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          生ける神

 

 聖書の勉強が信仰の実を結ぶ形でしなかったら、ただの思想の勉強になってしまいます。そうすると宗教観念になってしまうのです。

 信仰とは何か。パウロは次のように述べています。

 「アブラハムはその信仰が義と認められ」とあります(ローマ人への手紙4・9)。従ってアブラハムは信仰の父だと言われているのです。そうしてアブラハムの信仰に習う者はアブラハムに祝されたように、その人も祝されるということが明記されているのです。

 イスラエルは今、アブラハムの信仰に習っていません。私たちがアブラハムの子孫に聖書を伝えるとすれば、どうしてもアブラハムの信仰を伝えなければならないのです。

 アブラハムの信仰は旧約の信仰ではありません。アブラハムの信仰は旧約、新約を貫いて通用する一般原理であって、最も確かな信仰そのものです。信仰について最も確かな基点となるべきものであると言えるでしょう。アブラハムの信仰について次のように書いています。

 「アブラムの九十九の時、主はアブラムに現われて言われた。

 『 私は全能の神である。

   あなたは私の前に歩み、全き者であれ。

   私はあなたと契約を結び、

   大いにあなたの子孫を増すであろう』。

   アブラムはひれ伏した。神はまた彼に言われた。

 『 私はあなたと契約を結ぶ。

   あなたは多くの国民の父となるであろう。

   あなたの名はもはやアブラムとは言われず、

   あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。

   私はあなたを多くの国民の

   父とするからである』」(創世記17・1・~5)。

 ここは非常に有名な箇所であって、聖書を学ぶ人なら誰でも知っている所です。字句は誰でも知っていますけれど、内容になりますとほとんど誰も知らないのです。

 まず一節に「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者である」とあります。

 信仰とは何であるか。アブラハムがどうして義とされたのか。義とされたということが二節から五節に出ています。私はあなたと契約を結ぶ、あなたは多くの国民の父となるであろう。五節には、あなたの名はアブラムと言われず、アブラハムと呼ばれるであろうとあります。あなたを多くの国民の父とするからであるとあります。

 多くの国民の父というのは、多くの国民の信仰の父と言った方がいいでしょう。アブラムがアブラハムになった。神自身、エホバのハがアブラムの名前の中に入り込んできたのです。

 彼は御名を受け取ったのです。自分自身の名前の中に、神の御名が焼き込まれたのです。額に御名が印されるというのはこういうことです。

 額はすべての思考能力の根底となるもの、思索方式の根源となる働きをする所です。ここに神の御名が印されるのです。

 時代が古いとか新しいとかに関係なく、本当の信仰はこれでなかったらいけないのです。神ご自身の御名をアブラムに与えた。そこでアブラハムになった。これが神に義とされたという最も端的な現われ方です。

 神の御名が印されるとその人は義とされたのです。これが御霊を受けたことの確証です。これが信仰とは何かの基点になるのです。

 一節が本当に分かれば後節が分かるのです。三節にアブラムがひれ伏したとありますが、これはアブラムが神の言葉に対して全面的に服従した、また理解した姿勢が出ているのです。だから色々と文句を言わずに黙って平伏しているのです。

 これがアブラムの受け取り方でした。無言の雄弁がここに出ているのです。文語訳では「アブラム即ち伏したり」とあります。即ち伏したりというのは、黙ってそのまま平伏したという意味です。

 何に対して平伏したのか。生ける神の印とは何か。印とはどういうことか。

 印というのは判子です。判子には名前があるに決まっています。名前がない判子はありません。生ける神の印というのは、生ける神の名前がそのまま判子となって印されているはずです。

 生ける神とはどんな神か。生ける神というのは、英語でリビング・ゴッド(living God)になっています。リビングというのは生きているということです。 

 生きている神とは何か。神はどのように生きておられるのか。生きておられない神はあるのかというと、そんなものはもちろんありません。神は生きているに決まっているのです。決まっているのですが、特に生ける神と書かれているのは、生けるというその言葉が神ご自身のあり方を強く印象づける意味であって、生けるという言葉がわざわざ使われているのです。

 生けるという言葉が、そのまま神ご自身であるという意味です。生けるという言葉がそのまま神を意味するのです。

 万物が生きています。人間が生きている。地球が動いている。水が流れている。雨が降って川になる。川の水が蒸発して天の雲となり、また雨になって地に降り注ぐ。絶えず循環しているのです。

 イスラエルを守りたもう神は休むことも、まどろむこともないと詩篇にあります。

 イスラエルを守りたもう神は休むこともまどろむこともなく、年中守っておいでになるのです。イスラエルの聖者エホバが守っていると詩篇で歌っています。

 まどろむことも、休むこともない。神ご自身が働いている。これが生けるという言葉の意味になるのです。

 万物が生きている。人間が生きている。すべてが生きている。生きているということが神です。

 神が生きているのではなくて、生きているということが神です。生きているという事がらがそのまま神です。人間の心臓が動いていること、目が見えること、耳が聞こえることが神ご自身です。

 生きているという印がそのまま神ご自身の御名です。これが生ける神です。

 生きている神が、頭ではなく本当にハートで理解できますと、その人の心が生きてくることになるのです。そうして生きていることの楽しさ、嬉しさ、有り難さをしみじみと実感することになるのです。心に弾みを感じて生きることができるのです。

 こういう状態になった魂のことをリビング・ソールというのです。客観的にそういう状態になった魂、それを受け止めた魂がリビング・ソールです。

 神から見れば人間の魂はすべてリビング・ソールです。しかし人間自身が本当にリビング・ソールであることを認識していないのです。

 自我意識が咲き誇って、神がリビングでいますことを、押し曲げているのです。神の御名が自分のハートに届かないような妨害行為を人間がしているのです。

 「私たちは神の内に生き、働き、動き、存在している」とパウロが言っています。神の内に生きて、動いて、存在しているのですから、人間が信じても信じなくても、神の真ん中に置かれているのです。しかしそのとおりに認識していない。自我意識によってそれを無視しているのです。

 例えば、ちょっと嫌な仕事をしなければならないことになりますと、たちまち自我意識が働き出すのです。仕事をした結果が悪いと言われますと悲しくなるのです。

 人間は何のために信仰しているかと言いますと、生きるためです。生かされているということを経験するために生きているのです。

 生かされているということが神ご自身ですから、これを正しく経験するために生まれてきたのです。正しく経験するというのは、神が生きておられるという事実を生活感覚として受け止めるのです。

 生かされているという事実をそのまま神であると受け取って、それをそのまま自分自身の生活感覚に焼きつけていくのです。生活の実感として受け止めていくことが、神を経験することです。私たちはこれをするために生まれてきたのです。

 このために生まれてきたのですが、人間の肉性はこれを大変嫌うのです。人間は自分の自我意識によって肉の思いを全うしようと考えている。そこで肉の思いを振り回して、自我意識によって生きている間、神の命を経験していないことになるのです。生きている神、リビング・ゴッドの御名を、人間の自我意識が断ち切っているのです。

 人間が神の御名を経験すると言いましたが、どうして経験するのでしょうか。人間は毎日、朝起きたら神の御名の経験が始まっているのです。

 寝ている間はしかたがないのですが、その間でも神は共にいるのです。しかし意識できませんから経験していないのです。

 朝目が覚めると魂が神を経験するという動作が始まるのです。朝起きて顔を洗う、朝、食事をすることによって神を経験しているのです。

 学生なら学校へ行きますし、主人は会社へ行きます。奥さんは掃除、洗濯をするでしょう。人によって色々違いますが、何をするにしても皆神を経験しているのです。朝起きてから夜寝るまでずっと神を経験しているのです。これが信仰の実体です。

 聖書の勉強会では、信仰の基礎的な思想について教えてもらうのであって、それは信仰の訓練とは言えますが、信仰そのものではないのです。

 訓練というよりは、信仰のためのトレーニング、信仰を実行するためのトレーニングです。これが勉強会です。勉強会は信仰そのものではなくて、信仰のための参考です。

 本当の信仰とはその人の家庭における生きざま、職場における生きざまです。家庭では信仰しない、職場で信仰しないとしたら、どこで信仰するのでしょうか。

 職場に勤めている人は、職場内のあり方の八十%から九十%までが信仰です。家庭における生活は信仰と言えない面がありますが、一番信仰のし甲斐があるのは職場です。職場で信仰しないでどこで信仰するのでしょうか。

 信仰生活と職場生活が同じでなければいけないのです。車を運転していることが信仰です。それを職場は職場、信仰は信仰だという。一体どこで信仰するかと言いたいのです。

 家庭の主婦は主婦であることが信仰です。冷蔵庫に何が入っていて、何をいつ、どのように料理するかを考える。これが信仰です。それを考えずに、ただ信じますとか、御名を考えてもだめです。

 生ける神とは何か。冷蔵庫に物が入っているのが神です。仕事をしていることが神です。これが神でなかったら神はどこにいるかと言いたいのです。

 家庭の主婦は家庭の仕事が神です。職場に勤めている人は職場の仕事が神です。これをいいかげんに考えて、神を信じますというのは偽善です。

 かつてユダヤ人はそういう間違いをしていました。そこでイエスが偽善者よと叱りつけたのです。

 私たちがイエスを信じたいと思うなら、イエスやアブラハムのような生活をすべきです。

 「汝、我が前に歩みて全かれ」。これが分からないから偽善者になるのです。私たちの家庭、職場が神の前です。太陽が輝いている所、電灯がともっている所、車が走っている所、人が歩いている所が神の前です。

 大都会があるということが神です。太陽が輝いていることが御名ご自身の働きです。これが神の前です。

 電車が走っていることが神の御名です。神の御名と一緒に電車に乗っているのです。そこでどういう格好で乗るか、どのように切符を買うか、どのように乗り降りするかが信仰です。これができるかできないかで、神を信じるか信じないかが分かるのです。

 例えばパソコンを扱うとか、電話をする。上司の命令の聞き方、メッセージの伝え方、位に対して位に従う言葉を使う。責任のある仕事をする。こういうことが一つ一つ皆信仰です。

 全能の神とは何か。現在、万事万物が目の前に動いています。これが神です。太陽が太陽として存在している。これが全能の神です。全能の神の働きです。

 今日は特別暑かったということが全能の神です。現在、自然現象が動いていること、自然現象に従って人間が活動していることが神です。

 人間の心臓を動かしているのは神です。人間の目を働かせているのは神です。空気が循環していること、水が流れていること、太陽が輝いて日が照っていることは皆神です。全能の神です。全能の神が全体を合理的に支配しているのです。

 世の中全体、森羅万象が生きていることが全能の神です。これがそのまま全能の神です。

 今日は頭が痛いということも全能の神の現われです。頭が痛ければ痛いということに平伏したらいいのです。女性の場合、あまり無理をして寝込んでしまうよりは、適当に休んだ方がいいのです。

 病気なら病気のように、忙しければ忙しいように、天気の時は天気のように一つ一つの仕事をしていったらいいのです。与えられた仕事を一つ一つ実行することが信仰です。

 神において考えるということは、自我意識において考えないことです。神において考え、神において仕事をするのです。これがアブラハムの信仰の基礎だったのです。

 アブラハムは何によって神を知ったのかと言いますと、羊が成長していくのを見て、神が分かったのです。自分が生きている。仕事ができる。羊が生きていることを通して神が分かったのです。

 羊が生きていることが神です。自分が生きていることも神です。草木が茂っていることが神です。こういうことを通してアブラハムは信仰を訓練したのです。

 私たちが生かされていることが、そのまま神の信仰の現われです。自分が生きているのではありません。自分が生きていると考えると自我意識が働くのですが、人間は神の御名によって生かされているのです。

 自分が生かされていることも神ですし、自分に色々な仕事ができることも神です。私たちは神の内に生き、存在しているのです。これを毎日経験しているのです。家庭的にも職場的にも毎日経験しているのです。信仰とはこういうことです。

 そこで「我が前に歩みて全かれ」というのが、神の命令です。全かれというのは自我意識において歩むな、神の御名において歩めと言っているのです。

 神は全能です。私たちは無能です。自分は無能だから何もできない。すべての能力は全部父なる神から来るのです。父なる神の能力によって、父なる神に与えられた仕事をしているのです。

 私たちは父なる神の力を与えられている。五官の能力は神の力ですから、全能の神が私たちを使っているのです。与えられた仕事を黙ってすればいいのです。そうしたらうまくいくに決まっているのです。

 自我意識を持ちますと、つい仕事がおろそかになります。仕事に対して不平不満が起きるのです。そうすると、おもしろくないのです。

 神の御名が仕事をしていて、失敗したら失敗したで、謝ったらいいのです。同じ失敗を繰り返さないように、注意したらいいのです。忠実に、心を貧しくして仕事をする。そうしたら楽です。

 「我が前に歩みて全かれ」と神は命令しています。全かれとは完全であれという意味です。完全であれとは自我意識で仕事をするなということです。神の御名で仕事をしなさいと言っているのです。

 自我意識で仕事をしていますと、嫌だとか、悲しいとか、苦しいとか、いちいち感じるのです。自我意識で仕事をしなければ、我が前に歩むということが、スムースにできるのです。これが信仰です。

 神がアブラハムにこれを命じたのです。アブラハムに命じたということは、すべて約束を信じる者に、今日も命じておいでになる。明日も命じるに決まっているのです。

 「汝、我が前に歩みて全かれ」。毎日、神がこれを命令しているのです。これをしていれば、必ず救われるのです。

 これをしていれば生活に矛盾を感じることがありません。苦しいとか悲しい、嫌だという気持ちを持たなくてもいいのです。

 神の御心に従って生きていれば、いつでも全き心でいられるのです。我が前に歩みて全かれという命令に従うほど気楽なことはありません。これを実行しますと、とても楽しいのです。

 自我意識で生きていると何もかもすべてが嫌になるのです。ところが信仰によりて生きていますと、いつでも楽しい、嬉しいのです。信仰とはこういうものです。

 自我意識はいつでも神が人間に与える楽しさ、喜ばしさを妨害するのです。信仰はいつでも自我意識を押さえるのです。

 自我意識さえ捨ててしまって信仰に歩めば、いつでも楽しいのです。アブラハムの生活は本当に楽しいものだったと思います。思い煩いが何もないのです。エホバは万事万物を必ず良くしたもうと考えていたに決まっているのです。またそのようになったのです。

 アブラハムは自分にとって恵みしかないと考えていた。恵みしかないと考えていたから、歯痛も足痛も腰痛もそのまま恵みだったのです。気持ちがいい時も恵み、頭が痛い時も恵みでした。そのようにならねばならない生理的な条件が恵みです。

 「我が前に歩みて全かれ」という言葉を人間の常識で受け取ると、何とかしなければいけないと考えるのです。この言葉を邪心なく素直に受け取れば、神の全能がそのままストレートに自分に入ってくるのです。それを自分の生活で確認すればいいのです。

 能力がない自分が何かの能力があると考えて、神の御名の働きの中へ力を割り込ませていこうと考えていますと、全きにならないのです。自分が割り込んでいっただけ欠点ができてくるのです。

 全能の神の業が全能の神として現われてくるなら、全くなるに決まっています。自分が無能にさえなれば全くなるに決まっているのです。

 イエスの言葉で言いますと、何かの業をするのは私ではない。私の内にいます父が御座を行いたもうと言っています。例えばイエスが何かを言ったとしても、その言葉は自分が喋っているのではないのです。これは非常に徹底した心境ですが、どこまでも自分の存在を否定しているのです。

 イエスは自分が存在するという意識を持っていなかったのです。イエスの場合は百%と言えるほどの立派さを持っていたのですが、私たちの場合は何十年間も肉の思いで生きてきたのですから、聖書を勉強したからといって、またしても肉の思いが顔を出すでしょう。肉の思いが顔を出したからといって、いちいちそれに挨拶しようと思わなくてもいいのです。

 それに挨拶する必要がないのです。イエスが「私の弟子になりたいと思う者は、父母、妻子、兄弟、姉妹、自分の命までも憎め」と言っています。

 人間は家庭を本当の家庭だと思いやすい欠点を持っています。そのような欠点が生活に顔を出すことがあるでしょう。その時には肉の思いを踏みつけたらいいのです。

 だいたい現世の家族があるはずがないのです。家族は自分が造ったわけではない。ましてや自分の所有物ではない。エホバが与え、エホバが取りたもうたのであって、エホバの御名があるだけなのです。

 家族というのは本当は天の霊なる家族があるだけです。父と御子と御霊に関係がある家族です。これがあるだけです。

 父と子の交わりの雛形のようなものが、この地球上で家族という形で目の前に現われているのです。父と子の交わりの譬がこの地上にあるのです。これは本物ではありません。従って現世における家族は肉的にはありますが、それを実存するもののように思ってはいけないのです。

 譬としてあるのは仮在です。実在ではありません。仮体です。虚体としてあるだけのことです。それに心を引かれるか引かれないかによって、魂の目方が計られるのです。

 仮の存在を実在のように思う人があれば、その人の魂は嘘を信じていることになるのです。神を信じないで嘘を信じている。それだけ減点されることになるのです。

 そういう減点が自分の心の内にあることを見出したらそれをどんどん捨てればいいのです。そういう欠点があることが悪いのではありません。そういう欠点を捨てようとしないことが悪いのです。

 異邦人の真ん中にいたら、肉の思いがむらむらと出てくることが何回もあるでしょう。その思いに同情していたら暗くなるに決まっています。そういう思いが出てきたらその思いを捨てたらいいのです。

​  (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

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