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         神の実体

 

ヨハネの黙示録第四章一節に、ここに上れとあります。ここに上れというのは、神がヨハネに特別の黙示を見せるために言われている言葉です。

 ヨハネがバトモスの島で受けた黙示というのは、私たちが御霊を崇めながら生きていれば、こういう黙示を受けることはそんなに難しいことではないのです。

 ヨハネのように、目の当たりにキリストの顕現を見ることは珍しいことですが、あり得ないことではないのです。

 大体、神と人間の間は非常に近いのです。ユダヤ人はそれを大変遠いもののように思っているのです。ところが神が非常に近いということが原則でありまして、人と神との相関的なあり方は、新天新地の場合で言いますと、人が神の幕屋に住み、神が人と共にいたもうと示されているのです。

 これは救われた者だけのことでありますが、本来新約聖書の原則から考えますと、人間が神の幕屋に住んでいて、神が人と共にいるということは、霊的に見れば普通のことです。そのように見えないのは肉の思い(人間の常識、知識)に従って生きているからです。

 そういうことはあり得ないと勝手に思っているのです。そうしてユダヤ人のように、自分と神との間が大変遠いもののような錯覚に陥っているのです。

 神は自分の状態を見ておいでにならないと思ってみたり、また自分は神を見ていないと思おうとしたり、勝手な考えを持っているのです。つまりインマヌエルという事実を無視しているのです。これは人間の肉の思いがそうしているだけであって、本来的にはそういうものではないのです。

 パウロは述べています。

 「なぜなら、神について知りうる事がらは彼らには明らかであり、神がそれを明らかにされたのである」(ローマ人への手紙1・19)。

 「神を知ることは難しいことではない。神がそれを明らかにされたのだ」とパウロが言っているのです。神が人間に神を見ることはそんなに難しいものではないことを、神が仕向けておられると言っているのです。

 さらにパウロは述べています。

 「神の見えない性質、即ち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って、彼らには弁解の余地がない。

 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(同1・20、21)。

 パウロが見ていた神観は、神と人が非常に近い神観です。私みたいな者という神観は、パウロにはなかったのです。愚かになっている心を見れば、自分みたいな者はと言いたくなるのですが、それは神を神として崇めていないだけです。神を崇めていない、感謝もしていないから、私みたいな者という気持ちがいつも起きているのです。

 これは人間がだめだから神が問題にしていないのとは違うのです。神に目をつけていないからそう思えるだけです。

 そのような場合、神が共にいますという事実から目をそらしているのです。インマヌエルという事実から目をそらしている。イエスの御名から目をそらしているから、私みたいな者はと思うのです。

 私みたいな者と考えること自体が、造り主、生かし主である自分の飼い主をばかにしていることになるのです。

 これは神なんかあるもんかという考えに近いことになるのですが、これはへり下りというかもしれませんが、むしろへり上りになるのです。これをよくお考えになりまして、へり下り、へり上りにならないようにして頂きたいのです。

 神の御名を崇めていないために、イエスの御名を崇めていないために、自分みたいな者はと思うのです。自分みたいな者ということはありません。ある訳がないのです。いつでもずうずうしく、何をしている時でも、神が横にいると思ったらいいのです。

 人間は神が横にいないと考えて、だらしのない生き方をしていますが、神は人間がすることをよく承知の上で、人間を生かしているのです。

 人間が犬を飼う場合、犬のことをよく考えて飼っているのです。それと同じことを神はしているのです。

 人間が人間であることが、神が共にいますことです。人間が人間であるそのことが、神ご自身です。何に遠慮して私みたいな者と思うのでしょうか。

 人間が人間であることが神の御名です。これを勝手に恥ずかしいもののように考えたり、暗いもののように考えたりしているのです。

 人間は、人間であることが神であることを何となく知っているのです。知っていながら自分の気持ちに甘えているのです。肉の思いに執着したいと思うために、自分の方を見て私みたいな者はと言いたくなるのです。

 こういう気持ちをやめて、ここに上れということをいつもしていたらいいのです。上ったり下ったりでしょうけれども、上った時の印象を忘れないで、できるだけ上ったらいいのです。気がついたら上ったらいいのです。

 キリスト教の人は上らないことをしているのです。神と人間との間が万里の相違がある、無限の距離があると考えている。これが異邦人の神についての感覚です。

 新約聖書が与えられたということが、人間が神について知り得ることが明らかになったということです。神が神であることを人間は知っている。知っていながら崇めていないだけだとパウロが言うような状態にされていると考えてもいいのです。

 神と人とは同じ場所にいるのです。隔ての垣根が取り払われているのです。そう考えて自分を見ますと、自分が生きていることに対する見方が、がらっと変わってしまうのです。

 ヨハネは次のように述べています。

 「すると、たちまち私は御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった」(ヨハネの黙示録4・2)。

 これは一節の「ここに上ってきなさい。そうしたらこれから後に起きるべきことを見せてあげよう」という言葉に続いてのことですから、こういう声をかけられたら、たちまち御霊に感じるでしょう。

 しかしこのように神の方から呼びかけられなくても、私たちが自分の心を神に与えたら、容易にできることです。神を信じることは何でもないことで、ただ心を神に提供するだけでいいのです。自分を見ないで、自分の気持ちにこだわらないで、自分の心を神に提供するだけでいいのです。

 自分がいいと思っても悪いと思っても、私はだめだとか、私みたいな者はと思っても思わなくても、神にとっては同じことです。自分の心に思いをとめているということが、神に対して非礼になるのです。

 人間のことですし、異邦人のことですから、年がら年中という訳にはいきませんが、気がついたら自分の心を神に提供することです。これを心掛ければいいのです。

 できるだけ心を神に提供することです。自分の心を神に提供する時間が長ければ長い程、生きていることについて神を喜び楽しむことができるのです。

 神に生きるということは神を喜ぶことです。神に生きる時間が長ければ長い程、本人が得をするのです。これをしたらいいのです。

 皆様が神に心を提供している場合には、皆様はいつでも御霊に感じているのです。

 まず御霊を受けて頂きたい。御霊を受けるとはどういうことかと言いますと、聖書の言葉が命になることです。聖書の言葉の一句でいいですから、それを掴まえてその真意を知りたいと願って、とことん見つめるのです。黙想するのです。そうすると、ある時その言葉が自分の命になるのです。これが御霊を受けるということです。

 ヨハネは次のように述べています。

 「けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、来たるべきことをあなた方に知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16・13)。

 「あなた方のうちには、キリストから頂いた油がとどまっているので、誰にも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなた方に教える。それはまことであって、偽りでないから、その油が教えたように、あなた方は彼のうちにとどまっていなさい」(ヨハネの第一の手紙2・27)。

 御霊を受けた人はこういう状態になっていますから、わざわざ御霊に感じたと言わなくても感じているのです。

 この黙示録の場合は、黙示の内容が全く驚くべきものですから、特別にこういう言い方をしていると思われるのです。「御霊に感じた」と書いていますが、これは別に大業に感じているのではない。ただこの場合には、このように書かなければならないような激しい大きなことを感じたのであろうとは言えるのです。

 その次に御座のことが書かれています。「御座が天に設けられていた」とあります。四節には御座にみざというかなをつけていますが、これはみくらというかなをつけた方がいいのです。御座は神の位を指すのであって、ただの座席とは違います。

 御座(みくら)が天に設けられていた。その御座(みくら)にいます方があったとあります。御座に座っている誰かがいるのです。これは格好ではない。何かの形をした方が座っておられるのではない。とにかく誰かが座っておられるのです。

 誰かが座っておられるのです。これは皆様が自分の生存状態をよく見ておられますと、御座(みくら)が天にあることが分かるのです。御霊に感じることが、超特別のことばかりではないのです。

 御座(みくら)が天に設けられていることを、皆様はよく感じているのですが、それを捉えていないだけのことです。神は皆様といつでも一緒にいるのです。いますけれど捉えていないだけのことです。

 御座(みくら)が天にあるのは当たり前のことです。

 神の御名はあることです。これを英語ではイズ(is)と言います。isが神の位であり、すべて治めることの実体です。

 従って神の御座(みくら)は上にあるのではなくて、かえって下にあるのです。下というのが実は上ということになるのです。万物存在の基礎が、とりもなおさず万物の上であるということになるのです。神の統治は観念的な、いわゆる上からのものではなくて、実体的な下からなされていることに、気がつかなければならないのです。

 人間の場合は上から統治するのですが、神は下から統治するのです。これは絶対民主主義と言えるかもしれません。

 例えば植物が生えています。花が咲いていること自体が、神に治められていることです。美しいと思うことが神を崇めていることです。

 人間は社会的な位の上から統治するのです。大統領とか首相がいて、社会を統治しているのです。神は万物を貫いて万物の内にいまして、万物の中から統治しているのです。

 神というお方は非常に謙遜であり、またおおらかです。気楽なお方です。人間が考えるような体裁とか格好を考えないのです。

 神は人間の五体の中のどこにでもいるのです。人間の働きは皆神です。神はすべてを貫いて、すべてのものの内にいるのです(エペソ人への手紙4・6)。人間存在を貫いてその中にいますし、部分的に言えば胃袋を貫いて胃袋と共にいるのです。

 万事万物を貫いて、マクロ的にもミクロ的にもすべてを貫いてすべての内に神がいます。これがisです。

 神の御名(実体)はisです。モーセがホレブの山で神に会った時に、あなたの名前は何ですかと聞いたら、神は、私は「有りて有る者」(I am that I am.)と答えているのです(出エジプト記3・13・14)。神の実体はBe動詞です。am, is, areが神の実体です。

 神の御名はisです。isが神の位です。isが神の位であるということが天です。isが神の御名であるということが天です。天でなければ神は分かりません。天とは見えない所、非現象ということです。

 天に御座が設けられているということはどういうことかと言いますと、皆様が人間であるということが、そのまま神の御名であり、神の位です。

 神に来る者は、神がisであることを信じなければならない。英訳ではfor he that cometh to God must believe that he isとなっています(ヘブル人への手紙11・6)。これが新約聖書の神観の原則になっているのです。

 皆様はこの神を毎日経験しているのです。神がいなかったら消化作用とか排泄作用ができるでしょうか。自分の力で呼吸しているのでしょうか。

 あらゆる機能、あらゆる生理作用は神の御名によってなされているのです。そうすると御座(みくら)が天にあるということは、御霊を崇めれば分かるのです。

 黙示録にわざわざ書いてあることは、今私が述べた一般的、普遍的なものではなくて、黙示的な特別なことを象徴していると考えて頂きたいのですが、皆様が天に御座があり、そこに座っておられる方がいると思えばすぐに思えるのです。

 天に御座(みくら)があるのです。山を見てください。そこに御座(みくら)が出ているのです。人間が見ている景色とか、形とか、すばらしいと思えることは皆御座です。皆様は異邦人的な神観によって、神と自分とが万里の距離があると思わないようにして頂きたいのです。

 聖書はインマヌエル、神が共にいますことが原理になっているのです。神が共にいるということを除外して、新約時代はあり得ないのです。ですから、ありのままに心を開いて聖書を信じたらいいのです。聖書は生きている人間のありのままを述べているからです。

 天に御座(みくら)が設けられていた。御座(みくら)は非常に近くにあるのです。

 現在、人の内に共にいます神こそ、人を治めたもう神です。この神は人が崇めなければ、神が共にいないことになるのです。神が共にいないと考えて生きている人は、悪魔と同じ歩みを歩んでいるのです。

 人の内にいる神はどのようにしているのか。すべての生理、すべての心理として神が共にいるのです。機能が神です。宇宙のあらゆる機能は、全能の神を象徴しているのです。

 あらゆる機能が神です。神の機能ではない機能は宇宙にはありません。それをどのように名づけるかということだけがあるのです。

 人の内にある心理機能と生理機能を、神の機能として名づけない人には、神の機能にはならないのです。神の機能と名づけていない人には、悪魔の機能になるかもしれないのです。すべて名づけ方だけです。

 人間がどのように名づけるか。その名づけ方によってその人の運命が決まるのです。私みたいな者と名づけると、そのようになるのです。これは危険なことです。

 私は神の子であると名づけて、神が私を生かしておいでになると思ったらいいのです。生き方が良くても悪くても、そんなことにいちいち責任を持たなくてもいいのです。

 ただ神が私を生かしておられるのだ。神と共に私は生かされているのだと思ったらいいのです。そうしたらすべての悪が皆消えてしまって、皆善になるのです。

 ヨハネは述べています。

 「神が光の中にいますように、私たちも光の中を歩くならば、私たちは互いに交わりを持ち、そして御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(ヨハネの第一の手紙1・7)。

 このようにしたらいいのです。とにかく光の内を歩むのです。どんなことをしても、堂々と光の内を歩んだらいいのです。

 人間が生かされているということが、神に治められていることです。だから生かされている時に、そこに御座(みくら)があるのです。もし御座(みくら)がなかったら、生かされているという事実が成立しないのです。

 これは動植物の場合でも同様ですが、動植物にはこれが分からないのです。認識する機能を与えられていないからです。私たちはそれが分かるのですから、分かる者だけでもそれを確認する必要があるのです。

 神の御座(みくら)が人間の内にあるのです。外にも有りますが内にもあるのです。人間の内にある神の御座(みくら)が同時に天にもあるのです。人間の内とか外とかいうものはない。御座(みくら)が天にあるということが、人間の内にあるということです。空間的な区別はないのです。それがあると思うのが間違っているのです。

 人間は神の御座(みくら)があることを知っています。椅子があったらそこに座ります。そこに御座(みくら)があることを直感しているから座るのです。安心して座れるのです。

 

 (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

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