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キングダム(1)


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 ヨハネの黙示録五章十三節に、「天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そしてそれらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた」とありますが、これがちりの原形です。ちりの原形が神の御霊によって覆われていたので、天使長の悪魔が触ることができなかったのです。ちりが二日目、三日目にどのように用いられているかです。

 「神が水と水の真ん中に大空をはった」とあります(創世記1・6)。水のおもてが大空となって展開しているのです。

 大空とは何かというと、諸々の天は神の栄光を現わし、大空は御手の業(わざ)を現わすとあります(詩篇19・1)。大空は御手の業です。地球を囲んでいる大空の働きは、確かに御手の業と言わなければならないものです。

 大空がはられているので、万物が皆生きているのです。万物が創造されて保たれている原理は大空です。これが御手の業です。大空という御手の業のおかげで、森羅万象が生きている。これがちりの現象です。人間存在の原形は大空です。私たちの働きは、知らず知らずに大空の働きをしているのです。

 日本には天皇制という不思議な政治形態がありますが、これがキリストの一つの典型です。天皇が政治力を持つと国が悪くなる。政治力を持たなければいいのです。表面に現われるべき政治権力ではない。隠れた政治権力です。第三の天のキリストの雛形みたいなものです。表面に現われてはいけないのです。

 日本の国が神的なあり方であるので繁栄しているのです。

 国の象徴とは何か。象徴はあってもなくてもいいのですが、その文句が憲法にあるのがおかしいのです。象徴は文学的な表現であって、政治的な表現とは違います。法律上の表現でもないのです。文学的な表現が、憲法に割り込んできたというのはおかしな話しです。

 新約時代のあり方が、そのまま政治経済に現われたのが日本です。新約時代の象徴が第三の天のキリストです。表面に現われていませんけれど、第三の天のキリストがいることが新約時代の特徴です。

 やまとというヘブライ語をなぜ日本に担ぎ込んだのか。ユダヤ人の分家でなければ説明できないのです。

 人間は万物の中で、森羅万象という不思議な経験をしているのです。人間の肉体はありません。ないのにあるような感覚を持たされている。しかも万物が存在する真ん中で、五官が働くというコンディションを与えられて万物を感覚している。

 一体人間は何をしているかです。何をしているかを静かに考えれば分かるのです。毎日朝から晩まで注意深く見るのです。例えば魚を食べた。果物を食べた。食べたり飲んだりしている時に何を感じているか。青空を見て何を感じるのか。

 「バラが咲いた、バラが咲いた、真っ赤なバラが」という歌がありますが、歌っている人が何を感じているかです。これは生きている感覚をそのまま歌っているのです。これは何を経験しているかです。

 人間が生きていて毎日経験しているのは何か。柔らかいふかふかの布団の中で寝転がっている時の気持ちは、何を経験しているのでしょうか。何かを経験しているのです。

 人間は生きていることに、言い知れぬ喜び、楽しみを感じています。なぜ喜び楽しいのでしょうか。こういうことをじっと見るのです。自分が生きている状態を覗いてみるのです。

 何かを喜んでいるのです。歩いていれば歩いていることを、食べていれば食べていることを、飲んでいれば飲んでいることを、運転していれば運転していることを喜んでいるのです。

 イエスが山上の垂訓でそれをテーマにしているのです。マタイによる福音書の五章から七章にかけて、生きている喜びについて語っているのです。山上の垂訓を実行すると、生きている喜びが格段に深くなるのです。

 神に生かされているという事実を素直に生きるのです。生きる権利があると思わずに、生かされているという有り難みをごく素直に感じると、楽しみが深くなるのです。

 「エホバを思うわが思いは、楽しみ深からん」とダビデは言っています。神を思うと楽しみがずっと深くなるのです。これをイエスはキングダム(kingdom)と言っています。キングダムとは、私たちがこの世に生きている時に感じていることです。

 家長なら家長の権威、先輩なら先輩の位を認めると、キングダムが成立するのです。年上の人を年上のように扱う。上司を上司のように扱うとキングダムが自分に分かるし、他人にも分からせることができるのです。仁義礼知信をきちっと生きると、そのまま神の国を喜ぶ喜びが、じかに感じられるという大変なプラスがあるのです。

 自我意識を捨てると神が神になる。他人の位を重んじるということは、自分の位を捨てることです。自分の位を捨てて他人の位を重んじると、そこが神の国になるのです。

 私たちが柔和謙遜で生活する気持ちさえあれば、重荷はなくなるし、不平不満はなくなるのです。神が信じやすくなるし、神を喜ぶことが現実にできるのです。

 自我意識さえ捨てて柔和謙遜に生活するということだけで、キングダムをしっかり味わえるようになっている。これは不思議な世界です。

 福音というのは実に具体的な現実性があるのです。人間はキングダムをそのまま味わっているのです。だから人間は死にたくないと思うのです。死にたくないというのはキングダムから離れたくないという気持ちです。

 生きているということは有り難いことです。人権主義を振り回している人でも生きていることは有り難いと思う。ましてや人権主義を捨ててしまって、位を位とし、権威を権威として重んじている人には、謙遜な喜びがあるのです。謙遜な喜びの方がずっと深いのです。威張り返って自尊心を振り回す喜びよりも、柔和謙遜の喜びの方がずっと深いのです。

 結局、利口に、器用に、人間的なワイズとアンダスタンドで生きると、ばかを見ることになるのです。なるべく封建的なあり方の方が、喜びが大きいのです。欧米社会の人々の意識はこれと正反対です。

 日本文化には封建的な文化性が底光りしていますが、これが欧米人には分かりません。生花の本質が分からないのです。日本人には分かるのです。茶道、華道の中にはキングダムの味わいがありますが、これを見つける人はよほど慧眼があるのです。これを掴まえたらいいのです。

 「心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」とイエスは言っています(マタイによる福音書5・3)。心が貧しい(poor in spirit)ことが、キングダムだ。その人はキングダムを持っていると言っています。

 山上の垂訓の主要テーマがキングダムです。これを意識にはっきり求めることが、神の国と神の義を求めることなのです。

 鳥が飛んだり、花が咲いていることが、キングダムです。人と話したり、食事をしたり、スポーツをしたり、音楽を聴いたり、旅行をしていること、日常生活のあらゆることがすべてキングダムの経験になっているのです。最も素朴なあり方でキングダムがあるのです。

 キングダムは、今は隠されています。柔和謙遜でよほど苦労しないと分かりませんが、千年王国になるとキングダムが表面に現われます。その時になると霊の恵みが分からなくなるのです。キングダムが表面に出るから、却ってその有り難みが消えるのです。

 「汝の敵を愛せよ」とイエスは言っていますが、敵を愛したいと思うだけでキングダムになれるのです。神が矛盾を与えているのは、本人の心構えに対して、すぐ即応的に恵みが与えられるためです。これが生ける神です。

 神は生きているのです。位を崇めようと決心すると、それだけで実行しなくても神の喜びが入ってくるのです。

 自我意識を捨てようと思っただけで、喜びが感じられるのです。このやり方を、山上の垂訓でイエスが説いているのです。

 生きているだけで何となく楽しいのです。これから離れることが辛いのです。なぜか。生きていることがキングダムにいることだからです。肉体を離れて暗い所へ行くということは、死ぬことになるからです。生きている楽しさが消えるからです。

 今まで人間は悪魔を実感していました。悪魔を実感することをやめて、神を実感しようと考えればすぐにキングダムに入れるのです。本当に神を信じると生ける神の子がすぐに分かるのです。

 私たちが生きているのは、水と血と御霊によるのです(ヨハネの第一の手紙5・8)。水は大自然の法則であり、血は動物の命、御霊は大自然を動かしているエネルギーです。肉体があるのではない。ただ、水と血と御霊があるだけです。これを百パーセント信じられなくても十パーセント信じられたら、健康的に大いに違ってくるのです。

 神の有り難さを自分の生活で体験するのです。神の有り難さを体験していないから、信仰の楽しさとか有り難さが分からないのです。有り難い神を喜んだらいいのです。

 神の実体と人間の霊魂の実体は、そのまま父と子の関係であって、父と子の関係は典型的な封建主義なのです。

 人間は自分で平和を実現しようと考えたり、自分で栄光を現わそうと考えるから、だんだん不幸になるのです。

 人間文明は自分で自分の生活を楽にしようと考えたり、自分の権利を拡張しようと考えています。その結果、不信そのものの時代が現われたのです。不信感がそのまま国際連合に現われている。不安と憎しみが対決しているのです。

 人間文明はこれ以上向上することはありません。向上しないからあとは滅亡するだけです。全く良くなる見込みはありませんから、自滅するしか道はないのです。

 生ける神の言葉によって再臨を組み立てるとどうなるのでしょうか。金銀玉楼のようなもの、思想の大殿堂になるでしょう。

 世界のキリスト教は、キリストの再臨が全く分かっていません。概念だけはありますが、キングダムを全然知らないのです。

 今の時代がキングダムの時代であるとすると、これが歴史的に実現するとどうなるかです。ユダヤ人を指導するとすれば、イエスは再び来るということを言わなければならないのです。

 イエスは再び来るのです。新約聖書はイエスが来ると三百十八回も言っています。一番多く言っています。

 ヨハネは言っています。

 「これらのことをあかしとする方が仰せになる『しかり、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来たりませ」(ヨハネの黙示録22・20)。文語訳では「我すみやかに来たらん」となっています。これがイエスが来るという最後の言葉です。その前に三百十七回も言われているのです。主イエスよ来たりませと、ヨハネが教会を代表して祈っているのです。

 本当にイエスが再び来るということを歴史的に理解すると、これが光になるのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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