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「精」


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 イエスの弟子たちは、「おまえたちは天国の言葉を聞いている」とイエスに言われる時まで、弟子たちは天国の言葉を聞いているとは思っていなかったのです。

 ところが、イエスの弟子になったということだけで、おまえたちは天国の言葉を聞く耳を持っていると言われているのです。成就する前に、そのことを予告されたような形になっているのです。

 皆様の耳は聞いてはいるが、悟っていない。耳がどのように働いているか分からないからです。実は目の働きそれ自体が天国です。耳の働きが天国です。ところが、耳が開かれていない。せっかく耳が天国の言葉を聞いていながら、それを受け止められない。そういう変なことになっているのです。だから天国へ入れないのです。

 皆様が見ている山の姿、川の流れ、空の青さ、花が咲いていること、鳥が鳴いていることはすべて天国です。

 皆様は天国の光景を見ているのです。見ていながら分からない。だから見れども見えずとなるのです。

 皆様の心臓が動いていることが神です。皆様は天国の中に生きているのに、皆様の思いは天国の外にいるのです。その人の思いがその人の命になるのです。肉の思いは死です。霊の思いは命です。

 現在皆様は神の御名によって生かされていながら、神の御名によって生かされていると信じていない。これがいけないのです。自分がいないというこの簡単なことが分からないのです。皆様は天国にいるのです。神によって生かされているのですから、皆様の命の本質は天に生きているに決まっているのです。ところがそれが分からない。なぜ分からないかというと、この世の思いで生きているからです。

 現世に生きているのを自分だと思い込んでいるのです。自分の事情境遇、自分の信仰があると思っているからです。

 皆様は御霊を受けていながら御霊を崇めていない。だから分からないのです。

 お風呂に入って気持ちがいいというのが天国です。お茶を飲んでも、果物を食べても、皆天国を味わっているのです。

 自分はいないとはっきり言い切らない。だから霊(人生)を渡すことができないのです。天国の目の前にいながら、分からないのです。

 なぜ神の国に入らないのか。なぜ新しく生まれられないのか。この世に生まれた自分という人間を承知したままで、神の国へ入ろうとしていることがいけないのです。

 自分が生きているという気持ちを捨てようとしないで、その気持ちを抱いたままで、神の国へ入ろうと思っている。これがいけないのです。

 人間はどういう所がいけないのかよく知っているのです。つまり不正直です。心がピュアー(pure)ではないのです。「心が清い人たちは幸いである」とイエスが言っています(マタイによる福音書5・8)。皆様は心が清くないからいけないのです。

 パウロは清い心と正しい良心と偽りのない信仰の三つをテモテに命令したのです(テモテへの手紙1・5)。

 皆様は長年聖書を勉強していながら、それを実行していないからいけないのです。少しは実行しているかもしれませんが、御霊を崇めていない。御霊を崇めるのはどうするかが分かっていないのです。

 自分を捨てることを実行していない。十字架を負っていないから、十字架が分からないのは当たり前です。十字架が分からないから、新に生まれることができないのです。

 日本の社会は本当に腐った社会です。皆様は片足で、神の流れに足を突っ込んでいるが、もう一つの足はどろどろの日本社会の中に突っ込んでいるのです。どろどろの中から足を抜いて、両足を清い流れの中に入れようとはしないのです。

 自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさいという三つのことを実行したらいいのです。自分を捨てたつもりで十字架を負っていない。十字架を負ったつもりでイエスに従っていないのです。この三つを実行したら、必ず神の国へ入れるのです。

 口でイエスの証ができたら本物です。自分の証をいくらしてもだめです。自分の経験をいくら証してもだめです。その人の経験だからだめです。

 天国に入ったら、天国の主であるイエスがおいでになりますから、すぐに分かるのです。

 私たちのグループは全員がイエスの証人になるべきです。イエスの証は預言の霊です。イエスの何かを証するのではない。イエスを証するのです。そうでなければいけないのです。御霊を受けている人は絶対そうするべきです。

 そうなれない人に神は御霊を与えません。皆様はそうなれるに決まっているから、神がまず御霊を与えたのです。

 パウロはガラテヤ書で、御霊を受けたがだめだったと書いていますが、私たちのグループは違います。私たちはイスラエルのために祈るべき魂のために、集められたのです。本当の聖書が分かれば、イスラエルのために祈るべきであると考えた。そして自然にグループができたのです。

 ユダヤ人は絶対に救われるべきです。ユダヤ人が救われなければ、十字架は完成しない。ユダヤ人が救われなければ、神の教会は完成しないのです。私たちはユダヤ人のために聖書を勉強しているのです。

 キリスト教は間違っています。なぜ間違っているかと言いますと、イスラエルのために祈らないからです。イスラエルのために祈らない者に、神が本当の御霊を与えるはずがないのです。

 イザヤは言っています。

 「シオンの義が朝日の輝きのように現われ出で、エルサレムの救いが燃えるたいまつのようになるまで、私はシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない」(イザヤ書62・1)。

 シオンのために黙っていない。エルサレムのために休まない。私はエルサレムを選んで休み処としたとあるのです。エルサレムは神の安息所です。神の安息所はエルサレム以外にあり得ないのです。

 これをキリスト教の人々は全然知らないのです。これだけでキリスト教は全部滅ぼされるのです。二十数億のキリスト教徒は全部神に捨てられるのです。

 神はイスラエルに祈る者だけを救うのです。イスラエルのために祈らない者を、神はなぜ救わなければならないのでしょうか。その反対に、たとえ下手でもイスラエルのために祈っている者を、神はどうしても見捨てられないのです。

 イスラエルのために祈るということは、歴史の急所ですから、ここを一発撃ち抜いたら、歴史が倒れるのです。

 ライオンやヒョウなどの猛獣は、急所を撃ち抜けば一発で倒れます。脳神経の中心を抜けば一発で死ぬのです。

 象も耳を狙えば一発で倒れるのです。イスラエルは象の耳です。ここを撃ち抜けば倒れるのです。

 イスラエルの祈りをする者は、必ず救われるのです。神が一番お気に入りなことをするからです。善事善行くらいのこととは違います。

 神が気になってしかたがない。神が一番悩んでいることがイスラエルです。神がアブラハム、イサク、ヤコブを選んだことも、イエスを十字架に付けたのも、イスラエルの救いのためです。これが歴史の急所です。

 「わが僕イスラエルのために、われ汝の名を呼べり」。これはエゼキエルが神に呼ばれた時の言葉です。すべて物事には急所があります。この急所を掴まなかったらだめです。「我はエホバにして癒やすものなり。我エホバにして、我の他に神あることなし。エホバこれを言う」(出エジプト記15・26、20・1~6)とあるのです。

 肉体人間はいないのです。いてもしょうがない。肉体人間にとってはなくてはならないもののような気がするでしょうけれど、肉体人間にとってはという話であって、宇宙意識によって見ますと、肉体人間はいらないのです。

 宇宙意識は神の命に基づく意識であって、これが信仰です。神の意識というのは命に即する意識なのです。この意識を宇宙意識と考えてもいいのです。

 本当の意識は、この意識が一つあるだけです。神の信仰を持てというのは、宇宙意識を持てということなのです。命そのものの意識、宇宙の基本意識で考えますと、肉体人間はあるはずがないのです。肉体人間はあってもしょうがないからです。

 人間はいくら儲けても、いくら楽しんでも地獄へ行くに決まっているのです。この世に生まれた人間は絶対に救われないのです。本来人間はいないのですから、いない人間は救われようがないのです。

 肉体人間が本当に存在するのなら、ひょっとしたら神は人間を救うかもしれない。しかし存在しないから救いようがないのです。

 肉体人間がいると思っているのは、悪魔です。悪魔の思いが人間に乗り移っている。だから自分がいると思うのです。

 人間の文明によって地球は悪くなるばかりです。絶対に良くならないのです。人間は地球を食いつぶすだけです。ネズミが米櫃を食いつぶすように、人間は地球を食い荒らしているのです。それ以外に何の取り得もないのです。

 人間文明は悪魔を喜ばすだけであって、神にも地球にも何にもならないのです。これがユダヤ文明です。こんなものがどうして存在しなければならないのでしょうか。

 イスラエルのために真剣に祈る人が五、六人いるということが、将来の世界の運命を変える導火線になるのです。

 旧約聖書にありますが、ソドムとゴモラの罪が非常に大きいので、その町を滅ぼそうと神が考えたのです。その時アブラハムは神と交渉して、その町に十人の義人がいたら滅ぼさないでくださいと言ったのです。

 アブラハムは多分数人の義人がいるだろうと考えたのです。家族だけでも五、六人はいましたし、ロトの友人を加えれば十人以上はいるだろうと考えたからです。

 ところが義人は十人もいなかったので、その町は滅ぼされたのです。もしアブラハムが一人まで値切っていれば、その町は滅ぼさなかったはずです。アブラハムが一人いたからです(創世記18・16~19・28)。

 一人まで値切ったのはイエスだけです。だからイエス一人によって世界が救われたのです。

 イエスは世の罪を負う神の子羊です。世の罪とは人間の罪とは違います。イエスが負ったのは人の罪だけではない。世の罪を負ったのです。

 世の罪とは何か。創世が罪の世です。創世ということが罪です。地球が造られたこと自体が罪です。やがて地球はなくなるのです。だから人間はいないのが当たり前です。いても何にもならないからです。

 イエスは「主よ主よと言う者が、皆天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが入る」と言っています(マタイによる福音書7・21)。天の父の御心を行えない者は、地球上に生きている自分を自分だと思っているからです。

 肉体的に生きていると思っている人間は、消えるに決まっています。個々の人間と、人間の歴史は消え去るのです。地球が消えるからです。

 肉の思いというのが一番困ったものです。今まで自分が生きてきたと思っていることが嘘です。これが最も大きい嘘です。自分が何十年間か生きてきた。自分の家族がいる。家庭があると思っている。これが嘘です。

 神は人間の所帯を認めていないのです。だから妻、子、兄弟、自分の命まで憎まなければ、私の弟子になることができない。「日々十字架を負うて私に従ってきなさい」とイエスが言っているのです。

 神は人間の人生を一切認めていないのです。神が要求しているのは、家を捨てよ、所帯を捨てよと言っているのではありません。所帯があると思っているその思いを捨てなさいと言っているのです。

 所帯を捨てるのと、その思いを捨てるのとは違います。所帯はあってもいいのです。影法師の所帯があると思えばいいのです。幻の所帯があると思ったらいいのです。そうすると苦労をしなくてもいいのです。

 影法師だから焼きもちをやかなくてもいいのです。自分の持ち物がある。自分の権利があると思うから焼きもちをやくのです。そういう思いが、すべて自分が生きているという気持ちに繋がっていくのです。これが神に背く感覚です。

 自分の家族がある。自分の所帯があると思っている人は、神に逆らっているのです。どんなに夫婦が仲良くなってもだめです。妻を憎めと言っているのですから、父母、妻子、兄弟を憎めない者は、イエスの弟子ではないのです。

 いいかげんにこの世に生きている自分を脱ぎ捨てるのです。この世に生きていることが神の国に生きていない証拠です。この世に生きていて何になるのでしょうか。この世の続きは地獄に決まっているのです。

 現在この世に生きている人は、自分の気持ちを他人が分かってくれないと、必ず思っています。神も分かってくれない。神は無情な人だと思っているのです。

 肉の思い、自分の思いはこの世でしか通用しないものです。ところが魂は永遠に通用するのです。神は所帯を捨てよとか、家族を捨てよ、財産を捨てよと言っているのではない。それに対する自分の思いを捨てなさいと言っているのです。

 自分の思いを持っているために、神が与えようとしている白い衣を着ることができないのです。自分の思いをまとっているからです。

 「二十四人の長老は、白い衣を身にまとい、金の冠を頭にかぶっているのです」(ヨハネの黙示録4・4)。これが私たちの魂の本当の状態です。

 金の冠は神が与えたものですが、これを御座の前に投げ出すのです。そうすると、初めて神を賛美することができるのです。

 ところがなかなか冠を投げ出さないのです。自分が一人前の人間だと思っていることが冠です。自分がいないと思うのは、金の冠を投げ出す方法です。

 自分が生きていると思っていること、自分が生きてきたと思っていることを投げ出すのです。投げ出したからといって、耳が聞こえなくなる訳ではない。目が見えなくなる訳ではないのです。自分というのは大変な重荷です。これを投げ出したらやれやれと思うのです。投げ出さないで持っているから苦しいのです。

 魂はありますが、人間はこの世にいないのです。天国はありますがこの世はないのです。例えば、バラの花はありますが、バラという花があるのではなくて、バラが咲いているという事がらがあるのです。

 目はバラが咲いているという事がらを見ていますが、思いはバラの花を見ていると思っているのです。これが肉の思いです。目はバラが咲いているのを見ているのです。目は花を見ていません。咲いているという姿を見ているのです。

 目は神の国を見ているのです。バラが咲いているという事実は天国です。バラがどうして咲いているのかと言いますと、神の処置によって咲いているのです。これが天国です。

 ユリの花というのはユリの持つ性格を指しているのです。バラはバラの持ち味、性格を指しているのであって、バラという物ではない。バラの精がバラになっているのです。精は物とは違います。精はバラの心です。これがバラになって咲いているのです。

 目はそれを見ているのです。ところが人間の思いはバラの花という物質を見ているのです。

 人間の霊は神によって生かされているのです。神の御霊によって生かされているのです。パウロは、「もし私たちが御霊によって生きるなら、また御霊によって進もうではないか」と言っています(ガラテヤ人への手紙5・25)。

 「もし」というのは生きていることを強く認識させる言葉です。御霊によって生きていることを強く認識させるために、こういう言葉を使っているのです。

 目が見えること、五官の働きは全部御霊によるのです。食べることも、見ることも、歩くことも、走ることも人間の生理機能は全部御霊によるのです。

 心理機能もまた、神の御霊の機能です。ですから、人間が生きていることは、知っていても、知らなくても全部神の御霊の働きです。

 神の御霊によりて生きているのが人間ですから、人間が生きているということはどこにもないのです。御霊によって生きているのだから、御霊によって歩もうではないかというのは当たり前のことです。

 ところが、人間は御霊によって生かされていながら、自分の思いで生きているのです。何ということをしているのかと言いたいのです。これをやめればいいのです。

 人間が自分を捨てられないのは、愛を知らないからです。人間的にも霊的にも知らないのです。自分を愛することだけを知っているのです。

 自分を愛することは愛とは言わないのです。自分を愛さないことが本当の愛です。自分を愛しているというのは、自分の魂を愛せずに自分の肉を愛しているのです。

 ヨハネは、「御子は自分の命を捨てて、我らの罪を救いたもうた。これによりて愛を知った」と言っています。愛というのは自分を捨てることです。自分を捨てないで、私は人を愛しますとか、愛が分かったと言ってもだめです。

 毎日、自分はいないと言い続けていればいいのです。これをするのが一番楽なのです。自分の気持ち、自分の理屈はどうでもいいのです。神を愛したらいいのです。

 人間が自分だと思っているのは、初めからいないのです。バラの花という物質は初めからないのです。バラになるべき霊なる事がらがバラとなっているのです。

 バラという物質はない。バラになるべき特別な原理が、バラの花という格好になって出ているだけのことです。

 それと同様に、肉体人間は初めからいないのです。地のちりは土から出た人間とは違います。地球はちりがなければ存続できないのです。ちりのお陰で太陽光線がコントロールされているのです。

 地球に殺到している電波、生命の原理がちりによってコントロールされているのです。地球のちりは地球の命です。これが人間になっているだけのことです。地球のちりは物質ではありません。霊なる事がらです。桜の精が桜になっているようなものです。

 現象世界ができる前に言葉があった。この言葉が万物として現われているのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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