top of page

神の国に入る(4)


 言葉とは何か。人間の言葉は言語のようなものか、あるいは文章によって現われるものかになっていますが、人間の言葉は大体思想的なものが多いのです。本当の命というものがないのです。

 皆様は聖書を勉強する時に、哲学的なもの、それより上等なもの、または宗教ではないキリストの言葉として学んでいても、それを普通の言葉として学んでいますと、命になっていないのです。ここが重要なことです。

 命になる言葉を学んで頂きたいのです。命になるように言葉を用いるのです。

 現在皆様は神と接触しています。神と接触していながら、どのように神と接触しているかがよく分かっていません。それは皆様の命が神の言葉になっていないからです。人間の常識になっているのです。または知識になっているのです。これが間違っているのです。

 神の言葉というのは神の命です。神ご自身の命です。神の言葉を神の命の言葉として学ぶことになりますと、皆様の生活の内容、生きていることの感覚の内容が、全く変わってくるのです。これが信仰です。

 分かった分かったといくら言ってもだめです。分かった分かったというのは、多かれ少なかれ宗教観念にすぎないのです。分からないというよりはましかもしれませけれど、まだ神の言葉が命になっていない状態です。

 神の言葉が自分の命になるように勉強するのです。皆様は生きていたいと思っているでしょう。なぜそう思っているのでしょうか。なぜ生きていたいと思うのでしょうか。それは皆様の感覚が神の言葉に触れているからです。

 皆様の命が神に触れているのです。この神を掴まえなければいけないのです。命が神に接触している。この瞬間を捉えてそれを自分の命にするのです。

 皆様の目が見ています。目で見ているということは宗教ではありません。理屈でもありません。感覚です。感覚というものが神の御霊と人の魂とを繋いでいるのです。

 見ているということ、聞いているということの意味が分からなければ、聖書を学んでいても何の意味もないのです。聖書を学んでいないのと同じことです。

 皆様は生きていたいと思うでしょう。なぜ生きていたいと思うのでしょうか。それは感覚的に神を知っているからです。だから、生きていることをやめる訳にはいかないのです。

 皆様の感覚は非常に正確に神を知っているのです。例えば、砂糖をなめたら甘いと思います。これは万人共通の感覚ですが、この感覚が神を経験しているのです。万人共通の霊魂の感覚です。

 甘いとはどういうことかを勉強するのです。皆様が生きていたいと思うのは、生きているということの感覚に対して慕う感覚を持っているからです。だから生きていることを有難く思うのです。

 生きていて何が有難いかと言いますと、おいしいものが食べられるからです。男にとって女がいるからです。女にとって男がいるからです。こういう感覚が人間にとっての本当の救いになるのです。

 ところが、女という人間がいるのかと言いますと、いないのです。性(さが)は女ではありません。性は霊魂の問題です。神と人との係わりを性と言っているのです。

 肉の思いを脱ぎ捨てて、霊に従って考えるという気持ちになれるのですから、そうなって頂きたいのです。砂糖をなめたら甘いのです。太陽光線を見るとまぶしいのです。寒い時には寒いのです。嬉しい時は嬉しいのです。

 おいしいものを食べておいしいと思います。おいしいとはどういうことでしょうか。なぜおいしいと思うのでしょうか。これが感覚です。

 おいしいということは、本当においしいと思うからおいしいと思うのです。こういう経験をしたいから生きていたいと思うのです。

 人間が生きているということは、神と人との触れ合いをしたいからです。天気が良い日には気持ちよく思うでしょう。これが霊魂の救いです。

 難しくはないのです。天気が良い日には気持ちがいいということが魂の救いであって、これが命の言です。命の言葉はそういうものです。命の言葉というのは、命が言葉になっているのであって、理屈ではないのです。

 人間がこの世に生きているということは、感覚の世界に生きているのです。生きているということは非常に有難いことです。死んでしまうと感覚の世界がなくなってしまうのです。だから、死にたくないのです。

 なぜ生きていたいのかと言いますと、神と触れ合うことが感覚であって、これを失いたくないからです。

 天然自然というものはありてあるものです。ミカンというありてあるものと、人間の感覚とが触れ合うのです。そうすると、ミカンの味を味わうことができるのです。これは神の味を味わっているのです。ミカンを食べて、それが救いになるような聖書の勉強の仕方をして頂きたいのです。そうでなければ、宗教の勉強になってしまうのです。

 人間が生きているのはそのまま神と交わっているということです。これが感覚の世界です。これは理論や理屈の世界ではないのです。

 感覚を経験していても、それが何なのかが今の人間に分かっていないのです。これが魂が死んでいるということです。

 皆様はエデンの園の中央にある命の木の実を食べないで、善悪を知る木の実を食べているのです。これが現在の人間の意識状態です。

 園にある善悪の木の実を食べている。これが皆様の常識になっているのです。皆様は常識で聖書の勉強をしているのです。常識で生きているのです。

 常識で考えると、砂糖をなめて甘いということの説明ができないのです。だから甘いという経験をしていながら、甘いということが理解できないのです。

 甘いということを感じますが、それが自分の霊魂にどういう係わりがあるのかということです。甘いものを食べることによって、人間の魂とどういう関係があるのかということです。これは自分の魂と神の霊との交わりの問題です。

 神の霊と自分の魂がどのように交わっているのかをいつでも考えるのです。

 甘いということが神の言葉です。神の言葉は人の魂を生かすようにできているのです。甘いという味、楽しい味、嬉しい味を霊魂のためのものとして受け止めるのです。神を経験しているものとして受け止めるのです。そうすると、甘いものを食べたことが魂の救いになるのです。

 ミカンを食べたことが救いになるのです。飲むこと、食べることの一つひとつが神との交わりになって、皆様自身の霊魂の救いになるのです。こういう聖書の勉強の仕方をして頂きたいのです。

 そのためには、園の中央にある善悪を知る木の実を食べることをやめなければいけないのです。園の中央にある善悪を知る木の実を食べた状態が、人間の常識です。常識を持ったままで聖書を勉強してもだめです。

 皆様が生かされているという事実が、神との係わりになっているのです。目が見えるということが、神と皆様の霊魂の関係になっているのです。

 目が見える以上、神が分からないはずがないのです。耳が聞こえる以上、神が分からないはずがないのです。見るとか、聞くということを論理として受け止められるというような理解の仕方をしたらいいのです。

 魂が訓練されていたらそれが実現するのです。皆様という個々の人間が生きているのではありません。個々の人間は死んでいるのです。

 ミカンを食べてもミカンの味を神の味として受け止めることができないでしょう。直感的にはできるとしても、霊の足しになるように受け取ることができない。生ける神の子として受け取ることができないのです。霊魂に対する神の言葉としてその味が受け止められない。それは霊魂が死んでいるからです。

 だから、世間の宗教のような状態で満足していたらだめです。皆様は一般の日本人からしたら非常に優れた人です。神は皆様の霊魂をできるだけ丁寧に扱って、神の国へ入れるようとお考えになっているようです。そのためには、神の国と神の義を求めることをして頂きたいのです。

 自分が生きていてはだめです。皆様は味を味わうとか、形を見る、姿を見る、音を聞くという形で皆様の霊魂は神と触れ合っているのです。神と触れ合っている自分をもっと深く丁寧に捉えるようにして頂きたいのです。そうすると、皆様の霊魂が神の言になるのです。

 言といいましても人間の言では何もなりません。皆様の霊魂が神の言であるように勉強して頂ければいいのです。

 皆様の五官の働きは神の言の働きばかりです。これを理解することが永遠の命の受け取り方です。

 世界がある。人間が生きているということは、創世記の思想で言いますと、園になるのです。手造りの園と言うべきものなのです。

 園の真ん中に木が植えられたのです。これはどういうものかと言いますと、神が本当に造りたいと思っている世界とは違うものなのです。

 「地は形なく空しくして、闇が淵の表にあった」とあります(創世記1・2)。闇が淵の表にあったので、神の霊が水の表を覆い始めたのです。闇が淵の表になかったら、悪魔がいなかったら、神は地球を造らなかったのです。

 地球は神の手造りの園です。神は地球を悪魔を騙すために造ったのです。善悪を知る木の実は悪魔に食わせるためのものなのです。それを人間が食べたのです。

 神は人間に「それを食べてはいけない、善悪を知るな」と言ったのです。善悪、利害得失を知ってはいけない。それを考えると必ず死んでしまうからです。常識を持って善悪を判断することをやめなさいと言ったのです。そうしないと、聖書の本当の勉強ができないからです。

 園は手造りのガーデンです。ところが、現在の政治、経済、文明は地球が物理的に存在するということを基礎にして成立しているのです。ところが、物理的に存在する地球は実体ではない。空なるものです。だから、空なるものを実体と思っている悪魔は滅びるしかないのです。また、悪魔に同調している人間も滅びてしまうのです。

 園の中央にある善悪の木の実を食べてはいけないと言っているのです。それを現在の文明人は食べているのです。これが人間の常識になっているのです。

 常識的に生きている人間は神の知識が分かりません。ミカンを食べていても、ミカンの本当の味は分かりません。命の楽しさを直感的に知っていても、その直感が自分自身の論理になっていないのです。だから、その霊魂は救われません。

 皆様の直感は恐ろしく正確に神の御霊の働きを捉えているのです。だから、皆様が生きているということが、皆様の霊魂の救いになるのです。従って、善悪の木の実を食べる必要がないのです。

 私たちは善悪を論じる必要がないのです。皆様が生きているということが救われていることだからです。

 生きているということを冷静に正確に判断すれば、そこに神がいることが分かるのです。皆様の霊魂は生きていることを喜んでいるのです。

 皆様の感覚は恐ろしく正確に物事を捉えているのです。果物の味を正確に捉えています。桃の味というのは説明することができないのです。桃の味がそのまま皆様の感覚になっているのです。こういうことによって神は皆様の霊魂にアピールしているのです。

 日常生活における皆様の経験を、もっと綿密に、正確に考えて頂きたいのです。

 人間はなぜ生きていたいのか。イエスはこのことを非常に正確に捉えていたのです。生きているということがそのまま救いになっている事実があるのです。

 皆様が生きている命が、そのまま神の国と神の義になるのです。皆様は直感的に食物の味が分かります。花の美しさが分かります。皆様は直感的に神をよく知っているのです。直感的に神を知るということを、神は人間に教えているのです。それを論理の世界に延長することを、神が期待しているのです。

 神が人間を生かしているのは、人間に神自身を悟らせるためです。神が人を生かしているという事実と、人が生きているという事実が、一つに解け合わなければいけないのです。

 神の意見と皆様の意見が一つになることが必要です。そうすると、直感が理論として神の言が働き始めるのです。これを悔い改めて福音を信じるというのです。また、心を更えて新にするというのです。神の国と神の義を求めよとイエスが言ったのは、これを言っているのです。

 人間が生きているというのは、そのまま神の国なのです。

 目が見えることが神の国です。耳が聞こえるということが神の国です。目が見える、耳が聞こえるという経験を通して、自分自身の霊魂がどれほど神の御霊に愛されているのかということをよく弁えて、自分が生きることをやめて神を生きるのです。

 神を生きるということをできるだけしようとすれば、神の御霊の助けがあるのです。

 自分が生きることをやめて、自分が救われるということを考えないで生きるのです。そうしたら、神の栄光が見えてくるのです。神の世界が自分の世界になってくるのです。そうすると、皆様の命が神の命に変わってしまうのです。

 イエスはユダヤ人の素人に向って、まず神の国と神の義を求めよと言いました。人間が生かされていることが神の国ですから、自分の意見を棚上げにして、自分が生かされていることを綿密に、冷静に判断すれば、神が生きているということが分かるでしょう。

 命という形で神が生きている、神の御霊が生きていることが分かるのです。これが神の国を求めるということになるのです。

 自分が分かるとか分からないとかいうことではなくて、神の栄光が皆様の栄光になったらいいのです。できるだけこのようにしたいと考えたらいいのです。

 生きていることが神の国であるということを直感できるような悟りを持って頂きたいのです。

 人間が生きているということは、宇宙でたった一つの命の明確な経験です。しかし、人間はその命をそのまま正しく経験はしていません。人間的に経験しているのです。なぜ神は人間に命を経験させているのか。これは万物を救うためです。

 万物の代表者である人間に、神の言を理解させることによって、万物を救おうというのが神の計画です。従って、皆様が生きている命は考えることができない程、すばらしく尊いものなのです。

 これを自分のものだと考えることをまずやめることです。自分の命がある、自分の人生があるという考えは、園の中央にある善悪を知る木の実を食べてしまっているのです。

 園の中央にある善悪を知る木というのは、皆様の現実の生活における肉の思いです。肉の感覚です。これを食べてしまうと人間の常識になってしまうのです。常識を基礎にして神学的に考えたのがキリスト教です。

 キリスト教は常識的な人間に理解させるために考えた宗教です。神の言が説かれていないのです。

 人間の直感性というものは命を経験しているのです。人間は命を経験しているのですから、その直感の実体をよくよく勉強したら、神の御霊と交わっているということが分かるはずです。

 こういうことは一朝一夕に分かるものではありませんが、皆様は生きているという不思議な経験をしているのですから、これをよく考えて頂いたらいいのです。

 生きているということは皆様自身のものではありません。神が皆様に経験させているのです。だから、皆様は天地自然の味わいが分かるのです。天地の景色が分かるのです。

 自然現象は神の御霊の現象であって、皆様が生きている命の現象をそのまま大自然に移し替えたようなものです。

 皆様は毎日命を経験しているのです。おいしいものを食べているというのは、命の経験をしているのです。食べること、飲むことによって、人間の五官は絶え間なく御霊の働きを直感しているのです。神を経験しているのです。

 皆様が生きているということは、神そのものを経験しているのです。知っていても知らなくても、意識してもしなくてもそうなるのです。ですから、キリスト教を信じる必要がないのです。

 イエスはユダヤ人の素人に向かって神の国と神の義を求めなさいと言っているのです。これを真正面から言っているのです。

 皆様が生きているということが神の国です。自分が生きているのではない。神の国を皆様は経験しているのです。このことをよくよく考えれば、自分自身が神の国にいるのだということが分かるはずです。五体が神の国を経験しているのだということがよく分かるはずです。

 皆様は自分の命があると思うから分からないのです。命は皆様のものではないのです。神が皆様を生かして、神そのものを経験させているのですから、神が分からないということはないはずです。

 神の国と神の義を求めるということは誰にでもできるのです。おいしいものを食べたらああおいしいと言われますが、これが神の国です。皆様は直感を通して毎日、毎日、神の国を経験しているのですから、神の御霊を崇めるということをしたらいいのです。そうしたら分かるのです。自分の命がどれ程尊いものであるかが分かると思います。

 皆様が生きている本体、本質を冷静に理解しようと考えれば、死なない命が分かるのです。これをして頂きたいのです。

 これは救われるためにするのではありません。皆様の命を正確に認識することは、神を崇めることになるのです。

 自分が救われるのではありません。神を崇めるのです。神は永遠そのものです。永遠の命です。永遠そのものの本質が神です。これを崇めることができれば、皆様の霊魂が永遠の中に入って行けるのです。これをとこしえの命というのです。

 これは心臓が止まっても、目が見えなくなっても、脳死状態になっても関係がありません。皆様の霊魂は死なないのです。

 脳波が働いている時に、神の命が自分に働いているのだということを認識したらいいのです。自分が生きているのではありません。神の命が自分を生かしているのです。これが分かると神の命と自分の命との関係が分かります。そうすると、イエスが持っていた人生観や世界観が分かるのです。自分が生きているのではない。イエスが生きているということが分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


FOLLOW ME

  • Black Facebook Icon
  • Black Twitter Icon
  • Black Instagram Icon
  • Black Pinterest Icon
  • Black YouTube Icon

STAY UPDATED

POPULAR POSTS

TAGS

まだタグはありません。
bottom of page