top of page

「驚くべき人間存在の実体」


               「驚くべき人間存在の実体」

エミール・ゾラの女性の描き方は、ロシアのチェーホフとは全然違います。ゾラの

方がずっと深いものがあります。それでもゾラは、女性が分かつていないのです。

人間が考えているような女性はいません。旧約聖書の二章に出てくる女性と、三章に出てくる女性とは、全然違います。自分の考えを捨ててしまわなければ、聖書に入っていけません。ごちやごちやした自分の感情を捨てなければ、だめです。リビング(自分が生かされていること)の中に入って、人間が消えてしまわなければだめです。人間が考えている女性がいると思っている間は、まだリビングが分かつていないのです。

ゾラの小説に出てくる女優ナナは、男という男をかたっぱしから自分に奉仕させるのです。それでもまだ気に入らない。気に入らなくてしょうがないのです。そうして死んで行くのです。

ナナは自分がなぜそうするのか分からない。ゾラは、自分の理想的な女性を書いたつもりですが、盲点になっている所があるのです。

ゾラは女性があばら骨で造られたことは分かっているでしょう。しかし、そのあばら骨がどんなあばら骨かが分かっていないのです。普通の男性のあばら骨だと思っているのです。そうではありません。男性も分かつていないのです。

創世記の記述によれば、アダムとエバは、神から絶対に食べてはいけないという善悪の木の実を食べて、陥罪したとあります。

女性は、陥罪以前のアダムのあばら骨で造られたのです。これは陥罪以後のアダムのあばら骨とは違います。男からでたので、女と名付けなさいという意味が分からないのです。

陥罪以前の男性は純人です。ハー・アダムです。ハーとはヤハー(エホバ神)のハーです。アブラハムのハ、エホバのハです。ハー・アダムは純人で、イエスのことです。

イエスの実体は、ハー・アダムです。ハー・アダムを完成したのが、イエスです。聖書的に言いますと、生みたまえる一人子になるのです。人間的にはハー・アダムです。純粋の神の子です。神そのものの人です。これがあばら骨です。

ハー・アダムが、男と女に別れたのです。女性の本質は、ハー・アダムの骨です。これが女優ナナになって現われているのです。ナナは何をしてもらっても気に入らない。どうしても満足できないのです。

女性は男性と結婚して、体は与えますが心は与えません。与えないと意識しているわけではありませんが、与えられないのです。自分の心を、人間である男性に与えられないのです。これが女性のすばらしい所です。これを男性から見ると、片意地に見

えますが、そうではないのです。

男性は子供じみた考えで、見る習慣がついてしまっている。自分のペースで見る習慣がついてしまっているのです。自分の立場で独り合点して女性を見ている。ですから、ゾラのような見方ができないのです。ゾラはとても深い女性の見方をしていましたが、それでもまだ間違っているのです。

女性はなぜ満足できないか。ナナは何を求めていたのか。ナナ自身にも分からなかった。結局分からずに死んでしまったのです。それに対して、エミール・ゾラも解答していません。ゾラの見方は、西欧人の中ではずば抜けていますが、それでもまだだめです。

女性は男性にどうしてほしいのか。居てもいいのですが、居るままで消えてほしいのです。実は女性は、元いた場所に帰りたいのです。

女性は何とか男性に従おうとしていますが、だめです。従がいたいのです。そうしようとしているのですが、できないのです。女性の本質が、ハー・アダムのあばら骨だということが分からないからです。今までそれを、つきとめた人がいない。聖書を正しく読んでいないからです。皆男性のあばら骨だと考えている。ハー・アダムのあばら骨だということが分からないのです。

これはどういうことかと言いますと、実は、人はイエスのあばら骨であると神は言いたいのです。私たち自身が、イエス・キリストのあばら骨です。これが聖書の秘密なのです。

男性は女性を見て、女性が磨を求めようとしているのか。これは人間のあり方を示しているのです。

人間は自分で自己完成をすることができません。なぜなら、今の人間はハー・アダム

ではないからです。自己完成をしようと思えば、ハー・アダムであるイエスに、自分の霊を渡してしまうしか方法はないのです。そうして素直になれば良いのです。

神が人間を造ったのは、天使長ルシファーにかわって、全地を治めさせるためです。

神は動物的な人間を造ったのではありません。ところが、今の人間は、動物的な人間から抜けきっていないのです。固有名詞の人間が、家庭を待ったり、仕事をしたり、現世に生きているという条件を持っています。そういうところに、何十年もいますと、生活ボケになってしまうのです。

これを否定すると、山上の垂訓のような姿勢が、自然に出るようになるのです。天然に生きることになるのです。そこで初めて、ハー・アダムらしい状態になるのです。良くても悪くても、自分がどうにかなろうと考えたらだめです。自分は消えてしまえばいいのです。自分が消えてしまえば、どんなに高い光がきても、受け取れるのです。自分の霊を渡してしまえばいいのです。

自分の感情、今までの感覚を捨てると言っても、自分の体に染みついているから、きれいさっぱりにならなくてもいいのです。ことごとく自分の自我意識から抜け出して、霊に従って生きるように心掛けるのです。

霊だけで生きるのです。霊とは何かと言いますと、新羅万象を生かしている実体です。これに従って生きるのです。現世の人間から見ると、幽霊みたいな生き方に見えるかもしれません。

自分の感情、自分の好き嫌い、自分の理屈はあってもかまいませんが、一切主張しないことです。人々から見ると、精神的に死んでしまうような状態になるかもしれません。

今まで与えられた生活のペースは、神が魂に与えたペースですから、これは捨ててはいけないのです。家庭的なペースとか、職業的なペース、社会的なペースは、神が皆様の霊魂に与えたペースですから、捨ててはいけないのです。これは皆様自身とは違います。これは捨ててはいけませんが、自分は消えてしまわなければいけないのです。ペースだけあって、自分は消えたらいいのです。

人間は低能です。低能を自覚するのです。山上の垂訓(マタイによる福音書五章)で、イエスがいいたいことは、天国へ入るということです。心の貧しいものは天国を持つ、義のために迫害されている者は、天国を持つという。天国に入ることをいいたいのです。

天国と神の国は違います。天国を知らないままで、神の国を見るのは危ないのです。あまり感心しませんが、見ないよりは見た方がいいのです。神の国を見る前に、天国があります。霊において貧しいものは、天国を持つとありますが、なぜ持っていると言えるのか。その後、悲しんでいる人たちは幸いであるとか、柔和な人たちは幸いであると書いています。

それは皆天国のことです。天国は幼児の心理状態のようなものです。天国が私たちの生活の常態になっていれば、おのずから神の国が分かつてくるのです。天国をしつかりふまえて、神の国と神の義を求めるのです。

それに対してイエスは、条件を出しています。天にいます父の御心を行うものだけが天国に入るのです。それは人間が入るのではないのです。

例えば、天にいます父の御心を行う女性は、人間が考えている女性ではありません。この女性が分かると、人間から抜け出すことができるのです。女性の本体を見破ることができたものは、自分自身が人間から抜け出すことができるのです。

マタイによる福音書の二十五章に、三つの譬が書いています。最初の皆は十人のおとめがいて、その中の五人は思慮が浅く、ほかの五人は思慮深いものであった。思慮の浅い着たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮の深い着たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた。

二つ目の譬は、主人がある人に、能力に応じて、五タラント、二タラント、一夕ラントを預けた。それをもとでにして、ほかのタラントを儲けたとあります。最後の譬は、羊や山羊を分けるという話です。

皆様が、預けられたタラントを元手にして、ほかのタラントを儲けたかどうかです。十人のおとめの所では、自分自身を神の器として、その器に油を蓄えているかどうかです。

問題は皆様が生きていること、ボディーが、油壺になっているかどうかです。人間の体は聖霊の宮であって、聖霊という神の油を入れる器です。器に油を蓄えているかどうかです。油のかわりに、ヘビを入れている人が多いのです。

それから、他のタラントを儲けたとはどうするかです。他のタラントを儲けることが、イエスを知ることだと概念的に分かつてもだめです。商売をしなさいとなぜ言っているのか、どういうやり方をしたのかです。ていないと、儲けたことにはならないのです。トレードといったイエスの気持ちは何か。何をトレードしたのか。どのようなやり方をすると、正当な商売になるのかです。

マタイによる福音書の二十五章の譬は、全部人間はいないという結論になるのです。これがはっきり分かると、初めて、創世記第二章の人間に帰って行くのです。そうすると皆様は、新しく生れることができるのです。

聖書の言葉を、聖書通り実行した人は、東洋では一人もありません。東洋人でそれを

実行したという記録はないのです。ヨーロッパではいたかもしれません。

人間がいないということが分かると、気楽になるのです。いると考えているから、難しいとか、困ったことがあると考えるのです。

神は人間の能力性(タラント)を、預ける形で与えているのです。その人の意志に任せて、預かったものを自由に用いることができるのです。命を預ける場合でも、言葉を預ける場合でもそうです。神が言葉を預けると、自由に用いさせるのです。だから預言者は恐いのです。間違えて言葉を用いると、後からひどく叱られるのです。偽預言者としてひどいめにあわされる。これが恐いのです。

タラントを預けられたという事実、実体をどのように理解しているかです。皆様はタラントを預かった覚えがあるのでしようか。どのように預かったのでしようか。

マタイによる福音書の二十五章には、十人のおとめの譬、タラントの譬がありますが、彼が栄光の座につく時、すべての国民を集めて羊とヤギを分けると言っています(32節)。

福音をマスターした人は、主と一緒に栄光の座にすわり、羊とヤギを分けるのです。ここに多くの国民という言葉がありますが、これは王国時代のことです。新天新地になると、もっと精選されてくるのです。新天新地にも多くの庶民がいるのです。

多くの国民の父としてアブラハムが立てられていますが、約束の民というのは、ユダヤ人を意味しないかもしれないのです。約束の民というのは、約束によって贖われた民のことを言います。約束をそのまま自分の命として受け止めた民です。これは民族ではありません。これをパウロは、霊のイスラエルと言っています。パウロの言い方が正しいのです。

民族としてのユダヤ人は、神の選民ではありません。約束を自分の命として受け取った人が選民です。

それでは、ユダヤ民族と称しているユダヤ人に、伝道しなくてもいいかというと、そうではありません。ここが難しいのです。イスラエルには、霊のイスラエルと肉のイスラエルとがあるのです。

イスラエルの回復とは何かと言いますと、旧約聖書の預言によれば、シオンの義が上る朝日のようになることを意味しているのです。エルサレムの救いが、燃える松明のようになることをさしているのです。

これはダビデの幕屋の復興です。イエスがキ㌢トとして再臨することです。イエスがキリストとして再臨するためにどういう条件が必要かと言いますと、自らユダヤ人と称えている人々が、「主イエスよ来たりたまえ」と言わなければならないのです。

そこでユダヤ人が正当な約束の民であっても、そうでなくても、自らユダヤ人と称えている人々に、伝道しなければならないのです。サタンの会堂に属する人々が、現実に居るのです。この人々に対して、祈らなければならないのです。

自らユダヤ人と称える人々に、彼らの魂の目を開いて下さい、御霊を注いで下さいと、祈らなければならない。自らユダヤ人と称えていない人々は、どうでもいいのです。自らユダヤ人と称えている人々に、祈らなければならないのです。

ユダヤ人とは何か。ユダヤ人の祖先のアブラハムの一族は、戦争ができる男だけで三十万人位はいたでしよう。この人々に皆割礼を施したのです。その他、年配者や子供もいたでしよう。この人々にも割礼を施しました。これがユダヤ人の祖先です。

ヤコブの末から出た者だけがユダヤ人ではない。ヤコブの末からでないユダヤ人が、相当いるに決まっています。その中でユダヤ人と称している人は僅かでしよう。とにかく、ユダヤ人であると震っている人々に、伝道すればいいのです。

私たちが、今、現世で生きていると思っている命は、タラントとは違います。私たちが生きていると思っている命で、車の運転をしているのではありません。別の命で運転をしているのです。これを見つければいいのです。

皆的外れをしています。見当違いばかりをしているのです。だから聖書を理解した、霊を渡すと言っても、皆見当がくるっているのです。これを全部修正しなければならないのです。肉の思いとか、霊の思いという言葉を使うにしても、もう間違っているのです。

リビングとは何か。これがまさに預けられているタラントでなければならないのです。これをどうやって自分のものにするかです。

私たちが生きている命と、預けられているタラントとは違います。私たちは自分が認識できる角度からの命を持っていると思っている。これは神が仮に生かしている命です。

パウロは今の人間のあり方を、「死人を生かし」といっていますが、(ローマ人への手紙4・17)。正確には、死人に生活を与えていると訳すべきです。

もし本当に生かしているのなら、命についての正確な認識があるはずです。神は死んでいる人間に生活をさせている。だから人間は操り人形みたいな状態になっているこの心理状態を般若心経では、一切無顛倒想と言っています。人間の考えは全部逆様で、夢のような考えの中を彷復している。まるで夢遊病者のようだと言っているのです。

皆様は自分の低能性をよく知って頂きたい。人のことを責めるどころの話ではない。腹を立ててはいけないし、それをバカだと言ってはいけないのです。

本当の賢さとは何か。花が持っている賢さが本当の賢さです。花は導かれるままに咲いています。これをヨハネは現実に見つけたのです。パウロも見たのです。

ヨハネは、千々万々の御使が、小羊を賛美していると書いています(ヨハネの黙示録5・11)。天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にある全てのものが小羊を賛美している。

万物は五つの言葉で賛美しています。物の中にあるものは三つの言葉で賛美している。二十四人の長老は、七つの言葉で賛美している。賛美が天地に響いている。これをヨハネは聞いたのです。

人間は低能ですから、苦しんだり悲しんだりする資格がありません。自分の御心は低能すぎて行えないので、天の父の御心を行うしか、方法がないのです。天にいます父の御心を行うもののみ天国に入るということは、誰でもできることです。御霊が私たちと共に、私たちが神の子であることを証しています。御霊自ら、言い難き嘆きをもって、私たちのために祈っている。この御霊が、私たちの霊を妬むほどに愛している。御霊と人間との関係が分かると、初めて、タラントを預けられていることが分かるのです。

花は無意識に生きています。人間はそれを意識的に否認しています。ここが違うのです。人間は御霊によって生かされていることを、意識的に否定しています。花は御霊によって生かされていることを知りませんが、無意識に承認しているのです。どちらがいいのでしょうか。人間は生かされていると思わずに、自分で生きていると思っている。だから死んでしまうのです。

人の子というのは、神にタラントを預けられて、タラントの内容を理解している人を言うのです。それが具体的に理解されていない状態では、人の子になっていないのです。概念ではだめです。皆様が自分の生活で、タラントを使いこなすことができるような、認識を持つ必要があるのです。

リビングということ、預けられているタラントのことが正確に認識できると、唯一無二の神の中心になるのです。これを生ける神の印と言います。

皆様は神の国がよく分かつていません。神の御座が、自分の中にあるのです。ところが、神の御座を問題にせずに、自分の御座の方を問題にしているのです。神の御座の方に目を向ければ、すぐに神の国は見えますし、そこにリビングの実体があるのです。

神の実体というのは、非常に合理的な実体です。これは人間が考える合理的、科学的実体とは違います。皆様が鼻から息をしている、目で見ていることは、科学的合理性とは全然違います。違ったものを目で見ているのです。

神の御座が分かった人は、光の世界を直感しているのです。御座のまん中とその回りに何が働いているのか。神の御座にいるのは四つの生き物です。これが御座から皆様に派遣されているのです。すべてのエネルギーの根源は、この働きです。

四つの生き物の第一はししのようであり、第二は雄牛のようであり、第三は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであるとヨハネは書いています。これは、推理、直感、記憶、感受性という、心理機能として受け去られるでしょうし、あらゆる精神機能の源泉でもあるのです。これが本当のエネルギーです。四つの生き物が人間に使わされているとはっきり言った人は、未だかつていません。

黙示録四章の御座の光景は、大宇宙の実体でもあり、そのまま人間存在の実体でもあるのです。

神は自分自身の命を、人間に吹き込んだのです。神自身の命とは、神の御座のことです。命を人の鼻に吹き込んだと書いてあるのは(創世記2・7)、このことです。

神は自分の御座を吹き込んだのです。これが人間のリビングです。人間が生きているのは、四つの生き物がいることです。四つの生き物が働かなければ、家事も仕事も、営業活動も、研究開発も、遊びも、一切できません。人間の中で、四つの生き物が見事に働いているので、人間は生きているのです。

この世を去るとどうなるのか。四つの生き物が去っていくのです。そして御座が消えてしまうのです。神の御座が消えれば、人間の尊厳も消えてしまうのです。

人間にある栄光と誉れは、御座があるから存在しているのです。御座があるから、直感、推理、判断、感受性が働いているのです。これが人間が生きている実体です。

人間が生きていることは、神の御座を証しているのです。リビング(人間が生きている実体)は、神の御座です。

生霊と亡霊とどう違うかと言いますと、生霊には絶対的な権威があるのです。生霊はこれには勝てないのです。日蓮宗の坊主でも、生霊ぐらいは追い出します。生霊の権威を持っているからです。生霊はシャーマンの霊よりもつと強いのです。ことに、聖書を学んでいる生霊の力には、大変なものがあるのです。

リビング・ソール(生ける魂)と、リビング・ゴッド(生ける神)は、ほとんど同じものです。神は造り主であり、人は被造物であるという違いがあるだけです。内容は同じです。これは大変なことです。神は男性です。人は女性です。これが違うだけです。女性の秘密がここにあるのです。

聖書は次のように書いています。

「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現われていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を見にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。

神の御座がリビングにおいて、そのまま人に移し植えられているのです。これを二十四人の長老と書いていますが、英訳では、二十と四となっています。

二十は現世における二種類の経験を意味しています。霊の経験の十と、肉の経験の十です。四は、それが現世、現象的に現われているという意味です。全部で二十四の長老になります。人間が小さい宇宙であることが、これによって証明されるのです。

長老は金の冠をかむっている。これについて聖書は述べています。

「あなたは、しばらくの間、

彼を御使いたちよりも低い者となし、

栄光と誉れを冠として彼に与え、

万物をその足の下に服従させて下さった」(ヘブル人への手紙2・7、8)。

栄光と誉れは、彼自身の他にはありません。実は栄光は神そのものです。誉れも神

自身です。人間は御使よりも少し低い状態に造られて、栄光と誉れをかぶせられている。これが金の冠です。神の御座です。ですから、腹を立てたり、苦しんだり、悲しんだりする必要がありません。本当に苦しむなら、神の苦しみを苦しんだらいいのです。神の御座が皆様の中にありますから、皆様の祈りは百発百中です。御座そのものが祈っているのです。これを信じて祈るのです。

皆様は、自分の命を神の御座と考えたらいいのです。生ける神の印とはこのことです。今皆様に必要なものは、生ける神の印です。これがリビングです。御座のない所に、リビングはありません。

ハイーム(生き生きしている命)は、神だけのものです。神の御座はハイームによって証明されるのであって、ハイームのない所に御座があるはずがないのです。

生きているということが、御座です。だから皆様は、天の父の御心を行うに決まっているのです。信じる者に対する神の助けが、いかに偉大なものかを知れと、パウロは言っています。

御座がないものは、神が信じられるはずがないのです。御座があるから、神を信じよと言っているのです。御座があるから、神に基づいて考えることができるのです。私たちが生きていることは、そのまま神の御座であって、四つの生き物が働いているのです。

神が皆様に力を与えているのではありません。四つの生き物が働いているのです。生霊が神の御座であることを信じる時に、神霊と皆様の霊が、一つになるのです。これが働きだすと力が出るのです。

医学は、神の御座をつきとめることを晶にしていますが、本当のリビングが分からないのです。だから命が分からないのです。

命とは何か。四つの生き物が働いていることです。四つの生き物の働きが分からなければ、命の正体は分かりません。四つの生き物は全く驚くべき働きをしています。このことをよく考える必要があるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


FOLLOW ME

  • Black Facebook Icon
  • Black Twitter Icon
  • Black Instagram Icon
  • Black Pinterest Icon
  • Black YouTube Icon

STAY UPDATED

POPULAR POSTS

TAGS

まだタグはありません。
bottom of page