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神の国に入る(10)


 人々を導こうとしたら、神に霊(人生)を渡しただけではいけない。神の国に入っていなければいけないのです。そして神の国を人々に知らせてあげなければいけないのです。

 イエスが十二人の弟子に、神の国を述べ伝えよと言っているのです。神の国を述べ伝えるとはどういうことかです。

 人々が現在の社会生活の中で、神の国を味わっている場合が時々あるのです。神の国というのは哲学でも哲理でもない。人間生活の中にあるのです。それを教えてあげるのです。

 例えば、道徳があります。道徳と簡単に言いますが、道という言葉の意味、徳という言葉の意味も両方共分かっていないのです。

 宗教家でも道徳の原理を知らないのです。道徳研究会というものがありますが、この人々が分かっていないのです。妙なことですが、誰も道徳という言葉の意味が分かっていないのです。神の国が分かるとすべて分かってくるのです。

 皆様が知らず知らずに実行していることが、きちっと神の国になっているのです。

 イエスと同じようになることです。私たちが天使を使いこなす所まで行かなければならないのです。現在天使がどのように働いているか。これが分からないと天使を使うことができないのです。

 新約時代と旧約時代とどう違うかと言うと、旧約時代は神の御霊に仕える神の使いと、ただの使いの二つがあったのですが、新約時代には一つになっているのです。

 聖書の語法が分かってこないと神の相談役にはなれません。私たちは世々限りなく神の相談役になるために集められたのです。今までの皆様の在り方は全く丁稚小僧みたいなものです。そんなものを問題にしていたのではだめです。現世の両親から生まれた自分を自分だと思ったら絶対にだめです。

 私たちは宇宙の責任を持たなければならないのです。「この星とこの星の間を縮めることができるのか」とヨブ記(38・32)に書いていますが、そういうことが言えなければならないのです。神にはそれができるのです。

 もっともっと生きていることの勉強をして頂きたいのです。この世に習ってはいけない。この世の人間は位が高くなると威張っているのです。位が高くなったらいよいよへりくだらなければいけないのです。

 マリアは言っています。

 「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。

 その御名は清く、

 そのあわれみは、世々限りなく、

 主をかしこみ恐れる者に及びます」(ルカによる福音書1・49、50)。

 主をかしこみ恐れるということが好きになってこないといけないのです。その有難さが分かってこないといけないのです。

 人間面をしている者はだめです。人間面をした者が、いくら聖書が分かってもだめです。人間面をやめなければいけないのです。

 そうでないと、神の相談相手にはなれません。自分がいると思ったら大間違いです。お金を与えられようが、位を与えられようが、そういうものに一向に拘泥しない人間にならないと、神が安心して使えないのです。神の相談相手にはなれないのです。

 イエスが、「心が貧しい人たちはさいわいである。平和を造り出す人たちはさいわいである。悲しんでいる人たちはさいわいである」と言っています(マタイによる福音書5・3、4)。心が貧しいとはどういうことか。悲しむことがなぜさいわいなのか。これを実行した人々は神の国に入っているからさいわいなのです。

 その御名は清く、そのあわれみは主をかしこみ恐れる者に及ぶとあります。主をかしこみ恐れることができない者は、預言の霊を与えられません。聖書に従うべきであって、この世の状態に従ってはいけないのです。御霊を崇めるというのは、神の国の生活をすることです。この世の条件ではなくて、神の条件に従うのです。

 私たちは神に助けてもらわなければ、ユダヤ人伝道はとてもできません。神に助けてもらおうと思うと、神をかしこみ恐れるという態度を取らなかったらいけないのです。

 私たちは世界歴史を引き回さなければいけない。地球の完成に向かって、人類全体を指導しなければならないのです。だから、世間並の考えではだめです。人間の合理主義ではだめです。

 今、神をかしこみ恐れる人がこの世の中にいませんが、私たちがそれをすると、私たちの方にだけ神の力添えが与えられるのです。だからそうする方が得です。

 幸いにして全世界の人間が腐っているから、私たちの方で神をかしこみ恐れることをしますと、そこへ神の恵みが集中されるのです。今は全くのチャンスです。

 神がアブラハムに、「わが前に歩みて全かれ」と言いましたが(創世記17・1)、わが前とはどういうことなのか。これがヨハネの黙示録の第四章に書かれているのです。

 聖書に次のようにあります。

 「その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには緑玉のように見える虹が現われていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・3、4)。

 三節に御座に座する者があります。四節には二十四人の長老が出ています。御座の回りに緑の虹があります。回りというのは英訳でラウンド・アバウト(round about)という言葉を使っています。ラウンド・アバウトというのはどういう意味か。御座の全体のあり方がラウンド・アバウトです。そこに虹が現われている。神の位全体は現在もありますが、未来のためにもあるのです。

 ラウンド・アバウトは回りとも訳せるが、「のために」、「について」とも訳せるのです。御座という位について、一緒に位に密着している状態を指しているのです。

 神の位というのは約束のためにあるのです。約束は未来において成就することです。現在はまだ成就していないのです。

 神の位はまだ未完成です。未完成の印に緑の虹によって象徴されているのです。神は将来に自分自身の完成をおいているのであって、将来を目的にしているのです。現実が神の目的ではないのです。皆様もこの調子で生きなければいけないのです。

 現実のあり方が自分の理想だと考えてはいけない。将来を目的にしたらいいのです。御座のあり方と同じ原則で自分を見なければいけないのです。

 神が位に座しているように、私たちも二十四の位に座っているのです。二十四の位に座するというのは、神の位と同じような座り方をしなければいけないのです。神をかしこみ恐れるとはそれを言っているのです。神の御名と同じような生き方をするのです。

 神が未完成ですから私たちも未完成です。未完成の状態で生きるのです。現実の家庭、現実の経済事情、現実の健康状態は皆過程です。今与えられている条件に定着したらいけないのです。

 神自身が過程である以上、私たちも過程でなければいけないのです。私たち自身の生活の中にも緑の虹がなければいけないのです。

 今日与えられている条件は、緑の虹として与えられている。これが山上の垂訓の原点です。

 神の国の本質は何か。三節には御座に座する者と、御座の回りの状態、そして、碧玉のように見える虹が現われていることが書かれています。それは、命を示しているのです。宇宙の構造の原点は命です。しかし、命そのものは未完成です。

 私たちは宇宙の命を完成するために、神のスローンを完成するために集められたのです。宇宙の命が未完成であることが悪魔の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)の原因になっているのです。

 宇宙の命が完成すれば、悪魔が跋扈する余地がなくなってしまうのです。

 「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とありますが、宇宙が未完成であるからそういうことになるのです(へブル人への手紙11・1)。

 新天新地が実現すれば、目の前で神の栄光を見るのですから、望むところはなくなってしまうのです。信仰の実体が目の前にあるのです。その時、命がありありと私たちの目で見えるのです。今は信仰によってしか命を見る方法はないのです。

 完成された宇宙を実現するかしないかは、私たちがまともな信仰を持つか持たないかによるのです。教会時代の一番末に現われた私たちは、絶対に宇宙の完成について、神の御座について、命を完成することについて、責任を持たなければいけないのです。

 神ご自身が緑の虹を信じているのです。御座に座する方自身が緑の虹を信じているのです。御座に座する方がちょっと誇大妄想かと思うくらいなのです。こういう神のすばらしい大理想を自分の理想にできないのなら、信仰をやめて火の池へ行ったらいいのです。

 三節を見ると、神の現実は非常に妄想的です。神はすばらしい理想を神自身の性情にしているのです。神はわざわざ信じようとしているのではありませんけれど、御座の回りには緑の虹が輝いているのです。緑の虹が輝いていることが神の信仰の象徴です。

 西洋文明はもう行き詰っています。東洋文明はどう伸びたらいいのか分からないのです。

 何と言っても、聖書が白人文明の基礎になっています。般若心経は東洋文明の基礎です。これを抱き合わせて堂々と世界へ押し出しますと、世界のリーダーシップが取れるのです。

 神の御座に緑の虹が出ているということは、神が未完成であるということです。位に座する者が希望を持って見ているのです。緑は希望の色です。これは約束を意味するのです。希望の約束、神の約束を意味するのです。

 約束が神の御座の原点になっているのです。それは東西の文化を統一するものです。ユダヤ人は現在西洋文明だけしかタッチしていませんが、やがて東洋文明にタッチすることになるでしょう。

 東洋文明と西洋文明の両方を一つにして、全世界の文化の原理にするという雄大な思想が、王国の思想になるのです。これがキリスト王国の思想です。これはキリスト再臨の思想とぴったり合うのです。これを実現することが私たちの目的です。東洋と西洋の文化のリーダーシップが取れるようなスケールの大きい考え方をして頂きたいのです。

 人間は自分が確認していないことでも確認できます。人間はなにげなくしていることでも、大変なことをしているのです。人間は全能者と同じ能力を与えられている。全能者と同じ考えができるのです。これを裏返すと肉になるのです。

 人間の脳細胞には全能者と同じ能力がインプットされている。従って、神の完全な味方にもなれますが、完全な敵にもなれるのです。

 自分の思いを自分で見ると、皆死んでしまいます。善悪を知る木の実とは何か。自分の思いを自分で見たのです。善悪を知るということは、自分が善悪を知るのです。これは自分で自分の気持ちを見たことになるのです。

 自分で自分の気持ちを見ることをやめさえすれば、善悪を知る木から絶縁されるのです。逆に自分の気持ちで聖書を勉強したら絶対にだめです。何年勉強しても本当のことは分かりません。

 人間はうまくいけば、極めて大いなる限りなく重き栄光を与えられるのです。パウロはめったに大袈裟なことは言いませんが、ここだけは大袈裟な言い方をしているのです。

 もう一ヶ所は、「目が未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ思わざる」と言っています(コリント人への第一の手紙2・9)。

 極めて大いなる限りなき栄光というのは、最大級の形容詞を並べているのです。

 神にインプットされた人間本来の能力性に目覚めて頂きたいのです。その能力性には霊なる面と肉なる面とがあるのです。

 ヨハネの黙示録の四章四節には次のように書いています。

 「また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」。

 二十四は英訳では四と二十になっています。四は現象を意味し、二十は人間存在を意味しています。

 人間の座は肉で十、霊で十です。霊的に目覚めると肉的にも目覚めるのです。蛇のように聡く、鳩のように柔和が一対になっているのです。一対になっていないと都合が良いのですが、そうはいかないのです。

 人間存在は不思議なものです。霊的に開かれると賢くなり、悪魔的になるのです。十と十が裏表の関係になっている。片方の十が分かると、もう一方の十も分かってくのです。

 地のちりというのはそういうものです。地のちりが肉体をとって地上に出ているのです。地のちりに形を与えたのが人間です。形を与えたというのは肉体を与えたのではないのです。ところが、人間は実体を与えられたと思ってしまっているのです。

 神は形を与えただけであって、実体を与えたのではない。これが創人の秘密です。創世と創人のことが本当に分かれば救われるのです。

 創人とは人間はいないということです。いないけれどもいるのです。形は与えられたが実体は与えられていない。ところが、よく見ると実体も与えられているのです。表面上は形ですが、内面的には神自身の能力をそのままインプットされているのです。内容は霊だから人間に分からないのです。

 まず人間は被造物です。いわゆる地球上の一番最低限です。虫けらとか獣は最低の線です。それと同じものが人間に与えられているのです。同時に最高の線も与えられているのです。

 地のちりである人間に形を与えた。これが最低の線です。これに命の息を吹き込んだ。これが最高の線です。最高と最低が一度に与えられているのです。形を持っているのは最低の線です。鳥や獣と同じ線です。命の息を吹き込んだのは最高の線です。

 命の息とは何か。神のウィルがマインドに命を与えたのです。これが男と女の関係になるのです。ウィルは絶対男性です。マインドは受け皿です。ウイルという男性がマインドという女性に対して精液を射精した。これが命の息です。

 男女はそういうものを勉強するために与えられているのです。神が男に女を抱くことを許しているのは、そういうことを勉強するためです。神は男女の営みを決して奨励していません。苦虫をつぶして見ているのです。人間はそれを肉の思いだけで見ているのです。

 霊の思いで見ると、人間創造の原理を夫婦で経験させているのです。神は人間の所作によって、神の所作が分かるようにしているのです。

 命の息を吹き込んだ。そこで人間は生ける者となった。神が命の息を吹き込んだとなると、人間にインプットされた内容はどういうものか。神は神自身の命を吹き込んだのです。

 人間の所作を霊的に、綿密に、冷静に見ると、今、今、今という瞬間に生きている。これが全部セックスに関係があるのです。男と女の関係は驚くべき深いものがあるのです。これが分からない人間は、全部火の池へ行かなければならないのです。

 何回抱いても飽きない。もっと知りたいもっと知りたいと思う。もっと聞きたいもっと聞きたいと思う。だから、実を結ばなかったらひどい目にあうのです。実を結んだら倉に入れられる。実を結ばないものは全部火で焼き尽されるのです。

 人間はこの世に居座って大将になっているが、霊魂は今生まれたばかりのほやほやのベビーです。生まれる前の世界にいるのです。ですから、この世に生きていたらいけないのです。

 自分の霊魂を自覚してください。今生まれた霊魂と少しも変わっていないのです。三十歳の人は三十年前の自分、五十歳の人は五十年前の自分を見ることができるのです。

 ペテロは、「今生まれたばかりの乳飲み子のように」と言っていますが(ペテロの第一の手紙2・2)、これは決して飾りの言葉ではありません。ペテロは直感によって、すべての人間が今生まれたばかりの乳飲み子であることを知っていたのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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