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「やがて世界は新しくなる」


               「やがて世界は新しくなる」

イスラエルと神との関係を言いますと、イスラエルに与えられている神の掟は、宗教ではないのです。人間の生まれ性がそのまま掟になっているのです。例えば天地の構造がそのまま神の約束の根底であるように、人性にあり方がそのまま掟の根底になっているのです。これがはっきり分からないと、宗教観念の中をいつまでもうろうろしていることになるのです。

天地の構造が神の約束であることが分かっていないのです。世代が造られたこと、有形的な地球存在が造られたことが、神の約束です。バン・アレン帯があり、電離層があること、南極北極が確定していること、天候の原理、気候の原理、地球の自転公転の原理、自然法の原理が、そのまま神の約束です。

日本人の民族意識は、根底的にひがみ根性です。日本人の中に根ざしているひがみ根性は、ひどいものです。

神の福音はありのままのものです。ありのままの地球、ありのままの人間を、ありのままに認識すれば、人間は勝手に救われるようになっているのです。ありのままの地球、ありのままの人間をストレートに認識すると、人間の心に神が映ってくる。これをしないからいけないのです。

自分の気持ちで、色々と考える。皆様は毎日、おのが業をしているのです。自分の根性で自分の生活を喜んでみたり、悲しんでみたり、楽しんだりしています。いつも自分の気持ちでいる。これが死んでいる人間の特徴です。

ちょっと気に入ることがあれば喜び、ちょっと気に入らないことがあれば、苦しんだり悲しんだりする。これが、人間が死んでいる証拠です。

自分の気持ちで物を考えることが、死んでいる証拠です。自分の気持ちで物を考えるということは、自分の魂の中へ神の怒りの火をつんでいることになるのです。これが皆様の記憶になっているのです。

自分の思いが腹の底にあって、それによって考えている。これがなくならなければ、信仰にはならないのです。

神は安息を求めている。安息するということは、自分の業を休むことです。自分の気持ちで自分が考えることをやめるのです。

安息が信仰の基本です。これを神はユダヤ人に、掟によって明示しているのです。ところがユダヤ人は安息しないのです。安息は仕事を休むことだと考えている。仕事を休んでも、安息にはならないのです。

安息という字をよく読んだら分かるのです。これは息をやめるということです。息をやめたら死んでしまうから、息をやめなくてもいいのですが、心の底で息をすることをやめることです。

鼻の息はしかたがないが、自分の心の思いで息をするのをやめるのです。これが安息という言葉の本当の意味です。ユダヤ人は自分の心の思いをやめないで、仕事だけを休んでいる。これが間違っているのです。

イエスは、人の子は安息日の主であると言っています。イエスは安息していたのです。自分の心を使うことを一切やめて、父の中で生活をしていた。それだけのことです。この要領が分かってくると、本当の楽しさが分かるのです。

神を恐れるというのは、本当の喜びにひたることなのです。

人間は自分が生きていると思っています。自分が生きていると思っている人は、絶対に安息できません。安息に入ると、新婚のようなうきうきした気持ちになれるのです。

人間が自分の気持ちで生きているということは、いつも心が頑なになっているのです。皆様は、水のバブテスマということがよく分かっていないのです。洗礼を受けたけれど、その意味がよく分かっていないのです。だから聖霊のバブテスマはなお分からないのです。

魂の行く末を決めることが、現在生きている人間がしなければならない仕事、責任です。

安息とは、一切自分の気を使わないことです。生きていることは、神の与件(与えられた条件)であるに決まっていますから、それを受け入れるしかない。あれこれいう資格は一切ありません。神はその人に対して、最善を行っているのです。私たちはそれに対して、あれこれと言うことはできません。ただ有難く感謝をして受け取ればいいのです。そうすると、毎日与えられる条件を喜びとして、受け取ることになるのです。

ただ受け取っているだけなら、悲しみも苦しみもない。喜びもありません。これがいわゆる禅宗の悟りですが、これではだめです。禅宗の悟りは、人間の本当の良心の働きではありません。達磨大師の悟りは、人間の本当の喜びではなかったのです。

釈尊はただ悟ったのではありません。釈尊は明けの明星を見たのです。明けの明星を見たということは、聖霊のバブテスマを受けたのと同じ意味を持っているのです。神の御霊のバブテスマを受けたことと、同じ意味を持っているのです。異邦人で、そういう特別の処置を受けた人は、おそらく釈尊だけでしょう。

釈尊は人間としての自分自身を、棒にふって、考えていたのです。まず王子の位を棒にふった。王様になれるというけっこうな身分を棒にふったのです。それから、結婚した美しい妻も棒にふったのです。自分の命と自分の家庭を、本当のことを教えられる前に、捨ててしまったのです。ただ真理を知りたいと願ったのです。神の約束に基づかないで、人間の立場から真理を知りたいと願ったのです。これは変則的ですければ、その狙い方が非常に良かったのです。

自分が幸福になりたいとか、自分が救われたいと考えなかった。人間がなぜ生きているのかということだけを考えたのです。人間は何のために生きているのか。ただ生老病死を考えたのです。これが非常に良かったのです。そこで彼は約束の民ではなかったが、特別に神の御霊によって、神の経綸の中心を教えられたのです。これが明けの明星です。

明けの明星は聖書には、私は輝きである、明けの明星であると書いています(ヨハネの黙示録22・16)。日本語の聖書では、輝く明けの明星であるとなっていますが、英訳では、the Bright and Morning Starとなっています。これは輝きである、明けの明星であるという意味です。これが本当です。明けの明星が、実は輝きです。

本当の輝きは宇宙に一つしかありません。これはペテロの第二の手紙でも述べています。心の中に、明星が出ない信仰はだめだと言っているのです(1・19)。

心の中に明星が出ると、神を恋するという本当の味わいが分かってくるのです。人間の恋は、神を恋することの譬です。本物ではないのです。恋の本物は、父なる神と子なる神の交わりです。霊なる神と、霊なる魂との交わりが、本当の恋です。これが宇宙の命の本性に係わる誠のセックスです。人間が考えているセックスは、すべて情欲です。情欲の惑わしという言葉が聖書にありますが、セックスはただの惑わしです。惑わしではなくて、本物をつかまえるのです。

人間の本性は、逆性によって固められています。それが女性の中にしっかり入り込んでいるのです。逆性から脱却することが私たちの責任であって、私たちの生活が、精神的にも肉体的にも、根本から、現在の人間と違うものになってしまうことです。たちまち、瞬く間に変えられて、空中においてキリストに面会するようになることが、聖書の本当の救いです。これを目標にしなければならないのです。

人間はすぐに、聖書を肉(人間の常識)のレベルで見てしまうのです。神の約束を肉のレベルに引き下ろして、考えてしまうのです。人間の立場からだけで、聖書を勝手に見ていくのです。

神は何を言いたいのか。神は人間に、どのような救いを与えようとしているのか。これを神の御心どおりに受け取らなければいけないのです。

釈尊は人間の欲を捨ててしまった。現世に対する欲、異性に対する欲を捨てて、人間は何のために生きているのかということだけを考えたのです。これは大した決心です。異邦人でありながら、よくここまで徹底したと思います。

釈尊も私たちも、同じ人間です。彼ができたことは、私たちにもできるにちがいないのです。どうしたらできるのか。捨てたらいいのです。自分を捨てたらいいのです。釈尊は自分を捨てた。この世を捨てて、ただ真理を知りたいと願った。それに対して神は、正当に報いたのです。

卵を求める者には卵を与える。パンを求める者にはパンを与える。卵を求める者に、石を与えないとイエスは言っているのです。釈尊は卵を求めて、悟りを与えられた。これは異邦人としての卵であって、約束の御霊ではありませんでした。悟りであったが救いではなかった。

しかし釈尊の悟りは、人間の悟りではなかったのです。いったい何の悟りだったのでしょうか。人間の悟りは、せいぜい達磨大師くらいのものです。それ以上のものはありません。白隠禅師くらいのものです。伝教大師や弘法大師は、宗教臭い所があるのです。

人間の悟りにも色々あります。釈尊の悟りはそういうものではありませんでした。釈尊の理性と良心は、どういう状態だったのでしょうか。

三位一体の神の名によって水のバブテスマ(洗礼)を受けますと、良き良心が与えられるのです。父なる神と子なる神、聖霊によってバブテスマを施すと言われると、ハツとするのです。これはすばらしいことです。父と子と聖霊によってバブテスマを施すという言葉はキリストから出ているからです。

どんな牧師がしても、キリストから出ているのです。なぜかと言いますと、万国の民に、父と子と聖霊の名によってバブテスマを施せと、キリストが命じているからです。復活のキリストが、これを命令しているのです(マタイによる福音書28・19)。

ペテロは言っています。「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたを救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである」(ペテロ第一の手紙3・21)。

聖霊を受けたいと願っている本人の気持ちが、そのまま神に質問している形になるのです。自分の生涯を神に捧げて、聖霊を受けたいというその決心が、神に対する質問になって現れているのです。

それに対して、神が答えてくれるのです。神は非常に親切、ていねいで、正確です。その質問に答えて、上から良き良心が与えられるのです。洗礼を受けた時の感動は、良き良心が与えられた証拠なのです。その時には、普通と違った人間になったような気持ちがします。この気持ちが良き良心です。

このことをパウロは、清い心と正しい良心と言っています(テモテの第一の手紙)。人間は良き良心で生きようとしないので、神に対する喜びがなかなかわいてこないのです。

神を愛すると言うのは、神に質問をすることです。神はその質問に答えてくれるでしょう。これを父と子の交わりと言うのです。

魂と父なる神の御霊との交わりと言うのは、現前的なものです。現実的なものです。生活の実感的なものであって、そこにおいて、神と人の交わりがなければならないのです。これがなければ、本当の信仰とは言えないのです。

これが一番崇高な愛の経験であって、人間が結婚するまでの、いいなずけの交わりみたいなものです。人間がまともに神を信じると、神に対していいなずけをされることになるのです。だからいいなずけの喜びが感じられるのです。

自分の気持ちで生活してはいけない。良き良心で生活するのです。普通の理性、普通の良心ではだめです。水のバブテスマは人間の良心に施されるのです。人間の良心に、父と子と聖霊の名がかけられる。良心がバブテスマされるのです。これを水によりて生まれると言うのです。

もう一つ、霊から生まれるというのがあります。これが御霊を受ける、あるいは聖霊を受けると言うことです。

御霊は大自然の万物を生かしているプラスのエネルギーです。これと一つになることを御霊を受けると言います。大自然のプラスのエネルギーが知恵として働いて、聖書の言葉の真意を教えてくれる。そして聖書の言葉が命になることを、聖霊を受けると言います。

水から生まれ、霊から生まれると、神の国に入れるのです。これをどうしても実施しなければならないのです。

釈尊は水のバブテスマを受けなかったけれど、キリストによってバプテスマを受けたのです。明けの明星を見た時に、イエスの名によってバブテスマを受けた。私は輝く明けの明星であるという名によって、受けたのです。

釈尊はイエスの名が分からなかったのですが、明けの明星を見て裕然と大悟したのです。それまでに彼は、人間を捨てていたから、明星が彼のハートに輝いたのです。この悟りは、白隠禅師や正受老人の悟りとは違います。釈尊の悟りは一切空です。諸法空相、是故空中、空において見るなら、一切の仏法はない。無苦集滅道、十二因縁も四諦八正道もないのです。釈尊は仏教そのものを否定しているのです。

本当の悟りは、宗教に関係がありません。これが良き良心です。これが信仰の土台になるのです。良き良心が働かなければ、本当に神を信じることができません。神を信じる前に、自分自身の今までの考えを全部捨ててしまうのです。空じてしまうのです。

空じることが第一に必要です。そうして信じるのです。空じないで信じると、皆宗教観念になるのです。だから信じてはいけないのです。その心で信じてはいけない。その目で見てはいけないのです。

良き良心によって、もう一度、五官の働きを見直すのです。そうすると、目が何を見ているか、耳が何を聞いているかが分かるのです。イエスは言っています。

「死人が甦ることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないのか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」(マルコによる福音書12・26,27)。

現在、人間が生きていることが神です。アブラハムの神とは何か。アブラハムが生きていることが神だったのです。神とはザ・リビング(the living)です。人が生きていることが神です。

イサクが生きていた。イサクのザ・リビングが神でした。ザ・リビングが神なのです。これは、信仰があるとか、ないとかに関係がありません。皆様のザ・リビングが、そのまま神です。これが全能の神です。

生命の生が神です。ギリシャ語で、命のことをゾーと言います。これが働く状態をゾーエーと言います。これが肉体的に現れたのを、プシュケーと言います。ゾーエーがプシュケーとして現れているのが、人間が生きていることです。これが魂です。

プシュケーを日本語の聖書では、魂と訳したり、精神と訳したり、命と訳しています。プシュケーはゾーエーが肉体として現れたことを言います。魂の正体は何かと言いますと、ゾーエーなのです。ゾーエーの正体は何かと言いますと、ザ・リビングす。ザ・リビングがそのままプシュケーになって現れている。これが魂です。

ゾーが万物として現れているからゾーエーです。万物として現れる前は、ただのゾーです。人間の場合、ゾーエーが肉体的に現れますと、プシュケーとなるのです。そうすると、意識するとか認識する、記憶、判断という機能が備わってくるのです。

神から離脱して、ゾーエーがプシュケーになるのです。これが魂です。そこで、魂はただ生きているだけではすみません。自分自身のザ・リビングが何であるかを、弁えなければならない責任があるのです。

アブラハムが神の前に平伏したというのは、その責任を感じたことを意味するのです。私は全能の神である。私の前に歩んで全き者になれと言われて、平伏した。これはアブラハムがプシュケーとして完全なものになりますということを承認したことになるのです。

そこでアブラムがアブラハムになったのです。アブラムという固有名詞が、神のジャンルに入ってしまった。神の国に入ったのです。アブラムが神の国に入ったから、アブラハムになったのです。

誰でも、水からと霊から新しく生まれて神の国に入ると、名前が変わります。別の人になるのです。パルヨナ・シナモンがペテロになったように、自分ではない人間になるのです。でこの世に生きていた人間が、神の国に入ってしまうのです。自分のリビングを正確に認識しますと、自分ではないものになってしまいます。これが信仰です。般若ハラミタです。向こう岸へ行ってしまったのです。自分ではない別の人間になってしまったのです。大工のイエスが、生ける神の子になってしまった。タルソのソウロが、パウロになってしまった。別の人間になってしまうのです。今までの自分ではない人間になってしまうのです。

今までの自分ではない人間にならなければ、必ず死んでしまいます。死んでしまうに決まっている人間は、神を絶対に信じることはできません。この世に生まれた人間が、神をいくら信じようと思っても、信じられるはずがない。死んでいるからです。死んでいる人間を捨てて、別の人間になってしまわなければ、本当の喜びはありません。

常に善べ、絶えず祈れ、すべてのことを感謝せよということが、実行できないのです。神と人との交わりは、瞬間、瞬間、続いています。稲妻のように続いているのです。神と魂との関係は、不連続の連続です。絶えず不連続であり、絶えず連続しているのです。

神は人に、命と息と、すべてのものを与えている。これは瞬間、瞬間の関係です。そのように、神を正確に、実直に、堅実に捉えるのです。

生涯を通して、死から解放されること、本当の命を見つけることが、人間の目的です。肉の思いで生きている人間は、もう死んでいるのです。肉体的に死ぬのは、この世を去るのです。人間は肉の思いが死であることを、知らないのです。肉の思いで生きているのは、神の前に死んでいるのです。キリストが命だということが分からないからです。人の命はキリストと共に、神の内に隠れていることが分からない。これが分からない人は、現在死んでいるのです。

死から解放されることです。とこしえの命の実体をつかまえていない人は、死んでいるのです。肉の思いは、そのま黄泉です。憎んだり、恨んだり、妬んだり、嫉んだり、暗くなったり、悲しんだり、苦しんだりしている。これは死んでいる証拠です。黄泉にいる状態です。

肉の思い、自分の思いに取りつかれている人は、死んでいるのです。聖書を勉強している、洗礼を受けた、聖霊を受けた、御霊を受けたと言っても、やはり死んでいるのです。その状態から出なければいけない。そして神の国に入ってしまわなければいけないのです。

昼間、太陽の光を見ています。これがとこしえの命です。風がふいています。花が咲いています。これもとこしえの命です。目で見て、耳で聞き、手で触っているのは、初めからある命の言葉です(ヨハネの第一の手管・1)。これは、死なない命、永遠の生命です。これを私たちは見ているのです。これは、時間空間ができる前にあった、本当の命が現れているのです。

初めからあった本当の命が、蛍光灯の光になって現れている。電灯の光は、神の御座から出る、稲妻の働きによってできているのです。ザ・リビングが神です。これをはっきりつかまえるのです。

皆様が生きている命が、そのまま神ご自身です。人間が生きているのではありません。神が人の格好で生きているのです。目が働くこと、耳が働くこと、そのままザ・リビングの働きです。だから肉体を自分の気持ちで、用いてはいけないのです。神の子として、その肉体を用いるのです。

実は、肉体はありません。万物は水です。水である肉体があるのです。水が肉体のように見えるのです。

人間が生きていると言うのは、全部死んでいるのです。地球上の六十四億の人間は、皆死んでいるのです。神の子だけが生きているのです。六十年生きてきた、七十年生きてきたと思っているが、実は、死んでいたのです。このことを、よく承知しなければいけないのです。

現実的な形で、リビングがこの宇宙に現れているのは、ほんの一瞬です。六十年でも、七十年でも、神からみれば、ほんの一瞬です。自分が生きていると思っている人は、いつも、苦しみ、悲しみ、矛盾を味わっているのです。別の人間になってしまいますと、生きていること、ザ・リビングがそのまま神ご自身ですから、神が恋しくてしかたがないのです。初恋のような気持ちになるのです。神に許婚されるからです。これがすばらしいのです。結婚するより、許婚の方が、ずっとすばらしいのです。

最近、水原秋桜子の俳句を読みました。それまでの高浜虚子等の俳句は、わびを俳句の中に、自然に詠み込んでいました。これが第三文学の特徴でしたが、水原秋桜子はこの考えをもう一歩進めなければいけないと言って、ホトトギスの一派から離れてしまったのです。

わびもけっこうだが、わびにおいて美を見る、光を見るべきだと主張したのです。

「瑠璃沼に滝落ちきたりるりとなる」これはきれいな俳句です。美や光を歌った俳句は、あまりお目にかかりません。芭蕉でも、こういう俳句は珍しいでしょう。

瑠璃というのは青色です。光った青色の宝石です。七宝の一つに数えられているものです。湖を瑠璃沼として見ている。滝の流れが瑠璃となるという言い方で、滝の美を詠んでいるのです。

「滝落ちて群青世界とどろけり」という句もあります。これは雄大豪壮な句です。非

常に力強い句です。那智の滝を見ますと、その回りは群青世界です。滝の回りを真っ青な世界が取り囲んでいて、その中に滝が轟いているのです。この句は力を詠んでいるのです。

水原秋桜子は医学博士で、病院の院長でしたが、彼は何を見ていたのか。彼の俳句はきれいなものですが、命が欠けているのです。秋桜子自身が命を感じていないのです。ただ美を感じていたのです。彼の俳句に命があったら言うことなしですが、それを望む方が無理かもしれません。

実は、秋桜子は滝という形で命を見ていたのですが、彼自身の中に、命を理解するセンスがなかったのです。彼の職業が彼自身の見方を束縛していたのです。

皆様はこの世で何十年もの間、現世の人間として生きてきました。しかし、今日限りで、この世に拘束された生き方を、やめて頂きたいのです。

この世に生きるというのは、死んでいることです。本当に生きるというのは、神の国に生きることです。

この世に生きている命を自分の命だと考えている人は、必ず死にます。すでに死んでいるから、その人の行く末は死に決まっているのです。この滝の美とは一体何か。秋桜子は滝の美を直感したのですが、滝の美の本体を捉えずに死んでいるのです。

この世は有限の世界です。時間、空間の世界は限定された世界です。イエス・キリストの命は、無限の命です。限定されない命です。水原秋桜子の俳句はきれいですけれど、限定されているのです。芭蕉の俳句には無限があるのです。月の光の中に、無限性がある。芭蕉はそれをつかまえたと思っていた。月を巡って、夜通し池を回っていた。月光の無限性につかまえられていたからです。

芭蕉はこの世に生きていなかったのです。できるだけ芸術の世界に生きようと考えた。無限の命の実態は分からないが、できるだけそれをつかまえようと考えたのでしょう。

芭蕉は遂にそれをつかまえることができなかった。それは約束が分からなかったからです。約束はある限定を意味しますが、約束の成就は無限の命を意味するのです。無限の生命を成就するために、約束と言う限定があるのです。無限に到達するために、約束という限定を神が設けたのです。これが時間、空間です。

約束には、出発点と終点があります。初めであり終わりであるというのが、約束です。終わりはそのまま永遠につながっていくのです。無限につながっていくのです。無限につながっていくような約束、限定ならいいのですけれど、この世に六十年生きていた、七十年生きていたと思っている人は、無限につながりません。なぜかと言いますと、五十年生きていたと思っているその人の意識は、五十年の経験に縛られているからです。五十才だという意識で縛られているのです。

この世の経験が、自分の経験だと思っているのです。これがその人の命になっている。経験がその人の命になってしまう。これを記憶と言うのです。記憶にとらわれている人は無限の命を経験していない。悪魔サタンはそれをしているのです。

悪魔は自分自身を限定したのです。これを淵のおもてと言うのです。淵のおもてとは、現象の表面と言うことです。現象の表面に、自分自身の位を置いてしまった。闇淵のおもてにありというのが、それです。

悪魔は現象世界に属する意識を、自分の意識の根底に定めてしまった。これがそのまま現在の人間の意識になっているのです。

日本人はこの世が非常に好きな民族です。この世が好きで、好きでたまらない。この世に惚れているのです。これは悪魔の意識に惚れていることになるのです。

時間と空間がなければ、現象は実現しません。これは限定された世界です。この世に生きていることが自分だと思っている人は、自己限定しているのです。

死にたくないと思ったら、この世に生きていた自分を全部捨ててしまうことです。この世の記憶にこだわっていますと、泥沼から足が抜けなくなるのです。苦涯から足が抜けなくなるのです。

この世は苦涯です。憎んだり、憎まれたり、恨んだり、妬んだり、苦しんだり、悲しんだりの連続です。この世に生きている自分は、ばかの見本です。今まで生きてきた五十年、六十年の人生を振り返ってみてください。全くばかの見本みたいなことばかりをしてきたのです。

大人の人格がデストロイされて、粉々に粉砕されたのが、個我です。ほんの部分的なことしか分からない自分です。こんなものを自分だと思っていたら、ばかを見ます。個我は自分の経験のことしか分からないのです。

人の命はキリストと共に、神の内に隠されている。これを考えますと、でっかい自分が分かってくるのです。七十年、八十年生きていたというそんな小さい自分ではない。もっと大きい自分が分かってくるのです。

人の命はキリストと共に、神という永遠無窮に隠れているのです。キリストは今の所、初めと終わりがあります。やがて終わりが実現しますと、キリストにいる私たちは、神の相続人になるのです。神の世継ぎになるのです。ですから、固有名詞の自分、この世に生きている自分を自分だと思うことをやめていただきたいのです。

ユダヤ人の頑迷さは底が知れません。彼らはどうしても神の御心を受入れません。やがて、全世界の人々から見放され、袋叩きにあうでしょう。ヒットラーのユダヤ人迫害はヨーロッパだけで起きたのですが、これが世界的な規模で起こるのです。私はヒットラーの行為は極悪非道で、絶対に許すことができないことだと思っていますが、ユダヤ人がどうしても神の警告を受け入れなければ、世界中でユダヤ迫害の嵐が巻き起こると懸念せざるをえないのです。聖書はこれを、「ヤコブの悩み」と言っています。

ユダヤ人はひどいめに会うでしょう。その時初めて、目が覚めるのです。本当の救いを求めるのです。

とにかく、ユダヤ人はばかなことをしています。現世に生きている自分の命を、本当の命だと思っている。この世の国が、本当の国だと思っているのです。この愚かなイスラエルが、約束の民だと考えているのです。

聖書はこういうユダヤ人を、自らユダヤ人と称えて、ユダヤ人ではない者、サタンの会に属する者と言っています(ヨハネの黙示録3・9)。現世に生きている者を自分だと思って入る人は、皆サタンの会に属しているのです。

滝の美しさが見えても、滝の命が見えていないために、命が分かっていない。森羅万象があることが、とこしえの命です。太陽の輝きが、とこしえの命です。目はとこしえの命を見ているのに、人間の意識はそれを見ていない。なぜか。頭の切り替えができていないからです。

神の国に生きているという実感を持つのです。今までの自分の記憶は、悪魔が造った記憶ですから、それを蹴飛ばすのです。強引に踏みつぶすのです。悪魔が無理に押しつけたものですから、強引に跳ね返したらいいのです。

あなたがたの命はキリストと共に、神の内に隠れているのです。今、現世に生きているのは肉の命です。本当の命は、キリストと共に、神の内に隠れている命です。キリストが栄光の内に現れる時に、私たちの命も、栄光の内に現れるのです。

私たちの命は、まだ始まっていません。キリストの栄光が現れる時、私たちの命の栄光が現れるのです。これは個としての命ではありません。全体としての命です。

その時、キリストと共に完成されるのです。ニューエルサレムが皆様自身になるのです。キリストの花嫁とは、ニューエルサレムを着ることを許された者です。これが麻の衣を着るのです。ニューエルサレムの栄光をそのまま着ることができるのです。キリストの栄光が、そのまま自分自身の着物になるのです。

森羅万象はそのままとこしえの命の現れです。「滝落ちて群青世界とどろけり」これがとこしえの命の世界です。「瑠璃沼に滝落ちきたりるりとなる」。永遠の昔の世界の姿が、そのまま詠まれているのです。だから美しく見えるのです。

このように、人の五官はすばらしい神の子の五官です。自分の頭を信じないで、五官の働きを信じるのです。目はとこしえの命を見ているのですから、現世に生きたらいけないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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