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神の国は幼子のものである


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 大人のことを英語でアダルト(adult)と言います。アダルトが語源になって、大人のようなとか、大人的、大人の気持ちというアダタラス(adulterous)という言葉になります。

 アダルタラスとなりますと、邪悪とか姦悪、不純、姦通という意味になってきます。これが大人の気持ちです。

 結婚するまでと、結婚した後では人間の質が全然違ってしまいます。結婚するまでは神的になりやすいのですが、結婚した夫婦が欲望生活に入りますと、心理次元が極端に低下してしまうのです。結婚生活は欲望生活だからです。欲望を制限しないで、好きな時にお互いに抱き合うからです。

 創世記の第三章の陥罪以後、女のセンスがおかしくなってしまったのです。男が女に奉仕しているのです。その結果、今のような欲望生活ができてしまったのです。これが人間文化の徹底的な堕落の原因です。これがノアの洪水の根本原因です。これは世界中のキリスト教信者が全然知らない所です。まさか性の乱れによって洪水が起きるとは思えないからです。

 神は言っています。

 「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られるとそれは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」(創世記6・11)。

 その道とは何かと言いますと、人間の性生活のことです。人間の生活の基本はセックスです。人が皆その道を乱したので、もう見込みがないと神が考えた。

 人間の血液の中の組織である染色体が変わってしまったのです。性欲による染色体になってしまった。清い性であったものが、全部獣的になってしまった。これが恐ろしいのです。これが女の逆性です。女がそれを喜ぶようになったからです。

 これは男に責任があるのです。男は女の逆性に同調しないで、順性に導いていかなければならない責任があるのです。

 現在の大人の世界では、人間の生きざまの本質が全く間違っているのです。セックスをしてはいけないというのではありませんが、それに対する心構えが間違っているのです。

 アダムとエバが陥罪した直後に何をしたかと言いますと、前(性器)を隠したのです。前とは人間の魂の本質です。女の前は女の魂です。男の前は男の魂です。これを隠したのです。だから魂が全く分からなくなったのです。

 神は女を相手にしていません。最初に神が造ったのは男です。そこで神はイスラエルの男に割礼を施したのです。

 大人の根性は邪悪です。姦悪です。大人的に考えたら全部だめになります。だからパウロは結婚には反対でした。どうしても胸が燃えてたまらない者は、しかたがないから結婚を許すと言っているのです。進んで許しているのではない。やむを得ないから許しているのです。その代わりに必ず堕落すると言っているのです。

 一度落ちる所まで落ちてしまうと、そのどん底から這い上がらなければならない。これをするためには、よほどの勇気と忍耐力がいるのです。

 一度性欲に落ち込んでしまうとどうしようもないのです。性欲は幽霊みたいなものです。これを切ってしまうにはどうするか。自分の肉がないということが分かると切れるのです。益なしくらいではだめです。肉は存在していないということがはっきり分からなければならないのです。

 言(ことば)が肉となったとあります(ヨハネによる福音書1・14)。言が肉となったということは、肉とはなっているけれど、実はその本体が言であるということがはっきり分かった人は、肉を蹴飛ばせるのです。肉はあるが、それは霊の影だということが分かるのです。セックスは肉の行為ではない、霊の行為だということが分かると、女性の扱い方が違ってくるのです。

 そのために神はイスラエルの男に陽の皮を切れと命じたのです。割礼を施すとはこのことです。性器についての考えを変えてしまえと言うのです。これができる人はよほどの男でしょう。この男に掴まえられた女性は幸いです。そういう人はめったにいないのです。

 セックスの本質、価値は性行為ではなくて愛です。霊なる愛の味わいです。舌でメロンを味わっているのは神の恵みの味わいです。味は霊なるものです。これが分かれば神の国に入れるのです。

 神の国に入るためには、昨日までの自分の記憶を入れ替えなければいけないのです。昨日までの記憶が間違っているのです。物の考え方が根本から間違っているのです。

 肉の思いが記憶になっていっぱい詰まっている。これを入れ替えなければいけないのです。神の前に本当に素直になるならできるのです。これをしなければ必ず地獄へ行くのです。絶対に行くのです。

 聖書に次のようにあります。

 「イエスに触って頂くために人々が幼子らをみもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り彼らに言われた、『幼子らを私の所に来るままにしておきなさい。神の国はこのような者の国である。聞いておくがよい。誰でも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない』。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された」(マルコによる福音書10・13~16)。

 幼子のように神の国を受け入れる。これが分からないのです。世界中のキリスト教の牧師が分からないのです。

 男は結婚するまではいいのですが、結婚すると次元が極端に下がるのです。女性は男親の悪い所が現われているのですから、女性はくだかれる訓練をしなければいけないのです。そうすると毎日の生活が楽になるのです。

 幼子のようにならなければ天国に入ることはできないと、元訳聖書は訳していますが、この訳は間違っているようです。幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入れないと訳したらいいのです。幼子のようにならなければ神の国に入れないのとは違うのです。

 幼子が神の国を受け入れる。そのように神の国を受け入れるというのはどういうことか。

 神の国は幼子のような者の国であると言っていますが、これはどういうことか。子供たちはわいわい騒いで大声で遊んでいますが、これは何をしているのか。これが分かった人は神の国に入れるのです。しかしこれはめったに分からない所です。神の御霊が目をつけた人しかその秘密を教えてくれないのです。

 幼子はどういう気持ちで生きているのか。神の国はこのような者の国だとあるのです。そうすると神の国は幼稚園みたいなものだということになるのですが、肉の目で見た幼稚園ではないのです。霊の目で見た幼稚園です。

 幼子を霊の目で見ることができればいいのです。ところが霊の目が開かれていない人、聖霊に満たされていない人にはできません。御霊をいつでも崇めている人にはできるのです。十四節、十五節の説明ができる人は、いつでも神の御霊を崇めていると言えるのです。できない人は御霊を受けても崇めていないからできないのです。

 「私の魂は主を崇め、私の霊は救主なる神をたたえます」とマリアは言っています(ルカによる福音書1・46)。これが言えなかったらいけないのです。

 もちろん幼子はこういうことは分かりません。イエスがそのように見ているということを、幼子自身は分かりません。イエス在世当時の幼子と今の日本の幼子とは、質が全然違うと言う人がいるかもしれません。そういうことも言えるかもしれませんが、本質的には同じことです。

 皆様もかつては幼子だったでしょう。その時皆様はどのように生きていたのでしょうか。分からないとは言えないのです。皆様は三才、四才の頃のことをはっきり覚えているでしょう。

 神は特に幼児時代の記憶力を強くしているのです。幼児時代のセンスは一番上等です。実はこの時のセンスは命の実物です。今の人間の大人が生きている命は人間の命です。神の命ではありません。これが問題です。

 特に大人のセックスに対するセンスが間違っているのです。だからセックスに対するセンスを改めなさいと、神がアブラハムに言っているのです。それが割礼になって現われているのです。パウロはそれを知っていたので、結婚はなるべくしない方がいいと言ったのです。

 神を信じるというのは本当のロマンです。惚れたはれたのもっと上のロマンです。もっと上等の惚れたはれたです。これがすばらしいのです。

 幼子はこういう世界を経験しているのに、自分では分からない。皆様もそういう世界を経験して大人になったのです。神は恵み深いお方ですから、七十才になっても、八十才になっても幼子の記憶をはっきり与えているのです。

 聖書を読んでいますと、なるほど私は幼子の時に、神の国を見ていたということが分かります。その時を思い出してみますと、神の国がはっきり分かるのです。神の国はこのような連中の国だと言っているのです。

 神の国に入れるために、神はすべての人間に幼子の時の記憶を明確に与えているのです。これはすばらしい恵みです。幼子の教訓を忘れないようにはっきり与えているのです。

 川で泳いだり、魚を捕ったり、山の中へ入ったり、蝉やトンボを捕ったり、犬や猫を追いかけたり、砂場で相撲をとったりした時の感覚を誰でも覚えているはずです。これをじっくりと思い出してください。そうすると神の国が分かるのです。

 神は全世界の人間に、そういう経験と記憶を与えているのです。神の義は万人の中にすべて鋳込まれているのです。

 幼子の時、どんな気持ちで川遊びをしたのか。どんな気持ちで砂遊びをしたのかを冷静に思い出すのです。そういう気持ちで聖書を勉強すると、神の国の実物が命になって見えるのです。

 人間の霊魂が救われるというのは、明々白々な事実です。はっきりした事実です。神の国があるからです。皆様の人生の記憶の中に神の国があるのです。それを思い出したらいいのです。

 ところが、幼児時代の純真な気持ちはどこへやらです。嘘を言ったり、焼きもちをやいて、憎んだり、ねたんだりした記憶ばかりです。幼児時代のことは全く忘れ去っているのです。そして魂を押さえ込んでいるのです。だから皆様の魂には自由がないのです。幼児時代の状態に帰れなくなっている。魂が死んでいるからです。

 神の国はあるのです。神の国へ入れるのです。皆様の幼児時代の記憶を一つ一つ調べてみれば、神の国へ入る秘訣が分かるのです。そうして入ることができるのです。

 聖書は難しくありません。大人が勝手に難しく考えているから難しくなるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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