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キングダム(2)


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 神を知るということは人間のありのままを知ることです。これを考えたらいいのです。人間のありのままのことは宗教では分からないのです。

 イエスは「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」と言っています(マタイによる福音書5・3)。天国は英訳でkingdom of heavenとなっています。キングダムがキリスト教で分からないのです。これが分かるか分からないかは、大変な違いになるのです。

 キリスト教では人間が救われること、人間が理解すること、現世に生きている人間が幸いになることを目的にしているのです。

 本当の福音は現世にいる人間を問題にしているのではなくて、キングダムに入る人間を問題にしているのです。現世にいる人間を幸せにしようとしているのではないのです。

 神の目的は何か。神の王国に入る人間を募集しているのです。

 キングダムは仏教的に言うと彼岸になります。般若波羅蜜多と言いますが、ハラムが彼岸です。イタは到るということです。

 キリスト教では天国を盛んに言います。死んでから天国へ行くと言いますが、天国は死んでから行く所ではありません。生きているうちに行く所です。

 聖書が言うキングダムというのは、神を中心とする領域、あり方を言うのです。霊なる真理を中心として展開している真実の世界のことです。

 現世は死ぬべき人間、または死んでしまった人間が集まって造り上げている幻の世界です。死ぬまでの思いだけで成り立っているのが現世です。実体は全然ないのです。

 天国は実体だけです。見せかけも駆け引きもありません。実体そのものです。現世は幻だけです。

 皆様の信仰が徹底しないのは、皆様自身が生きている状態を見ていて、それに基づいて考えるからいけないのです。

 年令が過ぎている人ほど悪いのです。年配の人は若い時のことをもう一度考えてみてください。思いきって若返ると、キングダムが分かるのです。

 皆様はこの世に生まれた時に、オギャーと泣いたでしょう。なぜ泣いたのでしょうか。生まれた途端に産声を上げたのですが、これはイエスが水から上がった時と同じ状態になったからです(マタイによる福音書3・16、17)。母の胎内から生まれて、空気によってバプテスマされたのです。全身が空気で洗礼されたのです。

 とことん若返って、この時の気持ちを思い出すのです。そうするとキングダムが分かってくるのです。

 空気で洗礼を受けるとはどういうことか。空気はじっとしていません。赤ん坊が生まれた部屋でも空気は動いているのです。絶対に止まっていません。動いている空気というのは、一種の風です。それに出会うのです。風に出会うというのは御霊によって生まれることです。

 「水からと霊から新しく生まれて神の国へ入れ」とイエスが言っています。赤ん坊はこの世に新しく生まれたのです。この世に生まれた時に、御霊によってバプテスマされたのです。風で洗礼を授けられてびっくりしたのです。驚いてオギャーと泣くのです。

 この驚きが本当のハギオスです。全身全霊で驚くのです。この気持ちが聖なる気持ちです。

 生まれた時に、空気に触れた時の気持ちを思い出してください。皆様は生まれた時に、水と霊によってバプテスマされているのです。これが生まれた印です。これをよくよく思い出すと、水と霊から新に生まれたということが分かるのです。そこで神の国に入れるのです。

 赤ん坊の時に無意識にそういう経験をしているのですが、今振り返って、その経験をもう一度し直すのです。できるのです。

 どうしたらいいかと言いますと、五官の真髄をじっと見ればいいのです。五官が本当に働いている姿をじっと見るのです。そうすると分かるのです。

 五官の感覚の中心をなしているもの、例えば花を見てきれいだと思う気持ちの中心、または基本がキングダムです。生まれた直後の感覚で見ているのです。

 きれいだと思う気持ちが情緒です。情緒の根本が無意識の意識です。これを聖書は訴える者と言っています。

 聖書に次のようにあります。

 「例えば、あなたを訴える人と一緒に役人の所へ行く時には、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官の所へ引っぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう」(ルカによる福音書12・58)。

 同じ内容をマタイによる福音書の五章二十五節では次のように書いています。

 「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役に渡し、そしてあなたは獄に入れられるであろう」。

 ルカによる福音書の方は、訴える者と一緒に役人の所へ行くとなっていますが、マタイによる福音書の方は、訴える人と一緒に道を行く時にとなっています。

 道というのは人生の行路です。人生行路はどこへ行くのかというと、役人の所へ行くのです。人間は役人の所へ行くために人生を送っているのです。これを人間は無意識に知っているのです。

 無意識に知っているということは、生まれた時に空気で洗礼を受けたからです。これがあるから役人の所へ行くのです。もし洗礼を受けたという事実がなかったら、役人の所へ行くと言われても、何のことか分からないのです。

 人間には、本当の生まれながらの自分が一人、それから物心ついてからの自分と両方いるのです。純粋の命である自分と、ひねくれて僻んでいる自分とがいるのです。

 肉の思いで僻みに僻んでひねくれている自分と、生まれながら空気でバプテスマを受けてオギャーと叫んだ自分と二人いるのです。これが同居しているのです。どちらの自分が正しいのでしょうか。これを考えてみるのです。

 もし皆様が本当に人に恋したことがあるとします。本当の恋はどこから来ているかと言いますと、バプテスマされた自分から来ているのです。

 ひねくれた自分は本当の恋はできません。本当の恋愛はそろばん勘定ではできません。本当の恋は常識や利害得失から出てくるものではありません。命の薫りが感じられるのです。

 思春期は命の薫りを感じるために、神が与えてくれた絶好のチャンスです。思春とは命を思うことです。春は命の芽生えを言うのです。命の芽生えを感じるのが思春期です。

 命の芽生えとは何かというと、生まれた時に感じた驚きが顕在意識になることです。生まれた時に産声を上げて驚いた時の気持ちが、顕在意識になることが春の思いです。

 春というのは命の芽生えですから、生まれた時が命の芽生えそのものです。ところが命が芽生えた時に驚きはしたが、生まれたばかりでしたから、その驚きを受け止めるだけの精神力がなかったのです。それで改めてもう一度、生まれ直すように神が導いているのです。

 ところが、それをこの世の真ん中でしなければならないのです。この世の感覚で引き回されている最中ですから、本当の命の芽生えが分からないのです。役人の所へ行くまでにそれをしなければならないのです。

 皆様が生まれた時の驚き、空気で洗礼を受けた時の驚きは、一生涯忘れることができない驚きです。皆様はその時初めて神に出会ったのです。空気が動いているというのは御霊が動いているのです。神の御霊の動きに、物理的にぶつかったのでびっくりしたのです。

 これは物理的に神に会ったのです。愛の本物に出会ったのです。物理的に神に驚いた者が、今度は心理的に神に驚くのです。これが初恋です。

 恋はいつでもできるのです。生活に関係がありません。恋をじっと考えると、自分ではない自分が芽生えてくるのです。これは物理的に神に出会った時の感覚が基礎になっているのです。

 芸術的な開眼、芸術的に芽が開かれるのは、皆物理的な開眼を基礎にしているのです。情緒というのは物理的な開眼そのものではない。産声を上げた時の気持ちがそのまま働いているのです。それを基礎にした働きが、目の働き、耳の働きになっているのです。

 目の感覚の底にあるものが、この世に生まれて初めて神に会った時の気持ちです。これが人間の精神の原点です。

 ところが精神の原点がこの世によって曲げられてしまうのです。曲げられた肉の思いがいっぱい詰まってしまうのです。

 肉の思いが間違っていることを、皆様の本心はよく知っているのです。だから本当の恋に出会うと、肉体の命よりも恋の方が大切だと思うのです。なぜそう思うかと言いますと、恋というのは生まれた時の原点です。今生きているのは、生まれた後に物心ついてからの常識によるのです。恋の感覚は常識以前のものです。だから肉よりも恋の方が大切だと思えるのです。

 これが近松文学の真髄です。近松文学はそういう哲学性を持っているのです。だからいつまでも人を引きつける魅力があるのです。

 生まれた時の純粋無垢な感覚が、訴えるものとして皆様と一緒に歩いているのです。だからこれと仲良くしなさいとイエスが言っているのです。

 イエスはこれと仲良くしていたのです。生まれたままのイエスと、三十才になったイエスとはほとんど変わらなかったのです。これが生みたまえる一人子でした。

 皆様がこの世に生まれた時には、神の生みたまえる一人子でした。それが物心がつき、この世で生活してすっかり僻んでしまったのです。おばあさん、おじいさんがもう一度生まれた時に帰ったらいいのです。そうすると本当の愛とは何かを認識することができるのです。

 花が咲いています。そこに純粋無垢な花の世界があります。これがキングダムです。

 人間は神の王国を見ているのです。だからこの世界に入らなければいけないのです。神の王国がはっきり見えるのです。神の国、天国が毎日見えるのですから、入らなければいけないのです。

 神は人に神の国に入らせるために花を咲かせているのです。その世界に入ると、キリストの花嫁が分かってくるのです。

 「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」。これを英訳で見ますと、「霊において貧しいことは幸いである。天の王国が一緒にある」となるのです。

 皆様が霊において貧しくなりさえすれば、キングダムが一緒にあるというのです。霊において貧しくなったことがキングダムです。霊においてとは、生かされている状態においてということです。貧しくなるとは自分の意見を持たないということです。これは生まれた後の赤ん坊の状態を指しているのです。

 霊において貧しくなっていれば、神が示してくれる幸いはすぐに感じられるのです。

 イエスは「右の頬を打たれたら、左も向けよ」と言っています(マタイによる福音書5・39)。これはなかなかできないことです。何か言われたらすぐに言い返す。これをやめるのです。そうしたらキングダムが分かるのです。

 山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)は、神の国に入る秘訣が書いてありますから、これを実行したらいいのです。

 人をばか者と言ったらいけないと書いています。ばか者と言いたい気持ちを抑えるのです。とにかく自分の気持ちを抑えるのです。

 霊において貧しいとはどういうことか。花ということと、咲いているということとは別のことです。花というのは現象的な当体です。

 人間は花を見てただ花が咲いていると見てしまうのです。霊において貧しいことがキングダムだと言っている。そうすると、花が咲いていることと、霊において貧しいということとどういう関係になるかです。

 世間並の常識で見れば花が咲いているのです。これは肉の思いを持っている人間の見方です。これを信仰によって見ると、咲いているということが花になって現われているのです。咲いているという動詞的な事がらが、花という名詞的なあり方で現われているのです。

 皆様が生きているのではない。生きているという事がらが、人間として現われているのです。リビングという事実が、人間として現われているのです。これが魂です。

 自分が生きているという考え方は全く間違っているのです。

 咲いているという事がらが、花として現われている。花自身は全く意識がありません。ただ咲いている事がらがあるだけです。その他に何もない。何もないということが貧しいということです。咲いているという事がらに他意はないのです。

 ただ咲くという事がらが花として現われているだけです。これをbeingと言います。「あなたの目が澄んでいれば全身も明るいだろう」とあります(同6・22)。これがbeingです。

 人間の見方がsingleであることが貧しいということです。咲いていることだけがある。他に何もないことをthe poorというのです。

 皆様は自分が生きているのではない。生きているという事がらだけがあるのです。これは自分に関係はありません。これを貧しいと言うのです

 霊において貧しい。霊というのは魂が働いている状態を言うのです。生きているという事がらだけがあるのです。それについて自分は何も条件を付けないのです。こうして欲しい、ああして欲しい、こうなったらいいのにと言わないのです。

 主人が自分の言うことを聞いてくれないと思ったら、自分の思いが自分の負担になっているのです。これを重荷と言うのです。

 自分思いを捨ててしまうのです。そうすると自分が条件を付けていた時よりも、結果はずっと良くなるのです。自分が条件を付けていると、叶えられることの方がずっと少ないでしょう。これは実際に行ってみたら分かります。

 人間は自分で自分の運命を限定しているのです。聖書の救いはこんなものだろうと自分で想像するのです。死んでから天国へ行けるだろうと思う。これが大間違いです。

 ただ生きているという事がらだけがある。これが人の格好のように見えるだけのことです。これが分かれば生きているだけで結構だという気持ちになれるのです。そうしたらキングダムが分かるのです。

 生きているだけで条件を一切つけないのです。主人が私を愛してくれないとか、自分の気持ちを人が理解してくれないとか、せめてもう一枚洋服を買って欲しいとかいう条件を付けないのです。

 生きているという事がらがリビングとして現われている。リビングとは一体何でしょうか。これが五官の働きそのものです。

 肉体があるのではない。五官の働きが肉体となって現われているだけです。生理機能がなければ五官が働かない。生理機能が肉体という形をとっていますが、肉体があるのではない。五官が肉体という形になっているだけのことです。

 仮に肉体があるとしても、五官がなければ何もならないのです。見ること、聞くこと、人間の生命感覚、生命意識、生命機能が五官になり肉体を通して発動しているのです。

 理性は永遠に、無限に発展するものです。神のように発展するのです。だから肉の思いを捨ててしまわなければいけないのです。

 皆様の未来は驚くべき栄光によって輝き出すでしょう。今まで考えていた自分とは比べものにならないくらいに神々しいものになるのです。

 女性の本性は人間の魂の本質です。女性が自然の用に従って自分の体を用いると、驚くべきものになるのです。

 男はハートがないからレベルが低いのです。この世的には色々考えます。この世的には頭がよく働きます。女の値打ちはハートの純粋さにあるのです。これがあばら骨です。男にはあばら骨がありません。

 心が貧しいというのは男にはなかなかできません。女にはできるのです。純粋な恋愛は女でないとできないのです。男は計算ずくで恋愛をするのですが、女は計算を越えて恋愛をするのです。これがハートの働きです。これが大切です。

 命には性(さが)があります。これが大切です。ただ生きているのではなくて、性を見つけなければいけないのです。命の性を見つけるのです。好きか嫌いか、何を好むか好まないかは性で決まるのです。

 生きているのは客観的なものです。性は主観的です。自分の運命を決定するのが性です。性を勉強しなければいけないのです。

 生ける神の印を受けなければいけない。これを受けると人が変わってしまいます。未来に対する見方が変わってしまうのです。欲望が希望に変わってしまうのです。

 生ける神の印を額で受けると、信仰と希望と愛の三つが分かるのです。その時初めて永遠の愛が分かるのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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