top of page

「神は乳のみ子の口に、悪魔に対する砦を設けた」


          「神は乳のみ子の口に、悪魔に対する砦を設けた」

イエス・キリストの誕生以後、世界はキリスト紀元になりました。キリスト紀元というのは、神から見ればイエスしかいないという時代ですから、イエスにおいて生きていないものは、キリスト紀元においては生きる資格がないのです。自分の実体がイエスであることを知っている者か、知ろうとしている着でなければ、生きている資格がないのです。それに反して強引に生きていれば、必ず地獄へ行くことになるのです。

キリスト紀元において、キリストに関係がないものが生きているということが、おかしいのです。

仏教的にも真理であり、聖書的にも真理であることを確認した上で、この二つのものがどういう角度でつながるのか、今のキリスト教も仏教も、決め手がないのです。明けの明星にいかなければ、しかたがないのです。

仏教は悟りを言います。悟りとは何かと言いますと、釈尊の悟りです。釈尊の悟りが、どのように聖書に結びつけられるのか。明星で結びつけるとして、なお、釈尊の心境をどのように理解するのかということです。

今日の仏教の悟りは、評価する価値がありません。聖書の角度から見て、釈尊の悟りをどのように評価するのかということです。般若心経の究竟涅槃は何を言っているのか。五蘊皆空の空は、聖書的に言うとどのような心境を言うのか。観自在菩薩が五蘊皆空を照見したというのは、聖書的に価値があるかどうかです。

悟るという時、どのような心境で悟るかが問題です。心境によっては、聖書的にも有効である場合があるのです。どういう悟りが有効であると認定できるかです。

ダビデは「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」と言っています(詩篇8・1)。森羅万象が存在するということが、エホバの現れです。この世は、神の栄光が現象的に現れなければならない条件の世代です。これが世です。

地にあまねく、いかに尊いことでしょうと言っていますが、地球上に現れている、ありとあらゆるもの、空気でも、水でも、森羅万象のすべては、エホバの御名の現れでないものはありません。これがキリスト教では説明できないのです。エホバの御名が地にあまねくとはどういうことか、説明できないのです。

キリスト教では、エホバの御名が全然分かっていません。森羅万象として現れたエホバの御名が分かっていませんし、人間として現れたエホバの御名も分からないのです。

神の御名の栄光が、人間の命として現れるとどうなるのか。これが、みどり子と、乳飲み子との口なのです。これが御名の現れです。これを英語で言いますと、イズ(is)になるのです。みどり子と乳飲み子の口は、イエスを意味するのです。

リビング(生きていること)はゴッド(神)です。命は神です。これはイズのことです。イズには静態と、動態とがあるのです。ただあるということも、イズです。であるということもイズです。であるということは、物が存在するという静態もあるし、動き出すという動態もあるのです。

幼児の口というのは、生きているという静態的な面と、動態的に存在する面と、両方を含んでいます。これがアイアム (I am) になっているのです。リビングがゴッドであるということが、赤ん坊の口に、ごく自然に現れているのです。全く主観的なものがなくて、純粋に客観的な面が現れているのは、赤ん坊の口だけです。犬や猫の口はそうですけれど、人間の場合は、赤ん坊の口という言い方をすると、一番いいのです。

皆様の五官の機能の客観性とは何か。これが赤ん坊の口です。生きていることは神ですから、これが分かって当たり前です。

人間は赤ん坊の時、神の御名を命として経験していたのです。御名が命であり、この意識がマインドの基礎になると、悟りになるのです。これが信仰です。

生きていることが神だと分かる場合、生きていることを通して、御名が働いているのです。これが命です。命とは神です。命も神も同じことです。御名の栄光が人間のこれが自分自身によって分かるのです。これがイエスの御名になるのです。みどり子と乳飲み子の口は、イエスを意味するのです。

リビング(生きていること)はゴッド(神)です。命は神です。これはイズのことです。これがイエスの御名の基礎であり、インマヌエル(神共にいます)の基礎でもあるのです。

赤ん坊の口というのは、簡単明瞭ですが、非常によく言い現しているのです。赤ん坊の口は、人間の潜在意識に焼きつけられているのです。死にたくない、死んではいけないと思うのは、このためです。死なない命を知っているからです。死なない命を知っているから、死にたくないと思うのです。もし、死なない命を知っていなければ、死にたくないと思うはずがないのです。

人間はなぜ死にたくないと思うのか。赤ん坊の時に、死なない命を経験しているからです。人間はこの世に生まれてきた時に、死なない命で生まれてきたのです。この命を誰でも経験している。だから死にたくないと思うのです。そこで、大人の考えを捨てなければいけないのです。

永遠の命は、人間の潜在意識に焼きついているのです。本当の悟りは、赤ん坊の口にあるのです。人間は生まれながらにして、永遠の命を知っているのです。死にたくないと思う人は、すべて永遠の命を知っています。だから、理性と良心はそれを求めているのです。

人間は何を悟らなければならないかを知っているのです。悪いのはアダルトの考えです。これがいけないのです。釈尊が説いた観自在とは何か。この世を捨てた気持ちで生きると、観自在が分かるのです。

赤ん坊の所までいくと、聖書も仏典もないのです。人間の原点に返ると、東西の文明は一つになるのです。真理は一つです。宗教ではない般若心経と聖書は一つのものになるのです。ダビデの詩篇の八篇と、釈尊の悟りは、心霊的に一つなのです。

ペテロは 「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」と言っています(ペテロの第二の手紙1・19)。

この明星は、ディスター(daystar) になっています。ディスターというのは、今日という日に生きている人間の心に、明星がのぼることを言うのです。今生きている、リビングしている人間の心に、明星がのぼるのです。これがディスターです。

これはどういうことか。自分の命が、神の御名であることに、気づくことです。つまり、赤ん坊の状態、みどり子の口で自分の命を見るのです。

自分が生きていること、リビングが救いであることが分かった人は、赤ん坊の口の命に帰ったのです。これがエホバの砦です。

リビング(生きていること)が神である。神がリビングであることが実感できたこと、リビングがそのままま救いになっているということは、否定しようがないことです。悪魔でもこれを誤魔化すことはできないのです。みどり子と、みどり子の口が、敵に対する砦、悪魔に対する砦だと言っているのです(同8・2)。

生きていることが救いであることが分かりますと、理屈は何もいりません。反論の余地がないのです。生きていることが救いというのは、信じているのではありません。信じ方が悪いとか、考え方が悪いとか言えないのです。人間の考えに関係がない。行をする必要もないのです。

人間が生きているということが、東西文明の基礎になっている。絶対的な基礎になっているのです。これが、旧約、新約を貫いているのです。

天理教的に言いますと、みどり子の口というのは、純粋の白因縁です。これになるのです。これが分かると、今日という日に、明星が出るのです。これがデイスターです。キリストという義の太陽が昇ってしまっている。これが分かることが、ディスターです。ペテロの手紙は、新約時代になってから書かれたのです。

釈尊が見たのは、モーニングスター(morning star)です。やがてイエスがキリストになって、全世界に救いが現れる、義の太陽が昇ることを予見したのです。

ペテロがイエスを見た時には、モーニングスターでした。復活して、第三の天に行ってしまったから、ディスターになったのです。

釈尊が明けの明星を見たことが、インドに伝えられていました。インドの三人の博士が、モーニングスターを見て、はるばるベツレヘムに旅をしたのです。

キリストがベツレヘムに生まれたということは、ユダヤ人の救いでありますが、同時に、全世界の救い主でもあるのです。全世界と言っても、セム種族をさしていたのであって、当時のセム種族が、まずこれに気づくべきでした。

当時、人類の中で、セム種族が一番真理を探求していたのです。人間が空である。すべてのことが空であるということを知っていたのは、セム種族です。

人間が空であることが分かった人は、救いを受ける資格があるのです。ところが、釈尊の傍系に空の思想が伝わっていましたが、直系には残っていなかったのです。直系は仏教になってしまったが、傍系は仏教にならずにモーニングスターの伝説として、キリストを拝みに行くことにつながったのです。

明星以外に、東西の文化を一つにしてしまう方法はないのです。明星が魂の真理という意味になるのです。三人の博士が、乳香ともつ薬を持って、二年もかかって、ベツレヘムにやってきた。これは異邦人がイスラエルへ伝道することを、予告しているのです。

キリスト紀元の現在では、今生きている人間は全部、イエスであるということです。これをイスラエルへ教えてあげるのです。若干のユダヤ人から見れば、これが明星になるのです。

聖書に次のような言葉があります。「私は、あなたのわざを知っている。見よ、私は、あなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかからわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。

見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなくて、偽る着たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを、彼らに知らせよう」(ヨハネの黙示録3・8、9)。

東方の国から、明星をたずさえてイスラエルに行くことになるのか、向こうから拝みにくるのか。結局、ユダヤ人は明星に平伏することになるのです。

肉の思いは死である。霊の思いは命であり、平安であるとパウロは言っています(ローマ人への手紙8・6)。実は、人間は霊の思いで生きている時間は、長いのです。肉の思いの間違いに気づきさえすれば、霊の思いで生きることは、決して難しくないのです。

私たちが生きている状態は、実は霊の思いです。肉の思いの自分を捨てるだけのことです。難しいことはないのです。私はもはや生きていない。キリストが私の内にいるので、生きているというパウロの生き方ができるのです。

リビングは霊です。この中に、あらゆる事がら、あらゆる物がらが、全部入っているのです。

完成される人は、初めから決まっています。救われる人は救われる。滅びる者は滅びるとイエスは言っているのです。

赤ん坊の時を経てきた人は、全部、永遠の命を知っているのです。だから、神に裁かれてもしかたがないのです。

見たり、聞いたり、食べたりしているのは、リビングの世界そのものです。リビングによって東西の文化を結びつけるというのは、文明が始ま以来、初めてのことでしよう。宗教ではない般若心経と宗教ではない聖書を、冷静に客観的に見れば、それができるのです。  空を見ると青いことが分かります。これが神です。聖書の本当の信仰は、自分がいるのではないのです。自分という存在があるのです。自分がいる。空が青いのを自分が見ている。これはまだ宗教観念です。見ていることがあるのです。見ていることが神です。空が青いのも神です。                      

空が青いのは父なる神であり、それを見ている自分は、子なる神です。自分が消えてしまわなければ、信仰にならない。自分が消えてしまうと、始めて、信仰になるのです。これが現実に対する正当に言い方になるのです。

自分を否定することによって、有でない自分が生まれてくる。自分を否定しても生きていることが消えてしまうのではない。むしろ自分を否定することによって残るものが、本当のものです。

自分を否定したのに、まだ心臓が動いているという事実があります。目が見えるという事実があります。これは何か。自分ではない自分です。これが人の子である自分です。これをリビング・ソール(living soul) と言います。生ける魂です。

自分を否定したあとにあるのは誰か。これが宗教では分からないのです。見たり聞いたり感じたりしているのは、リビング・ソールです。これがイエスです。リビング・ソールを実感して生きていれば、自分がイエスだということが、すぐ分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


FOLLOW ME

  • Black Facebook Icon
  • Black Twitter Icon
  • Black Instagram Icon
  • Black Pinterest Icon
  • Black YouTube Icon

STAY UPDATED

POPULAR POSTS

TAGS

まだタグはありません。
bottom of page