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              仏典は前編、聖書は後編

 

 人生というものは実に奇怪なものでありまして、現在の人間は洗脳されているのです。どのように洗脳されているかと言いますと、ルネッサンスによって、人間はヨーロッパ文明にすっかり洗脳されてしまったのです。そこで、現在の人間は、今の文明を深く疑おうとしない。これは洗脳されている証拠です。

 私は、皆様方が洗脳されている状態から、もとに帰って頂きたいと思うのです。

 現代の人間、現象主義の五蘊の状態で、しっかり現世を肯定しておられる方々の感覚から言えば、般若心経の思想や、聖書の思想は、はっきり洗脳されることになるでしょう。

 例えば、パウロという人物は、「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(新約聖書エペソ人への手紙4・22〜24)と言っています。これははっきり洗脳です。つまり古い人間の考え方を捨て去って、新しい人間の考え方に入ってしまいなさいと言っているのです。これをすれば、空ということがはっきり分かるのです。

 また、他の所で、「心を新しくせよ」(同、ローマ人への手紙12・2)と言っています。心は英文では(mind)になっています。新しくするというのは(renewing)で、いわゆる(change)とは違うのです。(change)というのは方向転換ということですが、(renewing)というのは、やり変えること、やり直すことです。全く新しいやり方で出直せというのです。

 これは洗脳を意味するのです。聖書は聖霊によって洗脳しようというのです。このように、心を新しくすることによって、空ということがはっきり分かるのです。

 ついでにお話ししておきますが、イエスは天から下ってきて、依然として天にいたと言っています(ヨハネによる福音書3・13)。漢訳では以前在天と言っています。人間は現世に生きていても、、この身このままで天にいることはできるのです。

 仏典の中で言いますと、即身成仏ということになります。これは、現在の憎しみを持ったままで、成仏してしまうことを言っているのです。この即身成仏と以前在天とは、ほとんど同じ意味になるのです。

 厳しく言えば、仏と神とは違います。仏と言いましても、観世音菩薩というのも仏ですし、大日如来というのもあります。これは真言宗の仏です。

 大日如来とは天地の主というような意味です。大日如来は、旧約聖書のエホバとよく似たものですが、大日如来には約束がないのです。約束がないということが致命傷なのです。これが仏典の致命傷なのです。

 聖書は、約束の上に厳然と立っています。約束ということは大したことです。旧約聖書、新約聖書と言いますが、古い約束、新しい約束という意味です。

 人間には未来があります。未来とは何かということです。簡単に言いますと、未来とは約束ということです。もし約束がなければ、未来はないのです。

 例えば、人間は明日が来るという未来を何となく信じています。だから、今日生きているのです。

 人間文明が間違っているということを、分かっている人は多いでしょう。しかし、何とかなると思っているのです。

 なぜ何とかなるかと言いますと、実は、人間の魂のどん底に、神の約束に対する牢固とした信念があるからなのです。人間の魂は、そのどん底で約束を知っているからです。これはすばらしいことです。

 ところが、仏教ではその説明がつかないのです。聖書でないとだめなのです。そこで聖書は後編ということになるのです。仏典は前編であります。そういう関係になるのです。

 

           (空観の結晶と永遠の命の結晶)

 

 宗教というものは、例えば仏教は大乗の理論、小乗の理論、いわゆる八万四千の法門を展開する大宗教です。

 仏教はいくら勉強しても、人間の命には関係がないのです。私たちに必要なことは、命そのものの本質の究明であり、いわゆる宇宙の大霊、命の本源そのものの究明です。

 釈尊の生き方は、悟ることが中心命題でありますが、悟るということは、よほど仏性に恵まれた性格の人でなければできないということもあり、また、本質的に悟るとは一体何なのか、何を悟るのかということです。

 涅槃寂静と言いましても、この実体は何かということなのです。般若心経に究竟涅槃という言葉がありまして、涅槃を突き止めることが悟りでありますが、人間が悟りを開くということが、果たして妥当なのかどうか、色々と難しい問題が出てくるのです。

 人間は、大体自分で生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。このことは、根本的に考えなければならないことなのです。

 命の本質にふれていくためには、私たち自身の命のあり方の本源をよく究明しなければならないのです。

 私たちは自分が生まれたいと思って生まれたのではない。これは明々白々な問題です。生まれたいと思って生まれたいのでないとすると、今生きていらっしゃる皆様は、自分という人間ではないことになるのです。

 自分の意志によって生まれたのなら、自分に決まっています。自分の意志によって生まれてきたのでないとすると、自分が自分だと思っている人間は、自分であるかないか、何であるかということなのです。

 悟ると言いましても、何のために生まれてきたのか分からない人間が、悟ってみたところで果たして本当の悟りになるかどうか、疑問があるのです。釈尊の悟りがどうこうというのではありませんが、今では、実は釈尊の本当の思想が何であるか、分からなくなっているのです。八万四千の法門は、釈尊の弟子が大風呂敷を広げたようになっているだけのことなのです。

 恐らく、阿含経、華厳経、大日如来経、大般若経の基本になる思想が、大体空なのです。これが般若心経に説かれている。般若心経は、日本人に最も馴染みの深い経典になっているものでありまして、空観を主張しているのです。

 もちろん、般若心経だけが仏典ではありませんが、いわゆる生老病死という考え方、十二因縁という考え方が無であると喝破している。生老病死とか十二因縁という考え方は小乗なのです。それを喝破して大乗であることを顕揚しているのが、大体般若心経であると思われますけれど、これにしてもはっきり釈尊の思想であるかどうかは疑問の余地がないとは言えません。

 釈尊はどうも偉くなりすぎたようです。これは、もちろん釈尊の関知していることではありませんが、後の世の人たちが大円鏡智とか妙観察智とかいうように祭り上げてしまったのです。いわゆる釈迦牟尼如来にしてしまったのです。

 ところが、釈尊という人は王国の皇太子なのです。素人なのです。だから、素人的な考え方で、率直に一切の理屈ではなく、人間自身が生きているという実体を捉えて、話し合うということが一番いいのではないかと思うのです。

 宗教ではないと私が言いますのは、宗教理論、例えばキリスト教には贖罪論とか、再臨論とか、終末論という理論がたくさんありますが、そういうものは宗教の教義です。仏教にも、各宗の教義があります。教義に基づいて教えを説くものが宗教なのです。

 私が考えていますのは、命の当体を捉えて、何のために生きているかを究明しなければならないと考えているのです。とにかく、仏を信じた、キリストを信じたと言ってみても、死んでしまえば何にもならないのです。

 イエスは、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」(新約聖書ヨハネによる福音書11・25、26)と言っていますが、イエスがそう言明した根拠は何であったか。彼が復活したという事実は何なのか。どういうことなのか。私たちは復活にあずかれるものか、そうではないのかということなのです。

 人間はぼやぼやしていれば皆死んでしまいます。それが釈尊のいわゆる空ですが、現在、人間は常識、知識に基づいて生きている。つまり、五蘊に基づいて生きているのですが、この常識、知識が一切空であると釈尊は喝破しているのです。

 現在の人間の理屈は、悟ったと言おうが、悟らないと言おうが、要するにそういう考え方の根本が空だと言っているのです。

 大乗起信論によりますと、人間は妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に沈み込んでしまっているとはっきり言い切っています。

 こういう人間が、果たして悟ることができるかどうか。釈尊はそういう人でなかったのかもしれません。とにかく、一般の人間は無明の底に沈殿してしまっているのです。そういうものが悟ることはできない。また、悟ったところで迷っている人間のことですから、本物がどうか甚だ疑わしいことになってくるのです。

 問題は、私たちが現在生きていることは何であるかということなのです。何のために私たちは生きているか。こういう問題をはっきり究明するために、まず般若心経の空観に徹すること、自分が生きているということは、バカみたいなことだということを悟ることです。

 その次に、自分が生きているその命は何かということをはっきり掴まえることです。こういうことのために、空観の結晶である般若心経と、永遠の生命の結晶である聖書を捉えて、人間の命の実体を究明しようというのです。

 これは宗教ではありません。もし宗教を宣伝するなら、般若心経を宣伝するか、聖書を宣伝するか、どちらか一つを宣伝します。この二つを並べると、宗教にはならないのです。日本の社会の宗教という概念からはずれてしまうのです。そういう意味で、命とは何か、何のために生きているか、生とは何か、死とは何か、こういう問題を端的に究明するようにしたいと思います。

​        (内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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