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神の国に入る(3)


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 聖書の勉強と信仰とは違います。聖書の勉強は聖書の原理的な訓練であって、信仰とは違います。

 信仰とは神を信じることです。聖書の勉強は信仰への前提になるのです。

 美しいということが神ではありません。美しいという味が神です。美しいという後味が神です。美しいという形と、美しいという生態と、美しいと言える味とは違います。

 御霊を受けていながら崇めることができない。これは生活の当体が、神であることが全然分かっていないからです。自分自身の生活に驚くことです。自分が生きていることに恐れおののくことです。こういう心境でなかったら分かりません。自分自身が生きていることに、自分自身が恐れおののくのです。

 自分自身が生きていることが、剃刀の刃に触るようにひやひや感じられるのです。階段を上がり下がりするたびに、ひやひや感じられるのです。神と一緒に生きているということは、それほど厳粛なものです。

 神に選ばれたなら、生ける誠の神が分かるはずです。神はわが前に歩めと言っています。信仰をすると初めて信仰の重さが分かるのです。

 とにかく歩くにしても聞くにしても、一挙手一投足がすべて神を信じないとできないのです。ボタン一つ掛けることが信仰です。一つ一つのことがすべて、神と共に行動しているのです。インマヌエルの実体がリビングであることを認識しなければ、生きていられないのです。

 そういう生き方をしていると、生きていることが興味津々たるものになるのです。生きていることがおもしろい。生きているだけでわくわくするほどおもしろいのです。

 この瞬間に心臓が止まったとしても神です。生きていることも神、死ぬことも神、神だけしかいないのです。神という言葉が動詞的に働くのです。エホバという言葉が動詞的に働くのです。だから生きていることは神しているのです。

 今の男は死んでいるのです。聖書は「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい」と言っています(エペソ人への手紙5・14)。男は死んでいることが分からないくらいに、深く眠っているのです。死んでいる上に眠っているのです。

 エデンの園においてアダムは深く眠らされて、あばら骨の一本を抜かれた。そこを肉で塞がれた。そして善悪を知る木の実を食べて死んでしまったのです。眠った者が起きたとは書いていないのです。

 アダムは女を見て、女だけは分かったのです。「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉」と言った(創世記2・23)。女が分かったのですが、神が分かったのではないのです。あばら骨である女が分かったが、目が覚めたのではないのです。

 アダムは眠った状態で罪を犯した。だから罪を犯したという自覚がないのです。

 女はそうではない。蛇に騙されて善悪を知る木の実を食べた。騙されたのであって、罪を犯したのではないのです。神が善悪を知る木の実を食べるなと言ったのは、男に対してだけです。女ができる前に言われていますから、女に言ったのではないのです。従って、女が善悪を知る木の実を食べても罪にならないのです。

 女は善悪を知る木の実を食べてはいけないという事実を知らなかったのです。だから蛇に騙されたのです。従って女は罪人ではないのです。

 イエス・キリストを女の末と言っていますが、これは罪人ではないのです。ところがキリスト教の人々は、女は罪人だと言っています。女が罪人ならイエスも罪人になるのです。

 イエスだけが罪人ではないというのはどういう訳か。イエスが無原罪であることがどうしても分からないのです。肉体を持っていて無原罪であることが、キリスト教ではどうしても分からないのです。

 女の霊魂は罪人ではないのです。罪人に関係はありますが、罪人とはっきり言えるのは男であって、女は騙されたのです。男は騙されていない。自分の意志で善悪を知る木の実を食べたのです。だから女は死んでいないのです。また御霊が相手にしていないのです。御霊は死んでしまった者だけを相手にしているのです。

 現世にいて、神から見て存在していると言えるのは男だけです。女は存在しているとは言えないのです。女は男の従属物みたいなものです。こういう言い方をしますと、現代人のヒューマニズムでは全く納得できないでしょう。

 女は初めから計画して造られたのではない。アダムが神を知ることができなかったので、アダムのあばら骨の一本を抜き出して造ったのです。女は男の一部分です。だから従属物という言い方ができるのです。女が造られた経緯を慎重に見ていくと、こういうことが言えるのです。

 神から見て、現世にはっきり存在していると言えるのは男だけです。女は存在しているとは言えないのです。男の従属物、助け手として存在しているのです。だから女が存在するのは現世だけです。新天新地の神の国の住民に女はいないのです。これはヨハネの黙示録の最後を見れば分かるのです。

 それでは女は現世を去ったらどこへ行くのか。行く所がない。そこで迷うことになるのです。困ったことになるのです。

 アダムのあばら骨の一本を抜き出して女が造られた。女の帰る所はアダム自身です。女は現世で、自分の本当の古里である男を見つけて入るしかないのです。女が帰るべき本当の古里というのは、永遠の生命、死なない命を見つけた男です。この中へ帰ったらいいのです。

 これは現世の夫婦関係とか法律に関係がありません。入るというのは精神的に入るのです。恋愛感情を持って男の中に精神的に入ったらいいのです。

 永遠の生命、死なない命を知らない男の中に入った女はどうなるのか。男と一緒に地獄へ放り込まれて、永遠に尽きない火で焼かれることになるのです。女の人はこれをよく考えて頂きたいのです。

 神から見た現世の存在は、矛盾した不完全な譬としての存在であって、本当の存在と言えるものではないのです。男と女を分けて考えること自体が無理です。

 神は男と女を区別していません。人間全体を含めて死んでいると言っているのです。

 神は男のことばかりを対象にしています。神は女を問題にしていないのです。このことを男はよく知らなければいけないのです。

 男は罪人です。女は男の従属物であって、罪人ではありません。骨の骨というのは女の持っている優しさです。これはとことん霊的なものです。

 男が女に惚れるのは何か。女に惚れるということが、男の本心です。女の優しさが男の本質です。男はそれにならなければいけない。女に惚れると同時に、女になり切らなければいけない。女になり切れない男はだめです。イエスはとことん女になりきったのです。

 女になり切るということは、女を心から尊敬するということです。これができない男はだめです。

 男はキリストの花嫁になるために生まれてきたのです(ヨハネの黙示録19・7)花嫁は女性です。男は女になるために生まれてきたのです。これをよくよく考えて頂きたいのです。

 男の顕在意識はだめです。潜在意識だけになると、女から尊敬されるのです。そうすると奥さんが喜ぶのです。女の優しさを肉性的に考えてなめるとひどい目にあうのです。

 生きているというのは自分自身の問題とは違います。なぜ自分が生きていると思うのか。生きているのは神の国です。人間が現世で経験しているのは神ばかりです。ところが自分が生きているように考えている。これが自我意識、悪魔の考え方です。

 イエスは「水からと霊からと新しく生まれて神の国へ入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。私たちは水からと霊からと新しく生まれて神の国へ入るために、現世に放り込まれたのです。

 人間はエデンの園という前世で、神が絶対に食べてはいけないという善悪を知る木の実を食べて死んでしまった。死んだから地球に追放されたのです。現世にいる人間は皆犯罪者ばかりです。犯罪者というのは、自我意識を持って自分が一番偉いと考えている人間です。神のようになった人間ばかりで、この人間は神から見たら死んだ人間です。

 死んだ人間は神と一緒にいることができない。そこで現世という犯罪者ばかりいる地球へ放り込まれたのです。

 現世にいる人間をパウロは「死人を生かし」と言っています。(ローマ人への手紙4・17)。これを英訳ではwho giveth life to the deadになっています。the deadは死んだ人、死人、死体です。死人にlifeという生活を与えているのです。

 実体的に死んでいる。善悪を知る木の実を食べて死んでしまったのですから死んでいるのですが、死人に生活を与えているのです。オリンピックも、万博も死人の祭典です。死人が集まって騒いでいるだけです。ユダヤ人が豪華絢爛たる文明を展開して、人権、人権と威張っていますが、死人の集まりにすぎないのです。全世界の人間が皆死んでいるのです。

 やがて文明が崩壊します。これは信じるも信じないもない。死人が造っている文明は崩壊するに決まっているのです。この世に住んでいたらこの世と共に必ず滅びます。だからこの世を脱出して神の国に入れとイエスが言っているのです。

 この世に生きていたらだめです。自分の精神状態を切り替えたらいいのです。

 だいたい人間のリビングという不思議なことがある道理がないのです。これは一体何か。時間、空間とは何かです。

 時間、空間はそのまま神の御名です。時間、空間の本質は「ありてある」ということです。ところが科学は時間があることの証明ができません。空間があるということの説明もできないのです。

 科学は時間、空間があることを前提にしているのです。科学では時間、空間の本質の説明ができませんが、これが神です。科学で説明できないことが神です。

 科学を勉強している人が科学の基礎が分からない。もしそれが神であるとしたら、神を信じなければならないのです。

 「ある」ということの説明ができないのです。「ある」ということが神であるとすれば、それを信じるしかないのです。

 法律も政治も全く気がつかない点、法律以上の原点、現在の人間の生命以上の原点、現在の人間の学問以上の原点を掴まえなければならないのです。そうするとユダヤ人が降参するのです。

 ユダヤ人は学問を製造しているのです。学問という意識、法律、政治意識を製造しているのです。このユダヤ人を指導しているのが悪魔です。悪魔が造っている意識を踏みつけるのです。これができなければ救いはないのです。

 人間が肉体を持っているという感覚で見れば、人間の体重はあるのです。地球存在で見れば体重はありません。その証拠に地球の回りを回っている宇宙ステーションの中の人間は皆浮いているのです。もし固有の体重があればふわふわ浮いているのはなぜでしょうか。

 学問では人間の体重はあると見ているのです。時間、空間はあると考えているのです。しかし時間、空間はありません。地球存在を存在として見れば、人間が生きているという事実はない。地球が存在するという事実だけがあるのです。これが神の国です。

 人間が肉体的に存在することを確認すれば学問になるのです。学理と学問は違います。聖書の勉強は学理に属することになるのです。神の御名は人間の側から見れば学理になるのです。神の側から見れば信仰になるのです。

 アダムは自分から取られた女を見て、一時的に目を覚ましたのですが、またすぐに眠ってしまったのです。もし本当に目を覚ましたのなら、善悪を知る木の実を食べるはずがないのです。

 思春期に女の人が天使のように見えるのは、骨の骨を見ているのです。性欲の対象として見ている場合は、肉の肉を見ているのです。。眠っている人間には女が肉の肉に見えるのです。

 本当は肉の肉はありません。肉の肉があると考えたのはユダヤ思想です。今のユダヤ人は学問で騙されているのです。人間が造った思想で騙されているのです。これが肉の思いです。

 肉の思いというのは、自分自身の欠陥で自分自身が騙されることです。自分自身の欠陥を知っているのです。知っていながらそれに騙されるのです。これがユダヤ人です。知っていながらこれに勝つことができないのです。

 人間は肉の思いで死んでいくというはっきりとした論理は知りませんが、聖書を勉強すれば分かります。これを勉強してもその思いをやめることができません。常識を信じていれば必ず死んでしまうことを学んでも、それをやめることができないのです。神の国へ入ったらそれがやめられるのです。しかし常識を持っていたら神の国へ入ることができない。ここが難しいのです。マグニファイ(magnify)していないからできないのです。マグニファイするということは御霊を崇めることです。受けた御霊を拡大していないからいけないのです。

 神の国に入るのです。水からと霊から生まれて神の国に入るのです。水から生まれるとは神の名によって洗礼を受けることです。そうすると肉体が消えてしまうのです。霊から生まれるというのは、自分の命が消えて、大自然の死なない命に同化されてしまうのです。そうしたら神の国に入れるのです。

 神の国に入らなかったら、本当の信仰の意味が分かりません。信仰の有り難さ、嬉しさ、楽しさが分かりません。だから信仰していることが掟のようなことになってしまうのです。余裕綽々とした信仰にならない。これではつまらないのです。

 私たち今、人類を代表して神の前に立たされているのです。人類を代表しているという責任感をはっきり持つべきです。

 私たちが祈っているのは、人類を代表して祈っているのです。皆様が人類を代表していないのなら、ユダヤ人のために祈る資格はありません。神はそれを許しているのですから、その自覚を持って頂きたいのです。もっと積極的に自分が導かれている信仰を高く見て頂きたいのです。その値打ちを知るべきです。

 リビング(生かされていること)が救いです。これは眠っている状態では分かりませんが、目を覚ますと、肉は肉として、霊は霊として見ることができるのです。

 リビングとは生かされていることだということは分かりますが、その状態になってしまうことができないのです。

 パウロは言っています。

 「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである」(ローマ人への手紙8・5)。

 肉に従っている者は肉のことを思っているのです。生かされているのは自分が生きているのではない。神に生かされていることを知っているのです。知ってはいるけれど自分は肉に従っているのです。自分の思いが肉に従っているのです。

 肉に従っていなければ思うことができないと思っているのです。そこでイエスが主であると信じるのです。イエスが主であることが主体になれば、自分が主でないことが分かるのです。分からない部分の責任まで持たなければならないと考えなくてもいいのです。

 イエスが主であるのですから、自分で何かをしようという気持ちを持つ必要がないのです。

 聖書に次のようにあります。

 「あなた方は知らないのか。自分の体は神から受けて自分のうちに宿っている聖書の宮であって、あなた方はもはや自分自身のものではないのである。

 あなた方は代価を払って買い取られたのだ。それだから自分の体をもって、神の栄光を現わしなさい」(コリント人への第一の手紙6・19、20)。

 生きていることが神の栄光ですから、生きているという事がらを通して神の栄光を見ればいいのです。自分が認めてもらおうという気持ちがあるからいけないのです。だから認めてもらえないのです。認めてもらおうという気持ちを捨ててしまうのです。

 自分は神に買い取られたのですから、神の栄光を崇めることが、自分ができる唯一のことなのだということを決めてしまうのです。

 子供みたいに素朴になればいい。素朴さが足らないからいけないのです。

 自分が生きていると思っている。自分の考え方を頭に置いてこれが分かった、これが分からないと考えている。こういうことが神の贖いを信じていないことになるのです。神の栄光を見ればいいのです。霊的にも肉的にも、神の栄光を見ればいいのです。この点が分からないとか、あの点が分からないとか、いちいち言わなくてもいいのです。ただ神の栄光を見ればいいのです。

 人間は勝手に躓いているのです。自分の悪さに自分で躓いているのです。自分にいくら悪い所があっても構わないのです。イエスが主であるから、自分にはいくら悪い所があっても構わないのです。

 自分の思いに勝てないと、自分で勝手に思っているからいけないのです。八割分かっているが、二割分からないから自分がだめだと思わなくなくてもいいのです。肉の自分、現世の自分にはできる部分とできない部分とがあるのです。イエスにもあったに違いない。しかしイエスはそのことを問題にしていなかったのです。

 例えば今、目の前に花が咲いているとします。今日の日付を五月一日としますと、人々は五月一日に咲いていると思っています。

 ところがそうではない。皆様が生まれる前の状態で咲いているのです。前世の状態で咲いているのです。見ている皆様の視覚神経も、生まれる前の視覚神経です。咲いている花も生まれる前の花ですし、見ている自分の目の働きも生まれる前の働きです。見ているという意識だけがあるのです。

 見ている感覚は生まれる前です。感覚と意識とは違うのです。見ている感覚は生まれる前、それを意識しているのは今です。

 視覚神経が働くと視覚意識ができるのです。視覚は生まれる前の五官です。それを意識しているのが現実です。私たちが現実にいるという時間と、生まれる前の無限の時間を、今ここで同時に経験しているのです。

 地球ができる前の時間を、聖書は神の国と言っています。私たちは神の国を現実に見ているのです。

 私たちは生まれる前の神の国を、花として見ているのです。目の働きは神の国の機能です。見られている花も、見ている感覚、機能も神の国です。だからそこへ入ってしまえと言うのです。水と霊とから新しく生まれて神の国へ入れとはそれを言うのです。

 視覚神経の働きが生まれる前の働きです。この働きがあるから目が見えるのです。花が咲いているのは、地球ができる前のエネルギーで咲いているのです。地球ができる前のエネルギーを、地球ができる前の視覚神経で見ているのです。これが神の国です。

 この中に入ってしまうと、現実に生きている人間は嘘であって、花を見ている自分が死なない命の現状です。これがとこしえの命です。

 だいたい地球ができる前の何かの原因がなければ、現実の地球があるはずがないのです。地球のファウンデーションがなければ、今の地球があるはずがないのです。

 地球ができる前のファウンデーションが地球になっているのです。地球があるのではなくて、ファウンデーションが地球として現われているのです。見ているのはファウンデーションを見ているのです。地球を見ているのではないのです。

 目はファウンデーションを見ているのです。ところが私たちは現実を見ていると思っているのです。現実の花を見ていると思っているのです。この意識を肉の意識というのです。

 肉に従う者は肉のことを思うとは、それを言っているのです。肉に従うとは、現実に生きている自分の記憶に従うことを言っているのです。

 霊に従う者は霊のことを思うというのは、生まれる前の感覚に従うと言っているのです。

 感覚は生まれる前です。意識は現実です。五官は生まれる前の感覚です。赤ちゃんは生まれる前の感覚でお母さんのおっぱいを飲んでいるのです。

 意識は現実です。意識に従う者は肉、感覚に従う者は霊です。肉は肉、霊は霊です。肉を認める必要はない。現実は真実ではないからです。

 こういうことはなるべく人に教えてもらうのではなくて、神の御霊の教えによって難関を突破してほしいのです。

 現実は肉です。真実は霊です。花が咲いているのは真実です。ところが花を見ているのは現実です。現実は肉ですが、現実の肉がなければ、真実の花を見ることはできないのです。その意味で現実は必要ですけれど、現実は真実ではないのです。

 花が咲いている世界は生まれる前の世界です。この中に入るのです。水からと霊から新しく生まれて神の国へ入れというのはイエスの命令ですが、神の国へ入る人はめったにいないのです。

 現世に生きていることが嘘です。嘘を真実だと思っているから死んでしまうのです。現実の意識で生きることが間違っているのです。

 現実と真実とは違います。現実は肉ですが、現実の中に真実があるのです。

 肉体的に生きていることの中に、霊的に生きていることがあるに決まっています。このことを女の人は知っているのです。女の人は死んでいないからです。男は死んでいるから分からないのです。

 般若心経は、五蘊皆空、色即是空、般若波羅蜜多と言っています。ギャテイー、ギャテイー、ハラギャテイー、彼岸へ行け、頑張って行け、一生懸命に行けと言っていますが、具体的にどうしたら行けるかを書いていません。

 聖書には書いています。イエスが神の国(彼岸)に生きていて、そこへ行く方法を教えているのです。イエスに従えば誰でも神の国に行くことができるのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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