たちは非常に少なかったでしょう。

 その証拠に、すべてのものの父なる神は一つであって、これがすべてのものを貫いて、すべてのものの内にあるということが、全く分かっていないのです。分かっていないままの状態で、神学思想が造られたのです。

 神学思想を造った学者たちは異邦人でした。使徒たちは神学とは何の関係もない福音を伝えたのですが、それを聞いた人たちは人間的、常識的に理解したのです。そこで、神学的に神を理解するという概念が生まれてきたのです。この概念は異邦人が造った概念です。

 神が分からない者たちが、神という概念を造ったのです。そのために、キリスト教神学に基づいて神をいくら勉強しても、基礎的な神観が違いますから、神が分からないのです。

 そこでどうすれば神が分かるのか。神が分かれば、人間自身の主体性がはっきりするのです。主体性がはっきりすれば死ななくなる。救われるのです。

 人間の主体性は造化の主ですから、造化の主が分かりさえすれば、造化の主に帰る道が分かるはずです。造化の主に帰ることができれば、人間自身の機能的根拠がはっきりするのです。帰納する場が分かるはずです。神に帰納すること、神に帰ることが分かれば、人間完成をすることができるのです。これを証するために、これを手引きするために、イエスが遣わされたのです。

 イエスは人間存在の主体です。イエスの御名がエホバ(神)が救いだということを証した、これがイエスの御名です。仮にイエスが分からなくても、神の本質が分かりさえすれば、神の本質が自分自身の救いであることが分かるのです。そうすると、その人の潜在的な状態が神の御名が救いであることを認識した状態になるのですから、これがイエスの御名になるのです。

 自分の主体がイエスであることを信じることと、もう一つ、イエスという人がどういうあり方をしていたのかを学ぶことです。イエスがどういう生き方をしたのか。エホバが自分の救いであるとはどういうことなのかを、イエス自身の存在によって証されているのです。

 イエスの存在をじっと見ていけば、神が分かるのです。イエスの存在を見るというあり方と、神の実体を見るというあり方と、人間完成はこの二つの道がありますが、これは同時に一つのことなのです。

 神の御名が分かれば、イエスの御名が分かる。そうすると、エホバが救いであることが分かるのです。エホバが救いであることが分かるということが、イエスの御名でもあるのです。ですから、イエスを通しても、神を通しても、同じようになるのです。

 そこで、小羊の御名と小羊の父の御名とが記されるのです。イエスの御名と父の御名が自分の救いであることを確認することが、末の時代における人間の唯一無二の救いの基準になるのです。

 神の御名とイエスの御名が額に印せられるということは、人間の思考方式の原点に神の御名が銘記されることになるのです。人間の考え方の根源に神が座ってしまいますと、すべての思考方式が神に基づいてなされることになるのです。

 例えば、生活でも、商売でも、家庭のことでも、愛の問題でも、何でもすべて神を基準にして割り切っていくのです。その時初めて、人生が明解に理解されることになるのです。

 イエスは神が救いであることを証したのですが、イエスはどのように生きていたのか。彼の存在とはどんなものであったのか。これをよく考えてみますと、イエスを知ると同時に、自分自身を知ることができるようになるのです。

 イエスがどのように生きていたのか。どのように存在していたのか。これが分かれば、自分自身が今存在していることの状態が分かることになるのです。イエスが神の子であることを信じるというのはこのことなのです。

 イエスが神の子であると信じると、この世に勝つことができるのです。イエスは人間ではなかった。神の子であった。これを信じるのです。

 イエスを信じるというのは、イエスを御霊によりて理解するのです。イエスを御霊によりて理解すると、自分自身の存在がそれに同化することになるのです。そこで、世に勝つことができるのです。世に勝つというのは、イエスを神の子と信じる信仰が世に勝つのです。

 イエスとはどんな人であったのかと言いますと、実はいなかったのです。イエスという人間はいたことはいたのですが、今現在における異邦人が考えているような肉の感覚に基づく存在ではなかったのです。

 今私たちが人間存在という言葉を使いますが、一メートル何センチの身長を持ち、六十キロ、七十キロの体重があると考えるのですが、そういう人間はいなかったのです。そういう人間が人間だという考え方は、異邦人の考え方なのです。今ではユダヤ人もそういう考え方をしています。

 ユダヤ人がそういう考え方をしきりに宣伝しているのです。彼らはイエスを信じていないから、一メートル何センチの人間を人間だと考えているのです。これが近代文明の基礎概念になっているのです。

 本当の人間存在の実物は、一メートル何センチではないのです。また、六十キロ、七十キロではないのです。例えば、重量の実体を考えてみますと、人間に六十キロという重量がどうしてあるのでしょうか。人間の肉体に重量があると考えるのがおかしいのです。

 これはただの概念です。概念としてはありますけれど、実体的には存在しないのです。物体の重量は地球の引力によって発生します。従って、重力に対する抵抗の値が五十キロとか六十キロになるのです。重量はありません。地球の引力に対する値があるのです。

 人間は地球の中に引き込まれないで、地球の上に乗っている。これが引力に抵抗している状態です。これに重量という目方をつけているのです。これは異邦人の見方です。重量は存在していないのです。

 自然科学的な見方をすれば重量は存在しますが、地球の引力を承認することになりますと、人間の重量はやはり存在しないことになるのです。重量が存在する人間はいないのです。その証拠に、宇宙ステーションに入った人は皆浮かんでいるのです。どんなに重い人も軽い人も、皆浮かんでいるのです。もし人間に固有の体重があれば、浮かぶことはないはずです。

 イエスはそういう人間ではなかった。「彼は水と血によって来たりたもうたお方である」と書いています(ヨハネによる第一の手紙5・6)。イエスは水によって来たとありますが、これは肉体によって来たことを意味しないのです。

 イエスは自分が水であったことを知っていた。天然自然の要素と同じものであることを知っていた。

 水は地球における第一元素です。宇宙における九十五%は第一元素です。人間の肉体を徹底的に要素化してしまいますと、水になってしまうのです。これは人間だけではありません。天地万物も水になってしまうのです。「万物は水から出て、水によって成っている」と聖書に言われているように(ペテロの第二の手紙3・5)、人間だけでなく、森羅万象の物質的要素、実質的要素は、水素原子です。水素原子を基体にしているのです。水素と他の質が、物質を形造っているのです。

 物はありません。物の質があるだけです。これが物質です。水によって来たというのは、人間の物体感覚で見ている固体性を持ってきたのではないのです。

 血によって来たというのは何か。血はすべての生き物の命です。イエスの肉体の本質は、生き物の命と水です。だから、固体的存在ではなかったのです。

 イエスは宇宙存在の元素として、万物存在の元素として生きていた。私たちの場合も同じ事です。元素として生きているのであって、固体的な肉体として生きているのではありません。

 風と波はイエスの兄弟分だったのです。イエスの輩(ともがら)でした。だから、風を叱ったり、波を叱ったりしたのです。イエスには理性がありました。風や波には理性がありません。理性があるものが理性のないものを叱るのは当然です。「風よ静まれ」と叱ったのです。

 皆様がイエス・キリストの信仰を持ちさえすれば、そのようになるのです。そうなることを神は願っておられるのです。

 第三の天におられるイエス・キリストも、それを願っておられるでしょう。皆様がイエス・キリストを信じることになりますと、皆様はイエスと同じように昇華してしまうことになるのです。

 イエスが水と血で来たりたもうたように、皆様も水と血で生かされていることが、神の御霊によって証されるでしょう。そこで、水と血と御霊の証が一つになるのです。

 そうすると、皆様の肉体は消えてしまうのです。肉体が消えた自分はどうして死ぬのでしょうか。何を悲しむのでしょうか。何を怒るのでしょうか。なぜ自分の幸、不幸があると思うのでしょうか。私みたいなものはとなぜ思うのでしょうか。

 水と血によって来たりたもうお方が皆様の夫です。皆様の救い主です。皆様はその方に許婚されたのです。そのお方に帰るに決まっているのです。

 皆様が今聖書の勉強をしているのは、第三の天にいるキリストを夫にするためです。そのために、固体的な肉体を持つ自分があると思う方が妥当なのか、ないと思う方が妥当なのか、どちらが正しいのでしょうか。

 人間の生活の営みはあります。生活の営みをしている本体は何かと言いますと、神の言葉が水と血によって来たものが、生活を営んでいるだけです。人間の肉体は宇宙の元素が集まっているのです。宇宙の元素そのものです。水そのものです。

 土も水です。水から生まれたものが土です。土から出たものが人間の肉体です。アダムというのは、土から生まれたものという意味です。土から生まれたものは水です。私たちがアダムの子孫であれば、水に決まっているのです。水から出ていないアダムはいないのです。

 旧約、新約を貫く万物創造の原理から考えても、イエスの御名を知らなくても、人間には肉体がないことが分かるのです。

 ましてや、イエスの御名を知ることになりますと、いよいよ肉体がないことが分かります。ただ営みがあるだけです。

 人間の営みがどうしてあるのかと言いますと、ロゴスである理性が魂になって、地上に現われているのです。理性が肉体を持って生きているということが魂です。

 魂の営みがあるだけです。人間の営みではありません。固有名詞の人間には関係がないのです。人間の世の中は悪魔の世の中です。人間の世の中で生きるためには固有名詞がいるのです。

 人間生活には色々な誤解が集まっています。物理的な誤解と心理的な誤解が集まって、人間の常識になっている。それが生活しているのです。

 人間の世の中は、人間の業、原罪が集まって社会組織になっている。国、社会は人間の業の大集団です。こんなものを見てもしょうがないのです。

 「ばかは死ななきゃ治らない」と言いますが、死んでからこそ妄念の花が咲くのです。生きているうちはまだ妄念の花が咲かないのです。なぜなら、生きているそのことが神の御名と共にあるのですから、妄念が燃え上がると消されるのです。

 生きているうちは妄念の花が咲きません。神の御霊の働きがあり、神の御名の働きがあるからです。ところが、死んでしまうと、それがなくなってしまいます。そうすると、妄念が開いて実を結ぶのです。だから、ばかは死ななきゃ治らないというのは、罪のない人間が考えることです。

 妄念に花が咲きますと、焼いても焼いても焼き切れない屈辱の炎となって、乱れ咲くことになるのです。

 肉のことを思ったり、自分の心に従えば従うほど、自分を不幸の淵に突き落とすことになるのです。

 自分の気持ちにこだわることが、肉の喜びにこだわることになるに決まっているのです。

 肉の喜びがあれば幸福だと思う。肉の喜びがなければ不幸だと考える。とんでもない考えです。肉の喜びがあればあるほど、妄念を造っていくことになるのです。

 死んでからのことが分からないのは、本当に情けないことです。すでに、十字架によって肉の自分は死んでいるのです。死んでいる自分にまだこだわっているのは、どういうことでしょうか。

 十字架を信じていながら、なお自分の気持ちを大事にしなければならない気になるのは、なぜでしょうか。地獄へ落ちた魂が、地獄へ落ちたままの状態で苦しみを味わいながら、なお自分自身に死にきれないで苦しむことになるのです。

 地獄では瞬間、瞬間、裁かれながら、息詰まるような裁きを刻々と味わいながら、なお自分自身に死にきれないで苦しまなければならないのです。

 現在、十字架の言葉という愛の裁きを与えられ、その内容を十分論理的に弁えていながら、なお自分の肉の思いや自分の立場にこだわっているのは、地獄における亡霊の妄執と同じことを経験していることになるのです。

 ばかは死んでも治らないという悪魔のジレンマ、地獄のジレンマを今味わっていることになるのです。十字架がありながら、なお焼きもちをやいたり、自分のことを不幸に考えたり、苦しいとか悲しいとか言っている。十字架を信じてなおそういうことをしているのです。

 これは何かと言いますと、地獄の苦しみを現世で味わっているのであって、この悩みから離れてしまわなければ、携挙(けいきょ)されません。携挙(けいきょ)されなければ、地獄へ行くしかないのです。

 現在、十字架を信じていながら、悪魔のジレンマ、地獄のジレンマをなお思い煩っているということは、自分が悪魔の子であることを証明していることになるのです。

 皆様は十字架があることをよく知っています。が、なお、自分のことを思い煩っているのです。一切を黙って神に預けようとしない。色々な条件をつけて考えている。これは自分自身が悪魔の子であることを承認していることになるのです。

 自分の思いをはっきり無視できる者は、悪魔の地獄とは何の関係もない魂として認められることになる。これが、ばかは死んでも治らない状態とは関係がない状態になるのです。

 イエスが神の子であることを信じて下さい。その信仰によって生きて下さい。そうすれば、自分自身の存在を全部神に渡すことができるでしょう。これが神に霊を渡すことです。霊を渡すことが十字架を信じたことになるのです。霊を渡さない者は十字架を信じていないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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