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                                                          宗教でない般若心経
 
 人間の魂から言いますと、絶対に必要なのは上智です。上智とは、上等の知恵のことをいうのですから、大変高いように見えますけれど、実はそうではないのです。人間の常識は、下の知恵、つまり、下智ですが、いわゆる悟りは上智になるのです。太陽光線がただであるように、上智、般若波羅密多もただなのです。
 ところが、宗教の手にかかりますと、大変難しいことになるのです。しかも全く分からなくなってしまうのです。本当の意味で、般若心経が正確に受け止められているという事実は、日本にはありません。日本人は、般若心経を非常に愛好しているのです。数百万人、あるいは一千万人の人が、般若心経を読んでいます。心経人口が一千万人もありながら、心経の精神が全く実在していないのです。
 なぜそうなるのか。色即是空がどうして分からないのか。また、理屈で分かっても、色即是空を本当に生活している宗教家が、一人もいないのはなぜか。
 もし、本当に現在の日本仏教が五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃を実際に行えば、現代の日本仏教は泡のように消えてしまうでしょう。宗教と般若心経の精神は、全然反対なのです。宗教ではない般若心経と言える人はいないのです。
 聖書は、普通、キリスト教のテキストのように考えられています。ところが、聖書は絶対にキリスト教のテキストではないのです。キリスト教は、西欧の宗教教学に基づいて、聖書を切り売りにしているのです。だから、キリスト教で考えているキリストと、聖書のキリストとは全然違うのです。これは、般若心経の誤解ぐらいではないのです。
 キリスト教は、新約聖書を非常に誤解しているのです。死んだら天国へ行くと言います。死んだらという言い方は、おかしいのです。天国は、生きているうちに掴まえなければならないのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国へ入れと、イエスが命令しています。生きているうちに入れと言っているのです。死んでから、天国へ行くなどと言っていないのです。やがて、イエス・キリストは再びやってきます。
 キリストの再臨の時には、現在のキリスト教は完全に潰されるでしょう。神のキリストを最も誤解しているもの、また、誤解させているものがキリスト教なのです。だから、宗教ではない般若心経と、聖書を勉強しなければならないのです。
 ナザレのイエスの再発見以外に、文明を新しくする方法はないのです。今の文明は、腐りきっています。核兵器廃絶という問題でさえも実行できなくて、どうして文明が存続できるのでしょうか。
 アメリカの大統領と、ロシアの大統領が相互不信でいっぱいなのです。不信感が存在しているために、全世界の人間が、どれほど迷惑しているのでしょうか。もし、不信感さえなければ、こんな問題は起きないのです。
 現代文明の病理の実体は何であるか。これは、世界中の誰にも分からないのですが、答えは簡単です。自分がいると思っていることが、病理の原因です。
 ところが、自分はいないのです。これは、重大な秘密です。例えば、人間は自分がこの世に生まれたと考えています。その証拠に誕生日があります。ところが、少し冷静に考えれば、生まれたという記憶をはっきり持っているかということです。
 自分が生まれたという記憶がある人は、伝説によれば恐らく釈尊だけです。母の胎より生まれた時に、三歩歩いて天上天下唯我独尊と言ったというのですが、これも伝説であって、あてにならないのです。人間は自分が生まれたという記憶はありません。親や医者が病院で見て、生まれたことを確認しているのです。従って、自分が生まれたことは客観的な事実であって、主観的な事実ではないのです。
 それからもう一つ、現世に生まれてきたものは、やがて、この世を去らねばならないのです。その時も死んでいく自分が分からないのです。例えば、医者が死を確認して、ご臨終でございますと言います。しかし、死んでいく本人は知らないのです。
 死んだという時点は、掴まえられない。掴まえたとすれば、まだ本人は死んでいないのです。これもまた、客観的事実なのです。生まれる時も、死ぬ時も、自分の命の出処進退について、自ら確認することは絶対にできないのです。
 しかし、人間は自分が生きていると思っている。本当に自分の力、自分だけで生きているのでしょうか。太陽光線がなかったら、空気がなかったら、生きることは絶対に不可能なのです。物理的にも、生理的にも、生きるのは自力によるのではない。大自然の客観的な力によって、生かされているのです。これが人間存在の実体なのです。
 現在の教育が悪いのです。これは、一部の誤ったユダヤ人の世界観から出てきたのです。ユダヤ人の世界観は、あくまでも、自分が生きていると思っているのです。モーセの掟と、真正面からぶつかっているのです。自分が掟を実行するのだと思っている。人生を主観的に見すぎていると、人間存在の実体と全然違った認識になってしまうのです。
 人間が生きている実体を、極めて自然な状態で考えますと、色即是空、五蘊皆空がすんなり分かるのです。今から、自分がいないと考えて生きてみますと、世界ががらっと変わってしまうのです。自分を客観的に見ていきますと、喜怒哀楽の観点が全く変わってしまうのです。
 マグロの味は、魚屋がつけた味とは違います。天然の味なのです。天然の味を、天然の人間が味わいますと、宇宙の味、神の味が分かるのです。これが、命の味なのです。般若心経の究竟涅槃はこういうことなのです。
 これは当たり前のことです。この当たり前のことが、文明の感覚によって曲げられている。人間は、好むと好まざるにかかわらず、現代文明の風潮に従って生きなければならないように、思い込まされているのです。大体、文明は人間のためにあるのであって、人間が文明のためにあるのはおかしいのです。
 今までの人間の物の考え方をやめようとすれば、どんどんやめられるのです。そうすれば、死なない命が分かるのです。これが大きいのです。自分が生きているという考え方は、はっきり間違っているのです。自我意識を捨ててしまって、単なる自意識を持ちますと、命を経験することのすばらしさが分かってくるのです。
 人間は生活するために生まれてきたのではありません。命を経験するために生まれてきたのです。命を経験するというのは、客観的に生きることなのです。そうすると、命の実体がはっきり分かってくるのです。ナザレのイエスが死を破ったことが、分かってくるのです。
 本来、人間の魂は死なないのが当たり前なのです。自分自身の本質を誤解しているために、文明に誤解させられているために、死ななければならないのです。そこで、宗教ではない般若心経と聖書が必要になってくるのです。現代は、虚妄の時代です。現代の中にあるのではなくて、虚妄が現代に化けているのです。
 命には二つあります。一つは死んでしまうに決まっている命です。もう一つは絶対に死なない命です。死ぬことのない命なのです。人間は、死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思っている。それが、現代の虚妄の最も大きいものなのです。誰でも持っている虚妄です。
 人間は死にたくないという気持ちを持っていながら、死なねばならないと考えている。こういう自己矛盾があるのです。死にたくないのなら死にたくないとはっきり言えばいいのに、それを口にするのが恥ずかしいような気がするのです。死にたくないとはっきり言うことを、何となく恥ずかしいと思っている。そこで、死にたくないと思っていながら、死ななければならない命を自分の命のように考えているのです。これは、はっきり虚妄そのものです。現代はそういう時代なのです。
 肉体的に生きている人間は、何かに頼らなければならないのです。命の本体が分かっていないからです。肉体を持っていることは非常に弱い条件であって、何かを頼らずにいられません。お金に頼るか、保険に頼るか、学問に頼るか、何かの宗教に頼るか、何かに頼って、今日という日を何とか過ごしているのです。死ぬに決まっている命を持って、何に頼って生きるのでしょうか。
 日本人はほっておけば皆死んでしまいます。日本人どころか、世界中の人間が皆死んでしまうのです。命を真剣に考える人が、日本にはほとんどいないのです。生活のことを真剣に考える人はたくさんいます。しかし、命のことを熱心に考えようとしない。これは、一体どういうことでしょうか。
 自分の命を守るために、生活があるはずなのです。ところが、生活のことだけに熱中して、命のことを考えない。こういうことが現代の虚妄です。
 何のために生きているのか分からないままで生きている。とにかく、生まれてきたから、しかたがないから、世間並に、世間の習慣に従って、だらだらと生きているということでしょう。しかし、人間の命は現世だけで終わるものではないのです。
 生まれてきて、そして、死んでいくと言います。これは、生まれる前の人生と死んでからの後のいわゆる後生という人生と、現世との三つの人生が、人間の命であることをはっきり示しているのです。
 イエスも、お前たちはどこから来て、どこへ行くかは知らない。私はそれを知っていると言っています。
          (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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