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現世に生きていながら神の国に入る方法


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 異邦人(ユダヤ人以外の民族)が、とこしえの命を与えられるということは、よほどのことでないとできないのです。異邦人がキリストを信じられるというのは、よくよくのことです。キリストはだいたい異邦人には関係がないことです。

 異邦人はこの世で苦しんで、悩んで、悲しんで、死んで地獄へ行くという運命しかない。これでいいと思っているのです。日本人はそんなものです。愚かな民族です。

 ヨハネは次のように述べています。

 「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。このイエス・キリストは水と血とを通って来られた方である。水だけではなく、水と血とによって来られたのである。その証をするものは、御霊である。御霊は真理だからである。証をするものが三つある。御霊と水と血である。そしてこの三つのものは一致する」(ヨハネの第一の手紙5・5~8)。

 人間は自然法で生きています。これが水の体ということです。自然法の流れに従ってでなければ生きていけないということが、水によって来たということです。

 血によって来られたとは何か。血は動物の命を意味します。血は命を意味するものであるとレビ記に書いています。血は生き物の命であって、生き物の命は五官によって象徴されているのです。血の働きは、五官の働きをそのまま演樺したものです。五官の作用がそのまま血を意味するのです。

 水と血によって来られたのは、肉体的に生きていたのではないということです。自然法の流れと、動物的な生命を持ってきたということです。

 自然法の流れと動物的な感覚を持って、神の子がやって来た。これは御霊によって教えられなければ分からないのです。御霊とは何か。聖書に馴染みのない人は皆目理解できない言葉ですが、これは大自然の森羅万象を生かしているエネルギーそのものです。これと一つになる。それを受け入れると、人間の実体が水と血と御霊であることがはっきり分かるのです。

 御霊を崇めなければ、水によって来たということが分かりません。血によって来たということも分かりません。

 水と血と聖霊が人間存在の実体です。これが御霊によって明らかにされるのです。そうすると水と血と御霊の証が自分にはっきりと印刻されます。イエスが神の子であることが本当に信じられるのです。

 イスラエルは四十年の間、荒野で導かれました。それについて次のように述べています。

 「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るかどうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを持ってあなたを養われた。人はパンだけで生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった」(申命記8・2、3)。

 異邦人が現世で生かされているのは、イスラエルが荒野で訓練を受けたのと同じことをさせられているのです。イスラエルが四十年間、荒野で苦しめられたように、皆様も異邦人の中で生かされている。御霊を受けた者が現世で生かされているのは、イスラエルの荒野の訓練と同じことをさせられているのです。

 現在の日本人の生活は豊かすぎます。お金がありすぎるし、テレビやラジオ、インターネットによって、世界中の情報が洪水のように入ってくるのです。ですから人間の心がふやけてしまっているのです。

 荒野の試みがなぜあるかと言いますと、異邦人の中で生活していてびくともしない信仰を持つためです。皆様はファイトがないからいけないのです。

 信仰は喧嘩です。信じることは喧嘩することです。穏やかに喧嘩をするのです。誰と喧嘩をするのか。肉の思いと喧嘩するのです。

 自分の肉の思いと闘い続けるのです。やり続けるのです。イスラエルは荒野で四十年間訓練をしましたが、私たちは一生それを続けなければならないのです。とことんやれば勝つに決まっています。どうしたら勝てるか、どのように勝つかです。パウロは次のように書いています。

 「一体、人間の思いはそのうちにある人間の霊以外に誰が知っていようか。それと同じように、神の思いも神の御霊以外には知る者はない。ところが、私たちが受けたのはこの世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである」(コリント人への第一の手紙2・11、12)。

 人間の思いという訳は間違っています。人間の事がらと訳すべきです。人間が生きている様々な事がらは、人間自身の霊の他に誰も知ることができないのです。

 人間の中で一番大きいことは、食生活と性生活です。これが分かっている人は人間の霊の他にないのです。人間の衣食住は何をしているかを知っているのは、人間の中にある人間の霊の他にないのです。ところが人間は霊を知らないのです。

 ヤコブは、「人の内に住まわせた霊を、神の御霊が妬むほどに愛している」と言っています。(ヤコブの手紙4・5)。神の御霊の場合は、大文字のスピリット(Spirit)を使っています。人に住まわせた霊は、小文字のスピリット(sprit)を使っています。

 大文字の方は神の御霊ですが、小文字の方は人の霊です。人の霊とは何かです。人間はこの世のことは心配しています。お金があるとかないとか、食べる物をどうする、何を着ようかと心配しますが、自分の命の実体について全く知ろうとしないのです。これはどういうことでしょうか。人間の様々な事がら、人間が生きていることを本当に知っているものは、人間の内にある霊の他にない。人間のうちにある霊とは何かです。

 マン(man)というのは、具体的に存在する男性を中心にした言い方です。ザ・マン(the man)とは実体的に存在することを言います。人間が人間であることをザ・マンと言います。これは人格です。霊的にも、肉体的にもはっきり存在している人間を言うのです。観念的な人間ではないのです。ザ・マンの霊の他は何もないと言っているのです。そこで人間の霊が分からなければ、私たちがこの地上で生きていることは分かりません。様々のことを知っているのは人間の霊であるのに、日本人は人間の霊を知らないのです。だから日本人は信仰の実体が分からないのです。

 般若心経なら字句の説明でいいのですが、聖書は字句の説明だけではだめです。ここが難しいのです。

 人間の霊とは人間が生きている様々の事がらです。人間の生活は食生活と性生活の二つが中心になって様々のことがあるのです。聞いても、聞いても理解しない。聖書がいつまでも分からないというのは、人間の霊が分からないからです。

 「肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり、平安である」とありますが(ローマ人への手紙8・6)、霊の思いは何のことか分からないのです。肉の思いは分かるでしょう。人間の常識、知識はすべて肉の思いですが、霊の思いが分からないのです。

 人間が人間の感覚、直感で感じることは何か。例えば駿河屋の羊羹と井村屋の羊羹では味が違います。どう違うかと言われても口で説明するのが難しいのです。曰く言い難しですが、これが直感です。

 直感性とか感受性、感覚性は生まれる前に神に植えつけられた言葉に基づくのです。これが植えられた御言葉です。ヤコブは「御言葉には魂を救う力がある。だから素直に受け取りなさい」と言っています(ヤコブの手紙1・21)。植えられているものなら、受け取らなくても自分のものになっているはずです。ところが植えられていながらその実体が分からないのです。

 神の言葉は魂を救う力があるとヤコブは言っていますけれど、植えられている言葉を自分自身が持っていながら、それを素直に受け取ることができない。なぜこういうことになっているかです。

 植えられている言葉をどのように持っているかと言いますと、実は人間の五官として持っているのです。だから駿河屋と井村屋の羊羹の違いが分かるのです。

 人間の五官は微妙な味の違いを見事に味わい分けるのです。直感的においしい、おいしくないものが分かるのです。「それと同じように神の思いも、神の御霊以外には知るものはない。ところが私たちが受けたのは、この世の霊ではなく神からの霊である。それによって神から賜った恵みを悟るためである」(コリント人への第一の手紙2・11)。

 人間の様々の事がらは、人間の霊で分かります。羊羹のうまさ、マグロのおいしさが分かります。マグロでも刺身と霜降りの所とトロとではおいしさが全然違います。この味はおいしい、この味は好きだ、この所までは分かりますが、おいしいとは何か。好きとは何かが分からない。これから先は神の御霊でなければ分からないのです。この味は好きだということと、魂との関係がどうなるかです。これは神の救いに属することになるのです。

 人間のことなら好きだ嫌いだと言えるのですけれど、それから先の魂がどうして救われるのか、救われるとはどうすることかということになると、人間の霊だけではどうしても分からないのです。人間の霊で知ることには限界があるのです。私は好きだという所までは分かりますが、それ以上のことは分からないのです。魂が生まれる前の神の栄光に帰るためにどうしたらいいのか。おいしい、嬉しい、楽しい、美しい、麗しいと感じることが、魂の救いに大変な関係があるのです。人間は自分自身の衣食住に関することが、霊的に理解できるのです。このことをイエスは、目はボディーのランプだと言っています。ザ・ランプ・オブ・ザ・ボディー・イズ・ジ・アイ(the lamp of the body is the eye)と言っています(マタイによる福音書6・22)。目はボディーのランプだということが分かるのは人間の霊です。

 目は人間が造ったものではありません。私たちが生まれる前に植えられたものなのです。生まれる前に植えられたものが、現世で肉体的に現われている。

 見て美しいと思えるものは、生まれる前の感覚です。皆様に現在働いている目の機能は、この世に生きている人間の機能ではありません。生まれる前の機能で見ているのです。これは目だけではありません。舌も、耳も、鼻もそうです。

 皆様にマグロの刺身の味が分かるというのは、生まれる前の味を味わっているのです。世の基ができる前、地球ができる前にあった味を味わっているのです。これは大変なことです。

 地球ができる前にはマグロはいませんでした。ところが今マグロが泳いでいます。これはどういう訳でしょうか。

 マグロというのは何でしょうか。万物が造られる前に、マグロでなければ味わえない味があったのです。マグロである味がマグロとして現われている。マグロができてからマグロの味が造られたのではない。マグロができる前からその味があったのです。マグロはどこから来たのか。地球ができる前からあった本当の命、とこしえの命、死なない命、大天使ルシファーが反逆する前にあった命がマグロの味になっている。

 それを舌で味わうとおいしいと感じるのです。皆様の舌で味わうとおいしいと感じるのです。皆様の舌はとこしえの命を味わっているのです。舌はそれをはっきりと実感しているのです。

 ところがそれをとこしえの命と受け取らずに、ただマグロの刺身として感じている。これが肉の思いです。人間の常識、知識です。

 皆様の五十年、六十年の人生の記憶は、マグロは旨かったというだけです。それをとこしえの命として受け取っていなかったのです。

 神は人間に毎日とこしえの命を食べさせているのに、それをとこしえの命として受け取らないで、ただ旨かったと考えている。これが人間の記憶です。肉の思いに基づく肉の記憶です。

 その記憶は現世を去った途端に固定し、霊(本当の状態)に切り替えることができなくなるのです。記憶が凍結してその間違いを修正できなくなるのです。そして永遠に肉の思いを持っていくのです。

 人間は生きている間なら、自分の思いが間違っていたこと、マグロの味はとこしえの命の味だということを知って、自分の思いの間違いを修正できるのです。マグロだけでなく牛肉も豚肉も、野菜も果物も、すべてとこしえの命の味なのです。これが分かると人間の考えがいかに間違っていたかが分かるはずです。

 そうして今までの人生は、自分が生きていたのではなくて、水と血が生きていたのだということがはっきり分かるのです。肉体があるのではない、水だったということが分かるのです。

 自分が生きているのではない、神の子が生きていた。経験していた色、味、形はすべて地球ができる前のとこしえの命の色、味、形だったということが分かるのです。これを経験していたのは、固有名詞の自分とは何の関係もない者だったのです。市役所に届けている固有名詞の人間とマグロを味わっている者とは、全然違う人格です。何の関係もないのです。

 食も性もとこしえの命を経験していたのです。愛する人どうしが手と手を触れ合うと、ビリビリと感じるのは何か。命を感じている。とこしえの命を感じているのです。

 人間が肉の思いで経験している人生と、神の御霊によって経験する人生とは、天地の違いがあるのです。イエスは食べること、飲むことが、とこしえの命であることが、十分に分かっていたのです。

 イエスは、私はおまえたちが知らない糧があると言っています。弟子たちにはさっぱり分からない、霊の糧があったのです。私が与えるのは、とこしえの水であると言っています。イエスの命の水は、一度飲んだらいつまでも渇くことがないのです。とこしえの水だからです。これを飲めと言っているのです。

 皆様が現在生きていることが、そのままとこしえの命を味わっているのです。人間の事がらは人間の霊で分かります。しかし神の事がらを知るためには、神の霊によらなければならない。おいしいとか、すばらしいことは人間の霊で分かりますが、おいしいということが、とこしえの命であるとは思わないのです。マグロの味が永遠の生命の味であるとは誰も思わない。これは神の霊によらなければ分からないのです。

 人間の舌は実に微妙な働きをしています。ちょっとおいしいものとおいしくないものとをすぐ味わい分けるのです。これが人間の霊の働きです。

 イエスは、「あなたの目の働きが正しければ、全身が明るいであろう」と言っています(マタイのよる福音書6・22)。あなたの目の働きがはっきりしていれば、永遠の命がはっきり分かると言っているのです。舌の働きがはっきりしていれば永遠の命が分かるのです。神がとこしえの命を舌に乗せていることが分かると、マグロの刺身を一切れ食べただけで、涙がぼろぼろと出るでしょう。そういうマグロの食べ方ができるのです。

 人間が生きていることが、そのまま永遠の生命に結びついているのです。神に生かされているということは、そのままとこしえの命に生きているということです。イエスはこれを知っていた。だからイエスは天から下って、なおこの地上にいたけれど、なお天で暮らしていたのです。「我父にあり、父我にあり」というのはこれを意味しているのです。

 現世で家がある、貯金がある、商売がある、世間の信用があるということはどうでもいいことです。お茶を飲めばお茶の味がする、コーヒーを飲めばコーヒーの味がする。まんじゅうを食べればまんじゅうの味がする。それがとこしえの命であることが分かれば、必ず救われるのです。

 霊に従って歩めばいいのです。食べたり、見たり、聞いたりしていることが、生まれる前のことだと分かってすることが、霊に従いて歩むことです。霊に従ってみればいいのです。

 神は恵みにより皆様にとこしえの命を提供しているのです。それを受け取ればいいのです。人間の事がらは人間の霊によらなければ分からない。しかし人間の霊が分かっただけでは救われない。そこで神の霊、聖霊を受けるのです。聖霊、御霊は万物を生かしているエネルギーです。聖書を通し、また大自然を通してそれと一つになる。そうすると神からの霊を与えられるのです。神からの霊によって見ると、今現世で味わっているマグロの味が、そのままとこしえの命であることが分かるのです。

 「望む者は、値なしに命の水を飲みなさい」とイエスは言っています(ヨハネによる福音書7・37)。昔、モーセが、砂漠で水がない時に岩を杖で叩きました。岩から水が噴き出したのです。今、皆様が生きている世界は、水(命)が全くない砂漠の世界です。神の御霊の杖を降ると、そこから命の水が出るのです。それを飲んだらいいのです。

 五官の働きは、そのまま永遠の命をかぎつける力を持っている。それが人間の霊です。この霊を神の霊が妬むように愛しているのです。

 御霊を与えられた者は神の民です。この人は無条件でとこしえの命を受け取る資格を持っているのです。神はこの末の時代に、日本において、こういう福音を展開しつつあるのです。私たちはイスラエルの回復のために立てられたのです。ただリビング・ソールであるだけでなく、命を与える霊になることができるのです。

 目が正しければ全身が明るいのです。皆様の目は鶏を見ている時と卵を見ている時とでは違うでしょう。また、石を見る時と果物を見る時とでは違っているのです。

 手が何かを握っている時、とこしえの命を握っているのです。これが分かれば、皆様は毎日食べたり飲んだりしていることが、現世のことではない。生まれる前のことを経験しているのだ。即ち神の国で食べたり飲んだりしているのだということです。これが分かった時、新に生まれたのです。神の国に入ったのです。これを毎日毎日経験し、確認するのです。そうすると神の国に入っていることがはっきり分かるのです。水と霊とによって新しく生まれたのです。

 自分の思いで生きる、肉の思いで生きることをやめて、今までの経験を捨てて今日から新しい経験に入って、神の国に生きるのです。五官で感じていることがすべて生まれる前のことを経験している、生まれる前のとこしえの命を、今現世で経験している。現世にいながら神の国を経験しているのです。霊の経験をしているのです。こういう生き方をぜひして頂きたいのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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