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神の国に入る(5)


 聖書を甘く見ていることがいけないのです。

 般若心経に、故得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無等等呪とありますが、そのとおりです。人間の立場から考証すれば、般若心経以上のものは存在しないのです。

 日本で今まで般若心経が唱えられてきましたが、その意味が実感されたことはなかったのです。日本には千二、三百年前に伝えられてはいましたが、それを唱えていた人々が、その内容を全然知らなかったのです。

 親鸞も分かっていなかったのです。もし親鸞に分かっていれば、唱道門から易行道へ行くはずがないのです。法然もそうです。易行道は成立しないのです。

 人間は何のために生きているのか。リビングを実感するために生きているのです。

 神が皆様に与えようとしているそのレベルが分からないのです。皆様は毎日何かを食べています。命を食べているのです。命を食べているのに、それを弁えずにご飯ばかり食べているのです。ご飯ばかり食べて、肝心な命を食べていない。

 神が万物を造り、人間に理性を与えてそれを見ているのはなぜか。これを神の側に立って見たら分かるのです。神の側に回って見る人になってもらいたいのです。

 概念だけ、頭だけで分かることがいけないのです。これをしていると宗教になってしまうのです。

 概念を食べるのです。見る、聞くということと、食べることとは違います。聖書はわざと隠しているのです。ただ一ヶ所、ヨハネによる福音書の第二十八章で食べるということを言っていますが、他の箇所では全然言っていません。わざと隠しているのです。

 御霊を崇めるということは御霊を食べることです。食べてみなければ自分の命にはならないのです。見たり聞いたりしているだけでは、結局飢え死にしてしまうのです。食べなければいけないのです。

 人間は現在肉の思いでしか生きていません。こういうものを人間というのですから、私たちは人間をやめなければいけないのです。人の子にならなければいけないのです。

 人間をやめて人の子である意識を自分で実感したら、イエスの肉を食べたことになるのです。こういうことは実感しなければならないのであって、概念的にそうであることが分かっても実行しようとしない。概念的に分かって一服しているのです。これではいけないのです。

 イエスは言っています。

 「よくよく言っておく、人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう。

 私の肉はまことの食物、私の血は誠の飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もそのに人におる」(ヨハネによる福音書6・53~56)。

 私たちが生かされている客観的な実体が、イエスと全く同じであることが分かったら、イエスを食べたことになるのです。

 イザヤはイエスについて次のように述べています。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

 われわれの慕うべき美しさもない。

 彼は侮られて人に捨てられ、

 悲しみの人で、病を知っていた。

 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

 彼は悔られた。われわれも彼を尊ばなかった。

 まことに彼はわれわれの病を負い、

 われわれの悲しみをになった。

 しかるに、われわれは思った、

 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられた。

 彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、

 口を開かなかった。

 ほふり場にひかれて行く小羊のように、

 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、

 口を開かなかった」(イザヤ書53・2~5、7、8)。

 イエスは現世にいる時に、想像できないほどの矛盾を押し付けられてそれを呑んでいたのです。それと同様に私たちも与えられた矛盾を黙って呑むべきである。これがイエスの血を呑むということです。

 イエスの肉を食べなかったらいけない。イエス自身がパンですから、イエスの肉を食べるのです。パンは眺めているものではない。食べるものです。

 ところが、パウロ以降二千年の間、イエスを食べたという記録がないのです。一体キリスト教の人々は何をしていたのかと言いたいのです。

 私たちは思想だけの前人未踏ではいけない。イエスというパンを食べなければいけないのです。食べる前人未踏でなければいけないのです。

 神が私たちに何を自覚してほしいかを、自覚して頂きたいのです。何を信じさせようとしているのかを、まず正しく理解することです。

 神は私たちに何をさせようとしているのか。イエスは何をするつもりで来たのか。神はイエスをこの世に送ったのと同じレベルの事がらを、私たちに注文しているのです。私たちはイエスそのものでなかったらだめです。

 イエスを信じて、ああイエスが分かったというのではだめです。パウロが言っているように、イエス・キリストの信仰でなければ義とされないのです。イエス・キリストと同じ立場に立つのでなかったら、義とされないのです。

 神は私たちに何を命じようとしているのか。何を期待しているのか。生ける神の印を持つことを、神が期待しているのです。

 生きているという奇妙なものを経験しています。これは私たちが考えているようなものとは違います。生きているというのは極めて奇妙なものです。

 花が咲いているということは分かります。私たちの感覚はそれを意識することができるのです。感覚することができるということは、実感できるということです。これは驚くべきことです。私たちは不思議なものを感覚しているのです。

 花が咲いているとは何かと言いますと、マタイによる福音書十三章三十五節にあるように、世の初めに隠れていたことを現わしているのです。

 世の初めに隠れていたものがあります。それが花という格好で現われているのです。私たちの眼力はそれを見ることができるのです。これができるのは人間だけです。人間だけが世の初めに隠れていたことを認識することができるのです。

 見ることができるという能力は何を意味するのかというと、世の初めから隠れていた世界を見ることができるということです。花が咲いているのが見えるというのは、花が咲いているという世界が私たちの霊に移っているのです。

 花が咲いている世界とはどういう世界かと言いますと、見えないものが見えている世界です。本来見えないはずのものが見えている世界です。これが花が咲いているということです。

 見えないものが見えている世界を、私たちは直感的に感覚することができるのです。例えば女性です。女性は元来あるべきはずがないものです。それがあるのです。

 本来、神は女性を造る予定はなかったのです。ところが、アダムが愚かだったために、男からあばら骨を取って女性を造ったのです。アダムの愚かさのために、助け手として女性を造ったのです。女性はどこまでも助け手です。

 女性を見ることができるというのは、助け手を見ることができるということです。人間はこの力を持っているのです。この不思議な世界、不思議な感覚を私たちは味わっているのです。

 女性が感覚できる。花が感覚できる。これはどんな世界かと言いますと、地球ができる前の世界、世の初めの世界です。それを私たちは現在感覚しているのです。感覚しているからその世界へ入ったらいいのです。

 見えないのなら仕方がない。見えるから入ったらいいのです。犬には見えません。猫には花が咲いている世界は一切見えないのです。動物には花が咲いている世界は一切見えないのです。

 犬には見えないから、入らなければいけない責任はありません。人間には見えるから入る責任があるのです。見える者には絶対入る責任があるのです。

 花が咲いている世界にどうして入るのか。どうしたら入っていけるのか。人間は花が咲いている世界を認識する能力がありますから、その能力を利用したら入っていけるのです。

 イエスはそこに入っていた。入っていたから水がぶどう酒になったのです。水がある世界を知っていた。水が淵である世界を知っていた。その上を歩いていたのです。私たちはイエスと同じ所にいなければいけないのです。イエスを信じる以上、イエスと同じ命を持たなければいけないのです。

 肉体的に存在する人間がいるというのは、事実に反するのです。人間は科学的に言えば、新陳代謝の機能があるだけです。生理機能が人体として現われているだけです。

 ところが、人間は人体があるから生理機能があると考えている。逆です。生理機能が人体構造として現われているのです。

 肉体的な能力性、生理機能と人間存在の能力性を現わすために、人体があるのです。肉体がなければ人間の能力性を現わす方法がないのです。

 肉体があるから人間の能力性があるのではない。肉体があるというのは第二義、第三義のことであって、第一義は性能とか機能があるのです。

 生理機能と心理機能が人間の能力性として現われている。それを現わすために肉体を用いなければならないのです。

 肉体が人間であるという思いが肉の思いです。肉の思いで見ることが間違っているのです。人間は性能的、機能的に自分の存在を見ていかなければならないのです。人間を肉体的に存在しているだけと見るということは肉の思いになってしまうのです。

 肉の思いは死です(ローマ人への手紙8・6)。肉の思いを持っている人は死ぬに決まっているのです。肉体があるという思いが既に死んでいるのです。

 人間は死ぬに決まっている命を自分の命だと思っている。だから、人間は死ぬしかないのです。

 死ぬべき自分を自分だと思っている。死ぬべき命を自分の命だと思っている。自分に対する見方、命に対する見方が両方共間違っているのです。初めから自分は死ぬべき人間だと決めつけている。これが悪いのです。なぜ死ぬべき自分を自分だと思うのかと言いたいのです。

 聖書の受け取り方は多種多様です。多種多様になった方がいいと言えるでしょう。世界は色々な感覚の人間がいますから、一定の論理に集約しなければならないことはないのです。ただ、エホバの御名とイエスの御名についてきちっと一致しなければいけないのです。

 エホバの御名とイエスの御名をどのように生活感覚でこなすかということになると、色々な考え方があり得るのです。エホバの御名にきちっと一致していれば、視点の広がりがあってもいいのです。ただエホバの御名とイエスの御名とに、根本的に一致していなければいけないのです。

 日出る所の天使は、イスラエル十四万四千の額に生ける神の印を押すのです。これはエゼキエル書に出ていますし、ヨハネの黙示録にも出ているのです。皆様は聖書の預言に書かれているということを考えて頂きたいのです。

 皆様は固有名詞の自分をどうしても捨てようとしません。その態度がいけないのです。固有名詞の自分がいたのでは、完全な預言者にはなれません。自分の生活、自分の家庭があるという感覚が悪いのです。これをやめるのです。

 日出る所の天使としての役目をさせて頂く。これは私たちがしなければする人がいないのです。これを認識して頂きたいのです。今神に導かれているという現在の私たちの生き方を認識するのです。これを認識するためにどうするかというと、神が私たちを召している。それにふさわしい考え方をしなさいとパウロが言っている。これを実行するのです。

 個々の人間としての私たちはいないのです。人間は理性的、良心的、人格的に生きているのであって、これがイエスです。人格的に生きていながら固有名詞の自分が生きていると思っている。これがいけないのです。

 人間が人格的に生きていることがイエスです。認識力があること、記憶力があること、他人の言葉を理解することができること、他人に自分の話を理解させるように話ができることがイエスです。こういう能力性を持っていることがイエスです。固有名詞の自分が生きていると思ったら大間違いです。

 計画することができる。予見することができる。組織することができる。人に教えることができるし、人から教えてもらうことができる。こういうことをイエスというのです。これが分かっている人は救われるのです。分からない人は火の池へ放り込まれるのです。

 客観的にイエスとしての生き方をしていながら、主観的には自分が生きていると思っている。こういう人は皆地獄へ放り込まれるのです。全世界の人間は皆イエスです。皆復活の命を与えられているのです。

 食事をしたら味が分かる。見たら色が分かる。形が分かる。動物か植物か、鉱物かの区別が分かる。計算ができる。文章が書ける。本が読める。電話をかけたりパソコンが使用できる。インターネットが使用できる。車が運転できる。こういう驚くべき性能性、能力性をイエスというのです。

 皆様は人の子です。肉体的に、社会的に、人格的に、霊的にも、肉的にも生きることができる人をイエスというのです。神が共にいなければこういうことは全くできないのです。

 原罪というのは癩病みたいなものであって神経が侵されているのですから、肉体が崩れていくことを痛くも痒くも思わないのです。だから、死が恐いとも思わないのです。

 幸徳秋水が「基督抹殺論」を書いていますが、それにはエホバの御名が非常によく出ているのです。悪魔に近い人間ほど神が分かるからです。論理的に悪魔に近いほど神に近いのです。ただし霊的にははっきり違います。ユダヤ人の感覚から言えば、イエスは無神論者だったと言えるのです。

 新約聖書は神の国について語っています。神の国を来たらせることがイエスが来た目的で、イエスが復活したことによって、神の国が天で実現したのです。地ではまだ実現していませんけれど、天で実現したことは、地でも実現するに決まっているのです。

 光が昼になり、闇が夜になった。悪魔が肉に賛成した時に、悪魔が負けたのです。

 昼と夜が決まった時に、地球上に来るべき世界が現われることが決定したのです。その印にキリストが復活したのです。これはただの復活ではありません。神の国が現われるという新しい創造のために復活したのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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