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「生きていることは神の国と神の義を経験していること」


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 聖書の勉強というのは、普通の生活感覚、生活態度でしなければいけないのです。そうしなければ聖書の研究になっていないのです。普通の家庭生活が聖書の勉強になっているという勉強の仕方でなかったら、神の勉強になっていないのです。

 イエスがサマリアの女に水をもらった時に、ついでに伝道していますが、そういう伝道活動でいいのです。宗教活動のような格好をできるだけとらないことです。

 人々との対話という形式をできるだけとることです。生活が聖書化するのであって、聖書そのものを生活にしてしまうのです。

 ユダヤ人は人間の生活をやめて、宗教観念にしてしまったのです。仕事をしていることも、伝道していることも同じなのです。こういう気持ちでしなければいけないのです。

 人間が普通に生活していることが、神でなければいけないのです。社会生活、家庭生活をしていることが、神でなければいけないのです。これが聖書の信仰です。特別改まった生活をしなければならないということは、絶対にないのです。特別改まったのは偽善です。

 現代人は現実と真実との見分けがつかないのです。現実の都合が悪いと真実の方に持っていこうとするのです。これが間違っているのです。

 現実が本当の現実としての値打ちを持とうと思えば、現実を真実として見るのでなかったら、現実の価値はないのです。

 信仰は現実を真実として見るから神が分かるのです。だから宗教ではないと言えるのです。現実を真実として見ない。現実を現実として見ているから宗教という観念が起きるのです。これは間違っているのです。現実を真実として見れば、宗教は発生しないのです。こういう根本的な間違いがあるのです。

 現実問題を現実問題として考えてしまうと、真実として取り扱わないことになるのです。

 私たちは現実の神が真実の神だと言い切っているのです。これが宗教ではないという思想です。現実の神が真実の神です。

 現代の社会教育は現実を二つに分けてしまっているのです。こうなると神はなくなってしまうのです。人間の良心がなくなるのです。人間の良心が死んでしまうのです。

 イエスは言っています。

 「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな。これらのものは皆、異邦人が切に求めているものである。あなた方の天の父は、これらのものがことごとくあなた方に必要であることをご存知である

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6・31~34)。

 ここでイエスが普通の人間が生きている状態を指して、特別に聖書の勉強をしなさいとか、善事善行を実行しなさいとか、掟を行えとかいう条件を出していないのです。

 何を食べようと何を飲もうと思い煩うな。これに対して神の国と神の義を求めよと言っているのです。私たちが食べること、飲むことと、神の国とどういう関係があるかです。

 イエスは山上の垂訓で掟を説いた箇所は一箇所もないのです。イエスは心が貧しい者は幸いだと言って、神の国と神の義を求めよと言っているのです。

 何を食べようと、何を飲もうと思い煩うなということと、神の国とがどういう関係になるかです。実は人間が食べたり飲んだりしていることが神の国なのです。イエスはこれを逆に言っているのです。

 神の国と神の義を求めていない者に、神は神の国と神の義を与えているのです。食べたり飲んだりを求めていない者にも、食べ物と飲み物を与えているのです。食べ物を与えていることが神の国です。飲み物を与えていることが神の義です。

 なぜこうなるのかが、ユダヤ人にはどうしても分からないのです。食べ物と飲み物と、神の国と神の義という恐ろしい問題とを同じようにイエスは説いているのです。なぜ同じになるかです。これは非常に重大な意味があるのです。

 神が人間を養っていることが神の国と神の義です。だからご飯を食べていながら神の国と神の義を知らない者は、神を辱めているのです。自分がご飯を食べていること、水を飲んでいることが神の国と神の義を現わしているのです。

 このことに気づかずに勝手に食べているのは、神を辱めているのです。

 エホバの御名は皆様にご飯を食べさせる御名です。食べさせる御名です。なぜそうなるのかです。エホバの神は不思議なものです。人間がこの世に生きていることが不思議千万のものです。何のために生きているのか。

 現世に生きている人間をなぜ神が養っているのか。これを説いたら感謝感激するでしょう。日本の神はこれができないのです。日本の神観には、神が人間を食べさせいるという神観がないのです。

 皆様が生きているということの中に、神の言(ことば)の光があることが分かっていないのです。聖書を勉強していながら分からない。人間は神を軽んじているばかです。御霊を軽んじているばかです。これは困ったばかです。

 なぜイエスは神の国と神の義を求めよと言っているのか。ご飯を食べていることと神の国とがどういう関係にあるか。

 実は、肉体の食べ物があることが神の国です。肉体があることと、肉体の食べ物があることが神の国です。物質が存在しているのは何か。神の言が存在していることを神の国とイエスは言っているのです。

 私たちは命が与えられている。これをイエスは神の義と呼んでいるのです。物質がある状態を神の国と呼んでいるのです。命がある状態を神の義と呼んでいるのです。神の国と神の義を求めよと言っているのは、地球があることを指しているのです。

 地球があることが神の国です。人間が生きていることを神の義と呼んでいるのです。この二つのことを突き止めなさいと言っているのです。

 地球が存在することと、人間が肉体的に存在することとは、同質の事がらです。これを神の国と言っているのです。地球が生きていることと、人間が生きていることは同質のことです。

 物があることと、命があることとは次元的に違うのです。物があることが神の国、命があることは神の義です。これが、聖書が開かれる原点になっているのです。聖書を読破する根本原理がそうなっているのです。

 肉体的に人間が存在するということは、神の国におらしめられているのです。精神的に考えられるということは神の義を与えられていることです。

 求めよというのは今までのキリスト教では全然間違っていたのです。英語でシーク(seek)という言葉を使っています。これは捜すという意味です。非常に鋭い積極的な捜し方を意味するのです。

 シークというのは分かりやすく言いますと、手で草を分けて熱心に捜すような態度を意味するのです。とことんまで原理を究明するような熱心さを意味するのです。

 探偵のことをシーカーと言います。探すのは、なければならないことを知っているから探すのです。犯人がいることが決まっているから捜すのです。犯人がいるかどうか分からないということではないのです。犯人を見つけなければならないし、捜せば犯人が見つかるに違いないと思うから捜すのです。

 人間が捜さなければならないように、神が仕向けているのです。何を食べ、何を飲もうかということを通して、人間が求めなければならないように神が仕向けているのです。

 何を食べ何を飲むのかということは、人間が求めなければならないことです。聖書の真理、とこしえの命を求めなければならないことです。

 人間が生きているという不思議なこと、奇妙なことを私たちは経験しているのです。人間が生きているという全く奇妙なことを経験しているのです。

 生きているということほど不思議なことはないのです。人間が生存していることは何とも不思議なことです。私たちは朝から晩まで生きているという不思議なことを、詠嘆して生きているのです。

 人間の五官の働きを見ていると、そのまま神の御霊の業であることがはっきりするのです。五官の働きはそのまま神の御霊です。

 神の国と神の義を求めよということをしたら、生きていることが不思議になってしまうのです。不思議なことを経験しているということは、このこと自体が神の命、とこしえの命を経験しているという意味なのです。

 自分が生きているとしたら、生きていることが不思議だとは思わないのです。自分が生きているのではないなら、生きていることは本当に不思議なことになるのです。命の不思議さを実感しているからです。

 生きているということは、大宇宙で最も貴重な事実です。最も贅沢な、最も貴重な事実です。口で言えないくらいの貴重品です。これを二十四時間与えられているのです。

 リビングという貴重な経験を許されているのです。これは一国の帝王になったことよりもっと貴重なことです。命の現物を無条件で経験させられている。何とすばらしいことかと言いたいのです。

 生きているということは宇宙で最も貴重な経験です。神の実体を経験しているからです。生きているという神の実体を人間が経験しているのです。これは間違いない神です。

 生きていることが神の現物です。信じる必要がない神です。これがイエスが経験していた神です。

 人間が生きていることがそのまま神の国と神の義です。生きていることの内容を理解すれば、これがそのまま命になるのです。

 命を持っているのでしたら、明日のことを思い煩う必要がない。命を持っていないと思うから、明日のことが心配になるのです。今ここに命があると分かっていたら、明日のことを思い煩う必要がないのです。今ここに命を持っているから、今だけで結構です。

 明日という日はいらないのです。明日になっても今日という日があるだけです。

 人間は救われる必要がないのです。神の国と神の義がここにあるのですからです。人間はいないからです。

 人間とは何か。神が見ているのは人の子であって、一人しかいないのです。七十一億いるというのは全くの嘘です。十人も二人もいないのです。二人、三人いると考えることも嘘です。

 一人だけいるのです。生ける神の子が一人だけいるのです。一人いることはいるけれど、生ける神の子だから、実は人間はいないのです。

 神の国と神の義を求めよと、イエスの方から語りかけているのです。神の国と神の義を求めるとどうなるのかというと、人間がいないことが分かるのです。何があるかと言えば、生きているという事実があるのです。これは人間と違うのです。

 生きているという事がらがあるけれど、自分がいるのではない。生きているという事がらと、固有名詞は関係がないのです。

 固有名詞の自分は死ぬに決まっているのです。生きていることは神の事がらです。

 今生きていることは、そのまま神の義を経験しているのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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