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神の国に入る(2)


 イエスは「私は世の光である」と言っています。世というのは人間の世をさしているのです。

 世というのは人間が住んでいる世界を意味します。イエスが生まれた当時の世界の人口は、多分一億人くらいであったと思われます。この一億人の人の光だったのです。

 イエスはすべての人の光です。逆に言いますと、すべての人は光を持っていながら、光を認識していないのです。自分自身が光であることを知らないのです。だから、イエスは人間が本来あるべき状態を示したのです。

 人間は皆イエスと同じものです。イエスだけが光ではないのです。皆様一人ひとりも世の中の光であるはずです。

 「人間が神のかたちのように造られた」とありますから(創世記1・27)、すべての人はイエスと同じです。神にかたどりて造られているという自分自身の状態を、率直に正確に認識しないから、自分自身が闇の中にいるのです。

 イエスは自分自身のあり方を、素朴な状態で人の前に現わして、私は世の光であると言ったのです。また、イエスの言葉を聞いているユダヤ人に、あなたがたは世の光であると言っているのです。

 イエス自身が世の光であると同時に、イエスの言葉を聞いた人たちも世の光だったのです。

 皆様は現在聖書を学んでいます。聖書を学んでいる皆様自身が、世の光であるはずです。ところが、皆様は今までの日本人としての意識、自分が生きているという基本的な意識を持っているために、世の光であるということが全く分からなくなっているのです。

 自分が生きているという意識の上に立って聖書の知識を学んでいるので、あなた方は世の光であるというイエスの言葉が全く分からないのです。

 イエスを信じて頂きたいのです。イエスと皆様は同じものです。自分が生きているという誤った考えを捨ててしまえば、イエスと同じ状態になれるのです。

 自分が生きているという気持ちがある間は、皆様とイエスとは全く別の人間です。

 イエスは自分が生きているとは思っていなかったのです。イエスは神において生きていると考えたのです。自分が生きているには違いないのですが、神においてという前提があったのです。

 神のうちにいること、神のうちに自分自身を見出すことがイエスの命の原理だったのです。神のうちにいることにおいて、自分自身が生きていると考えたのです。これがイエスの自己認識でした。

 皆様も神において生かされているという素朴な認識をすれば、イエスと同じ人生観になるのです。

 これは口で言うように簡単にはできませんが、原理を説明したらそうなるということを申し上げているのです。

 イエスが光であったといくら勉強しても、自分自身が光であることを発見しなければだめです。自分自身が光にならなければ何の値打ちもありません。

 イエスを信じるということは、自分とイエスが同じように世の光になるということを信じるのです。これを経験することです。

 イエスを勉強をすることによって、皆様自身が世の光になって頂きたいのです。ちょっと勉強しただけでイエスと同じになるという訳にはいきません。

 イエスが「私に来なさい」と言っています(マタイによる福音書11・28)。これはイエスと同じ人格になってしまえと言っているのです。そのようなイエスの考え方に同化すべきであるという気持ちを持って頂いて、皆様自身が世の光になって頂きたいのです。

 あなたがたは世の光であるというイエスの言い方は、第一にユダヤ人を指していますけれど、キリスト教ではなくて神の御霊によって聖書を勉強している皆様が、世の光であると言えるのです。このような自覚と責任感を持って頂きたいのです。

 皆様自身が世の光であるという自覚を持って頂きたいのです。またそれを自覚できるような勉強の仕方をして頂きたいのです。

 自分が生きているという誤った考えを捨てるのです。これが基本条件になるのです。自分が生きているという事実はないのです。ところが、全世界の人間はすべて、自分が生きていると考えています。

 自分が生きているというこの認識が、悪魔的な認識なのです。世間的な考えで自分がいると思うのは悪魔的な認識であって、イエスのように「私は神のうちにいる、父のうちにいる」ということを実行しながら自分が生きていると言えたら、生ける神の子と言えるのです。

 皆様が生きている客観的な事実が神です。ところが、人間は自分がいると勝手に思い込んでいる。神の命を横取りしているのです。これが現在の人間の自己認識です。

 人間はすべて地獄へ行きます。神の命を横取りしているからです。だから、自分が生きているという間違った考えをまず捨てることです。これを捨てなければ世の光にはなれないからです。

 光になるためには、こういう原理をマスターして頂きたいのです。

 自分が生きているという考えは、光の反対の闇の考えになるのです。自分が生きているという考えは、自分自身を闇に放り込む考えです。これをよく認識して頂きたいのです。

 イエスは言っています。

 「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものは皆、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6・31~33)。

 三十二節で、何を食べ、何を飲もうと考えるのは、異邦人が求めるものだと言っています。三十三節には、あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさいと言っているのです。

 口語訳の聖書には、あなたがたという文字がありません。訳し落としているのです。これは大変な誤訳です。

 英訳では、But seek ye first his kingdom, and his righteousnessとなっています。あなたがたはまず神の国と神の義を求めよとありますが、このあなたがたというのはユダヤ人を指しているのです。これはアメリカ人や日本人を指していないのです。

 神の国と神の義を求めるのが本来のあり方である民族と、何を食べ、何を飲もうと考えるのが本来のあり方の民族とがあるのです。

 神の国と神の義を求めるのがユダヤ人で、何を食べ、何を飲もうと思い煩うのが異邦人だと言っているのです。

 ユダヤ人は神の国と神の義を求める民族であって、何を食べようと何を飲もうということをユダヤ人はすべきではないと言っているのです。そうする必要がないのです。ユダヤ人は神の国と神の義を求めていればいい。おまえたちの天の父が必要なものを与えてくださると言っているのです。

 イスラエルはこのような特権を与えられている民族です。普通の異邦人は働かなければ食べられないという世界観が、先天的に植えられている民族です。何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかということを思い煩うことが働くことです。食べるためのお金をどうして儲けようかということが、今日の文明を造っているのです。

 働かなければ生活できないというのは異邦人の考えですが、現在ではユダヤ人がそういう考えになっているのです。

 白人の文明はユダヤ人の文明であって、白人が働かなければならないと主張しているのです。マルクスの考えは働く精神です。働くということが人間の真骨頂のように、マルクスが吹き込んでしまったのです。

 人間は働くために生まれたのではありません。ところが、現在の日本人は働くために生まれたように考えているのです。ユダヤ人の世界観が間違っていたために、こういう考え方を人類が持たされてしまったのです。

 霊魂が人間の本質でありまして、人間の霊魂は神の国と神の義を求めるのが本来の姿です。肉体的に生きることが目的ではありません。

 実は肉体的に生きていることの実質が魂です。肉体的に生きているということが、霊と肉が一つになって生存しているのであって、霊と肉とが一つになって生存しているということが魂になるのです。

 ユダヤ人はこの意味が正しく分かっているべきですが、ユダヤ人が分かっていないのです。

 人間は働くために生きているということが、マルクス等によって宣伝されてしまった。労働することが人間の本務であるという考えを、全世界の人間が持たされているのです。

 現在のユダヤ人は全く異邦人化されています。何を食べ、何を飲み、何を着ようと思い煩うこと、現世で働くことが人間だというように考え込まされているのです。ユダヤ人の世界観が間違ったために、世界中の人間が全部労働者になってしまったのです。

 マルクスの思想のインチキ性が、そのような考えになって現われたのです。ユダヤ人の間違った考えによって、全世界の人間が間違った考えを持たされているのです。

 人間の本質は魂であって、魂は労働することが本務ではありません。魂は神に向かって目を開くことが本務です。これさえできれば、何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思う煩うことがなくなってしまうのです。

 三十二節の状態が、父と子との状態になるのであって、ユダヤ人だけでなくて、信仰によって父に繋がることになれば、すべて三十二節、三十三節の状態になるのです。

 皆様が本当に聖書のことを弁えて、父と共に生きること、神と共に生きること、神の前に生きるという方法が分かれば、皆様方から生活難は一切なくなってしまうのです。はっきりなくなるのです。

 皆様がまともに生きることになれば、生活難はなくなるのです。これは断定できるのです。生活難があるような気がするのは、皆様が神の前に歩んでいないからです。

 もし皆様が神によって信仰に歩むことができれば、そして、「わが前に歩みて全かれ」というアブラハムに対する神の言葉を実行されたら、皆様に生活難は一切なくなるのです。なくなることが自分に分かるのです。

 私は働かなくてもいいと言っているのではありません。働くかどうかは、その人に与えられた条件によるのです。働く状態に置かれていたら働いたらいいのです。働かなければ食べられないから働いているのではないのです。働くべき状態に置かれているから、その状態に従っているのです。

 働かなければ生活ができないと思っていることと、働くべき条件を与えられているから働くのとでは、大変な違いです。

 働くべき状態に置かれているというその状態が神です。その状態に従って生きていたらいいだけのことです。生活難という心配がなくなってしまうことは本当なのです。

 とにかく皆様の魂は神の国と神の義を求めているのです。人間の霊魂の実体に向かって訴えることです。これがユダヤ人の本務です。

 ユダヤ人が本来あるべき状態が、人間の霊魂があるべき状態です。これをイエスがユダヤ人に言っているのです。

 「汝ら、まず神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。これはユダヤ人だけではない。聖書の勉強をしている皆様も含まれているのです。

 現在では聖書の勉強をしているという皆様が、神によってイスラエルとして扱われていることになるのです。キリスト教ではなく、自分の救いを求めるのではなくて、聖書の真理のために聖書を勉強するのです。こういう人はイスラエルとして神が扱っているのです。

 聖書の真理のために聖書を勉強するのです。これをしている人は、イスラエル並に扱われているのです。神のために聖書の勉強をしているからです。こういう人には生活難はありません。

 ユダヤ人は現在働かなければ生活できないような考えになってしまっている。これはユダヤ人の指導者が悪かったのです。端的に言いますと、モーセが間違っていたのです。モーセの考えの根本が間違っていたのです。

 モーセの神に対する見方が間違っていたのです。これが今日のイスラエルに間違いをもたらした原因になっているのです。

 アブラハムも完全であったとは言えませんが、モーセが大変間違っていた。これがイスラエルに間違いを来たらせる遠因になっていたと言えるのです。

 神は一つの民族を選んで、この民族を中心にして世界を経営しようという考えをお持ちになったのです。これは当然のことです。

 例えば、一つの会社を経営する場合に、誰かを中心にしてその人の考え方に基づいて会社を経営するというのは当然のことです。その人の考えが悪ければ会社が悪くなっていくのです。

 ある家庭に兄弟が五人いたとしますと、五人全体を家庭の中心にする訳にはいきません。家庭の中心になるべき者は、長男か次男か誰かです。一番ふさわしい人を家庭の中心にすることになるでしょう。これは当然のことです。

 世界の中心になるべき民族として、ユダヤ人が神によって選ばれたのです。神が世界を経綸するためにユダヤ人を選んだのは、神の当然の処置です。

 ところが、ユダヤ人の指導者であるモーセが間違えたのです。神の見方が間違ったのです。旧約聖書を未だに握り込んでいるユダヤ人は間違っているのです。その結果、私たちの方へ有難い恵みが回ってきたのです。

 ユダヤ人が責任を果たしていれば、私のような者が出る必要はなかったのです。ユダヤ人が全く役に立たない状態であるために、私が恵みにあずかって、ユダヤ人の誰もが持たなかった神の責任を持たされているのです。

 私が現在教えられているのは聖書の新しい解釈だけではないのです。もちろん聖書の新しい解釈もありますが、聖書がなぜ真理であるのかということの根本原理を教えられているのです。キリスト教の人々にはこれが全然分かっていないのです。

 キリスト教は聖書を色々と人間的に解釈しているのです。ああでもない、こうでもないと言っているだけです。聖書がなければならない原理が、キリスト教に分かっていないのです。私には聖書がなければならない原理が分かっているのです。私自身の実存を通して分かっているのです。

 イエスがこれを実行していたのです。イエスは自分自身が聖書だと言っているのです。聖書は私のことを書いていると言っているのです(ヨハネによる福音書5・39)。聖書とイエス自身は同じものだと言っているのです。

 イエスは聖書がなければならない原理をはっきり踏まえていたのです。私もそれを踏まえて発言しているのです。私は聖書を解釈しているのではありません。なぜ聖書が世界になければならないのかという原理、原点が教えられているのです。そこで神に代わって皆様に聖書の説明をしているのです。

 自分自身を空じるということですが、自分自身を空じなければいけないということは、自分ながらよく分かる。そこで空じたつもりでいる。しかし一晩寝て朝になると、もう元の自分に返っている。これはどうしたことかと思われるでしょう。

 これは誰もが経験することなのです。人間が現在生きているということは、歴世歴代の経験がそのまま伝承されている訳でありまして、分かったからと言って本当に分かっているのではないのです。自分の理性によって断定できるものではないのです。

 感覚というのは現在の感覚であって、自分が承知するとか、認識すると言いますが、先祖代々の非常に重厚な人格的に強力な惰性があるのです。だから、自分自身を空じたと自分が考えても、なかなか実感にならないのが当たり前です。空じたという自分の決心がなかなか実感にならないのです。

 それを実感にするためには、前進し続ける必要があるのです。空じ続ける必要があるのです。自分自身の決心を今日も明日も明後日も、毎日毎日続ける必要があるのです。いつまでもその決心を持ち続けるという持続力があるかどうかによって、本当に自分を空じることができる人と、できない人とができるのです。

 本当に人間としての本質を捉えようとお考えでしたら、空じるという決心を持ち続けるという、素朴な気持ちを持ち続けて頂きたいと思います。

 空じるという決心を持ち続けるということを考えて頂きたいのです。自分自身と闘い続けるのです。自分を空じるという決心を持って、今までの自分の常識、自分の感情と闘い続けるのです。そうすると、だんだん分かってくるのです。

 そのように闘い続けながら聖書の勉強をするとか、般若心経の中へどんどんと入り込んでいくことが必要です。また一方において自分を空じることをし続けるのです。訓練と忍耐、訓練と忍耐をし続ける必要があるのです。

 これをある程度続けますと、天来の助けが生じます。人間の霊魂に対して天の助けがありまして、この宇宙構造には目に見えないエネルギーがあるのです。これを神というのですが、この働きが皆様の精神状態を助けてくれるのです。

 これを聖書では神の御霊(みたま)の助けと言っています。この神の御霊の助けは十分に期待できるのです。隠忍自重してやり抜こうという決心があれば、神の御霊が必ず助けてくださるのです。

 その助けがあるものと期待してください。助けは必ずあるのです。天からの助けがあると考えて、自分を空じて頂きたいのです。

 人間だけの力では宇宙の真理を掴まえることができにくいのですが、神の御霊の助けがありますので、宇宙の命の真実を魂が捉えることができるのです。宇宙の真実を見出すためには、自分自身ができるだけ隠忍自重することです。持続することです。持続していますとだんだん分かってきます。

 人間の魂は非常に弱いものです。ちょっとした誘惑にすぐ負けてしまうものですけれど、やろうという決心があればできるのです。困難なことのように思いますけれど、とにかく続けてください。

 積んでは崩し、積んでは崩しになると思いますけれど、めげないで行ってください。努力を継続するという素朴な勇気を持って頂きたいと思います。

 私はモーセが誤っていたと言いました。これは今日のキリスト教のような誤りをしたというのではありません。今日のキリスト教は根本から間違っているのです。土台から間違っているのです。

 モーセの間違いは何かと言いますと、土台は間違っていなかったのです。モーセの掟は間違っていません。モーセは神の言葉をそのまま書き記しているのです。神の言葉をそのまま書き記したとか、エホバかく言うというように神の言葉を正確に伝えたという点ではモーセは預言者でした。神の言葉を間違いなくイスラエルに伝えた。また、神の言葉のとおりにイスラエルを指導したのは良かったのです。

 ところが、モーセ自身の心理状態が間違っていたのです。神の言葉を自分自身の思想によって、焼き直すということはしなかったのです。現在のキリスト教は神の言葉を焼き直しているのです。ユダヤ教も同様です。ユダヤ教とキリスト教は神の言葉を焼き直しているのです。

 モーセは神の言葉を焼き直しはしなかった。神の言葉をそのまま伝えたのですが、モーセ自身が神の言葉を十分に理解していなかったのです。モーセは神の言葉を伝えていながら、彼自身の伝え方が十分ではなかったのです。

 モーセは神の言葉を根本的に理解していなかったのです。神の言葉の根本を理解せずに伝えていたために、イスラエルの人々に神の御心の真髄を理解させることができなかったのです。だから、半分は良くて、半分は悪かったと言えるのです。

 モーセの死骸を悪魔が取りに来た。悪魔と神の使いがモーセの死骸を取り合ったというのはそういう理由があったからです。悪魔にそういうことをさせる理由があった。これがモーセという人物です。

 モーセにはこういう欠点があったのですが、今日の人間から見れば偉大な人物であったことは確かです。今日のキリスト教の牧師とは比べものにならないくらいに偉い人物です。

 キリスト教の牧師にモーセの悪口を言う資格はありません。私にはある意味で言うことができるのです。

 神の言葉を正しく理解して、それを実行することは難しいのです。神の御心を理解して、それを徹底させることが難しいのです。

 皆様がこの世に生まれた以上、命を知らなかったではすまないのです。皆様は肉体的に現世に生きています。しかし、魂的には神の人です。

 肉体的にというのは皆様が固有名詞として現世に生きている状態です。魂的にというのは皆様の五官の感性に基づいて前世の生活をそのまま送っているという点です。

 皆様の五官は現在前世の生活を送っているのです。皆様は見たり聞いたり味わったりしています。これが五官の感覚です。五官の感覚は世の初めの神の言葉をそのまま感覚しているのです。

 人間が見たり聞いたり触ったりしているのは、私たちが生まれる前の世界をそのまま経験しているのです。そのように、皆様は神の国である前世を経験していますが、皆様の常識は現世を経験しているのです。こういう間違いをしているのです。

 この点がお分かりになれば、皆様の信仰が神に添ったものになるのです。これがキリスト教では全く分からないのです。

 五官は世が始まる前の神の言葉を現世で経験しているのです。ヨハネの第一の手紙の一章一節から五節までのことを経験しているのです。これがキリスト教では全然分からないのです。宗教観念で考えているから分からないのです。

 皆様の五官は、例えば、目の働き、耳の働き、舌の働きは皆様の霊の働きです。霊の経験、霊の働きは生まれる前の世界の経験です。皆様は生まれる前の世界の経験をしているのです。これが神の国にいることなのです。

 ところが、それを精神的に受け止めることができないのです。皆様は肉の思いで生きているからです。肉の思いで生きているために、せっかく霊の経験をしていながら、霊の思いで生きていないのです。

 そこで、信仰によって霊の思いで生きるようにするのです。信仰によって固有名詞で生きている世界を捨てるのです。固有名詞で生きている生活を捨てて、目や耳や舌で味わっている霊の世界を具体的に生活するのです。これができなければ本当の救いの味が分かりません。

 パウロが霊に従って歩めとやかましく言っているのはこのことなのです。イエスが父の内にいると言ったのは、生まれる前のことです。生まれる前の世界を父の内と言っているのです。今生きているこの世ではないのです。

 生まれる前の世界、霊の世界に生きることが信仰です。

 五官のとおりの生活をして頂きたいのです。五官の感覚がそのまま自分自身の生活になるような生き方が信仰です。これが霊に従って歩むという信仰です。これは言葉で言えば難しいのですができることです。私は現在実行していますから皆様もできるのです。できるに決まっています。

 御霊を崇めて生きていれば、御霊によりてそのようにさせられるのです。そうすると、現世における欲の生活はなくなってしまうのです。目の生活、耳の生活、舌の生活をするのです。見たり、聞いたり、舌で味わっている生活になるのです。これが霊に従って歩むということです。

 般若心経の五蘊皆空を実行したら、聖書の霊の生活になっていくのです。イエスが父の内にいると言ったのは、こういう生き方をしているのです。

 生まれる前の人間のあり方を、生まれた後に生きるのです。これが本当の信仰です。皆様に誠意があれば、神が必ず皆様を助けるでしょう。神の助けを信じるのです。皆様に霊の生活をしたいという誠意があれば、神が皆様を助けるのです。

 神の助けは非常に有効適切ですから、これを素朴に信じて頂きたいのです。御霊を崇めて頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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