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        神とは何か(2)

 

神が人間をこの世に遣わしたのです。即ち魂に肉体を与えたのです。

 イエスは「私は遣わされた者」とたびたび言っていますが、父なる神が御子を遣わしたのです。遣わしたというのは、キリストに肉体を与えたということです。

 「言(ことば)は肉体となり、私たちのうちに宿った」とありますが(ヨハネによる福音書1・14)、これは人間世界に幕を張ったということです。

 肉体は幕です。本来神の言は肉体を取るべきものではない。それが現世に肉体を取って現われたということが、幕を張ったという意味です。

 肉体は幕ですが、これは仮住まいという意味です。神の言(ロゴス)が仮住まいを命じられたということが、この世に遣わされたことです。

 人間の魂と神の言は質的に同じものです。ただ人の子なる御子は自らそれについての自覚を持っておられた。私たちはその自覚を全然持たずにこの世に送られた。これが違うだけです。

 長子、初子であるイエスは自覚を与えられて生まれた。神の言であるという自覚を与えられてきたのです。信仰によって生きるということは、自分の本質を理解するということです。本質的には御子であるイエスと私たちは同じですが、自覚の度合いが違っていたのです。

 実は、私たち自身がこうして生きている段階において、冷静に自分の存在を判断すれば、自分が御子であるという自覚に到達することは簡単です。

 私たちが現在行っている衣食住の生活形態は、どこから見ても神の御子そのものです。服の着方、食事の仕方、車を運転して、電話、メール、インターネットを自由にしています。これはどこから見ても神の御子そのものです。私たちははっきり神の御子です。神の子であるという自覚を持たない方がよほどおかしいのです。つまり、御霊を受けない方がどうかしているのです。御霊を受けて当たり前です。

 聖霊が降臨した後の年代においては、現在の天地は旧約時代の天地とは違うのです。私たちは今、旧約時代と違う所に住んでいるのです。

 心を落ち着けてよく見れば、天地が何であるかが分かるはずです。ところが世間並の心で生きているために分からないのです。それだけのことです。

 世間並の気持ちで生きないで、人間が生かされていることをじっと独自の観察をしてみればすぐに分かるのです。世間並の感覚を拒否すればいいのです。世間並の感覚を持たないという決心をすればいいのです。そうすれば自分が神の子であることがすぐに分かるのです。従ってイエスの御名を信じるということは、簡単にできるのです。

 人間は誰もが自分がいると思い込んでいますが、自分はいるはずがない。生まれたいと思わない者がいるはずがないのです。従って自分は初めから他人であるに決まっているのです。

 自分は他分です。自分を他分と見る気持ちになれば、御子と同じ立場に立つことは簡単です。ところが私たちは異邦人の全くの暗黒の世界、滅びる力で覆われている社会で育ったために、心が完全に歪められたのです。

 家庭も社会も全く湾曲されていた環境ですから、私たちの魂がねじ曲げられてしまったのです。魂が全く肉に閉じ込められてしまっている。そういう条件を否応なしに持たされていたのですが、この条件は十字架によってなくなっているのです。ですから、私たちがこの世の中の考えにお付き合いする理由は毛頭ないのです。

 なぜ神が魂に肉体を与えたのか。宇宙に矛盾が発生したからです。その矛盾を矛盾として見極める第三者が必要になったのです。そこで神は肉体を与えたのです。

 宇宙に発生した矛盾がどのような矛盾であるかということ、この矛盾はどのように結論づけられるべきであるかということを、裁断しなければならない人格が必要になったのです。

 神を神と見る。悪魔を悪魔と見る。それを裁断しなければならない第三者の人格が必要です。そこで言である人間の魂に肉体が与えられて、この地上に来たのです。

 人間に肉体があるということが、根本から矛盾しているのです。物質はあるはずがない。あるはずがないものがあるのです。

 時間、空間があるということが、矛盾を露呈しているのです。時間、空間が宇宙に存在し始めたということは、矛盾そのものを露呈していることになるのです。矛盾がなければこんなものがあるはずがないのです。

 人間は全く困った者です。知者学者は自分の知恵に溺れて分からない。教養がない物知らずの人間は、自分の無知のために分からないのです。

 教養が傲慢になる場合と、無知が頑なになる場合とがあるのです。田舎者は無知の頑なの中に閉じこもるのです。物知りは知っているという傲慢の中で、神に抵抗しようとするのです。どちらも愚かです。本当に困ったものです。

 神を神とする。悪魔を悪魔とする。肉を肉とする。霊を霊とするのは当たり前のことです。この当たり前のことをするために、どうしても知らなければならないことがあります。それはisということです。神はisです。isが分からないと神も悪魔も、霊も肉も分からないのです。

 自分が現在生きていることが何のことか分からない。森羅万象も分からないのです。

 例えば、五十年位保てる家を建てたとします。五十年位経過した後になって考えてみますと、この建物は五十年間あったと考えるのですが、この考えが間違っているのです。五十年間建物があったと考えるのは、とんでもない妄念です。そういう考えを肉の思いというのです。これはisが分からないからそう考えるのです。

 Isとは何か。現在形のBe動詞の一人称のam、二人称のare、三人称のisが、あらゆる概念の絶対基礎になっているのです。

 あるのは現在だけです。建物が五十年あったのではありません。現在という瞬間が五十年間続いていただけのことです。

 あるのは点であって線ではないのです。点、点、点が五十年間続いていたのです。これが線に見えるのです。

 これは量子力学の基本原理であって、物理学の常識です。点が線になっているのが人生です。人生だけではありません。建物でも道路でも、山でも同じで点があるだけです。

 今、今、今があるだけです。今、今、今の他に何もないのです。これを皆様は現在経験しているのです。知っていながら信じていないのです。

 パウロは言っています。

 「神の見えない性質、即ち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って彼らに弁解の余地はない。なぜなら彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ人への手紙1・20~21)。

 人間はisを知っている。現在形の有を知っている。いわゆるBe動詞の現在形を知っているのです。知らなければ人間生活の基礎概念が成り立たないのです。

 人間の五官の働きをよく見てください。目がどのように働いているか。非常に厳重に現前を捉えているのです。現前以外のものを捉えていない。これが人間の五官が魂だという意味になるのです。こういう正確な、また明確な五官を神から預けられているのです。

 預けられたこの機能を正しく用いるなら、神がはっきり分かるのです。Be動詞の現在形がはっきり分かるのです。

 人間の五官はBe動詞の現在形以外のものを捉えないのです。非常に頑なに現在形だけを握っているのです。ところが人間の妄念が、建物が五十年あったと考えている。地球ができてから五十億年経過したと考えている。そんなことがあるはずがないのです。

 地球が五十億年存在したのではありません。地球は現在、現在、現在と現在だけ存在していたのです。地球は現在を五十億年続けてきたのです。

 地球が存在するのは瞬間だけです。地球が五十億年あったのではないのです。

 神は絶対です。ありてあるということはBe動詞の現在形だけです。これ以外に何もありません。

 パウロは次のように述べています。

 「神に来る者は、神にいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル人への手紙11・6)。

 英訳では、for he that cometh to God must believe that he is, and that he is a rewarder of them that seek after him.となっています。

 神に来る者は神がisであることを信じなければならない。そうしたら神自身が報いとなってくださるのです。神がisであることを本当に信じれば、神が報いとなるのです。

 皆様は神ご自身が報いとなることが、まだ信じられないでしょう。それはisを信じていないからです。これはとても大きいことです。これが分かると愛の本質が分かってくるのです。

 女の性根が求めている王子様の正体が分かってくるのです。そうして王子様を確実に掴まえることができるようになるのです。

 isが王子様です。これはすばらしい王子様です。そうして皆様はシンデレラであることが分かるのです。シンデレラである自分を発見するのです。

 女の喜びとは何か。女は何を喜んでいるのか。女性の肉体は何を喜んでいるか。これはすばらしいものを喜んでいます。女性はこれを肉で捉えているから逆性になるのです。

 霊なるものの本源、霊なることの本源がisです。人間の喜びの中で最も大きいもの、最も深いものは女の喜びです。女が肉体的に感じる喜びです。これは最も深いものです。

 これを陥罪以前のアダムは肉の肉と言っています。これがそのまま骨の骨というようにならなければいけないのです。

 女を本当に見ることに成功した者は、万物を見る目が開かれるのです。誠に女の存在こそすべての秘密、謎の鍵です。

 アダムになぜエバを与えたのか。女の喜びは体の奧で喜んでいるのです。男の喜びは体の前で喜んでいる。だから奧の喜びが分からないのです。

 男と女の喜びの場所が違う。これは魂の違いです。神は魂のあり方、魂の感受性を二つに分けたのです。ここに神の処置があるのです。

 女は奥座敷で喜んでいる。男は玄関で喜んでいる。女は奥座敷の喜びをストレートに肉体の喜びとして受け取っている。これが間違っているのです。

 本来肉体はありません。肉体は仮体です。仮在です。肉という言葉が影としての意味を持っているのです。肉は腐るものです。肉という言葉自体がふやふやしたものです。肉という言葉自体が明確な固定的存在を意味しないのです。

 万物は肉です。これは固定的、個体的に存在するものではない。肉的に存在しているのです。人間の肉体は最も顕著に肉を現わしているのです。鉄もダイヤモンドも肉です。ただ人間の肉体よりも少し固いだけです。腐る、錆びる、酸化する、腐破する、老化するという点からすると同じことです。錆びるというのは腐ることを意味するのです。

 肉は仮存在という意味です。また幻という意味が含まれているのです。初めから肉の中には仮存在とか、影、朽ちるものという意味が含まれているのです。確固不抜の状態で厳然として存在するものとは違います。

 肉は影です。幻です。神がわざわざ老化する体を魂に与えたという意味は、自分自身の存在が瞬間的なものであって、永遠的なものではないことを魂に悟らせるためです。

 実存するのは瞬間だけです。それを悟らせるために体を与えたのです。ですから肉体が固定的に五十年、六十年存在すると考えてはいけない。肉体は瞬間、瞬間だけに存在するものです。

 これを証明するのが人間の五官です。肉体感覚は五官によって捉えられているのです。ところが五官は瞬間しか捉えていない。そこで人間の肉体がないということを、自分の五官の働きによって当然知るべきなのです。

 人間の五官の働きをじっと見たら、瞬間だけしか存在していないことが分かるのです。従って肉体で喜怒哀楽を捉えることが間違っているのです。

 奧の間の喜びを肉体的に捉えることが間違っているのです。玄関での喜びも同じことですが、それを肉体的に捉えないで霊的に捉えるとどうなるかです。これを悟ることが本当の王子様を知る方法です。

 マグダラのマリアがイエスの足元に平伏した瞬間に、マリアは無意識に捉えるものを捉えたのです。その喜びによって七つの悪魔が追い出されたのです。

 彼女は大胆に、率直に、正直に、あからさまにイエスを慕ったのです。これが人間がイエス・キリストを慕う最高のケースです。これは血漏の女に似たところがありますが、マリアの方がもっとはっきりしているのです。

 女はこういう喜びを感じることができるのです。それを男に学ばせるために女を与えたのです。ところが女はそれを肉で受け止めている。肉があると思っているのです。

 肉はありません。私たちは人性最高の喜びを霊的にはっきり受け止めることによって、信仰とは何であるか。救いとは何であるか。神を喜ぶとはどういうことかを受け止めることができるようになっているのです。肉体的に受け止めているという喜びだけで、神が分かるのではありません。このためには神の約束の原理ということを知恵として、学ばなければいけないのです。

​  (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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