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神の国に入る(3)


神の国に入る(3)

 聖書に次のようにあります。

 「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 そして、あなたのすることはすべて、言葉とわざによるとを問わず、いっさいを主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」(コロサイ人への手紙3・16、17)。

 人間が生きているとすべて言葉になっているのです。人間は人格的にまた、理性的に生きていますが、すること成すことがすべて言葉になっているのです。

 言葉はロゴスの場合と、レーマの場合とがありますが、原則的に言えばロゴスです。状態で言えばレーマですが、本質的に言えばロゴスです。口から出す言葉、文字で書いたり、パソコンの画面に表示された文章や文字は、レーマです。そうなる前の段階がロゴスです。

 事がらはすべて宇宙的な事がらを意味するものでありまして、良いことをしても悪いことをしても、霊の思いで生きていても、すべてが事がらです。その事がらは肉の事がらになるか、霊の事がらになるかどちらかです。人間の事がらはすべて言葉が実を結んで事がらになるのです。

 人間は理性が人格的に生きているのです。理性の本質がロゴスから出てきているのです。ロゴスから出てきている人間の発想が人格的に行動している。人格的に動いていますから、ロゴス的になるに決まっているのです。

 人間の行動は良い意味でも悪い意味でも、ロゴス的になるに決まっているのです。ロゴス的というのは記憶的という意味です。神に賛成する記憶か、反対する記憶になるかどちらかです。

 従って、皆様の命が今日神的に価値があるものであったか、無価値であったかということです。そのどちらかになっていたに決まっているのです。

 人間存在は自分が存在しているのではないのです。ロゴス的な人格が人間という形で存在しているのです。これが人間です。

 自分自身はイエスと同質のものであるという自覚を持たずに行動すれば、固有名詞の人間の行動になるのです。イエスの行動にはならないのです。

 イエスの行動にならない者を神は一切認めません。なぜかと言いますと、裁きの中心人格がイエスだからです。イエスは救い主ですが、同時に裁き主をも意味するのです。

 だから、イエスと同じ感覚で行動した場合は、イエスとして受け止められるのです。これは非常にレベルが低いものであっても、幼稚な感覚であっても、自分はイエスだという思いで行動した場合は、イエス自身の行動として受け取られるのです。そうでない場合はどんな学識があっても。どんな地位や名誉があっても一切否定されるのです。

 キリストの言葉を豊かに心に止めて、キリストの言葉に基づいて行動していないということになれば、すべてキリストに敵する結果になるのです。

 日本人はキリストが何であるか分からないのです。キリストは太陽系宇宙における絶対的な審判者です。また救い主でもあり、裁き主でもあるのです。

 救うと言っても裁くと言っても、キリストという言葉の他には何もないのです。救うこともキリストですし、裁くこともキリストです。キリストということを理解しなくては、善も悪も分からないのです。

 キリストに添うことが善です。キリストに反することが悪です。だから、キリストの言葉を豊かに心に置くことを実行したら、自分自身の構造になるのです。

 人間という人格者がこの世に生きているということ自体が、イエスがキリストとせられたことの大眼目です。これが新約聖書の結論になるのです。

 皆様が生きていることの本質がそのままイエスを意味するのです。皆様の客観的な存在がイエスです。主観的には固有名詞の人間です。

 主観的に自分を見るか、客観的に自分を見るかということだけです。客観的に自分を見ることができれば、固有名詞の自分から出ることは簡単にできるのです。

 イエスを信じるというのは当たり前のことです。信じても信じなくても、皆様が客観的に生きている姿がイエスです。これを自覚したらいいのです。

 パウロは、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されている」と言っています(コロサイ人への手紙3・3)。このことをよく知って頂きたいのです。

 皆様が信じても信じなくても、皆様の命はキリストと共に神の内に隠れているのです。だからキリストが分からない人は、自分の命の大原則が全然分かっていないのです。

 日本人はほとんどの人がだめです。日本人の先輩にはキリシタン大名と言われる人がいました。高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田考高、蒲生氏郷、筒井定次などがいました。

 細川ガラシャも有名なキリシタンでした。明智光秀の娘で美貌の誉れが高く聡明な人であったようです。

 しかし、彼らはまともにキリストを信じていなかったのです。彼らはキリシタンバテレンを信じていたのです。キリシタンバテレンとキリストとは違うのです。もし彼らが本当にキリストを信じていたのなら、生きていることがキリストと共に神の内に隠れているということが分かっていたはずです。

 彼らはイエス・キリストとキリシタンバテレンとを間違えていたのです。ばかなものを信じていたのです。細川ガラシャも本当のキリストを信じていたのなら、関ケ原の戦いで非業の死を遂げることはなかったのです。

 全く日本人は困った民族です。キリストを信じないで、宗教観念によってバテレンを信じたために、日本に非常な害悪を及ぼしたのです。こういう人々が皆様の大先輩です。

 皆様はこういう人々の足跡を踏まないで、もっと冷静に、冷徹に聖書を見てください。自分という人間の考え方を突き放して見てください。

 イエスはどう生きていたのか。カルマを圧倒するために、カルマに勝つために、一応カルマの下にあるような状態を取らされたのです。まずカルマの中へ入り込まなければカルマを否定することはできません。

 イエスは肉体を持ってこの世に生まれるという、カルマの状態を甘んじて受けたのです。カルマの状態を受けることによって、カルマに勝ったのです。

 イエスは肉体を持って生まれましたから、カルマの状態にあったのです。しかし、イエスは信仰によって歩んでいたのです。

 肉の思いで肉体的に生きていることがカルマです。これが死です。肉体的に生きていても、肉の思いによって生きなければカルマに勝てるのです。これが信仰によって歩むということです。

 信仰によって勝ちを得るのです。イエスはこれを実行したのです。イエスは悪魔が主であるこの世に出てきて、悪魔を完全にやっつけたのです。

 イエスはカルマの世界へ出てきて、カルマを乗り越えてしまったのです。私たちもこれをしたらいいのです。イエスの言葉をはっきり認識して、イエス・キリストの命をそのまま生きるのです。

 現在皆様が生きているのは、客観的にはイエスが生きていたのと同じなのです。皆様がこれをどのように受け取っているのかということが問題です。これを受け取って生きていけば、イエスと同じことになるのです。

 肉体的に生きていても、肉において生きなければいいのです。そうしたら、肉に勝つことはできるのです。

 パウロは言っています。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠れている」(コロサイ人への手紙3・3)。これをよく勉強したらいいのです。

 キリストの言葉を豊かに心に蓄えて、すること成すことにおいてキリストを崇めるのです。義と聖とによって造られた新しい人を着るのです。そうして、キリストを賛美するような生活をして頂きたいのです。

 思想の勉強はいくらしてもだめです。聖書の思想の勉強はしなければだめですけれど、聖書の勉強ばかりしてもだめです。キリスト教はここが間違っているのです。

 キリスト教が聖書の勉強をしていながらなぜ宗教になってしまうかと言いますと、聖書に対する見方が間違っているのです。

 内村鑑三氏は思想的、理論的に聖書を見ていたのです。この人が書いた本を読んでみますと、十円切手になるような値打ちがあることを書いています。しかし百円切手の値打ちはありません。

 内村鑑三氏の聖書の理屈はどこまでも思想的であって信仰的ではないのです。だから、水から生まれるということが分からなかったのです。新しく生まれるということが分かっていなかった。

 新しく生まれて新しい命を持つことを、内村鑑三は経験していなかったのです。

 イエスは「悔い改めて福音を信じよ」と言っています。パウロは「心を更えて新しくせよ」と言っています(ローマ人への手紙12・2)。この箇所を英訳ではby the renewing of your mindになっています。精神を全く入れ替えるのです。ちょっと修正するのとは違います。修正するのはだめです。全く入れ直してしまうのです。

 精神を入れ直すとはどういうことか。これがキリスト教では分からないのです。だから、精神を入れ直すということが実行できないのです。

 心を更えて新にするというのは、方向転換するのではないのです。右に向かっているものを左に向けるのとは違うのです。

 心そのものを入れ替えてしまうのです。今の心をやめてしまって、別の心を持ってくるのです。これは意識の問題になるのです。私はこれを経験しましたので分かるのです。これがキリスト教との違いです。内村鑑三氏との違いです。

 私は水から生まれたのです。霊から生まれたのです。水から生まれて霊から生まれるという新しい命を経験すると、初めて意識の転換ができるのです。これを実行して頂きたいのです。

 精神を更えてと言っていますが、これでもだめです。精神構造の根底をひっくり返してしまうのです。だから、意識の問題になるのです。

 例えば、善と思っていたものが、悪と意識するようになるのです。意識の転換を皆様がしなければ、キリストを掴まえることはできません。

 聖書を三十年勉強しても、四十年勉強しても、この世に生まれた自分が勉強していたのでは、結局宗教になるだけです。

 水から新しく生まれるのです。霊から新しく生まれるのです。そうして、神の国へ入ってしまうのです。これを実行しなければいけないのです。

 思想の勉強はいくらしてもだめです。イエスの精神状態はどのようであったのかということの実体を掴まえないで、聖書の勉強ばかりをしている。これは理屈の勉強です。これはだめです。

 皆様が飲んだり食べたりしている現実生活の実体が意識です。聖書の思想を勉強しながら、これに合わせてキリストの言葉に一致するように、自分の意識を変えていくのです。

 心を更えて新にするとはこういうことなのです。嫌だと思っていた意識を好きだと思うのです。分からないと思っている意識を分かったというように変えるのです。そうすると、分かってくるのです。

 神と人間の霊魂の関係はなかなか分からないものですが、これを分かったという思いにするのです。そうすると、分かってくるのです。神と人との関係はこういうものです。

 森羅万象は神自身が造ったものです。神自身のあり方に基づいて造ったものです。私たちは牛肉を食べると、豚肉と牛肉の味が違うことが分かります。神が造った牛肉と、神が造った豚肉とを食べ分けているのです。

 これと同じように皆様は神そのものを食べないと神が分かりません。神というのは食べ物です。こういう言い方ができるのは私たちだけでしょう。

 キリスト教ではこういう大胆不敵なことは言いません。私は神を食べているのです。神の御霊を食べているのです。そうすると、神の味が分かります。

 神というのはただ心で信じているのではだめです。心で信じるというのは、精神構造で受け止めるのですけれど、人間の精神構造というのは、多く現世に生まれてからの働きになるのです。

 ところが、人間の人格構造の中心をなすものは、生まれる前の本質です。皆様の五官の本性は生まれる前の本性です。これが食べることです。見ることです。

 聖書に、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父のふところにいる一人子なる神だけが、神を現わしたのである」とあります(ヨハネによる福音書1・18)。

 私たちは五官によって食べたり見たりしています。このように生まれる前の感覚で神を食べるのです。これを信じると言うのです。本当の信じ方はこういうものです。

 現世の信じ方はだめです。現世の信じ方というのは、現世での人間の精神構造の範囲で言っているのです。これは哲学や心理学の範囲の問題になるのです。

 私が言っているのは、哲学や心理学の範囲の問題ではありません。生まれる前の人間の生命学の問題です。生まれる前の感覚で神をしっかりと食べてしまうのです。

 悔い改めて福音を信ぜよというのは、命をかけて神を掴まえなさいということです。これは難しいことではありません。

 これをするために、神は女を掴まえることを許しているのです。男の場合には、女を掴まえる感覚が神を掴まえる感覚とよく似ているのです。掴まえられる女は災難かもしれません。

 女が男の犠牲になっているのです。女の人を犠牲にしてはいけないのです。男は女を犠牲にしているのですから、これを参考にして神を食べるのです。

 未だかつて知らない経験をするのです。人間はこの世に生まれてから色々なことをしています。良いことも悪いこともしていますが、これが全部役に立つのです。現世でしたことを総動員して神を掴まえるのです。自分自身の人生経験の底の底にあるものを掴まえるのです。こういう大胆不敵な考え方をして頂きたいのです。

 エバはヘビに言われて善悪を知る木の実を見たところ、「見るにうるわしく、食べるによく、賢くなるに好ましい」と見えたのです(創世記3・1~6)。賢くなるに好ましいと思われたということが大変悪いのです。

 賢くなろうとエバが考えたことが、エバにとって決定的な間違いの原因になったのです。

 エバは善悪を知る木の実を食べるなという訓戒を受けていなかったのです。食べてはいけないと言われたのはアダムです。エバはこのことをアダムから聞いていたでしょう。しかし、食べたら必ず死ぬということを、神から言われていなかったのです。これがヘビのつけ所だったのです。

 エバが神から食べるなと言われていなかったという弱点を、へびがついたのです。そこでエバは簡単に騙されたのです。

 エバはヘビに騙されたのです。エバは神から掟を与えられていなかったから、善悪の木の実に対する警戒心が弱かったようです。ここをヘビが突いたのです。

 エバは騙されて食べたのです。自分で好んで食べたのではないのです。これを見てアダムも食べたのです。アダムが食べたところ死んでしまったのです。

 こういう点から考えて、女は罪を犯したとは言えないのです。罪を犯したと言えるのは男です。

 女性は魂の自覚がないのです。女性には魂がないのです。なぜかと言いますと、アダムは神から命の息を吹き入れられた。これは魂を与えられたということです。女は神から直接命の息を吹き入れられていない。だから、女は魂を持っていないことになるのです。

 女の人はこの世の命は持っていますけれど、魂は持っていないのです。

 男は魂を持っています。魂が男性自身です。ところが、それが死んでいるのです。女は魂を持っていないけれど、魂が生き返るべき優しさを持っているのです。

 男は魂は死んでいるけれども、生き返らなければならないという精神構造だけは持っているのです。ここが難しい所です。

 そこで男と女が一つにならなければいけないのです。これがなかなか難しいのです。これはキリスト教ではとても分からない所です。

 回教も仏教もヒンズー教もユダヤ教も、あらゆる宗教は男と女の問題について説明することはできません。全世界に二十億の人がキリスト教を信じていますけれど、男と女の本質について分かる人は一人もいないのです。

 太陽系宇宙はどういうものかと言いますと、その実質は空間ではないのです。空間でもない。一つの世代です。

 太陽系宇宙は神の国を実現するための世代であって、太陽系宇宙そのものが固定的に存在するものではないのです。太陽系宇宙それ自体が言(ことば)です。

 森羅万象は言です。電気も言の働きです。ところが、人間は言の働きの意味が全然分からないのです。物質がなぜあるかのということは、電気の働きが物質になっているという概念的な説明はできますけれど、本質的な説明はできません。

 今の人間の学問は底が浅い薄っぺらなものです。現在の学問くらいの程度のものでは、太陽系宇宙の実体は分からないのです。

 電気はなぜあるのか。電気がなぜ電気であるのか。電気の本質はどこから出ているのか。電気の本体は何であるのか。電気の扱いはできますが、電気の本質の説明はできません。

 電気は言です。神の言とも言えるようなロゴス性を持っているのです。

 イエスは電気が分かっていました。彼自身の本質が言であったので、イエスが十字架に付けられるということが、言に大きな欠陥が生じるのではないかというような恐れを感じたのでしょう。

 今日の概念で言えば、科学の原理そのものがイエスの実体であったのです。これが十字架に付けられるとしたら、宇宙構造がどうなるのかについて、責任を自覚しなければならないのは当然のことです。このことについてイエスは神に述べたのです。この疑念を神に問いかけたのです。

 これが、「わが父よ、もしできることでしたら、どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままではなく御心のままになさってください」という言葉になって現われたのです(マタイによる福音書26・39)。

 これには今の私たちにはとても伺い知ることができない深い問題があるのです。とても触れることができないものがあるのです。これは太陽系宇宙に係わる大問題です。

 例えば、時間とは何であるのか。空間とは何であるのか。今の人間には説明ができないのです。現在の科学では時間があることの証明ができないのです。空間があることの証明もできません。

 空間の測定はできます。時間の測定もできます。しかし、時間の本質は何であるか、空間の本質は何かの説明はできないのです。

 イエスはこの説明ができたのです。時間、空間は神の言です。

 三位一体の一人であるイエスが、父なる神と重要な問答をしなければならないことになったのです。イエスが十字架につけられるとしたら、この宇宙は一体どうなるのかについて、自分が去った後に時間、空間がどうなるかについて、神に問いかけたのは当然のことです。

 それに対して神は答えなかったのです。必要がなかったからでしょう。イエス自身が復活したら分かるのですから、神から見れば答える必要はなかったのです。イエスから見たら答えてもらいたいと思ったのです。そこでイエスは泣いて祈ったのです。これがゲッセマネの祈りという悲痛な祈りだったのです。イエスは跪いて祈ったのですが、ここへ再臨のイエスが立つのです。これが私たちが祈っているイスラエルの回復の祈りと重大な関係があるのです。

 今ゲッセマネをユダヤ人やアラブ人が占領していますが、ユダヤ人やアラブ人が悔い改めるために、私たちは熱心な祈りをしているのです。世界中でこの祈りをしているのは私たちだけです。皆様もこれをしてください。

 キリストが再臨しますと、世界の歴史が一変してしまいます。これを目的にして私たちは聖書の勉強をしているのです。

 これは宗教の話ではありません。世界歴史が一変するという雄大な高大な思想です。イエス・キリストが持っていた目的と同じ目的で聖書の勉強をしているのです。

 ユダヤ人は文明という仰々しいものによって、人間を徹底的に洗脳してしまったのです。学校教育という名前で洗脳したのです。その結果、皆様の情操が完全に働かなくなったのです。皆様が主知主義の勉強ばかりしたために、情操が円満に働かなくなってしまったのです。

 情操的に非常に大きい欠陥を持つようになったのです。情操的な直感性がなくなってしまったのです。だから、神の地球計画という雄大な思想を考えることができなくなったのです。

 現在の政治、経済という小さなことしか分からなくなったのです。人間の質が非常に悪くなったということを、よく理解して頂きたいのです。

 人間の頭が良くなったのとは違います。学問は情報ばかりです。政治、経済、法律は生活情報ばかりです。生命的真理は一つもありません。人間の頭が固められてしまったのです。

 皆様の情操がだんだん枯渇してしまったのです。これが教育の大欠点です。教育は恐ろしい欠陥を造っているのです。世界中の人間を、欠陥人間ばかりにしてしまった。そういう文明の基本的な欠陥を認識して頂きたいのです。

 せめて私たちだけでも本当のことを考えなければいけないと思うのです。

 男と女の関係が間違っている。全く間違っているのです。女の人は罪人ではありません。だから、神に帰らなければならないという直感性は分かっているのです。しかし、理論性が分からない。神に帰るにはどのような段取りと、どのような段階を経て帰ればいいのか全く分からない。

 魂がないからそのような論理を見つけることができないのです。優しさはあるけれど道程が分からない。

 男は頭はあるけれど、文明によって死んでしまっているのです。男は現在の状態ではほとんど回復不可能になっているのです。

 悔い改めるのです。死んでしまうという気持ちで女の本質をじっと見極めるのです。女の優しさ、美しさというものが、何であろうかということをじっと考えるのです。

 セックスの欲望という愚かな考えを持たないで、女の本質をじっと勉強するのです。これから始めるのが一番正確なやり方です。

 女は直感的に神に帰らなければならないことが分かっているのです。今の男の考えが根本的に間違っていることを、女はよく分かっているのです。しかし、どうしたらいいのか女自身に分からないのです。男が間違っていることだけは分かっているのです。

 そこで、男は女が持っている素朴さの価値をよくよく勉強すると、素朴になれるのです。これが文明の害毒から逃れる唯一の方法です。文明は恐ろしい害毒を持っているのです。これが白人主義です。

 白人主義の恐ろしい害毒から逃れる方法は、素朴になるしかないのです。

 女の素朴さを見る感覚で奥さんをじっと学んで、その気持ちで聖書を勉強するように考えるのです。

 夫婦の方は夫婦がそろって勉強しなければ、聖書の本当の勉強はできません。

 ユダヤ人は大体女を問題にしていません。女を問題にしないというのは、女は魂を持っていないので、女に教えるということがあまり必要でないと考えているのです。女を学ぶことは必要ですけれど、ユダヤ教は女を学ぶことの知恵がまだ開かれていないのです。聖書を円満に読んでいないからです。聖書を完全に消化していませんので、女の本質が全然分からないのです。

 女の優しさ、美しさは男の骨の骨になるためだということが分かっていないのです。女の命は女自身のものではないのです。男の骨の骨です。

 男が目を覚まさなければ女を消化することはできません。女を欲望の対象と考えることは、根本から間違っているのです。

 女の人格性を学ぶのです。骨である女を学ぶのです。そうすると、男自身に欠けているもの、男が持っていない重大なポイントが分かってくるのです。神に帰ることができるのです。

 ユダヤ人は男ばかりを教えています。モーセの掟は男に対するものです。女は男の持ち物としてしか考えていないのです。個人の持ち物と考えていた。家の財産の一つのように考えているのです。これがユダヤ教の非常に悪い点です。

 旧約聖書では女を重視していません。私が考えているのは新約聖書における女のことを言っているのです。新約聖書における女の値打ちが、骨の骨です。

 しかし、新約聖書では女が骨の骨であるとはっきり言っている箇所がありません。創世記の初めにはあります。

 女が持っている本質が、神に帰るべきすばらしい本性を持っているという考えは旧約聖書には出ていません。新約聖書において、男がイエス・キリストと共に十字架に付けられたということがはっきり分かって、初めて女の優しさを受け止めることができるのです。

 男の根性を持っている間は、女の優しさを骨の骨として受け止めるということはとてもできません。従って、奥さんと一緒に聖書の勉強を十分にすることは、旧約的な信仰ではできないのです。

 ユダヤ人は女を相手にしていない。この習慣がパウロにあったのです。パウロはユダヤ人ですから、女を相手にするなということを彼の手紙の中で書いているのです。けれどこれはあまり取り上げない方がいいでしょう。

 異邦人の立場で聖書を読んでいくとしたら、私はキリストと共に十字架に付けられた。肉にある私たちはイエスと一緒に死んでしまったということを大前提として勉強して頂きたいと思います。女を軽蔑するという考えを持ってはならないということをお話ししたいのです。

 私はキリストと共に十字架に付けられた。もはや私は生きていない。キリストが私において生きているという感覚を持って頂きたいと思います。

 「女は男の栄光である」と書いています(コリント人への第一の手紙11・7)。キリストは神の栄光である。キリストの栄光は男である。男の栄光は女であると書いているのです。従って、女は一番すばらしい者になるのです。こういうことをパウロは書いているのです。だから、パウロは根本から女を軽蔑していたのではないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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