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「万物は永遠の生命が現れたもの」


             「万物は永遠の生命が現れたもの」

現世に生きている自分を認めて、そこから出発するという気持ちが間違っているのです。現世に生きている自分は仮定の存在であって、これを存在として見てはいけないのです。生かされている自分を見なければいけない。これが正しい自分の見方なのです。

信仰は思想ではなくて、意識です。これが神の国に入る秘訣です。今生きている自分をどのように意識するかです。

異邦人であって、ある職業を持っている自分を、自分だと思ってはいけないのです。イスラエルでは、大統領も田舎大工でも、対等で話をするのです。フリーメーソンがそうです。どんな偉い人でも、大統領や首相でも、町工場の社員でも、同じ立場で話をするのです。社会的地位や生まれ性を、絶対に問題にしないのです。儀式では同じ服装になり、皆平等になってしまいます。現世における位階勲等、財産、教育程度を、自分のものと思っていない。これがユダヤ人の良い所です。

現世での自分のあり方を、絶対に真実だと思ってはいけないのです。現世でどんなに財産があろうが、教育があろうが、そんなことを問題にしてはいけない。ただ魂だけに目をつけるのです。

信仰経験が長いとか、短いとか、知識があるとかないとかを、一切問題にしてはいけないのです。今生まれた嬰児でも、七十歳のおじいさんでも、神は同じように扱うのです。「力ある者を助けるも、力なきものを助けるも、エホバにありては異なることなし」です。力があっても、なくても、同じことです。

キリスト教は復活に関することは教えますが、復活そのものを教えないのです。キリストに関する教えはありますが、キリストそのものを教えないのです。キリストに関することではなくて、直接キリストを教える、神の回そのものを直接教えることが、パウロ神学の生粋です。

ヨハネは父と子の交わりにあずからせると言っています。父と子の交わりの説明をしているのではない。父と子の交わりそのものに、引っぱり込んでいくと言っているのです。神学はそれに関する説明ばかりをしているのです。

人間は現世で、さんざん神を嘲笑して生きてきました。欲望を満足させて生きてきました。そういうことが、すべて自分の魂を汚していたということを知らずに死んでいく。それを恐ろしいと思わないで死んでいく日本人が多いのです。欧米ではまじめに考えている人が多いでしょう。それほど日本人は堕落しているのです。

自分の経験を信じて、自分でいいか悪いかを判断してしまう。夫や妻を、世間並の常識で見ているのです。女性はこの程度のものとして見てしまう。これが本当の女性を捉えることができない原因です。

自分の霊魂を、自分で汚しているのです。セックスについての認識の誤りが、人生の基本的な誤りになっているのです。性行為が悪いのではありませんが、それについての意識が間違っている。肉体人間の意識、感覚をそのまま信じているからです。

性感は肉感ではなく霊感です。これが入口です。ここから奥へ入っていきますと、性感ではない女性が分かってくるのです。肉の人間が感じることができない感覚が分かってくるのです。そうすると、女性の尊さが分かるのです。

アダムが初めてエバを見た時、「これこそ、ついに私の骨の骨」(創世記2・23)と言いました。その時アダムはまだ、エバを肉体的に知ってはいなかったのです。エバを知っていなかったアダムが、骨の骨と言ったのです。

現世の感覚で見ないで、神の国の感覚で見るのです。これが本当の恋愛です。これができなければいけないのです。神の国でおはぎを食べたり、ケーキを食べたりすることができるのです。これが最高の信仰のあり方です。これが本当の喜びです。

女性の性の喜びは、人間の霊の喜びの雛形です。女性の性の喜びを男性の霊の喜びとして受けとめて、それを神に向かって適応するのです。そうすると、男もなし、女もなしという人格ができるのです。これがイエス・キリストにある信仰です。男女の関係はここまでアウフヘーベンされるべきです。アウフヘーベンされない恋愛はだめです。恋愛そのものを揚棄するのです。そのために、神は男女の経験をさせているのです。

女性は自分自身で霊のことが分からないのに、自分の喜びがアウフヘーベンされるべきだという、欲の深いことを漠然と知っているのです。そういう指導をしてくれる男性を狙っているのです。これは人間がキリストに対して持っている期待と同じことです。

私たちが現世に生きていることは、大変なことです。神の国に生きることができるのです。現実が現前になって、現前が霊化してくるのです。触れるもの、見るものが、ことごとく神の栄光の輝きであることが分かるのです。地獄へ行かなくてもいいことが分かるのです。

人間になぜ現象感覚があるかです。私たちに現象を受け取る意識を与えなければ、神の栄光を受けとめることができないからです。だから神は、現象を受けとめさせる感覚を与えているのです。

肉の思いと現象感覚は、全然違います。現象感覚は、現れているものから出てきたのではない感覚です。これが分かると自分が変わってしまいます。ここまでいかなければいけないのです。もう一つ男女の関係についてお話ししますと、男女関係は世間の人間が考えているものとは違います。世間の人間が経験できなかった恋愛をするのです。恋愛の新しい開拓です。これが魂の開拓の基本になるのです。

陥罪後のアダムとエバが、前を隠した。なぜ隠したかです。(同3・7)。陥罪とセックスが結びついたのはどういうわけか。宗教では説明ができないのです。それが分かると、割礼が分かるのです。ユダヤ人自身が割礼の説明ができないのです。

肉の性器は肉の魂をさしています。魂と性器は同じものです。パウロがローマ人への手紙の二章で、霊の割礼ということをしきりに言っていますが、肉の性器は肉の魂を意味すると、言外に言っているのです。

男の魂は男の性器です。女の性器は女の魂です。性器を見れば分かるのです。ですから性器の扱い方が難しいのです。性器をどう扱うかによってその人の運命が決まるのです。これが難しいのです。

全世界の人間文化の底辺に、セックスの問題が張り付いているのです。セックスを突破してその向こうへ行くと、地獄が見えてくる。同時に天国が見えてくるのです。セックスを踏み越えていかないと地獄が分かりません。ところが、地獄が分からないような人は、天国も分かりません。これが秘訣です。

人間存在はアウフヘーベンされなければならない。そうするとキリスト王国が現れるのです。キリスト王国を地球上に現すためには、歴史を揚棄しなければならない。そのためには、セックスの問題を避けて通る訳にはいきません。これは狭き門です。ここを通らなければ、人間文化の底辺を明らかにすることはできません。そうしなければ、地獄の征伐ができないのです。

セックスを征伐しなければ、地獄の征伐はできません。この間題を、絶対に怖がってはいけない。避けてはいけないのです。真正面から堂々と、真剣勝負をしなければいけないのです。

セックスの行き詰まりが、文明文化の行き詰まりになっている。これを打開しなければ、歴史を新しくすることはできません。

セックスは命を生み出す重大なポイントです。セックスが解明されると新しいものが生まれるのです。性とは何か。これが大問題です。

神が人間に死を与えているというのは、何物にも変えがたい大いなる恵みです。もし神が死を与えなければ、人間は必ず裁かれなければならないのです。生きているうちに死を与えられるということは、一度死んで、裁きを受けるという避けることのできない運命が、避けられることになるのです。

人間が一度死ぬことと、死んで裁きを受けることは、決まっているのです(ヘブル人への手紙9・27)。そこでどうしても地獄が避けられないのです。ところが、生きているうちに死を与えられることになりますと、一皮死ぬということが消えてしまうのです。一度死ぬという必然性が消えてしまうことになるのです。したがって黄泉や地獄がついて来ないことになるのです。

神が与える死は、目の黒いうちに受け入れる死なのです。自分の考え、主張、経験、権利を一切放棄することが、死を受け入れることになるのです。意識的に、自由意志によってこれをすると、死を有難く頂戴することができるのです。自ら命を捨てる(自分の考えを捨てる)と、今まで生きてきた命の本体が、がらっと変わってしまうのです。魂の本質が変わるのです。肉に押さえられていた魂、肉の思いで押さえこまれていた魂が、逆に、肉の思いを押さえこむ力を持つようになる。これがいわゆる霊に従って歩むことであって、イエスが「我すでに世に勝てり」と言ったのは、このことなのです。

神が与えてくれていた死を有難く頂戴しますと、魂のセンスが変わってしまうのです。

現象感覚の捉え方が違っているのです。現象感覚は人間の常識で受け取るものではなくて、神の栄光を受け取るために与えられているのです。人間の欲望のために与えられているのではないのです。

神の栄光を現す基礎になるものが、現象感覚です。これがなかったら、神の栄光を捉ることができないのです。これが分かると、すべての物の見方が変わってしまうのです。

そうすると、イエスが山上の垂訓で見ていた見方、例えば、汝の敵を愛せよということが、実行できるのです。センスが変わってしまうからできるのです。右の頬を打たれたら、左を向けよというのが当たり前なのです。現世に生きている気持ちの土台が、ひっくり返ってしまうのです。これが山上の垂訓の内容です。

死を与えられることによって、本当の命の入口が分かるのです。神の国の入口が分かるのです。感覚が具体的に変わるのです。自分で変えようと思わなくても、死を与えられたいとはっきり受け止めたら、必ず変わります。聖霊という宇宙の指導霊が、どんどん後押しして下さるからです。聖霊の導きが、非常に強くなるのです。

自分の思いを神に渡すことが、死を与えられることですが、これをすると、聖霊の導きが変わってしまいます。神の国の=貞として待遇されるのです。そうすると、神の喜びを喜ぶことができるようになるのです。

森羅万象とは何か。世の初めに隠れていたものの実質が、万物として現れているのです(マタイによる福音書13・警悪魔の知らないものが、現れているのです。悪魔は現象を見ていますが、実質は悪魔の反逆が発生するまでのものです。神に任命された天使長が、反逆して悪魔になるまでの命の本質、原態が、万物として現れている。これには、悪魔も分からないのです。これには悪魔も否定、反対できないのです。

人の五官は、悪魔が知らない世界を受け取るのです。セックスの感覚は、五官の中で、最も的確、正確で、最終的な感覚です。これが分かると、悪魔は唖然として、手の打ちようがなくなるのです。悪魔が分からないからです。

セックスの感覚をひっくり返すと、人間の人となりが、腹の底から変わってしまうのです。これほどうしてもしなければならないことです。

般若ハラミタの精神、即ち、向こう岸へ渡って、聖書を勉強するのです。こちら岸にいて、いくら勉強してもだめです。

まず般若ハラミタが必要です。空です。それから聖書になるのです。空の理念がないものに、いくら聖書を説いてもだめです。聞くことはしますが、その人の命にはならないのです。まず五経皆空を徹底しなければ、聖書を信じることができないのです。

神が地球を造った。創世という事実があったことを、日本人は知らないのです。国があって、人がいるのは当たり前という考えから出発しているのです。現象世界が存在して、人間がいることが当たり前で、造られたと考えるのが、アブノーマルになるのです。この考えが間違っているのです。

天地は造られたのです。人間も造られたのです。自然に存在するものではないのです。マルクスは人間は偶然に生まれた。自然発生的に生まれたと考えた。地球は偶然にできて、偶然に自転、公転していると考えるのです。

地球の存在は、偶然にしてはあまりにも合理的で、緻密でありすぎるのです。なぜこのような秩序整然たるものがあるのか。物理的にも、心理的にも、実体的にも、驚くべき統率力と計画性、組織性があるのです。

そうして、人間自身の生活にも、欲望とか感情が錯綜したものがありますが、その底辺にあるのは理知性であって、それには、組織性と計画性、目的論的なものがあるのです。そうでないと、政治、経済が成立しないのです。

罪の世界ではありますが、このような整然とした統制、計画、進展があることを考えないわけにはいかないのです。自然現象のメカニズムはどうなっているか。海の塩はどうしてできるのか。人口が増えても食べるだけの魚介類、米、麦、野菜も増えているのです。

こういう超自然の合理性を、偶然といってかたずけられるのでしょうか。もしこういう有機的な世界のあり方を偶然というなら、必然がなくなってしまうのです。したがって、必然という文字を全部消滅させてしまうか、偶然という文字を消滅させてしまうか、どちらかを取らなければならない。偶然という言葉と、必然という言葉を、並立させることはできないのです。そうしますと、やはり偶然という言葉はでたらめすぎて、否定しなければならないのです。

物質が偶然に存在する。人間が偶然に生きている。こんなばかなことはあり得ないのです。これはユダヤ革命の第一段として、意識的に革命論を展開して、人間文明をめちゃくちゃにしてしまおうという計画性から出た思想です。それでなければ、そんな無責任な放言はできないのです。唯物史観の基本論は全く無責任な放言です。こういう思想を世界にばらまくと、異邦人がとびつくから、人間は愚かなものです。これについては、ユダヤ人モルデカイ・モーゼ著「日本人に謝りたい」(日新報道)をお読み頂きたい。マルクス主義はユダヤ民族解放のための虚構論理であると、はっきり述べているのです。

神がユダヤ人に示した約束とは何か。それが万物創造になっているのです。地球に森羅万象が現れたということは、宇宙の脅威です。宇宙の非常事態です。一過性の異常事態です。森羅万象が繁茂して、生命現象が満載されている惑星があることは、全く不思議なことです。地球以外に生命現象はどこにもないからです。生命現象の萌芽と言われるものさえもないのです。

地球だけに生命現象が現れているということが、地球が神の約束の担保になっていることを意味するのです。これが神の地球創造、創世ということです。このような現象(世代)が出現したということが、約束がたてられたことの保証になるのです。これを踏まえて、神はアブラハムに発言しているのです。「私は全能の神である」(I am the all mighty God)というのは、それを現しているのです(創世記17・1)。オールマイティ(all mighty)とは、万物を万物としている事実を言います。

パウロは次のように言っています。 「このように、われわれは神の子孫なのであるから神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫りつけたものと同じと、見書べきではない。神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、皆、悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界を裁くため、その日を定め、お選びになった方によって、それをなし遂げようとされている。即ち、この方を死人の中から蘇らせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17・29~31)。

神の約束の担保の根源は、万物が存在していることです。地球に万物が満載していることが、神がアブラハムに与えた約束の保証になっているのです。

神は人間の想像を越えたことをするのです。かつて、人間の悪が満ちた時、神は大洪水を起こして人警滅ぼした。「その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開いて、雨は四十日、四十夜、地に降り注いだ」(同7・11、ほ)とあります。

大洪水を起こした水が、どこから来たかです。かつて、火星や金星に水が流れていた形跡がありますが、今は全くありません。その水が、ノアの洪水の時に降り注いだ。天の窓が開いたというのがそれを意味しているのです。その水が多すぎるので、南極や北極に、氷になって現れているのです。また、雲になって、大空を遊泳しているのです。

人間が罪を犯した結果、宇宙に大異変が起きたのです。人間のマインド(精神)はそういう力を持っているのです。

一体、地球にある万物は何か。なぜ現れたのか。万物が現れたということが、宇宙生命の具体的な顕現形式です。死なない命、永遠の命が、具体的に現れると、万物になるのです。私たちはそれを見ているのです。神がアブラハムに与えた約束の担保が、万物です。アブラハムに与えた約束とは何か、永遠の生命の実物を与えるということです。そして現在の地球ではない。全く新しい天地が現れることを意味しているのです。これがアブラハムが見た「新天新地」です。

人間の肉体は何か。神はちりに形を与えるという大変なことをしたのです(同2・7)。これは驚くべき神の処置です。人間の肉体はありません。全然ありません。ちりに形を与えただけです。形を与えられたという事実があるだけです。人間の肉体はないのです。これは人間歴史の秘密です。これを原理にして、セックスの根本が見抜かれなければならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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