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現世も霊の世界もキリストが支配している


          「現世も霊の世界もキリストが支配している」

聖書に次のように記されています。  「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」(コロサイ人への手紙3・3)。

キリストと共に神の内に隠れている命、この命の他に命はありません。学問がけしからんのは、この命を隠しているからです。この命を隠すために、学理学説というアイデアを造ったのです。

イエス・キリストは死を破って復活しました。復活したというから、復活のボディーを持っていたのです。イエスは弟子のトマスに、手で触ってみなさい。脇の下に触ってみなさいと言いました。それは触れるボディーがあったことを意味しているのです。そうすると、現世の医学の対象として、取り上げられなければならないボディーになるのです。

新約聖書は、復活したイエスにボディーがあったことを、堂々と主張しているのです。聖書は二千年の歴史の中心をなしていたのですが、イエスの復活体をどう考えるかです。今の医学で考えているボディーの他に、もう一つのボディーがあるのです。

これをどう考えるかです。現在の学問は全てユダヤ主義の発想によるものです。ユダヤ人がイエス・キリストを学の対象にしないのは、どういうわけなのでしようか。

イエスの復活後、弟子たちはユダヤ人の迫害を恐れて、マルコの二階に集まっていました。ところが、厳重に鍵をかけたこの部屋に、イエスが入ってきたのです弟子たちは幽霊

が入って来たと思ってうろたえたのですが、イエスはブドウ酒や焼き魚を食べて、体があることを証明したのです。もし幽霊なら、ブドウ酒を飲んだり、焼き魚を食べるはずがないのです。

そうすると、現存在の物理の他に、まだ学問では取り上げていない、全く新しい物理があることを、聖書は断言していることになるのです。

これは未来次元の物理構造です。未来次元の物理構造が、現在の人間の歴史に登場しているのです。これを学問は全く無視している。これで学問と言えるのでしようか。

イエスの復活を学の対象として取り上げないことは、学の怠慢としか言いようがないことです。二千年間も怠慢を続けている。全くけしからんことをしているのです。

学問はただのアイデアです。生活の知恵にすぎないのです。学理学説と言えるだけの価値があるかどうかです。

パウロは、天使の長の声とラッパの音が聞こえる時に、キリストの復活を信じ、第三の天において、キリストが神の右に座しておられることを信じる者は、たちまちまたたくまに化せられると言っています(コリント人への第一の手紙15・50~54)。私たちの体が、キリストの栄光体に変えられると言っているのです。

現在の学問では、人間社会はこれから三十億年存在する可能性がある。地球はまだ五十億年存在するという学説があるようです。そんな学説が、人間の魂、人間の命に何の関係があるかです。人間の本質に何の関係があるかです。

仏典では、五十六億七千五百万年後に弥勘菩薩が現われるとありますが、これは竜樹菩薩が勝手に造った考えで、人間存在の本質に、何の関係もないものです。

これから三十億年人間社会が存続すると考えて、どういう意味があるのでしょうか。仮に人間社会がもう一億年存続するとしたら、どうなるのでしょうか。食糧問題、資源エネルギー問題、環境問題を考えても、とても存続できることではないのです。

仮にこれから百年間今の状態が続くとしたら、人類はまともに生活できるのでしょうか。たった百年でも存続することは至難の業でしょう。存続できるという保証はどこにもないのです。一体学者は何を考えているのかと言いたいのです。

今の文明は目的がありません。学問が行き詰まっているので、文明が行き詰まっているのです。学問が役に立たなくなっているので、文明が混乱しているのです。この事実に対して、今の学者は何を考えているのでしょうか。イエスの復活を勉強しようとしない。イエスがキリストであってほしくない。この事実を人類から覆い隠すために、学理学説を展開しているのです。

私が学問が聞達っているとはっきり言っても、それについて反撃してくる学者はいません。反撃できないのです。学問に自信がないからです。

現在は非常に危険な状態になっています。聖書はつぎのように述べています。  「この後、私は四人の御使いが地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風を引き止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使いが生ける神の印を持って、大声で叫んで言った。『私たちの神の僕らの額に、私たちが印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない』」(ヨハネの黙示録7・1~3)。

地の四すみに立って、地の四方の風を引き止めている四人の御使を、私たち日本人は叱らなければならない状態になっているのです。世界の政治勢力、宗教、教育、労働組合組織が、聖霊の働きを妨害して、イエス・キリストの復活を全く取り上げようとしていない。その中心にいるのがユダヤ人です。

イエス・キリストの復活の原理を示しているのが、風です。ところがこの風が吹いていない。風がとめられているのです。

復活を今の学問は取り上げない。キリスト教も取り上げない。一般の人間も知らないのです。神がイエス・キリストを甦らせたという神的事実、この地球上から死が消えているという驚くべき事実が、全世界の文明によって全く隠されてしまっているのです。これに対して私たちはけしからんと大声で叫ばなければならないのです。

今まで生きてきた命ではない全く新しい命が、復活の命です。これが地球上に実現しているのです。パウロはこの命を、ダマスコ途上で見せられて、仰天したのです。

未来次元が歴史的に掲示されたのです。これを隠していることが、風を引き止めていることです。風を引き止めているのが学閥です。これが教育の悪です。それから労働組合連動と宗教勢力です。そして政治、経済の流れです。これらが風を引き止めているのです。私たちは断固としてこれを叱らなければならないのです。

自分の気持ちや自分の記憶を問題にしている間は、まだこの世の霊につかまっているのです。今まで生きていた自分の考えが間違っているのです。

神は私たちに、この世から出ることを要求しているのです。この世へ出て神のジャンルにいくのです。

現在の人間が生きていることが死んでいることです。生きていることが死んでいることです。この世で命を知らずに生きていることは、精神的に死んでいるのです。

今この世で生きている状態で、この世から出てしまうのです。今いる状態で、この世から出てしまう信仰でなかったらいけないのです。

パウロは言っています。「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか」(ロサイ人への手紙2・20、21)。

この世の霊力とは、基本原理ということです。基礎的な原理、又は基本そのものです。

キリストと共に死んで、この世のもろもろの霊力から離れると日本語で訳していますが、これは本末転倒です。英訳で見ますと、この世の基礎的な原理から離れるために、キリストと一緒に死んだとなるのです。キリストと共に死んだので、この霊力から離れたのではない。死人だから離れたのではない。離れるために死んだのです。

今まで自分が生きていた記憶、善悪利害の考えは、三文の価値もないのです。義理も人情も道徳もだめです。これから全く解放されなければいけないのです。今の学問は中途半端な不完全なものです。そういう不完全なものをなぜ日本人は信じているのでしょうか。六十四億の人間がなぜ信じなければならないのでしょうか。ここにユダヤ人問題というとんでもない大きい問題があるのです。

人間の常識を人間社会に送り込んだのは、ユダヤ人です。学問を造ったのはユダヤ人です。文明構造を構築したのはユダヤ人です。と言って、私はユダヤ人が悪いと言っているのではありません。ユダヤ人は非常に優秀な民族です。だからこそ、彼らに本当のことを知ってもらいたいのです。失礼ながら、日本人はとても足元にも及ばないのです。

彼らの家庭生活の原理は、すべてモーセの掟に基づいているのです。厳重に掟を守っているのです。だから彼らの家庭生活、性生活は、日本人のようなだらしがないものとは全く違っています。ここにユダヤ人の優生学的な意味での民族の優秀性の原理が存在しているのです。生活の原理が違うのです。

ユダヤ人は神を求めていますが、その求め方は間違っています。間違ってはいますが、神に基づいて、モーセの掟を一生懸命に守っている。日本人のように、神もキリストもない、絶対を信じない腐った民族とは違います。

ですから、ユダヤ人が自分たちの間違いが分かつて、自分たちの見解がせますぎたことに気がつけば、文明の根底が、がらっと変わってしまうのです。私は日本人を救うことが目的ではありません。神の御心に基づいて、イスラエルを悔い改めさせることが目的なのです。

文明はユダヤ人にしかできないのです。文明はユダヤ主義に決まっているのです。神が彼らを約束の子として育てた以上、約束の子が動かなければ、文明は成立しないのです。良くても悪くても、火をつけたのはユダヤ人であり、火を消すのもユダヤ人なのです。火をつけた人は、火を消さなければならない。自らユダヤ人と称する人々に、そのように迫らなければならないのです。

文明を叱らなければならないのに、皆様は文明を信仰しているのです。これを改めて頂きたいのです。

地の四すみに立って、風を引き止めている四人の御使いがいる。教育、組合運動、宗教、政治経済の四人の御使いを、私たちが叱らなければならない。そして、イスラ

エル十四万四千の額に、神の御名を印すまでは、風を引き止めてはいけないと、叱らなければならないのです。

今まで生きてきたという自分の気持ちが間違っているのです。自分の経験、自分の記憶が、皆聞達っているのです。これに基づいて考えている。だから神の国に入れないのです。

皆様は自分が生きてきたと思いこんでいるのです。自分が生きてきた事実はないと言っても、どうしても信じないのです。自分の記憶の方を信じているからです。今までの自分の気持ちと、今までの常識と、記憶をはっきり捨てるのです。これができなければだめです。

そこでパウロは言っています。  「以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖をそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22~24)。

心の深みまで新たにされてという所を、英訳では精神の霊を新しくするとなっています。精神の霊を新しくするとはどうすることか、これを説明した人が世界でいないのです。

自分の記憶を自分で裏切れるかどうかです。裏切れないようではだめです。この世の未練とは何か。肉の思いで生きていると、友情、愛情、恋愛、家族の愛があると思えるのです。そこで思い出が起きるのです。何十年間の思い出を信じているからいけないのです。思い出があれば、必ず未練が起きてきます。心がこの世に残るからです。

この世に未練がある人は、必ず地獄へ行くのです。この世の思い出が、皆様を地獄へ引っぱって行くからです。

この世に生きている間なら、地獄の根本を切ってしまえるのです。地獄へ行く自分を切ってしまえるのです。記憶を切り、思い出を切る。この世の基礎条件から離れるために、キリストと共に死んでしまった。これがキリストを信じることの第一原理です。

この世に生きている基礎条件は何かと言いますと、第一に肉の思いです。第二は肉の思いに基づく記憶です。この二つを切るのです。現実の肉の思いが自分の気持ちになっています。この思いによって生じた記憶が、地獄の火種になっています。これを叩き切ってしまわなければ、絶対に救われません。そうしないと本当の自由がないのです。自分の記憶が自分を縛っているのです。自分はだめだとか、理解できない、分からないと思っているからです。

ザ・シール・オブ・ザ・リビング(ヨハネの黙示録7・2)とあります。生きているからには、印があるに決まっています。これを見つけたら、絶対に死にません。生きていることの本物を見つけたら、もう死なないのです。

パウロは後ろにあるものを忘れて、前に向かつて歩けと言っていますが、人間は後ろの方を向いているのです。昨日までの自分の気持ち、自分の信仰、自分の記憶が、自分だと思っている。後ろのものばかりを見ているのです。この根本的な過ちをやめるのです。人間は明日をも知れぬという非常に頼りない、不安定な、しかも先の見通しがない、まっ暗な状態で生きています。それは後ろ向きに生きているからです。後ろ向きに車を運転するようなことを人間はしているのです。これが屋根の上にいる状態です。

かつて「屋根の上のバイオリン弾き」というミュージカ~が上演されました。人間の心理状態をよく現わしていました。人間は好むと好まざるとに係わらず、屋根の上でバイオリンを弾かされているのです。人間の足場は非常に不安定です。明日をも知れぬ状態で生きているのです。車を運転している人は、いつ事故にあうか分かりません。社会的にも、国家的にも明日をもしれぬ命なのです。個人的にも、非常に危ない状態で生きている。

安定した真理状態ではないのです。これが屋根の上です。屋根の上にいるだけでも、いつ滑り落ちるが分からない。そういう状態でバイオリンを弾いて、陶然としているのです。皆様もそれに慣らされて、人生はこんなものだと思っているのです。人間はそういう不安定な状態ですから、何か情報があればそれに頼ろうとするのです。

世界に平和を、平和を世界にと盛んに言います。仮に原水爆が全廃されても、やはり人間は死んで行くのです。私は死なない命をつかまえるべきだと言っているのです。どんなに大きい奇跡ができても、その人は死ぬのです。私が言いたいのはストップザ・デスです。地球から死を消してしまうことです。これが私の目的です。

誰が何と言おうと、どんな超能力があろうと、死に勝てないのです。イエスの復活だけが死に勝った証拠です。これは絶対的事実です。イエスは勝ったのです。これ以外に信用できるものはひとつもありません。

現在の世界には、復活の命が満ち満ちています。これをつかまえたらいいのです。

情報はすべて嘘です。どんなに情報があってもだめです。情報は死に勝てないからです。情報が固まると概念になる。概念が固まると学説になる。文明とは何か。情報の固まりです。概念が学説になり、学説が新しい学説を生むのです。

情報と概念の大山脈を文明というのです。これが肉の世界です。これから抜け出すために、イエスと一緒に十字架につけられたのです。なぜイエスを信じないのでしょぅか。

なぜ自分を信じているのでしょうか。イエスが主であるとなぜ考えないのでしょうか。イエスが主であると考えないから、どうしても自分の気持ちにとらわれるのです。自分の気持ちでしか考えられないのです。困ったことです。主人がいる。家庭がある。これを絶対だと思うからいけないのです。それを影だと思えばいいのです。

聖霊が地上に下って、キリスト紀元が実現した。イエス・キリストの復活の命が、そのまま歴史的事実として現われたのです。ですから、原水爆があるということが、キリストの処置なのです。ここが意味深長です。

キリスト紀元というのは、すべてキリストの処置がこの地上に現われている時です。学問が不完全だということが、キリストの処置です。セックスが氾濫していることが、キリストの処置です。そこでキリストの処置に対して復活の命が分かると、その意味が分かつてくるのです。

政(祭り事)の権威はキリストです。日本の総理大臣の意見も、アメリカの大統領の意見も、すべてキリストから出るのです。霊と肉の両方を治めるのが、キリストです。ザ・キング・オブ・キングス(the king of kings)がキリストです。肉の王でもあり、霊の王でもあるのです。肉の世界と霊の世界の全体を治めるのが、キリストです。これが神の右にいることです。

キリストは復活して神の右に座した。神の意向よりもキリストの意向が強いのです。原爆、水爆が製造、拡散されていることがキリストのせいです。ここで学者や牧師が分からなくなるのですが、こういうことが大胆に発言できなかったらだめです。

現世の状態は何か。キリストが現世を治めて、じつと見ているのです。やりたいようにやらせているのです。キリストの日が現われると、今度はキリストがやりたいようにやるのです。悪魔の仕業はどこにもありません。悪魔は十字架で殺されたのです。

現世を治めているのはキリストです。聖書が分からないと思っているのもキリストです。妙なキリストがあるものです。ところがそれは、現世で肉で生きているからだめです。イエス・キリストの甦りを信じている自分とは違うのです。

私たち自身が甦りを信じて、今までの自分とは別人になってしまわなければいけないのです。今まで生きてきた自分が、嘘みたいになってしまうのです。家庭はあってもいいのですが、今までの気持ちの家庭が嘘になってくるのです。

人間は神から見れば、今のままで救われているのです。自分から見ているから分からないのです。見方が聞達っているから行き詰まりがあるのです。学理も見方を変えたらいいのです。人間は勝手に門を閉ざしているのです。学問が聞達っているというより、学問に対する見方が間違っているのです。これを変えたら良いのです。

今生きていることが悪いのではない。生きていることに対する見方が悪いのです。見方を変えたら良いのです。そうしたら、今人間が生きていることが、全く夢幻だということが分かるでしょう。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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