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神の国に入る(11)


 聖書に次のようにあります。

 「その後、私が見ていると、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声で私に呼びかけるのを聞いた。初めの声が、『ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起こるべきことを見せてあげよう』と言った。

 すると、たちまち私は御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見えた。また御座のまわりには、緑玉のように見える虹が現われていた。

 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。

 二十四人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して言った。

 『われらの主なる神よ、

 あなたこそは、

 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。

 あなたは万物を造られました。

 御旨によって、万物は存在し、

 また造られたのであります』」(ヨハネの黙示録4・1~4、10、11)。

 聖書をよくよく勉強していきますと、神の国の根底が分かってきます。私たちは絶対に神の国に入らなければいけないのです。

 まず私たちの宇宙的な位置を確認することです。そのためには、私たち自身が現世の人間ではないことを、自分自身に言い聞かせることです。自分はこの世の人ではないことを、自分自身にはっきり言い聞かせることです。自分に言い聞かせないとだめです。

 神が未完成です。従って、私たちも未完成です。三節のあり方は神自身が虹に従って考えています。緑の虹に従って考えるということは、人間の語法で言いますと、一種の空想主義みたいなことになるのです。それと同じ意味で、私たちも聖書に基づく空想主義になるのです。

 御座に基づく空想主義であって現実主義ではないのです。現実を現実として認めるけれど、現実が理想でありません。これをはっきり確認して、神がしているやり方と同じことをするのです。

 神を現実ではっきり踏まえながら、緑の虹を確認するのです。このやり方をするのです。二十四人の位でこれをしなければいけないのです。神は二十四の位がありません。神は一つの位ですが、私たちは二十四の位で神を助けるのです。

 私たちがまず二十四の位の一人であることを確認すれば、キリストの再臨を実現するための布石になるのです。長老がこう言ったとあります。長老が発言すると神の経綸がどんどん進んでいくのです。私たちは長老の一人として発言する力を持たなければいけないのです。

 具体的な事実としてこの世の人でなくなってしまうのです。そのためには般若心経をよく学ぶ必要があるのです。

 般若心経を本当に実感しようとする。そして五蘊皆空という言葉を本当に実感しようとしますと、冒頭の字句をよく理解する必要があるのです。

 最初に般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空とあります。般若波羅蜜多を自分の生活で行じた時に、五蘊が皆空であることが本当に分かったと言っているのです。照見というのは本当に分かったということです。

 パウロは霊によって体の働きを殺すと言っていますが、これは般若波羅蜜多を実行することです。般若波羅蜜多を実行すると、体の働きを殺すことができる。自分の記憶を変えることができるのです。これをするのです。

 般若波羅蜜多が山上の垂訓の原理です。ヨハネの黙示録四章三節を見ると、神自身が未完成であること、神は約束の神であることが分かるのです。約束の神であるということは、現実の神ではないということです。

 神は現実においては、悪魔の働きを大目に見ている所があるのです。なぜ悪魔の働きを大目に見ている所があるかと言うと、地球にだけ夜があることです。光を昼と名付け、闇を夜と名付けたのは神です。

 光を昼と名付け、闇を夜と名付けて、光と闇の両方のエネルギーを使いこなすことによって、天使全体を神の元に抱き込んでしまおうという考えです。天使の長をオミットする。天使長だけは底なき穴に閉じ込めるが、天使長以外の天使を全部神の方へさらってしまうという計画です。

 闇の天使を使わなければそれができない。闇の天使と光の天使を等分に使ったのです。ここが神の知恵と知識は限りなく深いとパウロが言った理由です。

 神がなぜ悪魔を認めたのかというと、神に所属していない天使を全部エンゼル・オブ・ゴッド(angel of God)にしてしまおうという神の計画があったからです。そしてエンゼル・オブ・ゴッドをエンゼル・オブ・クライスト(angel of Christ)にするのです。エンゼル・オブ・クライストにすることによって、ただのエンゼルもまたエンゼル・オブ・クライストになるのです。

 神の名でなくて、キリストの名によって闇も光も統一してしまうのです。これが神のやり方です。

 そうして、皆様の肉の記憶も肉の行いも全部光にしてしまうのです。今まで生きてきた皆様の欲望的な面が、希望に変わってしまうのです。これが救いです。だから神を信じなければ損です。欲望だと思っていたことが、希望であることが分かってくるのです。そうすると、記憶が変わってしまうのです。これをダビデが実践したのです。イエスがダビデを認めているのです。イエス自身もダビデに賛成したのです。そこで、ダビデがした肉の行いが全部霊になっているのです。この手法を神が認めているのです。

 ですから、皆様も自分の考えに閉じこもらないで、本当の般若波羅蜜多になって頂きたいのです。そうすると、今までの此岸が彼岸になってしまうのです。この世を神の国にしてしまうために、わざわざイエスが肉を持ってきたのです。キリストが肉体を持ってきたのはそのためです。

 第二の神(言なる神)がわざわざ天から下ったのは何のためかと言いますと、地球という肉の世界を全部霊にしてしまうためです。そこで闇と淵を認めているのです。これが悪魔に分からないのです。

 これが分かってくると躓きがなくなってしまうのです。ここに聖書の奥義があるのです。

 さすがの般若心経も、此岸が彼岸になるとは考えていなかったのです。究竟涅槃と言い切っています。般若波羅蜜多でなければいけないと言い切っています。ところが新約聖書はそうではない。此岸が彼岸になっていると言っているのです。これが神の国の信仰です。水によって新に生まれよと言っているのは、イエスの偉大な発想の原理です。

 地球は水から出てきたものですが、これがそのまま霊になってしまうのです。そのために、物の考え方の土台をひっくり返してしまう必要があるのです。

 釈尊は彼岸があることが分かっていた。そうでなければ、般若波羅蜜多という言葉が出てくるはずがないのです。釈尊の悟りとイエスの信仰の関係は、私たちにしか分からないのです。

 イエスの信仰の中に二十四の位があります。英訳では四と二十(four and twenty)になっています。四は現象を司る位です。そして、闇が十、光が十の位があるのです。

 一人子なる御子が、罪人と比しい姿になって地上に下った。これは罪人を全部神の子にしてしまうという計画なのです

 「罪人は火の池へ投げ込まれた」とあります(ヨハネの黙示録20・15)。実は火の池というものさえも救いになるのです。火の池はこらしめの池です。火の池に放り込まれた人間の罪が、すべて焼かれてしまうのです。何千万年か、何億年かかるかも分かりませんが、永遠という時間をかけて人間の罪が全部焼かれてしまう。それで火の池というのです。

 分厘までも償わされる。分厘までも償えばいいのです。そうすると、許されるのです。地獄へ行かなくてもいい。現世にいるままで、聖霊と火のバプテスマを受ければ、罪は焼き尽くされるのです。

 私たちに与えられている思想は、完璧無類なもので全く隙がありません。今までの神学をいくらひねってもだめです。そこで、地獄がないと考えている仏教の思想も理解できるのです。しかし、現世に立って地獄がないと言ってもだめです。永遠という時点に立って考えれば、地獄はないと言ってもいいのです。あってもなくても同じことになるからです。

 キリストというのは永遠の救いを意味するのです。教会時代だけの救いとは違います。そういう理想がヨハネの黙示録の四章に出ているのです。

 まず三節には御座に座するものの姿、形と、御座に座するものの思想内容が現われているのです。御座の回り(round about the throne)というのは、御座に座するお方の気持ちを現わしているのです。御座の回りとはその気持ちの範囲を現わしているのです。御座そのものではないが、気持ちが御座の回りに現われているのです。これが緑玉の虹です。そこで、御座のあり方をよくよく勉強すると、私たちの信仰の原理をどこに置いたらいいのかが分かるのです。

 神は喜んで約束の成就を空想しているのです。神が空想しているから、私たちも空想しなければいけないのです。これはスケールの大きい空想です。空想という言葉は適当ではないかもしれませんが、他に言いようがないのです。ですから、仮に空想という言葉を使いますが、神が空想しているのですから、空想できない人は神の子とは言えないのです。

 空想できる人が神の子です。私のこういう思想は大言壮語ではありません。神の希望に基づく雄大な希望です。雄大すぎますから空想という言い方になってしまうのです。

 緑玉の虹というのはそういうものです。御座の回りの緑玉の虹を前提にして、四節の二十四の位が成り立っているのです。四というのは現象の数です。二十というのは霊の十と肉の十の両方です。現世に生きている以上は、霊の十と肉の十の両方が分かる人間でなかったらだめです。ですから、男性に女性を与えているのです。女性を経験させているのです。

 神は人間に欲望の世界にどんどん入っていくことを、平気で許しているのです。三節の神の御心を知ろうと思えば、この世の国のことが徹底的に分からなければ、神の国が分からないからです。この世の悪いことも良いことも、徹底的に知る必要があるのです。知れば知るほど神の国が分かるからです。

 三節が私たちの命の原点です。三節の命の原点をそのまま写したのが四節です。

 五節は神の霊が水のおもてをおおっているという状態です。五節ができる前に、もう二十四人の位があるのです。これが神の信仰です。

 ソロモンは次のように言っています。

 「主が昔そのわざをなし始められるとき、

 そのわざの初めとして、私を造られた。

 いにしえ、地のなかった時、

 初めに、私を与えられた。

 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、

 私はすでに生まれ、

 山もまだ定められず、丘もまだなかった時

 私はすでに生まれた。

 すなわち神がまだ地をも野をも、

 地のちりのもとをも造られなかった時である。

 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られた時、

 私はそこにあった。

 彼が上に空を堅く立たせ、

 淵の泉を強く定め、

 海にその限界をたて、

 水にその岸を越えないようにし、

 また地の基を定められた時、

 私は、そのかたわらにあって、名匠となり、

 日々に喜び、常にその前に楽しみ、

 その地で楽しみ、

 また世の人を喜んだ」(箴言8・22~31)。

 地球が地球となる前、時が定まる前という言葉を世界訳が使っています。

 時の定めとは何か。初めに神が天と地を造った。初めとは時が始まった時です。創世記一章一節の初めに神が天と地を造ったとあります。この初めは時が定められた初めをいうのです。

 時が定まる前、神が天と地を造る前に、人間の魂の本質は神の傍にいたのです。ですから、神の本質を弁えることができるのは人間だけです。

 三節の御座のことが本当に分かる人は、四節の二十四の位が分かるのです。三節が分からない人は四節が分かりません。こんな思想は仏教にもイスラムにもありません。イスラムは現世の生活しか知りません。マホメットの思想は現世の人間しか見ていないのです。全く現世教です。

 ヨハネの黙示録の四章の天の光景の原点は何か。二十四の位ができたことが、人間創造の原則です。神が光を昼と名付け、闇を夜と名付けた時に準備ができたのです。

 光の子と闇の子の両方を分類、統括すること、そうして、結局闇全体が光の中に合流しなければならないように、神が仕向けるという計画が、天のあり方に自然に現われている。これをまず私たちは理解しなければならないのです。

 天に御座があることが異邦人には分からないのです。これを第一に知らなければいけないのです。第二に、御座に座する方がどんなお方であるかを知らなければならないのです。第三に、現象世界に二十の位があることを知らなければならないのです。光の位の十と、闇の位の十があるのです。

 第二節、第三節、第四節の根本原理がすべて了承されると、その人格は初めて人の子という言葉が使えるのです。人の子になれるのです。これができないと人の子にはなれないのです。

 神は、「人の子よ帰れ」と言っています(詩篇90・3)。なぜ「人の子よ帰れ」と言っているのかと言いますと、人のマインド(mind)に関係しているのです。

 人の子を造るために、まずマインドが造られたのです。マインドによって、光の位と闇の位ができた。マインドは天と地を造る前の人格です。天も地もマインドの下にあるのです。

 イエスは人間のマインドを持って地球上にやって来た。マインドは天と地が造られる前の神の計画の原点です。この原点に基づいて天地を造ったのです。まず天と地を造った。それから光と闇を造ったのです。天という言葉の中に光と闇があるのです。地という言葉の中にもまた、光と闇があるのです。

 初めに神が天と地を造ったのですが、天と地が光と闇に分かれている。これを二十四人の長老が経験しているのです。神が何を考えて、何のために人間を造ったのか。何のために魂がこの世に出てきたのか。これが分からなければいけないのです。これが分かると新約聖書の原点がすべて分かるのです。

 天と地を仮に上と下とすると、光と闇は右と左になるのです。この四つのポイントで考えると何でも分かるのです。欲望の世界も希望の世界も分かる。信仰の世界、罪の世界も分かるのです。イエスは悪魔に話しかけ、悪魔はイエスに呼びかけている。自分の仲間にならないかと呼びかけているのです。

 神の国の中にこの世があるのです。天は光、地は闇という単純な図式ではない。天と地、光と闇は十字になっているのです。あらゆることが全部信仰の中に入ってしまうのです。

 そこで、不生不滅、不垢不浄、不増不減が分かるのです。生まれもせず死にもしない。良くもならないし悪くもならない。増えもしないし減りもしないということが分かるのです。

 神が分からずに、不生不滅、不垢不浄、不増不減と言った釈尊という男は、一体何者だったのか。ところが、私たちが神の国に入ったことによって、般若心経が完全に成就できるのです。良い所も悪い所も説明できるのです。

 新約聖書の中に般若心経がごそっと入ってしまうのです。新約聖書の底の方に入るのです。こういうスケールで考えるのです。

 分かったとか、分からないという考えをやめなければいけない。これがきれいとか、これが汚いと考えたらいけないのです。

 光と闇がなければ天地創造はできません。昼と夜があるから花が咲くのです。昼ばかりだったら花は咲かないのです。夜ばかりでも咲かないのです。動物も昼と夜があるから生きているのです。

 現世の命は昼と夜がある命です。光と闇がある命です。そういう命を生きているのですが、これは純粋の命ではありません。純粋の命は御座に座するものの命です。これを私たちは二十四人の長老という格好で経験しているのです。

 神は肉体がありません。肉体を持った私たちが、光と闇を経験させられているのです。神の御心に従って悪魔を知るのです。神の御心に従って肉の世界を探検しているのです。

 私たちが肉の世界がよく分かると、肉が霊になってしまうのです。これをパウロは次のように言っているのです。

 「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう。光にさらされる時、すべてのものは明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである」(エペソ人への手紙5・13、14)。

 すべての闇が光になってしまうのです。こういうスケールですから恐れる必要はないのです。

 今まで経験してきたありのままの生活を、全部神の前にさらけ出したらいいのです。これを幼児の信仰と言います。幼児のようにさらけ出したらいいのです。幼児のようにならなければ、天国に入ることはできないからです。

 良いことも悪いことも、神の前に出したらいいのです。大体、悪いことはないのです。神が天地を完成するために、緑玉の虹を全うするために、光と闇があるのです。

 肉も霊も神の都合のためにできているのです。人間の立場から、道徳とか法律と言うから間違っているのです。実は道徳とか法律という言葉が、天の言葉なのです。それをそのまま地球上に用いているからややこしくなるのです。

 新約聖書を見れば、道元禅師、親鸞上人が行き詰っていたことが全部解決できます。道元が書いた正法眼蔵には行き詰っている箇所がたくさんありますが、聖書で皆説明できるのです。ヨハネの黙示録の四章二節から四節を見れば、皆説明できるのです。説明できない所は一つもありません。

 人間の暗闇の世界、悲しみの世界の真ん中に救いがあるのです。怒りの世界の真ん中に救いがあるのです。盗人根性、泥棒根性の真ん中に救いがある。これが分からなければいけないのです。

 いいかげんにごまかしたらいけない。肉は即ち霊であるという言い方をしているだけではいけないのです。肉がなぜ霊であるかを、はっきり聖書的に説明できないといけないのです。物理的に、宗教的に、哲学的に、また道徳的にどこからでもきちっと説明できなければいけないのです。御座に座するものを信じるなら、それができなければいけないのです。二十四の位に座する以上は、皆分からなければいけないのです。何でも分かって冠を投げ出すのです。

 今までの家庭のあり方、商売が自分のものだと思ったらいけないのです。

 五節になって初めていなずまが働き出しているのです。神の霊が水のおもてを動かしたのです。動かしたということがいなずまになって働き出しているのです。

 その前に、二節、三節、四節の状態があります。まず神の御座があって、そこに座するものがいる。その回りに、御座に座するものの反映として、二十四人の長老がいるのです。これが五節の内容です。

 五節には、神の七つの霊が燃えていると書いています。七つの灯が御座の前で燃えていた。これが現象です。現象の世界、物質は燃えているのです。

 御座の前で七つの霊が燃えている。これが物質です。七つの霊とは完全無欠な霊です。これが燃えているのです。これが創世記一章二節の神の霊が水のおもてを動かしたということです。

 その前に私たちの位の決め手があるのです。これが創造の計画です。ところが、暗きはこれを知らないのです。「この言に命があり、その命は人の光である。万物は神の言によって造られたが、暗きはそれが分からなかった」のです(ヨハネによる福音書1・4、5)。

 こういうことが分かった私たちは、既に悪魔に勝っているのです。だから、私たちは自分の肉に完全に勝てるのです。この世に勝てるのです。神が私たちに与えているメッセージは、必ず実現されるのです。私たちのイスラエル回復の祈りは、必ず神に聞かれるのです。

 天地が創造される前に私はいたのです。「父よ、世が造られる前に、わたしが御側で持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」とイエスが言っています(ヨハネによる福音書17・5)。この言葉のとおりに私たちにもならなければいけないのです。

 今現実にいることが神の前ですから、ここで栄光を現わしたまえと言うのです。この世を去ってからではいけないのです。「わが前に歩みて全かれ」とはこれを言っているのです。全かれになるとはヨハネの福音書の十七章五節の状態になることです。これ以上の光はありません。必要がないのです。

 体はなければならないのですが、肉はあってはならないのです。肉はないけれどもボディーはあるのです。

 今現実に私たちがいるのは何をしているのか。実はこれが世が始まる前です。世が始まる前を経験しているのです。従って、死ぬことはないのです。生まれてくる前を経験しているのですから、これが本当の波羅蜜多です。これがア・プリオリです。これが山上の垂訓に出ているのです。

 幸いなるかな、幸いなるかなとイエスが言っていますが、キリスト教が祝福するのは生まれる前の状態に決まっているのです。これが分かったら、はっきり霊を神に渡さなければいけないのです。

 肉の思い(自分の思い)を全然問題にしなくてもいいのです。自分が分かるとか分からないとかいうことは、どうでもいいのです。聖書に書いてあることだけが真実です。

 「悲しむものは幸いである」とあります(マタイによる福音書5・4)。皆様の中に悲しむ心が起きた時、皆様は生まれる前にいるのです。悲しむことがあればある程、その人は幸いです。これさえ分かれば誰でも救われるのです。

 新約聖書は驚くべき書です。これは般若心経を下敷きにしないと分かりません。五蘊皆空を下敷きにしないと分からないのです。

 聖書が分かったと思うことが五蘊です。分からないと思うことも五蘊です。気にしなくてもいいのです。

 ここまで教えられた私たちは今、全世界の人々にとこしえの命の現物を与えることができるのです。私たちは今とこしえの命に生かされているのですから、これをそのまま述べ伝えればいいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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