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西暦紀元とは何か

 今の時代はキリスト教紀元の時代です。西暦紀元はキリスト紀元です。キリスト紀元は人間が死ななくてもよい時代です。それを文明という間違った理屈が死ななければならないようにしてしまったのです。

 皆様は死ななくてもよい条件を与えられていながら、学問というばかばかしい考え方によって、死ななければならないように仕向けられているのです。これをばかばかしいと思わないのでしょうか。

 死にたいと思う人は仕方がありませんが、死ぬということはただ息が切れることとは違うのです。その後が恐いのです。生きている間に素直に生きていなかったことに対する責任を、必ず追及されるのです。これが恐いのです。

 皆様の霊魂はそれを知っているのです。日本ではこういうことを真面目に相談相手になってくれる人はいないのです。一人もいないでしょう。

 私は宗教ではない活動をしています。それは何をしているかと言いますと、魂のボランティアをしているのです。霊魂に対するボランティアをしているのです。

 災害が起きた時のボランティアとか、老人に対するボランティアはありますが、霊魂に対するボランティアが全くありません。これが一番必要なのですが、する人がいないのです。私だけがしているのです。

 宗教ではないというのは、学理学説ではない、教育でもないのです。人間の命の実体についてお話ししているのです。

 般若心経は理屈を述べているのではありません。人間が空だと言っているのです。人間の考えが皆間違っている。人間の思いが間違っているから死んでしまうのです。

 人間の思い方が間違っているから死んでいくことになるのです。だから思い方さえ変えさえすれば、皆様は死なない命が明白に分かるのです。

 今までの皆様の常識、知識、経験が迷いです。皆様がこの世に生まれたのは、自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。従って皆様は自分自身で自分の霊魂に責任を持たねばならないという理由がないのです。

 命は皆様のものとは違うのです。だから、自分の霊魂について自分が責任を持たなければいけないという考え方をすることが間違っているのです。こういう考え方は宗教観念です。

 この世に生まれてきたという事実を、真っ直ぐにすっと見ればいいだけのことです。これが五蘊皆空です。般若心経の中に、無色無受想行識という言葉がありますが、色受想行識の五つが五蘊です。これは人間の常識、知識の一切を指しています。人間の常識、知識の一切が五蘊です。

 皆様は命の経験をしていますが、これは本当に生きていることではないのです。本当に生きているというのは、命の実体をはっきり掴まえて、命の実体を生きることです。これが生きていることです。

 イエスはこれを実行しました。イエスは宗教を信じたのでもないし、学問を勉強したのでもない。生きているという命の実質を真正面から見ただけです。その結果、死を破ったのです。

 イエス以外に死を破った人間はいないのです。さすがの釈尊も死んでいるのです。お釈迦さんは五蘊皆空と言っているのです。人間の考えは皆間違っていると言いました。

 釈尊は二十七、八才の頃までは、この世の考え方でこの世に生きていたのです。その間に迷ったり苦しんだりしているのです。その間の業が釈尊にあったのです。

 その業がどうしたら果たせるかということをはっきり見つけないままで釈尊は悟ったのです。何を悟ったのかと言いますと、自分が今まで生きていたことが空であったということをはっきり悟ったのです。これが釈尊の悟りです。

 ところが、どのように命を受け取ったらいいのかということについては、一言も言っていないのです。自分が今生きている命をどのように受け止めればいいのか。どういう考え方で生きていけばいいのか。これについて釈尊は悟りを主張したのです。命のことを説明しなかったのです。

 釈尊の弟子たちが唯識論とか倶舎論とか言って勝手な理屈をこね上げたのです。十二因縁とか四諦八正道とかいう理屈を言っているのです。

 般若心経は十二因縁と四諦八正道をはっきり切り捨てているのです。般若心経は仏教を否定しているのです。唯識論の中心概念を切り捨てているのです。これは偉いものです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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