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神の国に入る(6)


神の国に入る(6)

 私たちは今、世界にたった一つしかない絶対の生命を見せられているのです。それをただぽかんとして見ていたら、罰が当たるでしょう。

 聖書を勉強するというのは、全く命がけのことです。永遠の生命を得るためには、命がけでしなければならないのです。

 今この世に生きている人間は、皆死んでいます。肉の人格で生きているのは死んでいることになるのです。だから、肉の人格を認める必要はないのです。イエスが主であることを少しでも認めることができれば、その人格を認めることができるのです。

 人間は自分の意志で生まれてきたのではない。そうしますと、今ここに生きているのは自分ではない。今字を書いているとしたら、自分が書いているのではないのです。字を書かせているのは誰か。自分ではないものが書かせているのです。

 今生きている自分が何か分からない。結局人間は死んでいるのです。幻として生きているだけのことです。自分が生きている状態は全く幻です。

 人間が生きているのはすべてイマジネーション(imagination)です。イマジネーションというのは幻覚、空想という意味が強いのです。心象です。心象が幻覚を生み、空想を生んでいるのです。これが現在生きている人間です。これを罪と言います。人間は罪に売り渡されているのです。人間はこれを自分だと勝手に思っているのです。

 世が造られる前に立って発言するのです。この発言に逆らったら滅ぼされることになるでしょう。

 ユダヤ人が神に逆らっているために、世界中にうつろな人間ばかりができてしまったのです。うつろな人間のイマジネーションの原理をなしているのがユダヤ人です。ユダヤ人の心象が世界全体を巻き込んでいるのです。これは本当にばかなことです。これを何とかして打破しなければならないのです。

 ユダヤ人にどうしても目覚めてもらいたい。目覚めてもらわなければ、神の約束が進行しないのです。彼らが約束の民であることを信じている以上、彼らに悔い改めを迫らなければならないのです。

 彼らが約束の民であると信じていなければ、彼らに悔い改めを迫る必要はありません。彼らは約束の民であるという間違った自信を握り込んでいるから、その間違いをまず認めさせて、本当の約束の意味を教えてあげるのです。

 イエスが主である。イエスの他の人間を神は認めていないということを、ユダヤ人に承知させなければいけないのです。イエスはこの世が造られる前に神と一緒にいた。これを前提にして見ていた。神はこの人間しか認めていないのです。

 皆様も世の初めの前に神と一緒にいた自分を認識するのでなければ、いくらイエスを信じると言ってもだめです。 

 現世に生きている人間は全部うつろです。全く塵灰です。現世に生きていると思っている人格を認める訳にはいかないのです。自分が生きていると思っているだけで地獄へ行くに決まっているのです。

 ユダヤ人が何としても宗教観念を踏みつぶして宗教の外へ出ることです。彼らが宗教の外に出てしまわなければ、地球に真実の世界が現われないのです。彼らが宗教の世界にいる以上、本当の世界は実現しないのです。

 文明が宗教です。自分がいると思っていることが宗教です。これはただの思いです。その思いを踏み越えてユダヤ人のために祈るのです。自分の感覚を踏み越えて祈るのです。ただ神の御心だけを信じて祈るのです。

 イエスだけがいるのです。イエス以外の人間は一人もいませんから、強引にこれを受け入れたらいいのです。

 パウロは言っています。

 「私たちは律法は霊的なものであると知っている。しかし、私は肉につける者であって、罪の下(もと)に売られているのである」(ローマ人への手紙7・14)。

 ユダヤ人は肉の律法で縛り上げられ鍛えられてきたのです。足を縛って、走れ走れというのがユダヤ人の律法です。キリスト教信者でも集会のたびに悔い改めをしているのです。

 初代教会の人々は、目の前にキリストの再臨があるような信仰を持っていたのですが、それからもう二千年も経っているのです。再臨もキリストも分からずに、無茶苦茶に祈っているのがキリスト教の信者です。

 自分が肉的に存在しているという事実があるのですから、これをいつも否定しなければいけないのです。

 神の前で生きているという気持ちをいつも持たなければ、御霊が用いてくれません。御霊に用いられようとすれば、御霊の調子に合わせていかなければならないのです。

 私たちが現実に生きているということ、生活するということ、例えば人間のしきたりとか、道義というものを鉄則のように考えています。これを守るという気持ちがあれば、山上の垂訓を実行するのは何でもありません。

 日本の道義を実行すべきだと考えている人は、山上の垂訓は当たり前になるのです。実行できるのです。不自由するのが当たり前です。悪口を言われるのが当たり前です。商売がうまくいかないのが当たり前と考えると、腹を立てることも落ち込むこともない。暗くなることもないのです。落ち込む原因がないからです。落ち込むような状態が当たり前です。そういう感覚を持とうとすれば持てるのです。

 今の日本人の生活は良すぎます。今は偽キリストの時代ですから、いわゆる封建時代のような生活難はありません。人間が皆ふぬけになっているのです。だから、自分自身で自分を厳しくしなければしょうがないのです。それができなければ、せめて奥さんに敬意を表さなければいけないのです。

 大体、女の上に男が居座っている社会が間違っているのです。女は既に神から刑罰を受けているのです。エデンで肉を売り込んだ。肉体があることを男に売り込んだのです。これが女の大失態の原因です。

 神はそれを咎めているのです。特性という点から考えると、女は男よりも高いのです。特性が高い女が、特性が低い男にこき使われているのです。女は社会現象として神に刑罰を受けているのです。

 ところが、男は神の尻馬に乗って、神が女を刑罰していることを良いことにして、男が威張っているのです。自分は女より偉いと思っている。男は少しも刑罰を受けていないのです。

 男は、「あなたはちりだから、ちりに帰るべきである」を実行しなければいけないのです(創世記3・19)。これを実行しない男は女の上に立つ資格はないのです。「ちりだからちりに帰る」を実行する時に、初めて男が神の前に出られるのです。これができない男はただのゴリラです。

 皆様は教養がないのです。例えば、テレビを見たり、新聞を読むことの不思議さが分かりません。文章を書くとか、人と話をすることが不思議です。

 肉体的に生きている者が、人と話をするとか、電話をかけるとか、人が書いたものを読むということができるはずがないのです。

 森羅万象があることがおかしいのです。森羅万象の世界に人間が住んでいることがおかしいのです。何のためにおいしいものを食べたり、きれいなものを見たりしているのか。何のために小説を読んだり、新聞や雑誌を読んだり、テレビや映画を見たりしているのか。人間生活は非常に不思議なことをしているのです。

 これは一体何をしているのでしょうか。人間が今生きているということ、リビングということは何をしているのだろうか。これを私は長い間考えていましたが、ようやく分かりました。御霊によって教えられたのです。

 それは生まれる前にしていた経験を、現世でもう一度経験しているのです。世界が造られる前に神と一緒に生きていたのです。その事実がなかったら、私たちの脳細胞の中に万物がインプットされているはずがないのです。

 人間が生きているのは摩訶不思議なことをしているのです。自分が今こうして生きているということが、誠に不思議なことです。こういうことに驚きがなかったら、福音は絶対に分かりません。

 生きていることが不思議です。不思議ということをハギオスと言うのです。飲んだり、食べたりしていることが、オールマナー(all manner)がホーリー(holy)になるということです。

 私たちはこういう格好で、聖なることをいつでも経験しているのです。不思議ということが聖なることです。これを今経験しているのです。

 天地が造られる前に経験していたことを、この世でもう一度経験しているのです。

 世界が造られ前にはインスピレーションとして経験していたのですが、今これを肉なる現実として経験しているのです。そこで初めて人間が卒業できるのです。

 霊なる世界で温存されていた人が、肉なるものとしてこの世に出されたのです。肉なるものとして罪の下に売られたことが、とても有難いことなのです。肉なるものとして罪の下に売られなかったら、肉が霊にならないからです。だから、この世に生まれてきた甲斐があるのです。

 どんな苦労をしても、どんなに厳しい生き方をしても、生まれる前に味わっていた霊の世界を、現実にもう一度経験できるということは大変なことです。

 はっきり言いますと、今私たちは生まれる前の世界に生きているのです。ですから、今この世を去っても死んだのではないのです。

 仏教で言う因果応報という考えは間違っていませんけれど、世界歴史にあるような形で説明できないので、ただの概念になってしまうのです。私たちは世界歴史の成り立ちを、人間生活の実体と合うようにして説明ができることによって、現実に生きている世界がそのまま霊の世界になってしまうのです。これができなければ因果応報、前世の因縁といくら言ってもだめです。

 十句観音経は次のように述べています。

 観世音、南無仏

 与仏有因、与仏有縁

 仏法相縁、常楽我浄

 朝念観世音、暮念観世音

 念念従心起、念念不離心

 この意味を簡単に言いますと、次のようになります。

 観世音菩薩に帰依します。仏に帰依します。

 私たちは仏において原因があります。仏において因縁があるのです。仏と同じ因、縁をもった世界に生きているのです。それは、仏、法、僧の三宝と一つにつながっている世界です。

 この世界は、常、楽、我、浄の理想社会です。朝に観世音菩薩を念じ、夕べに観世音菩薩を念じます。

 その一念、一念はすべて悟りの世界から起こったものであり、悟りの世界を離れたものは何一つないのです。

 仏さんが偉い。観世音菩薩が偉いと言っているのです。

 与仏有因といくら言っても、これが歴史的に説明できなければ与仏有縁にはならないのです。有因と有縁はそういう関係になるのです。

 観世音というのは、現世で肉体を持っていた時のイエスを指しているのです。イエスは世音を見ていたのです。

 生活の一つひとつがすべてとこしえの命に繋がっているのです。これを実感できることを信仰というのです。実感できないことを霊を消しているというのです。思想的に分かっていても実感できなければ実行できないのです。

 パウロは「御霊を消すな」と言っています(テサロニケ人への第一の手紙5・19)。御霊を消すことは命を消すことになるからです。

 日本に初めて天の光が差し込んできたのです。これは間違いない事実です。これは論理ではない。実感の世界です。実感できるというのは、そのまま世界が始まる前の感覚です。

 私たちが生かされているということが霊です。生きている命は死ぬ命です。生かされている命は死なない命です。生きていると考えるか、生かされていると考えるかによって、天地の違いになってくるのです。東山魁夷は生かされているという気持ちで描いていたようです。彼が描いた絵にそれが出ているからです。

 彼が夜桜を見に行った時に一本の桜が満開でした。桜の上に月が出ていたのです。京都中の桜の美しさがこの一本の桜に集約されたように感じられたのです。全く自分はどこにいるのだろうか。何百人の人が夜桜を見ているのに、その人々が消えてしまって、見ている自分と夜桜だけになっている。月と夜桜と自分だけの荘厳な世界だけになった。これを描いているのです。

 この夜桜もいいし、唐招提寺の襖絵もいいです。東山魁夷が描いているのは、肉の世、この世のこととは違います。この世を写していますが、この世のものとは違う世界を描いているのです。

 花が咲いているということが、目で見ている桜の花とは違うものを示しています。何か不思議なものが咲いている。それを見ているのは自分ではない。それを見させられていると魁夷は言っているのです。

 お茶を飲んだり、ご飯を食べたり、話をしているが、自分ではないのです。世界が造られる前に神と一緒にいた人がしているのです。こういう実感ができると、死なない命に生きていることが分かるのです。

 ここに入ることを神の国に入るというのです。神の国に入ったら死なないのです。神の国の外にいたら何を言ってもだめです。

 この世がないのです。霊の世界がこの世という状態で現われているだけです。森羅万象の世界はありません。仮に森羅万象の世界があったとしても、宇宙的には何の値打ちもありません。

 今の銀河系宇宙において、地球があっても何にもならないのです。地球に住んでいる値打ちが分かる人が一人もいないからです。値打ちが本当に分かる人はほんのわずかです。

 東山魁夷に言ってあげたい。今目の前に見ているのは、あなたが生まれる前にいた世界だということです。あなたが夜桜を見ているのではない。生まれる前にいた感覚の人が見ているのです。あなたの中にあるものが、今日、目の前の形になって展開しているのだということを。

 私たちはスケールを大きくして、根本的な問題にがっちり取り組んでいくような考えを持っていないといけないのです。表面的なことだけを見て、分かった分かったと思ってもだめです。

 神は人間の歴史だけではなくて、天地の創造というテーマを私たちに任せようとしているのです。これを料理しなさいと言っているのです。天地創造を料理すると地球の完成になるのです。地球の完成は約束の完成です。

 約束を信じるということ自体が、地球の完成を企てることになるのです。地球の完成に協力することになるのです。私たちが生きていることが、そのまま地球の完成に繋がっているのです。

 今の地球があることは本物ではありません。嘘です。未完成の地球です。これは神が地球を完成させるため、神の国を地球に現わすために、仮の地球を造って見せているのです。この地球を完成する計画をキリストと言うのです。地球が完成すると神の国が現われるのです。

 私たちの肉体が栄光体になることがキリストです。こういうスケールで考えるのです。従って、現世に生きている人間は全部アンチクライストです。少々悪いというのではない。全部偽キリストです。自分が一番偉いと思っているからです。

 東山魁夷のように時々はっと気が付く人がいますが、宗教家は全部だめです。日蓮、道元、空海、最澄もだめです。一休はまだましです。女たらしでしたが、却って人間の裏も表も分かっていたからです。裏も表も全部分かっていなければだめです。善にも強いし、悪にも強い人間でなければいけないのです。

 神は地球を造って、これをなんとか料理しなさいと言って目の前に出しているのです。私たちは世々限りなく宇宙の王となるべき人材ですから、これくらいのことは考えなければいけないのです。

 現世の仕事はあまりにも小さすぎます。これは片手間にすればいいのです。とにかく私たちは地球を預けられているのですから、その気持ちで勉強して頂きたいからです。

 乞食が軍艦を押し付けられたという話がありますが、私たちは軍艦以上のものを任されたのです。天地宇宙の行く末を任されたのですから、自分を捨てなければいけないのです。

 私たちには、地球と人間の教養と文化を料理できるだけの力を与えられているのです。地球の存在と、人間文明全体を神は私たちに預けているのです。

 イエスはそれを実感していました。固有名詞の自分、自我意識の自分はいません。イエスが私として生きているのですから、このイエスに従っていけばいいのです。

 イエスがキリストである以上、世界中の人間を相手にしても平気です。仮に私を殺そうとしても平気です。私は勝つに決まっています。

 私たちが今置かれている位置を考えてみてください。キリストというのは地球全体を預けられて、それを切り盛りする番頭役です。私たちがキリストを信じていて、この末の時代に福音の締めくくりをすることになるのです。神がそのように期待しているからです。

 イエスは次のように言っています。

 「私の食物というのは、私を遣わされた方の御心を行い、その御業を成し遂げることである。

 あなたがたは、刈り入れた時が来るまでには、まだ四か月あると言っているではないか。しかし、私はあなたがたに言う。『目を上げて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている』。

 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も共々に喜ぶためである。そこで、『一人がまき、一人が刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。

 私はあなたがたを遣わして、あなたがたがその労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなたがたは彼らの労苦の実にあずかっているのである」(ヨハネによる福音書4・34~38)。

 まず三十四節の私の食物というのは、私を遣わした方の御心を行い、御業を成し遂げることであるとあります。私を遣わした方の御心を行うとはどうすることかです。

 教会時代の一番最後に現われた私たちが、どういう役目をすることになるかというと、地球を締めくくるのです。日本に起こされた預言者のグループは、教会時代を締めくくり、異邦人の時代を締めくくるグループです。世界の歴史の動向を任されているグループです。

 かつてユダヤ人でもこんな大きな仕事を任されたグループはなかったのです。これはユダヤ人の十二支族の額に、生ける神の印を押すグループです。神のリビングを印するのです。

 神のリビングとは何か。世が造られる前に、神の傍で神の栄光を受けていた時のリビングが、今のリビングになっているのです。これが五官です。

 五官の本質は、世が始められる前に神の栄光を見ていた。創造の栄光を見ていたのです。創造の栄光を見ていたから、創造の全体が分かっているのです。

 私たちはそれを支配して創造を完成するのです。こういう言い方をすると、これは誇大妄想の気違いだと言われるでしょう。しかし、生まれる前の世界が分かっている人は他にいないのです。世界中を探しても、生まれる前の国、神の国を見つけて入ったという人は私たちだけですから、神は私たちに目を付けざるを得ないのです。

 神は私たちに対して、絶大な信頼と協力を惜しまないでしょう。私たちがどんなことを言っても、神が全部バックアップしてくれるのです。仮に私たちがほらを吹いても、神がほらでないように責任を取ってくれるのです。

 そういう場に立ってしまえば仕事ができるのです。そういう場に立たなければ仕事はできないでしょう。預言者の場に立ってしまうと預言ができるのです。そういう度胸を持って頂きたいのです。

 今まで東洋人で、イスラエルに向かってこんなことを言った人はいないでしょう。聖書を御霊に従って読んでいくと、こういうことをイスラエルに言わなければならないのです。

 イエスが立っている場に立っているという意識がなかったら、聖書を自由に読みこなすことはできません。聖書を自由に読みこなしても、神は少しも文句を言わないのです。

 我にとって生きるはキリストという感覚になったらいいのです。自分が生きていることは、キリストが生きていることと同じ意味を持っているのです。私を遣わしたものの御心とは、こういうことになるのです。

 私たちが今見ている万物は、今ここにあるのではない。世界が造られる前にあったものが、今形としてここにあるのです。今あるのは実体ではありません。この世が造られる前にあったものが、今形として現われているだけなのです。今あるのは形だけです。

 イエスはそれが分かっていたので、目の前にある水が水ではないことを知っていた。これをぶどう酒にした方がいいと思ったので、ぶどう酒にしたのです。

 目の前にあるものは形はあるが実体ではないのです。これをイエスは知っていた。御心を行うというのはそれを言っているのです。スケールが大きいのです。

 創世記一章の一日目から順番に、神が言いたまいけるにそうなったとあります。これが御心です。これをどのように造り変えるかということが御心です。水を水でなくすることが御心です。イエスはこれをしたのです。

 皆様がこの世に生きている人間を本当の人間だと思っている間はだめです。神の国に本籍、本居を置いてしまって、時々この世に現われるような気持ちで世の中に出るのです。

 私たちが生きている姿は、天にいる姿です。世間の人にものを言う時は、世間に現われているのです。それくらいの度胸を持ってしまうのです。自分はこの世の人ではないという心境に入ってしまうのです。自分の個人的な生活は全く天に入ってしまうのです。

 こう考えるのが普通であって、いわゆる以前在天をそのまま実行するのです。父の御心を行おうと思えば、地球の完成を請け負って、約束を成就させること、約束を実現することです。

 イスラエルの回復を私たちは祈っています。イスラエルの回復を祈る以上は、父の御心を成就することを祈っているのですから、イエスと同じ見識を持つことができるのです。

 イスラエルの回復を祈ることができる人間は、世界の歴史を預けられている人間です。本気になって祈ればそうなるのです。

 私たちはユダヤ人に祈るために生きているのです。ユダヤ人のために祈るというのは、歴史の成り行きを任せられているということです。これがユダヤ人を指導する生き方です。ユダヤ人を指導する以上は、歴史を思うように作り替えていかなければならないし、万物も作り変えられるのです。

 人間の世の中を作り替えるためには、ユダヤ人を作り替えなければいけないのです。ユダヤ人を作り替えると人間の歴史が変わるのです。

 このための要を私たちが握っているのです。まず私たちが神の期待に添うようになれば、世界全体が何とかなるのです。これがイエスの思想でした。イエスはそう考えたのです。

 私たちは誇大妄想になってはいけないのです。本当に聖書に従って考えると、空想でも何でもなくなるのです。

 聖書の説明を十分にできない状態で話をすると、誇大妄想に思われるのです。聖書の説明が十分にできる状態で話をすれば、誇大妄想にはならないのです。そういう見識を持って、私はキリストの代理者だと言えば誰も不思議に思わないのです。そういう人間になって頂きたいのです。これが異邦人の時代に現われる気違いみたいな集団です。

 神を信じるというのは、天地の造り主を信じているのですから、現在の目の前の天地くらいは自由になるはずです。

 この末の時代に、福音に耳を傾け理解したいと思う人は、普通の人ではありません。自分は日本人で異邦人だと思っているかもしれませんが、彼らはユダヤ人の末裔に違いありません。霊的にははっきりユダヤ人です。

 イエスは父の御心を行ったのです。彼が奇跡を行ったのは、地球が自分の手に委ねられていることを示しているのです。万物と人間とがイエスの手に委ねられていた。従って、歴史そのものを自由に動かせるような、基礎的な種をまくことが、イエスの仕事だったのです。

 イエスはまく人だったのです。現在地球が存在していることが神の国であって、これが畑です。この畑にイエスがまいたのですが、今は刈り取る者がいるのです。これを私たちに任せようとしているのです。

 有形的な形で存在しているのは肉です。肉というのは実は霊です。この世が造られる前にあったことが、今この世として現われている。これが神の業です。これを全部人に任せているのです。これをこの世が生まれる前の元の状態に返してしまう。そうすると、この世が始まる前にあった神の御心、神の計画、神の約束の全体が、水にて洗礼されることになるのです。

 悪魔の前で洗礼されるのです。神の御心は純粋の霊ですから、肉になったことがないのです。これが一度肉になって現われたのです。一度肉になって現われたということは、洗礼されたということです。肉になったものが天の霊に返ると完璧なものになるのです。これをすることを御心を成就するというのです。

 イエス自身が御業を行うと同時に、その御業を成就して元の所へ帰ってしまった。私たちも一度肉の世界に入れられたのですが、これから出るのです。罪の下に売られた者が罪を出てしまうのです。そうすると、自由になる。罪に勝つのです。世に勝つのです。

 そうすると、自由にこの世を支配できるのです。私たちに力があるかないかの問題ではない。神がナザレのイエスを起こしたように、今日本で私たちを起こしたのです。

 神がバックアップしている。神が助けている。ですから、黙って神に従ったらいいのです。自分がその器であると考えたらいいのです。ただ固有名詞の自分をやめたらいいのです。

 自分の思いを自分で脱ぎ捨てるのです。そうすると、別の世界へ入っていけるのです。父の御心を行うことが誠の食物になるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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