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人問と地球はアウフヘーベンされる


            「人問と地球はアウフヘーベンされる」

神が日本人に要請していることは、小さく言えばイスラエルを覚醒することですが、大きく言えば、神の約束の完成に最も重要な役割を、具体的に演じることです。神の国を地上へ来らせるための最も重要な決め手となる役割を、私たちにやらせようという御心なのです。

聖書が何を言っているのか。何を私たちに命じているかを、勉強しなければならないのです。人間は自分の立場から聖書を勉強しようと考えている。これは非常に悪い癖です。自分がどうかなろうと考えている。これがどうしてもやめられないのです。

個我を捨てなければだめです。個我というバカなものを考えるのは、宗教です。福音は人間の本願ではありません。神の本願です。次元が違うのです。これがなかなか分からない。どうしても、自分が分からなければならないという、次元の低い悪い癖があるのです。自分が納得しなければいけないという感覚がある。これが間違っているのです。

人間がなぜ納得しなければならないのでしょうか。自分はアブラハムより先にいたと堂々と言える心境でなかったら、信仰とは言えないのです。アブラハムよりも四千年も後の人間だと考えている。これがいけないのです。イエスは、自分はアブラハムより先にいた。アブラハムは、私がこの世に出てくるのを喜んでいると言っているのです。これが言える根性でなければいけないのです。

人間が考えているような時間はありません。どこにもないのです。時間がないのに、この世に何十年生きてきたという気持ちが、どうしてもなくならないのです。自分の気持ちを、積極的に憎んでいこうという気持ち、それを足台にしようという気持ちを、どうして持てないのでしょうか。

イエスは山上の垂訓で、こころの貧しい人たちは、幸いであると言っています(マタイによる福音書5・3)。英訳ではザ・プアー・イン・スピリット(the poor in spirit)となっています。霊において貧しくなるのです。現世に生きていることについて、全く無色透明の感覚になっていないのです。やはり自分がいる。自分の経験がある。自分の立場があると考えている。これがいけないのです。

パウロはコリント人への第一の手紙三章、三十節で、キリストが私の知恵であり、私の誇り、私の強きだと言っています。

神はキリストを私たちに与えてくれた。私たちはキリストにあることによって、救われるのだと言っている。キリストにあるという条件があるのです。パウロはキリストを私たちの知恵としてくれたと言っています。自分が知ろうと思わなくてもいいのです。キリストを自分の頭として、使ったらいいのです。例えば、非常に有能な人を、自分の妻にしたとします。その知恵も、体も、自分のものとして使ったらいいのです。それと同じように、キリストを使ったらいいのです。

人間はキリストの妻ですから、キリストの頭を自分の頭として使ったらいいのです。キリストと教会の関係は、このようにして成り立っているのです。

一人ひとりが理解しなくてもいいのです。自分が分からなくてもいいのです。人間はキリストと違いますから、キリストと同じように、聖書が分からなくてもいいのです。

分かろうと思っても、分かるはずがない。異邦人の端くれですから、キリストを自分の夫であると考えたらいいのです。そうすることによって、夫であるキリストがあなたがたを自分の体にしてくれるのです。キリストの妻になりたいと思ったら、キリストの体になったらいいのです。自分の頭を捨てて、キリストを自分の頭にしたらいいのです。自分の頭で理解しようとか、自分の力で伝道しようとか、自分の力で聖書を解釈しようと考えなくてもいいのです。

聖書の言葉が真理である。これをそのまま受け取ると、その内容が勝手に分かるのです。受け取らないで考えても、絶対に分かりません。自分で理解している人は、自分が分かった範囲、自分が聖書を理解できた範囲しか、伝えられないのです。

キリストを頭にして伝えていけば、必要なことはどんどん教えてもらえるのです。自分で分からなくても、話しているうちに上から教えられるのです。

自分で分かろうと思う、救われようと思うからいけない。人間の頭で分かるはずがないのです。キリストを頭にすればいいのです。キリストの知恵を自分の知恵にしてしまうのです。キリストは喜んでそうなってくれるのです。私が分からなくても、キリストが分かっていればいいのです。

人間が生きていることがキリストです。新約時代において、鼻から息を出し入れしているということが、キリストを意味するのです。

正信偈に、帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在仏性という言葉があります。法蔵比丘というのはダルマカラーと言いまして、釈尊のことを言っていると思われます。人間存在はダルマカラーです。

人間は無量寿如来と無量光如来を持っています。命は人の光です。命と光を持っているのです。これを法蔵比丘が悟ったのです。

法蔵菩薩因位時というのは、ダルマカラーという坊さんが、自分自身が阿弥陀如来であることが分かった。法蔵菩薩は自分の知恵で悟ったのではありません。自分の中にある阿弥陀如来が分かっただけのことです。人が生きていることがキリストだということが、分かればいいのです。

なぜ自分が分からなければならないと思うのでしょうか。自分が分かったら、かえって滅ぼされるのです。自分が分かったと思った時に、その人は倣慢になっている。そして地獄へ行くのです。分からない方がいいのです。ただキリストを信じたらいいのです。人は知恵によって救われるのではない。力によって救われるのでもない。信仰によって救われるのです。

聖書に「世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい」とあります(マタイによる福音書25・13)。又、「私は口を開いて肇を悟り、世の初めから隠されていることを語り出そう」とあります(同13・35)。

世の初めから用意されたものと、世の初めに隠されたものとがあるのです。世の初めから隠されたものは神の国です。神の国は、森羅万象を森羅万象としているものです。森羅万象は現れているものから出てきたのではない。現れていないものから出てきたのです。

現れていないものは何か。世の初めの前にあったものです。それは死なない命です。死が宇宙に発生しなかった時の本当の命、死なない命、永遠の命が私たちの目の前に現れている。神の国がそのまま森羅万象になって現れているのです。それが私たちに与えられている。それを受け継ぎなさいと言っているのです。

受け継ぐというのは、英語でインヘリット(inherit)という言葉を使っています。インヘリットと言うのは、譲り受ける、相続するという意味があります。遺伝するという意味もあります。この意味がいいのです。

今皆様が生きているのは、神からの遺伝です。とこしえの命の遺伝です。皆様が生きていることの本体が、神からの遺伝です。神が人を造った時に、自ら人に遺伝したのです。「神にかたどって人を造った」というのはこのことを言うのです(創世記1・26)。

神にかたどって人を造ったと言うのは、世の初めの前、宇宙に逆性が発生する前に、神が本当の命を保有していた。その神の命が、そのまま人に遺伝しているのです。これに気がつけばいいのです。

だから、イエスは言っている。目は体のあかりである。だから、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう(マタイによる福音書6・22)。目はボディーのランプです。ランプに火がつけばいい。皆様の目に火がつけばいいのです。自分自身の目の働きに気がつけばいい。そうすれば、生まれる前の世界と、現世と、この世を去った後の世界が、全部分かるのです。法蔵菩薩因位時、法蔵菩薩は自分自身の本体が、阿弥陀如来であることが分かったのです。法蔵比丘の中に、阿弥陀如来が遺伝していた。これに気がついたことが因位時です。皆様もこれをすればいいのです。これ以外の方法では救いはありません。いくら考えても分からないのです。

自分で分からないから信じるのです。聖書はキリストの中におれと言っています。自分が理解できてもできなくても、どちらでもいいのです。自分が暗くなっていようが、明るかろうが、どちらでもいい。キリストにあることが大切です。キリストにある時、キリストが自分の知恵になるのです。

神の国を受け取りなさいと言っている。どうして受け取るのか。私たちが生きている命の中に、神の遺伝があるのであって、神の遺伝を働かすことになれば、そのまま神の国を受け取ったことになるのです。方法はこれしかないのです。

皆様が見ているのは何か。神の国を見ているのです。それを積極的に受け取るのです。

皆様は自分の内にいたら、地獄へ行くに決まっています。自分の内から出てしまって、キリストを自分の知恵にしてしまえば、もう絶対に死にません。

自分がキリストを学ぼうと思っているからだめです。キリストを自分の知恵にしてしまうのです。自分の頭は空っぽでもいいのです。神の国を受け取ることは、遺伝を意味するのです。神の国を継ぐというのは、私たちではありません。

聖書に、羊が右と左に分けられたとありますが、右に分けられたというのは、自分自身の命を持っている者ではないのです。神自身が、神の持ち物として任命したものです。

私たちは、自分自身を持っていることを、やめてしまわなければいけない。そうすると、神自身の持ち物としてくれるのです。これが霊を渡したということです。霊を渡してしまえば、その人は善悪の関係がないし、生死にも関係がなくなるのです。神の子になるのです。その人の肉体存在が消えてしまうのです。水と血の存在になるのです。

今肉体的に生きている私たちが、福音を受け入れるのではありません。福音を受け継ぐ本人は、私たちではありません。別の人間です。私たちから生まれた別の人間です。従って私たちはその場合、抜け殻です。私たちから出た別の人間が、福音を受け取るのです。ちょうどマリアがイエスを生んだように、私たちもイエスと同じ人を生むのです。

処女懐妊して、イエスを生むのです。そうすると、私たち自身が、抜け殻となるのです。新しく生まれた人格が、神の国を受け継ぐのです。御使いはそれに仕えるのです。御使いは神の国を継ぐもの、御国を継ぐものに仕えるのです。

旧約聖書は古い約束です。新約聖書は新しい約束です。約束はテスタメント(testamnt)です。これは遺言です。肉の人間が死ぬことを条件にして、テスタメントが発効されるのです。これが本当の契約です。

今全世界に、神の国を実現させることを、神が私たちに命令しているのです。大きく言うと、人間全体が神の国を受け継ぐのです。これが千年王国の実現です。王国の実現の前に、まず霊的に神の国を受け継ぐ人々が現れてくるのです。現世に生きている状態で、神の国を受け継いだという自覚をもって、新に生まれた者は、そのままのエルサレムに命招されることになる。そして、天の都、新しいエルサレムの名(ネーム)が与えられるのです。これが教会の約束です。キリストの新しい名も与えられる、これが新に生まれたしるしです。

今までの自分を理解する必要はありません。自分のことを、かれこれ心配することもない。分かっても分からなくてもいいのです。今までの自分を脱ぎ捨てる、捨てるだけです。それだけでいいのです。

自分ではない自分が神の国を受け取ることになるのです。今までの自分とは何の関係もないことですから、自分のことを心配する必要はありません。自分がこんな状態でいいのだろうかと考える必要もない。黙って神の国を受け取ればいいのです。現世ができる前にあった神の国が現世に現れているということを、受け取ればいいのです。

森羅万象が地球に展開していますが、その原形がどこかにあるに決まっています。原形のないものが現れるはずがないのです。森羅万象は建造物です。建造物を造るには、青写真があるに決まっているのです。設計図が神の国です。

森羅万象の設計図を見ればいいのです。実は私たちが見ているのは神の国です。見ているものだけではない。食べているものも神の国です。果物も、魚介類も、牛肉、豚肉も、すべてとこしえの命です。そうでなければこんなにおいしいはずがないのです。

自分がどうかならなければいけないという宗教観念を、絶対に捨てることです。自分が責任を負わねばならないと考えてはいけないのです。これは有難いことなのです。

霊を渡すことです。そうすると、現世における一切の矛盾は消えてしまうのです。

ユダヤ人は肉体的に存在する自分を認めた上で、掟を行うことによって、神の国に入ることを考えていたのです。肉体的に存在する人間という角度から言いますと、このやり方は合理性があります。無理がないのです。

ところがこれをしていますと、人間としては無理がないことですが、神の国に入るということが、直接実現しないのです。理解ばかりになるからです。

理解と信仰は違うのであって、信仰とは望むところを疑わないのです。与えられるに決まっていることを、人間は望むのです。これを確認することが信仰です。見ていないことを確認するのです。私たちの潜在意識は、すでに神の国を望んでいますし、望んだら与えられるに決まっていることを、知っているのです。だから、私たちは強引に望む所を疑わずに受け取るべきです。

理論的な勉強をしすぎてもいけない。今はできるだけ信じる時です。信じた人に神の国を説明すると、とてもよく分かるのです。実質的、実体的に理解できるのです。

一番困ることは、現実が存在するような気がするということです。ところが、現実は全く存在していないのです。現実は真実ではありません。人間には現実が真実だと思えるセンスが、こびりついているのです。こういう角度から聖書を理解しようと思えば、できないこともないのです。しかし、これが宗教観念をつくる原因になるのです。

初めから神の国を信じよと言ってもできないのです。まず一応、知識的な理解がなければならないのです。現在は、短兵急的に結論をつかまえなければならないのです。

私たちが家を見ると、何年も前からあるような気がします。二十年も三十年も前からあるような気がします。ところがないのです。地球が四十五億年もあるような気がします。ところがないのです。

それなら何があるのか。時間がないのに四十五億の地球はあるはずがないのです。去年の地球はどこにもない。あるのは今の地球だけです。ところが人間は、去年の地球があると思い込んでいる。そういうばかな肉の観念から脱却することが、どうしても必要です。強引に脱却するのです。自分の思いを憎むのです。

なぜ四十五億年の地球がないと言えるのか。なぜそのように断定できるのか。物質はすべて電気現象です。電気現象ではない物質は存在しないのです。電気が、形、味、色、香り、栄養化になっているのです。

電気現象はすべて、瞬間現象です。電灯は、一秒間に五十回も、点滅を繰り返しているのです。ですから、物質は瞬間、瞬間の連続で存在しているのです。

ところが、四十五億年間、地球があったように見えるのです。これが神のトリックです。全能者のトリックは、すばらしい現実感があるのです。これをエバーラスティングパワー(everlasting power)と言います。物質が、引き続き、べったりあるように見せかける力が神性です。神性と、とこしえの力が、被造物に現れているのです。

自然科学は、エバーラスティングパワーを認めている、物質が存在すると考えているのです。聖書は、物質が存在すると考えることは肉の思いで、悪魔の考えだと言っています。

物質は存在しないのです。存在するのは、ザット・ヒー・イズ(that he is)です。彼がイズ(is)であることがらだけが、存在しているのです。イズとは彼です。彼とはエバーラスティングパワーです。四十五億年間、継続的に地球があったように見えることが、神なのです。そのように見えるだけです。実は存在していないのです。これに悪魔が、まんまと一杯ひっかかったのです。

暗きはそれを悟らなかったのです(ヨハネによる福音書1・5)。人間もそれを悟ることができない。なぜできないかと言うと、常識で考えているからです。常識が悪魔の思いなのです。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(同1・1、2)。

言は神の口から出ているものです。瞬間、瞬間に出ているのです。これは絶対条件です。弁証法的でなければ物質は存在しないという原理から考えても、地球が四十五年間存在するはずがないのです。

弁証法的唯物論を信じるとすれば、唯物史観は成立しない。物が存在するという事実は、どこにもないのです。ただ人間の認識の中にだけあるのです。人間の観念の中にだけあるのです。認識というのは観念です。分析総合という科学の実験法は、人間の認識論の範囲でしているのです。認識論というのが、神に一杯ひっかかった考えなのです。時間が流れているという簡単なことだけを考えても、空間が存在しないことが分かるのです。

時は流れています。肉体は新陳代謝によってでなければ、存在しないのです。新陳代謝しているということは、たえず変化している。動いているということで、肉体という固体が存在していないことを意味しているのです。

エバラスティングパワーは、永遠の力と日本語の聖書は訳していますから(ローマ人への手紙1・15)これは神の栄光かと思えるのですが、これは神のトリックを意味しているのです。

ところが、神のトリックという面ばかりかというと、そうではない。栄光という面がないこともないのです。しかし、もし神の栄光を現わすための永遠なら、エターナルパワー(eternal power)という言葉を使うはずです。エターナルとは常時間断なく働くとなるのです。とこしえの命はエターナルライフです。エバーラスティングは、継続する、常時べったりある状態です。

人間の思いでは、エターナルは分かりません。常とは瞬間です。瞬間が続いていることを常と言います。いわゆる不連続の連続です。エバーラスティングになると、不連続がないのです。連続してあるのです。引き続き働く力です。

霊的(神から見ると)には不連続ですが、肉的(人間から見ると)には連続して存在するのです。人間の感覚では、引き続き存在する、常時べったり存在するように見えるのです。四十五億年間、地球があったと見えるのです。

神はルシファー(光れるもの)を天使長として認めていました。ところがルシファーが、与えられている能力性を自分自身の力と錯覚し、目に見える形が存在しなければならないと主張したのです。いわゆる自我意識と現象意識を創造した。これが死(逆性)です。その結果、天使長が悪魔に転落したのです。

天使長が逆性を創造した。従って、天地創造、創世という段階では、ルシフアーを無視する訳にはいかないのです。

現に彼は天使長ですから、無視することはできない。そこで神は、逆性を撃滅するために、創世を考えたのです。ところが、創世の中心勢力になるのは、やはり天使長です。天使の長がいるのです。天使長が創世に参画したとはっきり書いてあるのです。これが第一日日のできごとです。

闇から光を引き出した。神は闇と光とを分けた。光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。これが第一日日の仕事でした。

第一日に、昼と夜が、平行的に働いていると、はっきり書いているのです。夜がなければ昼はない。昼がなければ夜はない。昼と夜とが平行的に働いている。そうしなければ、創世はできないのです。神はやむをえず、天使長の闇の働きを容認したのです。天使長の働きは、はっきり神に容認されているのです。天使長自身は満足したのです。これが闇が淵のおもてにあったということです(創世記1・2)。

そこで、淵のおもてにある闇が、神の言葉と互角の立場に立って、この世が初められた。現世では、闇の力が半分働いているのです。新陳代謝は光の働きです。エバーラスティングは、闇の働きです。家は新陳代謝しながら、エバーラスティングの力も働いているのです。光と闇の両方の働きがあるのです。

そこで、人間が現世に生きているという考えに立って見ると、人間の考えはすべて、二律背反になるのです。この世の中に絶対論はないのです。神の真理があると同時に、悪魔の考えも、堂々とまかり通っているのです。文明は神の目から見て、はっきり間違っていますから、私は文明は滅ぶべきものであると言っているのです。

二律背反の原理が許されているということは、地球が弁証法的に存在しているからです。自然科学の理論を信じたい人は信じてもいいのですけれど、それを信じることによって、記憶の中に黄泉を構築する結果になるのです。人間社会にはねたみ、憎しみ、悲しみ、悩み、争いが、絶えず生じているのです。現在の文明の混乱は、ことごとく肉の思いによるのであって、文明はやがて崩壊することになるのです。

考えなければならないことは、唯心論と唯物論と両方あるということです。これは二律背反の論理を証明することになるのですが、二律背反的でなければ存在しないというのが、この地球の実体です。唯心論と唯物論の両方が成立するということは、両方共嘘だということです。

唯心論も唯物論も、両方共アウフヘーベンされなければならないのです。人間のあらゆる学問、あらゆる宗教は、暫定的認識です。人間が存在するということが、アウフヘーベンされなければならないのです。地球もアウフヘーベンされなければならないのです。

現象世界が存在すること、人間が存在することをひっくるめて、あらゆる存在はすべてアウフヘーベンされるべきです。万有は揚棄されなければならないのです。どんな強固な思想、どんな高い信仰でも、必ず揚棄されなければならないのです。

地球が揚棄されることを、聖書ははっきり預言しています。これが新天新地です。現在の地球が消滅した後にできる、永遠不滅の地球が新天新地です。

人間が必ず揚棄されることを、神は歴史において証明した。これがイエス・キリストの復活です。復活は人間自身のアウフヘーベンなのです。

イエスの最後の晩餐の説教は、弁証法的原理の宣言になるのです。現在の人間も、世界も地球も、一切はすべてアウフヘーベンされるのです。歴史はアウフヘーベンに向かって進行しているのです。時間もアウフヘーベンされるために流されているのです。

地球は全く新しい別の地球になる。時間も人間も、全く新しいものになるのです。霊的であろうと、肉的であろうと、直感は一つです。直感は、肉と霊のつなぎめにあるのです。これを純粋経験の直下と言います。これは、肉にも霊にも、どちらにも通用するのです。ここに立って神を考えると、よく分かるのです。現世で、神の国を手で触ることができるのです。

時間の実体は何か。空間の実体は何か。実は時間も、空間もないのです。時間、空間と言うのは、ユダヤ人が造った概念です。時間はないけれど、時間みたいなものはありますが、これを科学的な概念によって信じると、科学という宗教にひっかき回されるのです。科学という宗教によらずに、聖書という真実によって見るのです。そうすると、命の秘密が開かれてくるのです。

イエスが、幼児のようにならなければ、天国へ入ることができないと言っています。幼児は肉の思いで生きていません。霊の思いも分かりませんが、肉の思いも分からない。そこで天使が仕えているのです。幼児になぜ天使が仕えるかが分からなければ、天使を使うことはできません。天使を使わなければ、ユダヤ人に対する伝道はできないのです。

肉の思いは、肉体があると思って生きていることです。客観的に言いますと、二人のアブラハムがいたのです。アブラハム自身が二つの心を持っていたかというと、そうではなかったのです。それをパウロは言っているのです。

肉体的に生きていても、霊に従いて歩むなら、霊の思いは命です。肉体的に生きていても、肉に従って責任を取らねばならないものではないと、パウロは言っているのです。

パウロは肉体的に生きていたが、肉体があることは思っていなかったのです。肉体があると思わずに、肉体で生きているとどうなるか。これが天使を使う信仰です。イエスの信仰はそれだったのです。ここまでいかなければいけないのです。今持っている肉体が、霊体であるという信仰を持つのです。これについてパウロは次のよう述べています。

「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、私たちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう」(コリント人への第一の手紙15・45~49)。

土に属している形は肉体です。こういう状態を私たちは持っています。同時に、天に属する形をも持たなければならないのです。

私たちは現世における異邦人としての土に属する形を持っています。そして天からきたイエスの形を又、持たなければならないのです。肉に体あり、霊に体ありです。二つの体を同時に持つのです。これができる人だけが、パウロが言うように、瞬く間に、変えられるのです。

「兄弟たちよ。私はこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。私たちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、瞬く間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者に起らされ、私たちは変えるのである。なぜなら、この朽ちる者は必ず朽ちない者を着、この死ぬ者は必ず死なない者を着ることになるからである。この朽ちる者が朽ちない者を着、この死ぬ者が死なない者を着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」(同15・50~55)。

私たちは変えられるとありますが、これが携挙です。私たちはここまでいかなければならないのです。終わりのラッパと共に、たちまち瞬く間に変えられ、天に属する形に変わってしまう。これがなされるために、イスラエル伝道をしなければならないのです。神の側から言えば、ここまでひっぱっていって、イスラエルに伝道させようと考えているのです。

神から言えば、この状態になってほしい。又、皆様はそういう状態になりたいのです。そこで、神が考えていることと、皆様が考えていることが、一つになるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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