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「五官はすばらしい機能」


               「五官はすばらしい機能」

「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」(ヨハネによる福音書6・47)とイエスが言っています。魂はこれを信じるためにだけ、現世に生れてきたのです。これが魂の本質でありますし、存在価値なのです。

思いと考えることとは違います。今のユダヤ人の悪い所は、思うことが考えることだと思っていることです。ここがユダヤ人の悪い所です。

現代人の非常に悪い癖は、何でも人から教えてもらおうという姿勢です。自分で考えようとしないのです。現在生きていることを経験しているのに、それから豊かな教えを受け取ろうとしない。神から教えてもらおうとしない。神とは何か。生きていることはリビング(living)です。リビングは神そのものです。この神から教えられようとしない。人から教えられようとするのです。

これがユダヤ主義です。イエスを十字架につけたユダヤ主義はこれであって、アブラハム、イサク、ヤコブは、そんなことはしなかったのです。

聖書に、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とあります。アブラハムのリビング(生きていること)が、アブラハムの神であり、イサクのリビングがイサクの神、ヤコブのリビングがヤコブの神です。彼らは生きているという事実から、割り出していこうと考えた。

生きているということから命を割り出したら、一番いいのです。自分が現在生きているという事実がありながら、なぜ人に聞かなければならないのでしようか。人に聞こうとせずに、自分で考えるのです。

神は全ての人に、リビングという機会を与えているのです。生きていることが命です。これがなぜ分からないのでしようか。生きているという事実がありますから、ここから学んだらいいのです。そうすれば、自らの魂の目が開くことになるのです。

生きていることは何をしているのでしようか。現代人の考えで言いますと、自分が生きていることが、生きていることだと考えるのです。これは愚かな考えです。これは地獄行きの考え方です。

人間は悪魔が噛乳動物に化けているということに、全く気ずいていません。これについては相当広範囲な論理展開をしなければお分り頂けませんが、簡単に述べておきますと、人間が生れてくる前に悪魔の意見に同意して、神が絶対に食べてはいけないという憲の木の実を食べてしまった。その箕、人間が悪魔の子になったので、神と共にいることができなくなって、現世に追放されたのです。現世にいる人間は皆、悪魔の考えになっているのです。目に見える現象世界がある。自分がいるという考え題、悪魔の考えそのものなのです。肉体的に生きている自分がいるという考え方は、悪魔がその人に化けていることを意味しているのです。これがはっきり分からなければならないのです。

人間の考えは自分の考えではないのです。心理構造は自分のものではないのです。生きているということ、リビングに目が開かれるということは、大変なことです。自分だけのことではありません。生物全体に及ぼす影響は甚大なものがあるのです。リビングを明確に、実体的に認識することができるのは、非常に大きいことです。これは宇宙的な大事件になるのです。

創世記に次のような記述があります。

「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、私は、これらを造ったことを悔いる』と言われた」(6・5~7)。

獣と這うもの、空の鳥、陸を足場にして生きているものは、人間のリビングのジャングルに、全部含まれるのです。人間が生きているのは、これらの生物全体を代表しているのです。人間一人が生きているのではないのです。もし人間一人が生きているのなら、人間が堕落した時に、獣や這うもの、鳥と一緒に滅ぼす必要はなかったのです。自分一人が生きているとか、自分の利害得失があるとか、善悪を考えているのは、皆悪魔の化物になるのです。

人間の思いのどこが聞達っているかと言いますと、人間は生活するために生きていると思っていることです。これが近世文明の最大の欠陥です。これは悪魔の考えそのものです。

食って寝て、子供を産んで死んでいく。これなら犬や猫と何ら変わらないのです。

彼らは人間のような家に住んでいませんし、車やコンピューター、テレビや電話はありません。生き方は違います。食って寝て、子供を産んで死んでいくだけなら、結果的に、犬や猫と人間とは、変わらないことになるのです。

生きるだけでいいという考え方は、哺乳動物である人間を、動物次元に定着させてしまうのです。人間存在を動物次元に、完全に定着させてしまうのです。これがユダヤ思想の一番悪い所です。生きるだけでいいという考え方は、人間が生きていることを無意味にしてしまう考え方です。

生活はしなければなりません。しかし生活することだけが目的ではなくて、別に目的があって生活するのです。古代、中世までは、ただ生活だけしたらいいとは考えなかった。別の目的のために、生誓しようと考えたのです。後生、来世につながる何かを発見するために生活したのです。ただ生活だけを目的としていなかったのです。

近世文明は生活することだけが目的です。シビリゼーション(civilization)いう言葉自体が、市民生活を意味しているのです。生活だけしてみた所で、何の意味もない。何のために生活しているのかが、全然分かつていないのです。

生活していることの実体は、リビングしているのです。リビングは神ですから、神を生きているのです。あらゆる生物を代表して、神を生きているのです。これが生活の目的でなければならないのです。

ユダヤ人は現世に生きているものを、人間だと考えているのです。肉体的に生きているのが人間だと見ているのです。人間創造の原理を考えていきますと、肉体的に生きているものが人間ではないのです。

もし肉体的に生きているのが人間であったら、ノアの洪水の時に人間だけを殺したら良かったのです。なぜ獣や這うもの、空の鳥まで殺さなければならなかったのでしょうか。

神の目から見ると、肉体的に生きているのは人間ではありません。人間であるかもしれないが、悪魔が化けた人間であって、神が正当に認めているのは、人の子としての人間です。人の子というのは魂としての人間ということです。これは悪魔が化けたものとは違うのです。

生活だけをしている人間は、人間が確認している人間です。これは悪魔が化けた人間を意味するのです。だから、肉体を持っているのはあたりまえ、死ぬのはあたりまえということになるのです。人に理性と良心という精神機能を与えられていること、五官を与えられていることの意味が、全く分からないのです。

人の五官の鋭敏さ、洞察力の深さには、驚くべきものがあるのです。これは神の創造能力と同じものです。食物の微妙な味を味わいわけますし、微妙な色の違い、様々な電子機器を発明しますし、組織工学を構築して、月まで人間を送ったのです。これは、人に神と同じ創造能力を与えられていることを意味するのです。人になぜこのような精神能力が与えられているかを、ユダヤ人は全然考えようとしていない。これが人間が死んでいく原因になっているのです。

リビングという言葉の本義は、人間から言えばリビングソール(生ける魂)を意味します。神から言えばリビングゴッド(生ける神)を意味するのです。

リビングソールという言葉の本質は、五官の働きそのものを指差しているのです。五官の働きをよく理解しなければ、魂は分からないのです。皆様は、もっと五官の働きに注意して頂きたいのです。

女性は最終の被造物です。あらゆる被造物の枠を結晶させたものです。花の美しさ、山の美しさ、海、川の美しさ、雲の莞の美しさ、マグロや鯛の刺身のおいしさ、あらゆる食物のおいしさを集結させたのが女性です。

女性がどのように反応するかということです。女性が男性にどういう反応を示すのか。女性がどのように物事を考えるか。女性のあり方は、非常に重要なことを示唆しているのです。文学者も色々と女性について書いていますが、本当の女性を知らないのです。

人間が経験しているのは何をしていることなのか。経験しているということは、読んでいることです。読んでいるから何かを認識しなければならない。ところが、経験をしていても少しも読んでいない。これがいけないのです。

五官をただ自分の欲に従って用いているだけなのです。五官によって、神の創造能力の深さ、広さ、高さを、つかまえることができるのです。それだけの機能を与えられていながら、五官をめちゃくちゃに用いて、神のことを全く考えず、ただ自分の肉欲のためにだけ用いている。誠に極悪非道のことをしているのです。

現代人の最も悪い所は、人間の五官をめちゃくちゃに使っているということです。これは神の創造を踏みにじっていることになるのです。ひどいことをしているのです。

五官の本質、その価値が分かると、初めて、リビングは自分のものになるということが分かるのです。

生物は人間の五官と似たものを持っているのです。不完全ではあるけれど、人間の五官とよく似たものを持っているのです。

五官の代表者は人間です。人間が味わったこと、人間が見たこと、人間が恐ろしいと思うことは、動物全体も感じているのです。

人間の霊の働きをよく考えますと、五官によって私たちが読みとることができるものは、生物全体の命が分かるということです。生物全体の命を司るものが五官です。

命を司る五官の価値を認識できるのは、人間だけです。人間の五官は、神の創造能力を正確に捕えることができるのです。

ノアの洪水の時に、人はその道を乱したとあります(創世紀6・12)。道を乱したとはどういうことなのか。五官の最も本質的なものは性です。命の性です。これが五官の道です。命の性を乱したために、染色体がこわれてしまった。その結果、五官を正確に用いることができなくなったのです。

ところが、性の本性の深さ、尊さ、すばらしさを学ぶことができるようになりますと、人間の五官が復活するのです。ここに秘密があるのです。これは聖書の奥の院みたいなものです。世界の人類を指導するためには、セックスの原理が分からなければいけないのです。

人間はなぜセックスに惹かれるのか。そんなに深く惹かれるのは、それだけの秘密があるに決まっているのです。秘密があるから惹かれるのです。良かれ悪しかれ惹かれるというのは、それだけの理由があるのです。良いか悪いかの問題ではない。惹かれるという所に大きな意味があるのです。セックスに無限の魅力を感じるというのは、何かがあるに決まっています。その何かをつかまえないで、ただ惹かれているだけではいけないのです。

人間は神から与えられた五官を、自分の欲のためにだけ使っている。それに対して、責任をとろうとしない。むしろ今の文明は、人間の五官的欲望を膨張させ蔓延させることばかりをしているのです。

神の栄光を受け取らせるために、神は人間に五官を与えた。人間は神の栄光に目を向けないで、自分の欲望ばかりに目を向けている。神からの五官を、自分のためにのみ使っている。全く、天をあざける極悪非道のことをしているのです。だから必ず刑罰されるのです。絶対に刑罰されるのです。

ユダヤ思想は神の創造が全然分からないのです。近世文明の思想は、神の万物創造を、認めていない思想です。神の栄光を認めようとしないのです。人間の本性を認識しょうとしないのです。これが生活主義の考えです。

結局、人間が生きているということは、罪を犯していること以外に何もしていないのです。このことを、純粋に素朴に認識すべきです。人間が生きているのは、ただ罪を犯しているだけだということです。肉体的に生きているのは、罪を犯し続けているのです。五官を自分のために用いているからです。

食べたら食べたことが罪になる。見たら見たことが罪になる。聞いたら、聞いたことが罪になる。することなすことが全部罪になるのです。地獄の刑罰を積んでいるのです。五官を自分のものとして使っているからです。

五官は自分のものではありません。生物全体を代表する感性なのです。生物全体の感性を、自分個人のために用いている。これは生物を踏みにじった考えです。自分だけの欲望を満たそうとする恐ろしい考えです。

生ける神を認識する方法は、五官によるのです。五官が人間を救う。五官が永遠の命を与える導火線になるという哲学は未だ世界にないのです。

パウロは言っています。  「この民に行って言え、   あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。   見るには見るが、決して認めない。   この民の心は鈍くなり   その耳は聞こえにくく、癒やされることがないためである」(使徒  行伝28・26)。

素直に、見たり聞いたりすればいいのです。人間の五官がそのまま魂の救いになるということは、今までの宗教家も哲学者も、言ったことがないのです。五官は最も確実な、最も確かな、誰もが否定できない事実です。

神の創造能力をそのまま察知する、探知する機能性が五官です。パウロは、身においても霊においても、神を誉め祭れと言っています。人間の体で、見たり聞いたり味わったりすることによって、神の栄光を誉めたたえよと言っています。

イエスがインマヌエル(神共にいます)と言っているのは、それです。父にいるとはそのことです。自分自身の五官が、父にいるのです。これは非常に明解で、単純で、幼児でも分かることです。

自分自身の命に関する創見的認識がないからいけないのです。ないとは言えませんが、その能力が低いのです。とこしえの命に至る糸口が示されているから、それを活用するのです。

創見的諷識が必要です。人々が見なかったことを見る人間になるのです。自分自身が変わればいいのです。

日出ずる所の天使がどういうことを言うのか。地の四すみに立っている天使が、何をしているのか。それに対して、日出ずる所の天使は、何を言うのか。それを皆様が言わなければならないのです。

皆様の五官は生物全体の五官を集結しているものと考えて頂きたいのです。それを預けられたのです。

五官は命です。噛乳類という考え方が流動的に存在していることを意味するのです。噛乳という言葉自体が、発育過程を意味するのです。

素朴さにおいては子供になる。頭の回転においては大人になるのです。霊的には子供になるのです。善悪利害を考えなければ、自然に子供になるのです。

ユダヤ人の考え方、現代文明の考えは、肉(悪魔)の思いです。肉の思いは本質的にシャーマニズムです。この世の考えです。民族とか国家という考えはシャーマニズムです。科学もシャーマニズムです。物理的シャーマニズムです。

五官は実体をストレートに捉えています。自然法の原理は、ウイル・ビー(will be)の原理です。ウイル・ビーはあらんとする神を示しています。これにつながるのが五官です。人の五官は、ウイル・ビーを正確に認識する能力を持っているのです。

よく考えてみて下さい。食べ物が口に入るまでに、もう味が分かつているのです。これがウイル・ビーを捉える五官の力です。ウイル・ビーは、理論的、科学的に認識できるのです。人間の五官は、過去的であるよりも、現実的であるよりも、本来的傾向を持っているのです。

男性が女性に惚れる。女性が男性に惚れる。これも本来的です。全て人の五官は本来的です。五官は神の御名の栄光を知っているのです。こんなに尊いものを、自分のものだと思うことが、間違っているのです。

肉体は神が生物全体に与えているものです。個々の肉体があるのではない。神がそれぞれに五官を与え、その五官が働く場として肉体を与えているのです。

人は生れてくる前にどこにいたのか。エデンの園で、神と一緒にいたのです。エデンの園のまん中に、命の木と善悪を知る木があった。

園は神が人間に与えた心理機能全体の広がりを言うのです。心理機能の働きは、生理機能の働きと同じものです。生理機能の働きが心理機能をバックアップしているのです。生理機能があるのではない。心理機能をバックアップするものがあるのです。

生理機能、心理機能の全体の広がりを園と言っています。なぜ園と言うのかと言いますと、人の命が散歩するところだからです。生理機能は広がりです。心理機能の奥行きです。深さです。ここを命が散歩している。だから園と言うのです。その中央に命の木がはえていた。アダムは命の木の実が分からないので、善感の木の実を食べることになるのです。

アダムは命の木の実を知らなかった。創世記二章の時点ではまだ死んでいなかった。生きていたので、命の木の実がならなかったのです。アダムが死ぬと同時に、命の木の実がなったのです。なったからそれを食べることができるようになったのです。アダムの場合、食べる意欲がなかった。まだ生きていたからです。

人間が現世にいる条件の中では、不平や不満がたえず起きてきます。不安と不信が渦巻いている。他人に対する憎しみ、恨み、妬みが次々と起こってくるのです。これは死んでいる状態で、命の木の実を食べざるを得ないように仕向けられているのです。

人間は現在死んでいる状態ですから、命の木の実を食べたい。もつと食べたいと思うのです。

おいしいものが食べたいという肉体的な欲望も、霊的な願いが肉的に反映しているのです。欲望はそういうものです。おいしいものを食べることによって、神の国のこと、エデンの園のことがちらつと分かるのです。

煩悩即菩誓いう言葉が仏教にあります。美しいものを見たいというのは、神の国を見たいという気持ちの現われです。人間の霊的な本能性が反映しているのです。それを意識しないで、ただ常識的に生きていれば、肉になります。霊的な願望を意識するという明知があれば、欲望はないのです。肉(現象世界)がないのですから、肉欲もないのです。

現世に生きているということが、神から見れば死んでいるのです。肉体的に生きているという感覚は、精神的に死んでいることを意味するのです。そこで神の国を求めたいという気持ちが起きてくるのです。これが命の木の実を食べたいという気持ちです。

命の木の実を食べたいという気持ちがある人、幸いになりたいという気持ちがある人は、現在死んでいることを意味するのです。

文明は人間が現世で幸せになりたいということばかりを願っている。それを物理的な方法で達成しようと考えている。そのこと自体が、世界全体が滅亡することになるのです。文明のリーダーシップを取っているユダヤ人が、地獄の案内をしているのです。

現世に生きている間に、自分が消えてしまえば良いのです。これを毎日する必要があるのです。目の黒いうちに、命の木の実を食べる習慣をつければいいのです。

哲学者はなぜ人間に自我意識があるのか。それがどこからきたのか分からないのです。これをはっきり解明した哲学者は、一人もいないのです。これを神が私たちに教えようとしているのです。命の木の実を食べたいけれど、食べられない。なぜなら、ケルビムと回る炎のつるぎを置いて、命の木の道を守っているからです。どうしたらそれを食べることができるか。私たちは六十四億のトップをきって、それをしなければならないのです。

私たちには、リビングのシールが与えられているのです。ザ・シールとは何かというと、ザ・リビングのことです。ザ・リビングとただのリビングとは違います。ザ・リビングは、リビングの実体です。リビングの実体は何か。五官です。五官はどこからきたのか。神から出たものです。神とは可能根拠です。

五官は可能根拠である父から出たものです。目が見えるとは、父から出たものです。父に栄光を帰すことができると、我父にありということができるのです。

イエスは自分の五官が父から出たものであることを知っていた。だから父に栄光を帰した。イエスは自分で見ているのではない。父が見ているのだと言っているのです。

命の木の実とは何か。四十七節の「信じる者には永遠の命がある」というのが命の実です。これをイエスが受け取ったように受け取ればいいのです。

言葉をかえて言いますと、イエスが主であるということが、実行できればいいのです。イエスが主であるという言い方が、五官に対する正しい見方になるのです。

五官は神である父からきたものです。五官に従って生きるというのは、父の内に生きることなのです。神は人間に五官を与えた。人の子に人格を認めているから与えたのです。同じように、五官の本源はロゴスです。ロゴスは人格です。五官を与えたことが、人格を与えたことになるのです。

「神から出た者のほかに、誰かが父を見たのではない。その昔だけが父を見たのである」(ヨハネによる福音書6・46)とあります。アダムからノアの洪水までの良心時代においては、神を父と言っていいのですが、言わなくてもいいのです。

良心時代の信仰は、私たちの参考にはなりますが、私たちの場合は、神の御霊によらなければ、神を知ることができないのです。エノクの場合でも御霊の働きはあったのですけれど、それは約束ではなかった。私たちの場合は、約束があるのです。

エノクの時代の御霊は、約束ではなかったが、自然法だったのです。エノクは自然法という形で神につながっていましたが、私たちの場合は、イエスという典型があって、イエス自身が命の木の実となって、神と人とが非常に鮮明な結ばれ方をしたのです。神自らが十字架によって、イエスという実を結んだのです。だからイエスを通してでなければ、神を知ることはできないのです。

十字架は現時点の人間存在に対して、明瞭なアンチテーゼです。すべての人は十字架によって否定されている。この十字架を受け取らなければ、アウフヘーベンされないのです。自分自身がアウフヘーベンすることが、救いです。だからアウフヘーベンするためには、どうしても十字架を通らなければだめです。

これが園のまん中に置かれているのです。これを通るにはどうするかと言いますと、非常に簡単明瞭なことです。非常に簡単明瞭だから分からない。真理とはそういうものです。

どうするかと言いますと、園のまん中に命の木と善悪の木と二本あるのです。善悪の木の実を食べると、とたんに死んでしまうのです。なぜ死んでしまうかというと、自我が生れるからです。

善悪の木の実を食べた時、又は食べようと思った時に、自我が芽生えるのです。自我が芽生えて神のようになるのです。神のようになって、善悪を知ると、悪魔が預言しているのです(創世記3・5)。神のようになってとは、自我意識ができたことを意味するのです。

自我意識に気をつけてもらいたいのです。自我意識がなくなると人間は楽になるのです。神のようになると、どうしても善悪を考えて人を裁くのです。

自我意識で聖書を読んでいる間は、ただ信じるということが、どうすることか分からないのです。

ただ信じたら良いのです。四十七節に、信じる者は永遠の命を持つとあります。自我を持っていないことが信じることです。自我意識を持っている者は、絶対に神を信じることができないのです。善悪を考えようと思った瞬間に、自我が発生するのです。自分が分かろうと思ったらもうだめです。自分で考えたらもうだめです。

それなら、何を基準にして考えたらいいのでしょうか。五官を基準にしたらいいのです。五官に聞いたら何でも教えてくれるのです。五官に聞かないで、この世の常識に聞いたり、自分の経験に聞いたりするからいけないのです。五官以外のものに聞いたら、必ず間違うのです。

エバはヘビの言葉を聞いた。五官に聞かずにへビの言葉に聞いたから、失敗したのです。善悪利害を考えたら、すぐ自我が発生するのです。エバはその木を見た時、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思えた。その実を食べる前に、彼女の中にもう自我が発生していたのです。

五官だけで見れば良いのです。これがイエスの見方です。五官は神からのものですが、それがどうして神からのものと言えるかです。人間が生きていることが、インマヌエルです。神と共にいるのです。インマヌエルという大原則があるのです。この大原則に従って、五官が与えられている。

人間だけでなくて、生物全体が生きていることが、インマヌエルです。神自身が命という形で自分を証しているのです。これが神が生きている証拠です。インマヌエルということが、神が生きている証拠です。私たちが生きていることが、神を生きていることを証明しているのです。

神は私たちにおいて生きている。私たちは神において生きるのです。二つが一つになっているのです。これをインマヌエルと言うのです。我父におりという信仰が、神我においてという信仰になるのです。

そこで、イエスを主とする考えを持たなければいけないのです。そうしなければ五官が自分の五官にならないのです。イエスを主としなければ、五官が自分を導いてくれないのです。

食べる時には、善悪利害を考えていません。ただおいしいと感じているのです。これは善でも悪でもないのです。その時自我は消えているのです。

善悪の木の実を食べない時には、自我は消えているのです。自我が消えているから、善悪利害に関係なく、命が働いている。この状態をリビングのシールと言っているのです。善悪利害を考えなければ、自我は出てきません。善悪を考えると、自我が出てくるのです。善悪利害を考えないことが自我と絶縁する方法です。

五官がそのままストレートの命です。五官が生きているのであって、自分が生きているのではないのです。従って、五官で生きていれば救われているのです。五官で生きていることが、そのまま救いです。おいしいこと、美しいことが、そのまま救いになるのです。しかも五官で生きていることが、救いとなるということが、神の約束なのです。

善悪さえ捨てれば、自我は消えてしまいます。自我があるから善悪を考えるのです。自我意識と善悪利害は、一つのことです。

神のようになって善悪を知るという悪魔の預言が成就しているのです。神のようにとは、自我意識を持つこと、善悪を知るとは、善悪の木の実を食べるということです。

自分が生きている人は、必ず善悪を考えている。その人は死んでいるのです。自我と善悪を知るということは一つのことであって、どちらかが消えれば、もう一つも消えるのです。自我だけあって善悪を考えないという人はありませんし、善悪利害を考えて自我がないという人もいないのです。

まず皆様に考えて頂きたいことは、善悪利害を考えることをやめることです。そうすると、皆様の中から自我意識が消えてしまいます。そしてイエスが主になるのです。

イエスが主であることをはっきり考えると、善悪利害を考えなくてもいいことが分かるのです。インマヌエルが自分の五官です。五官さえあればいいのです。善悪利害を考える必要がないのです。

これを定着させると、初めて、生きていることの本当の安心が分かるのです。生きていることが救われていることです。このことがしみじみと分かつてきます。おおらかになります。人を許すことができるのです。利害得失がないのですから、敵がないのです。これが山上の垂訓の秘訣です(マタイによる福音書五章から七章)。

生物全体の代表者になることができる人は、万物を治めることができる人です。その人はイエスと共に、来るべき千年王国で、千年の間この世を治めることができる人です。

五官が賢いもの極楽共にござる本体です。神とインマヌエルです。

私たちはイスラエルの回復のために祈らなければならない。イスラエルに対する祈りは神の右にいる者でないと祈れない祈りです。神が腹を立てて怒っている者を、救って下さいという祈りです。これは神の右にいる者でなければ祈れないのです。第三の天にいるキリストの祈りを、地上でさせられているのです。この祈りが心からできる人は、神の子になっているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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