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         神の言葉

 

 人間の言葉は理性的に働く言語作用とか、文章によって現われる思想的なものになって現わているのです。人間の考えは思想的なものばかりです。本当の命はありません。

 聖書を学ぶ時に、聖書の言葉を哲学以上のものとして学んでおいでになります。普通の言葉として学んでいますと、命になりません。これをよく考えて頂きたいのです。

 私が神から与えられているのは命の言葉です。命になる言葉です。命になるように言葉を用いることを教えられているのです。

 皆様は現在神と接触しています。神と接触していながら、それが分かっていないのです。これは皆様の命が神の言葉になっていないからです。人間の常識になっている。人間の知識になっているのです。これが間違っているのです。

 神の言葉は神の命です。神ご自身の命です。聖書を神の命の言葉として学ぶことになりますと、皆様の生活の内容、生きている感覚の内容が全く変わってしまいます。これが信仰です。

 頭でいくら分かったと言ってもだめです。分かったというのは、大なり小なり宗教観念です。神の言葉が命になっていないのです。神の言葉が命になるように勉強して頂きたいのです。

 皆様はいつまでも生きていたいと思うでしょう。なぜそう思うのでしょうか。それは皆様が神の言葉に触れているからです。皆様の命が神に触れているからです。これを掴まえなければいけないのです。

 命が神に触れている。神に接触している。この瞬間を捉えて自分の命にするのです。

 皆様の目が見えています。目が見えているということは宗教ではありません。皆様の感覚が神の御霊と皆様の魂とを繋げているのです。

 ですから、見ていること、聞いていることの意味が分からなければ、聖書を学んでいても学んでいないのと同じことになるのです。

 皆様の感覚は神を知っていますから、死にたくないと思うのです。皆様の感覚は非常に正確に神を知っています。砂糖をなめると甘いと感じます。この感覚が神を経験しているのです。塩をなめると辛いと感じます。この感覚が万人共通の感覚です。私たちは現世で甘いとはどういうことか、辛いとはどういうことかを勉強しているのです。これが神と接触していることなのです。

 皆様は生きていたいと思われるでしょう。死にたくない。生きていたいのです。生きていることが有難いのです。なぜ有難いと思うのでしょうか。おいしいものが食べられるからです。美しいものが見られるからです。楽しいことが経験できるからです。女性がいるからです。女性から見れば男性がいるからです。この感覚が人間の救いになるからです。

 肉体的な女性がいるかというといないのです。性(さが)というのは女性ではありません。性は霊魂の問題です。神と人の係わりの霊魂の問題を言うのです。

 肉の思いを全く捨ててしまって、霊に従いて生きるという気持ちになって頂きたいのです。おいしいものを食べれば誰でもおいしいと感じます。おいしいとはどういうことでしょうか。なぜおいしいと思うのでしょうか。おいしいと思うことは義理や体裁ではありません。本当においしいからおいしいと感じているのです。これが神と接触していることになっているのです。こういう経験をしたいから、人間は生きていたいと思うのです。

 人間が生きているのは神と触れているのです。これを経験したいから生きていたいのです。

 天気が良い日には空が美しいと思う。これが霊魂の救いです。難しいことはありません。天気の良い日には気持ちが良いということが命の言葉です。これが霊魂の救いです。命の言葉というのはそういうものです。

 人間は感覚の世界に生きています。いつでも神を感覚しているのです。だから生きていることは無上に有難いのです。死んでしまうと感覚の世界でなくなってしまうからです。

 例えばミカンを食べることは、ミカンという天然自然に触れているのです。天然自然とは「ありてあるもの」です。ミカンという「ありてあるもの」と触れ合っている。「ありてあるもの」とは神ご自身です。人間はミカンを通して、神ご自身と触れ合っているのです。神ご自身の味をそのまま味わっているのです。

 これは理論の世界ではありません。これが皆様の救いになるのです。ミカンを食べてそれが救いになるような聖書の勉強をして頂きたいのです。そうでなければ宗教になってしまうのです。

 生きているということはそのまま神と交わっていることなのです。これが感覚の世界です。理論の世界ではありません。感覚を経験していても、その感覚が何であるか分かっていない。これが死んでいる証拠です。

 皆様の感覚は理屈だけの感覚になっている。エデンの園の中にある善悪を知る木の実を食べているのです。これが人間の常識です。

 人間は常識で生きているのです。常識で考えると砂糖が甘いということは分かりますが、甘いということの説明ができません。だから甘いという感覚を与えられていながら死んでしまうことになるのです。

 砂糖が甘いということと、霊魂がどういう関係になるのか。自分の魂と神との交わりの問題です。神の霊と自分の魂がどのように交わっているのか。こういう問題を勉強していかなければいけないのです。

 甘いということが言葉です。神の言葉です。神の言葉が人の魂を生かすようにできているのです。甘いということを、神を経験しているものとして受け止めることです。そうするとケーキを一個食べたことが魂の救いになるのです。ミカンを食べたことが魂の救いになるのです。

 飲むこと、食べることの一つ一つのことが、神との交わりになって、皆様自身の霊魂の救いになるのですから、こういう聖書の学び方をして頂きたいのです。そのためには、善悪を知る木の実を食べてはいけないのです。

 善悪を知る木の実を食べた状態が、人間の常識です。人間の常識を持ったままで聖書を勉強していてはだめです。

 目が見えるということが、神と皆様の霊魂の交わりになっているのです。目が見える以上、神が分からないはずがないのです。耳が聞こえる以上、神が分からないはずがないのです。

 皆様が生きているのは、個々の人間が生きているのではありません。個々の人間は死んでいるのです。皆様はリンゴを食べてもリンゴの味を神として受け止めることができないのでしょう。直感的に分かっても、霊魂の足しになるような受け止め方ができない。霊魂に光を与えられるような言葉として受け止めることができない。これは霊魂が死んでいるからです。

 世間並の宗教みたいなことで満足してはいけない。もっともっと深く勉強して頂きたいのです。

 皆様は一般の日本人から見ればよほど優れた人材です。神も皆様の霊魂を丁寧に扱っています。何とかして神の国へ入れようとしているのです。

 まず神の国と神の義を求めてください。自分が生きていたらだめです。園の中央にある善悪の木の実を食べてはいけないのです。

 皆様は知らず知らずのうちに善悪の木の実を食べているのです。これが常識です。だから常識にこだわっていてはいけないのです。常識を土台にして、常識を中心にして聖書の勉強をしていると、永遠の命を受け取ることができないのです。

 味を経験する。形を見る。色を見る。匂いを嗅ぐ。景色を見るという状態で、皆様の霊魂は神と触れ合っているのです。神と触れ合っている自分をもっと丁寧に捉えるようにして頂きたい。そうすると皆様の霊魂が神の言葉になるのです。

 人間の言葉では何もなりません。皆様の言葉が神の言葉になるように勉強して頂いたらいいのです。五官の働きはすべて神の言葉の働きです。このことを承知して頂きたいのです。

​  (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

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