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はじめに


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 聖書に「神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3・16)とあります。これは有名な所ですけれど、キリスト教では全然分からないのです。一番有名な所ですけれど、分からないのです。

 新約聖書の根本は、宗教では分かりません。どこが分からないかと言いますと、二ヶ所あります。一ヶ所は、生みたまえる一人子を賜ったという所です。もう一ヶ所は、世を愛したという所です。

 一人子を賜るというのは、与えたという意味です。一人子を与えるとはどういう意味かが、キリスト教では全然分からないのです。一人子によって贖いを全うしてくれた。一人子によって、罪が贖われたと思っているのです。

 キリスト教では罪の贖いばかり言っていますが、罪の贖いを受け取るためには、イエスを受け取らなければならないのです。

 生みたまえる一人子を与えるというのは、一人子そのものを与えるという意味なのです。

 罪の許しという問題は、神とキリストの関係では、キリストが罪の許しを全うしました。神に対するキリストの処置は、罪の贖いになるのです。人に対するキリストの処置は、キリストそのものを与えたのです。イエスという死なない人格を与えたのです。

 人に対しては、神自身の人格を与えた。人に対しての神の処置が、キリスト教では全然分かっていない。これが分からないのは、自分が生きていると思っているからです。せっかくイエスが与えられていながら、イエスを全然受け取っていない。だから自分が生きていると思い込んでいるのです。

 贖いがよく分かっていないし、一人子を与えたことも分かっていない。神は一人子を与えたというのに、人はそれを受け取っていないのです。

 例えば、皆様が誰かに何かをあげたとします。あげたのに受け取らないで知らん顔をしていたら、どう思われるでしょうか。

 人は神が与えたものを受け取っていない。イエスを受け取るという意味が、人間には分からないのです。キリスト教でも全然分からないのです。

 分からないようにしたのは誰かと言いますと、マルチン・ルターです。ルターとカルビンはユダヤ人ではなかったのですが、非常に強くユダヤ人の影響を受けていたようです。この二人が分からなくしてしまったのです。この結果、プロテスタントという間違った宗派ができたのです。カトリックは法王が間違っています。組織が間違っているのです。カトリックもプロテスタントも両方共間違っているのです。神がこの世を愛してくださったとありますが、これも分からないのです。

 神がこの世を愛するとはどういうことか。イエスやパウロが、あなたがたはこの世の者ではないとか、この世に習ってはいけないと盛んに言っているのに、この場合には、神がこの世を愛したとあるのです。この意味がキリスト教では全然分からないのです。

 桜の花が咲くと、日本人はその下で食事をしたり、お酒を飲みます。外国人はしないのですが、日本人はするのです。日本人は一体何をしているのでしょうか。

 日本人は昔から、月を見たり、花を見たりします。安原定室は「これはこれはとばかり花の吉野山」と詠んでいますが、安原は花の美しさに驚いたのです。驚いていながら、その意味が全然分かっていなかったのです。

 吉野山の桜は、山に桜が咲いているのではありません。吉野山全体が花畑になっているのです。山そのものが花畑になっているのです。

 桃の実をとるために、畑に桃ばかり植えている所があります。花が咲きます。あたり一面が花になるのです。とてもきれいです。

 吉野山は、上千本、中千本、下千本と山一面に花が咲くのです。万山ことごとく桜になるので、何とも言えない景色になるのです。安原は桜の壮大な自然現象を見ているのですが、その意味が分からなかった。だから地獄へ行かなければならないのです。

 地獄はまだありません。開業していないのです。いつ開業するのかと言いますと、地球が消滅してからです。地球が消滅すると開業するのです。やがて、地球に生まれた人間が全部集められる。そして神の大審判が行われる。それから開業するのです。

 地球が終わってしまいますと、人間のすべての行いが全部終わります。良くても悪くても、ジ・エンドになります。それから地獄が開業されるのです。ですから、人間の歴史が全部終わるまでは、地獄はありません。地獄なんかあるもんかと言う人がいますが、これは本当です。まだ地球の歴史が終わっていませんから、地獄は開業していないのです。

 巫女の口寄せで死んだ人の霊を呼んでも、地獄にいる霊はいません。だから地獄はないと言うのです。まだ地獄が開業していないのですから、地獄がないのはあたりまえです。

 聖書を信じると初めて、地獄がいつ開業されるか、どのように開業されるのか、地獄でどのような苦しみを受けるかが、全部分かるのです。

 芭蕉は気の毒に、地獄へ行かなければならないのです。彼はあまり悪いことをしていませんが、良いこともしていないのです。芭蕉も吉野山の桜の美しさの意味が分からなかったのです。吉野の花の意味が分からなかったというだけで、芭蕉は地獄へ行かなければならないのです。

 山に桜が咲いているのは何なのか。これが芭蕉に分からなかった。芭蕉だけでなくて、すべての日本人が分かっていないのです。

 日本人は桜の下で一杯飲むということをするのです。日本人は非常に正直です。桜が咲いていることに対する態度が、正直です。だから一杯飲むのです。欧米人は桜が咲いていることの意味が分からないのです。桜の下で一杯飲むという意味が分からないのですが、日本人は分かっているだけましです。しかし、なぜ一杯飲むのかが分からないのです。飲んでいながら分からないのです。世間の人が飲むから自分も飲む、それで終わりです。それでは説明にならないのです。

 なぜ花見酒をするのか。なぜ雪見酒をするのか。なぜ月見酒をするのか。雪月花を見ると、日本人は酒を飲みたくなる。なぜ飲みたくなるのか。ここに文化性の根本があるのです。文化性の根本があるという理屈を知っているだけでは、皆様の魂の足しにはならないのです。

 なぜ花を見て酒を飲みたくなるのかが分かった人は、地獄に行かなくてもいいのです。分からない人は、地獄に行かなければならないのです。

 芭蕉は風流の趣を知っていましたが、それと魂とのかかわりを知らなかったのです。風流の趣を直感する精神機能を魂と言うのです。風流の趣を掴まえる人の心理機能を、魂と言うのです。芭蕉は魂で花を見ることができたのですが、それを魂として受け取ることができなかった。魂の直感を知っていながら、それを魂として受け取ることを知らなかった。

 なぜ魂で感じるのか。世間の人は趣を知らないのに、芭蕉はそれを知ることができた。しかしそれができた意味を、芭蕉は分からなかった。風流が分かっていながら、それを掴まえることができなかったのです。だから地獄へ行くことになるのです。

 分かっていない人はもちろん地獄へ行きますが、分かっていても掴まえていない人は、やはり地獄へ行くのです。

 花が美しいと思うのはどういう気持ちなのか。それが芭蕉に分かっていなかったのです。芭蕉だけでなく、すべての日本人に分かっていない。だからすべての日本人は、皆地獄へ行かなければならないのです。日本人だけでなく、世界中のすべての人は、地獄へ行かなければならないのです。

 神はイエス以外の人を一切認めていません。だからイエスを担がなければならないのです。イエスを頭からかぶると、神はこいつは頭からかぶっているなと思いますけれど、イエスをかぶっているということだけで許してくれるのです。イエスをかぶらなければ、絶対に許されないのです。

 復活したのはイエスだけです。復活したというのは、神が良しと認めたしるしです。神が認めないものは、全部死んで地獄へ放り込まれるのです。

 イエス以外の人は一切認められません。神は個人の人格を認めていません。その代わりにその人の可能性を認めているのです。すべての人は、イエスと一つになる可能性を持っているのです。その可能性に目をつけるのです。

 自分の実体がイエスだということを、一回受け取っただけではだめです。毎日、毎日受け取らなければいけないのです。

 人間は神の女として造られたのです。人間だけがいてもしかたがないのです。人間の人格性は、天地万物を全部のみ込む人格です。皆様はご自分の値打ちを全くご存知ないのです。自分が自分だと思っているからです。

 人間は花を見れば花であることが分かります。花とは一体何でしょうか。聖書は次のように述べています。

 「私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・15)。神が口を開くと物ができるのです。時間、空間が流れ出すのです。神が口を開くと天地万物が出てくるのです。

 出てきた天地万物とは何か。世の初めから隠されたものです。これが出てきているのです。花を見れば分かります。世の初めに隠されたものです。世が始まる前にはあったのです。世が始まった時に隠れたものがある。それが命です。命が花になって現われている。雪になって現われている。月になって現われている。皆様になって現われているのです。

 人が現世に生きてきたのは、会社員、商売人、市会議員や県会議員になるためではありません。そう思っている人は地獄へ行かなければならないのです。

 今、皆様の目の前に現われているもの、植物も動物も、鉱物もすべて世が始まる前から出てきたものです。世が始まる前とは、前世です。前世にあったものが現世に現われているのです。

 花を見ているのは、前世を見ているのです。地球ができる前の世界を見ているのです。芭蕉はそれが分からなかった。聖書をいくら勉強しても、それが分からないといけないのです。

 皆様の肉体には、生まれる前のあり方、皆様の影も形もなかった時の人柄が出ているのです。地球がなかった時の前世のあり方が、今現象的に現われているのです。生まれる前は罪人ではなかったのですが、生まれた後には罪人になっている。

 この世に生まれたということは、罪人として生まれたのです。肉の思いを持って生まれたのです。肉の思いを持っている人間ばかりが造っている世界が、死んでいく人間社会です。神が造った森羅万象の世界は、死なない世界です。世界が二つあるのです。

 人間が造っている世界と、花が咲いている世界があるのです。人間が造っている世界に花が咲いていますから、人間社会と花が咲いている世界は一つだと思えるのです。場所は一つですけれど、人間が造っているのは政治の世界、常識、利害得失の世界です。いわゆる世間です。人間社会です。

 花は利害得失の世界には咲いていません。人間が考えている世界と、花が咲いている世界は全然違うのです。

 イエスが神の世界へ入れと言ったのは、人間が利害得失を考えている世界を出て、花が咲いている世界へ入れと言ったのです。死ぬべき世界を出て、死なない世界へ入れと言ったのであって、極めて当然のことを言っているのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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