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        神とは何か(3)

 

 神とは何か。神は論理的なもの、また精神的なもの、また人格的なものと思っている人が多いのです。冷静な人ほどそう思うのです。神は尊敬できる霊的な形而上的なものだと思うのです。これは人間のどうしようもない欠点です。

 人間の生活が形而上のマインドを基礎にして生きているのですから、精神的なものを神だと思うのは無理もないことです。理想主義的な人ほどそう思うのです。モーセほどの人が精神主義的に神を見ていたのです。

 ユダヤ人が神を掴まえそこなったのは、モーセと同じ理由です。モーセはプレゼンスの神が分からなかったのです。

 出エジプト記の三十四章に次のように書いています。

 「神は私が頼りない男だから、私と一緒にいて頂けるとおっしゃいました。私はとてもイスラエルを導くという大きい仕事はできませんと言ったら、『恐れるな、私はあなたと共にいる』とおっしゃいました。

 あなたが私と一緒に来てくださるのならうまくいくだろうと思ってお慕いしたのですが、あなたは私と来てくださらない。あなたの栄光を私の目の前に見せてくださらない」

 モーセは自分が話しをすれば神の栄光が一緒に働くと思っていたのです。ところが一向にそういうことがない。イスラエルの民衆がいつもがたがたしているので、往生して神に泣き言を言ったのです。

 そうしたら神が、「おまえはプレゼンスを見ないのか。私はプレゼンスにおいていつでも栄光を現わしているではないか」と言われたのです。そう言われてもモーセはそうかなという程度には分かったのですが、それで黙ってしまったのです。

 私はプレゼンスにおいて栄光を現わしていると神に言われて、その意味が分からなかったのですが、そう言われるのならしかたがないと言って、モーセは沈黙したのです。

 プレゼンスとは何か。これがヨハネの黙示録第七章二節にある東方の天使、日出る所の天使の使命感に重大な関係があるのです。これがリビングゴッドのシールです。リビングゴッドのシールというのはリビングそれ自体が神のシールということです。

 自分の心臓が動いていること、目が見えること、耳が聞こえること、五官が働いていることがリビングです。これが神です。

 これをペテロの言い方をしますと、私が聖であるようにあなた方も聖でありなさいということになります。オールリビングのマナーにおいて聖であれと言っているのです。オールリビングのマナーにおいて清くなれと言っているのです。どうしたらそうなるのかということです。

 これをイエスはルカによる福音書の十二章八節、九節で言っています。プレゼンスにおいて人の子を言い現わさない者は、天使のプレゼンスにおいてもやはり言い現わしてもらえないのです。

 プレゼンスにおいて私を否定する者は、天使のプレゼンスにおいてその人を否定する。プレゼンスにおいて私を告白する者は、私もプレゼンスにおいてその人をいうとあるのです。このプレゼンス(presence)ということです。これはさすがのイスラエルの哲学者も分からなかったのです。モーセも分からなかったのです。

 私はプレゼンスにおいておまえと一緒にいるのではないかと神に言われたのです。私はプレゼンスにおいていつでも私を現わしている。これが分からないのかと神に言われたのです。モーセほどの傑物でもプレゼンスの神を捉えることができなかったのです。

 プレゼンスというのは、今いること、ここに存在していること、現在存在していることです。ここに神がいるのです。

 今私たちは神を通してリビングであるプレゼンス、プレゼンスであるリビングを示されているのです。これは世界で初めて教えられたことです。これをしっかり掴まえれば皆様の中に論争は起こらないのです。

 神は形而上的なものではありません。むしろ形而下的な色彩を強く持っているのです。実は形而下ということが形而上ということです。これを分かって頂きたいのです。

 プレゼンスをどう日本語に訳したらいいのか。一番分かりやすい言い方をしますと、現実的な存在になります。今目の前に見えていることです。今この瞬間の事実です。これがプレゼンスです。これは形而下のように見えるのです。

 もう一つプレゼンスという言葉には、神の臨在という意味があります。存在、臨在という意味があるのです。存在であるものが現実です。現実は臨在を意味するのです。現実が神です。この見方が定着しますと、皆様は迷わなくなるのです。

 達磨和尚は弟子をとりませんでしたが、慧可(えか)という直弟子がいました。この人はどうしても弟子にしてほしいと言って庭に座り込んだのです。「弟子になりたければ勝手になれ、わしは知らんぞ」と言ったのですが、彼は強引に弟子になってしまったのです。

 慧可は鋭い男でした。雪の降る中を立って、立禅をしていたのです。悟ることに命をかけていたのです。ところがどうしても悟れないのでとうとう達磨和尚に言ったのです。

 「自分の心に不安があってかなわない。どうしたら治るか教えてください」と言ったのです。達磨和尚は「よし教えてやる。ここへ不安を持ってこい」と言ったのです。

 「分からない、分からないというその心をここへ持ってこい」と言ったのです。慧可は言われてじっとしていた。「まだ持ってこないのか」と達磨和尚に請求されて、慧可は「どこにあるかと思って、今探しています」と答えたのです。ところがどこを探してもないのです。「探さなければならないのは、ない証拠ではないか」と言われて、ようやく分かったのです。

 自分が生きていると思っているから、勝手に不安があるのです。神に霊を渡したと思っているその神は、頭で考えた形而上の神です。これは熱心な人がそう考えるのです。

 なぜそうなるかというと神から離れるのが恐い。しかし神について行くのは大変だと考えるのです。神はそういうものではないのです。神はプレゼンスです。我はありてあるものなりと言っています。ありてあるという言葉をI amとばかりに訳してはいけない。あらんとするという意味もあるのです。I amもあるがI will beもあるのです。

 I amは形而下的ニュアンスを多分に持っています。これが御座です。グレート・ホワイト・スローン(great white throne)から何が出ているか。電気が出ている。いなずまが出ているのです(ヨハネの黙示録4・5)。

 いなずまとは何か。形而上と形而下の間にあるのです。地球物理の感度から言えば形而下的なものであって、形而上的な意味も持っている。これが御霊の働きです。

 神をどこで掴まえたらいいのか。リビング以外に掴まえようがないのです。いなずまはリビング以外に掴まえようがないのです。

 現実的に生きている人間が、現実的に掴まえられるものでなければ神ではないのです。イエスが水と血によってやって来たのはそのためです。ヨハネはそれを見た。イエスはパンを食べ、小便をする格好でやって来たのです。これが救い主でありプレゼンスです。

 イエスは自分自身のプレゼンスが、そのまま生ける神であることを知っていた。そこでプレゼンスで人の子を告白する者だけがイエスを信じているのです。そうすると天使のプレゼンスが公認するのです。天使のプレゼンスが応援するのです。これが大きいのです。

 神を信じたら、神の使いがその人に仕えなければならないのです。どのように仕えるのか。神の使いがその人に仕える方法は、プレゼンス以外にはないのです。これを分かって頂きたいのです。

 天使が皆様に仕えたいが、皆様が概念的な神を頭に置いている間は、天使が皆様に仕えようがないのです。

 信仰は非常に科学的なものですし、現実的なものです。具体的なもので、実践的、実体的なものです。生きざまがそのまま祈りになるのです。手の使い方、顔の洗い方一つがそのまま祈りになっているのです。祈りとは実践行為です。

 これからイエスのために顔を洗ってください。私を助けなくてもいいですから、イスラエルを助けてくださいというのです。ご飯を食べるのもイスラエルのため、仕事をするにもイスラエルのためです。何でもいいから自分自身のプレゼンスを、皆イスラエルと結びつけるのです。人々からイスラエル気違いと言われるかもしれませんがそうして頂きたいのです。

 自分の救いを放っておいてもイスラエルを救いたまえと祈って頂きたいのです。

 プレゼンスがなぜ分かりにくいと思うのか。分かりにくい心をここに持って来なさいと言いたいのです。

 禅の悟りに無門関四十八則の悟りがあります。第四十七則に達磨の安心というのがあるのです。達磨がどういう方法で人に安心を与えたかを書いています。「不安な心を持って来い。わしが料理してやる」と言っているのです。不安な心があると思っているから不安があるのです。不安な心はどこにあるかと言ってもどこにもないのです。

 分かりにくいと思っている人は分かりにくいのです。分かりにくいと思っている心を放ってしまうのです。そんなものは肉の思いですから放ってしまうのです。

 自分の思いを放ってしまえば、プレゼンスに従えます。そこに神があるのです。

 自分の思いを信じないのです。イエスはそういう言い方をしています。「心を騒がすな、神を信じ、また私を信じなさい」と言っています(ヨハネによる福音書14・1)。神を信じるとはビリーブ・イン・ゴッド(believe in God)です。神において信じるのです。

 また、ビリーブ・イン・ゴスペル(believe in gospel)と言っています。福音において自分を見る。今生きている状態を福音で見るのです。

 日本の常識で自分を見ないで、福音において自分を見るのです。そうしたら既に救われていることが分かるのです。まだ救われたいと自分が勝手に思っているだけです。分かるも分からないもない。既に救われているのです。

 自分が神の子であることを信じる。人の子を言い現わすのです。そうすると自分がまだはっきり分かっていなくても、その人は水と血と御霊の証を受け取っているのです。よく分からなくてもいいのです。

 だから、今日、心を一つにすることができるのです。思いを一つにできるのです。がたがた思う心を捨てたらいいのです。

 天使のプレゼンスというのは、未必の事実です。未必の天使のプレゼンスです。生きていることの少し前です。生きようとする自分です。これが人の子であると考えるのです。

 次の瞬間に生きようとする自分の前にいるのを、人の子と考えるのです。人の子だと思っているうちに瞬間が来ます。人の子になっているのです。その時には天使がその人に働いている。これがユダヤ人に分かったらいいのです。

 未必の自己が本当の生ける神です。これがリビング・ゴッドです。どの国の人でも、どんな人でも御霊に従ったら一つの思いになるのです。

 今のすぐ前を見るのです。今という時間の少し前、心臓が動いていることが神です。神の御名によって心臓が動いているのです。神の御名によって心臓が動いているのは、間違いがないことです。

 自分が出てくる前は自分ではありません。これは父です。父なる神を掴まえるには未必でしかできません。これをイエスはプレゼンスと呼んでいるのです。これは臨在を意味する存在です。

 未必で神を掴まえるとその存在は臨在になってしまうのです。そうすると自分の思いや自分の感覚を信じるばかばかしさがよく分かるのです。自分が分かるとか分からないとか、利益があるとか、損があるとかに関係がないのです。利害得失は一切人間の思いです。実際は利害得失はありません。善悪もないのです。

 プレゼンスが父であって、これを掴まえないと神が分かりません。神は生きているに決まっています。ところが聖書には生ける神という言葉があります。これは何かです。

 生ける神とわざわざ書いています。リビング・ゴッド(living God)と言っているのです。なぜ生ける神と書いているかと言いますと、人間のリビングがそのまま神のリビングであることを人間に知らせるために、こういう言い方をしているのです。

 神はどこでどうしているのか。神が祈る所をリビング・ゴッドという言い方で現わしているのです。日本から出る御使(engel)はこれが分かる御使です。

 キリスト紀元の人間はリビング的に皆救われているのです。ユダヤ人にこれが分かったら、世界がひっくり返るでしょう。ユダヤ人がそうか、そうだったのか、何も心配することはなかったのだ、新約時代はそういう時代なのだということが分かったら、第三天が開かれるのです。

 第三天はプレゼンスの天です。旧約時代にはなかった天です。イエスは現世にいる間にプレゼンスが分かっていた。彼は復活昇天して、神自身が生きているプレゼンスの内に入れられたのです。イエスの信仰がイエスのプレゼンスを造っているのです。

 今現実に皆様に与えられているプレゼンスを見るのです。現実に与えられている条件でしか聖書が分からないように、神が仕向けているのです。これを受け入れたらいいのです。

 これが救いです。こういうプレゼンスが救いです。

 神がいてその神が私たちの集会を指導していると考えると、神が偶像になってしまうのです。神が天にいて、天にまします神が私たちを指導していると考えると、理想主義の神になるのです。それはすべて人間の頭で造る神です。

 プレゼンスの神は頭で造れない神です。信じることはできますが、造ることはできません。プレゼンスの神は意外な神です。人間の頭で造ろうとしても造れないのです。不思議な神です。自分の概念で想像できる神をやめて頂きたいのです。自分で造った神を廃嫡(はいちゃく)するのです。

 自分で神を造ったら、イエスにひどく叱られるのです。パウロは私にとって生きるはキリストであると言っています。生きているこの現実がキリストだと言っているのです。

 生きていることがキリストです。キリストが私において生きていると言っています。プレゼンス、リビングという光は、パウロ以後の二千年の間、世界になかったのです。

 それが日本で光り出したのです。しかも私たちみたいなありふれた人間に開かれたのです。

 かつて「エブリマン氏の優雅な生活」という言葉が流行ました。このエブリマン氏というのが私に当てはまるのです。私は世間並の標準的なエブリマンです。全く普通の人間です。この私に神が教えられた。だからこの神は誰でも分かるのです。ただ頭だけの信仰、世間並の考えをやめたらいいのです。リビングにおいて神並になればいいのです。

 プレゼンスをいつでも考えて頂いて、これを標準にして神を見る習慣をつけて頂きますと、イエスが神を父と呼んでいた気持ちがよく分かるのです。生みたまえる一人子という言葉が私に言われているような気がするのです。

 神から生まれて神によって生きていると思っていますと、生みたまえる一人子という言い方は、私のことのような気がするのです。そうするとイエスが主であるというのは、いよいよ実感的に分かるのです。私が生かされていることが、神に生まれていることになるのです。

 プレゼンスの他に神はありません。プレゼンスはリビングにおいて説明されているのです。プレゼンスとリビングは表裏の関係になるのです。リビングは形而下的な言い方です。プレゼンスは形而上的な言い方です。そうすると第三天にいるキリストがどこにいるかが分かるのです。

 自分が生きているという事実によって、神をしっかり掴まえて頂きたい。頭で考える神を一切やめて頂きたいのです。

 御名を崇めさせたまえというのは、これを言っているのです。だから隠れた自分の部屋に入って、おまえのドアを閉じなさいと言っているのです。おまえのドアを閉めてしまえとは、不安になっている気持ち、自分が分からないと思う気持ち、自分の頭が悪いと思う気持ちをシャットアウトしてしまえというのです。

 ドアを開けっ放しにしていてはいけない。開けっ放しにしているから、不安とか不信が出てくるのです。閉めてしまうのです。そうすると楽になるのです。

 神と人間の関係を、極めて現実的に受け取ってもらいたいのです。正確に言えば神は現前であり、また未必です。現前という不思議なものがあることを、哲学的に捉えてもらいたいのです。皆様の欠点は哲学的な思索が足らないということです。

 ユダヤ人の感覚は異邦人の感覚とは違います。もっと鋭いものがあるのです。ユダヤ人の感覚は現実的な意味での鋭さを持っています。皆様は現実的な鋭さがないことが、山上の垂訓に対する実践的な能力がないことを示しているのです。

 人間的な合理主義、民主主義は神の前には一切通用しません。日本人は民主主義を尊重していますが、日本の憲法に民主主義という言葉は一言もありません。学者やジャーナリストが勝手に民主主義と言っているのです。

 日本人は民主主義が憲法に書いてあるような感覚を持っています。この感覚がある人は、山上の垂訓を実践できません。山上の垂訓を実践できないようでは、とても神は分かりません。

 私たちはイスラエルを指導する立場に立たなければならないのです。イスラエルは人類のリーダーシップを取っています。肉の思いで一生懸命になっている人々を、ユダヤ人が引っ張り回しているのです。

 ユダヤ人の思想は単なる肉の思いではありません。一枚上です。例えば共産主義の考え方、資本主義の考え方は肉の思いに違いありませんが、肉の思いの一枚上です。唯物史観という哲学思想、資本主義の思想は空中の思想です。肉は肉でも、上から人々を指導する肉の思想です。霊ではありませんが、肉を指導する肉の思想です。

 世界の肉の思いを指導しているユダヤ人を、私たちが指導しなければならないのです。空中の権を取る者を指導しなければならないのです。間違ったユダヤ人を指導する人が他にいないからです。

 私たちは空中の権を取る者が、哲理的、論理的に感心するような内容を持たなければいけないのです。これをするのは何でもない。魂が分かればいいのです。

 魂はリビングを受け取る機能ですが、ただ受け取るだけではいけない。それをコントロールしなければいけないのです。

 神はリビングをメイクアップします。神はメイクした命を現実という形でアップしているのです。イエスは神のリビングをレシーブして、それを神的にコントロールしたのです。これが山上の垂訓の精神です。

 神がリビングをメークしている。人間がそれをコントロールすることによって神が完成するのです。人間がリビングをコントロールすることによって、神の約束が進展するのです。神の約束が進展することは、神の約束が完成することを意味するのです。これに参与することができた者だけが、世々限りなく王となるのです。これに参与しない者は全部火の池に放り込まれるのです。

 なぜ火の池になるかと言いますと、理性と良心を与えられていながら、命のメーカーに参与しなかったからです。私たちは命をレシーブしている以上、命のメーカーに協調、協力しなければならない責任があるのです。生かされている者は生かしている者に協調しなければならないのです。

 神は命をメークしているから、人間がそれを受け止めてコントロールする責任があるのです。コントロールして万物に替わって神的に受け止めるのです。

 万物に替わってとはどういうことかというと、難しくないのです。神が万物を生かしている生かし方を認識したらいいのです。旧約の預言者は皆それをしていました。神がどのように魚を生かすことが上手であるとか、鳥を飼うことが上手であるとかを預言者は見ていたのです。

 旧約の預言者がしていたことをしなければ、イスラエルが感心しないのです。イスラエルに頭を下げさせるようなことをしなければならないのです。

 詩篇の八十四篇三節に、すずめがすみかを得、つばめがそのひなを入れる巣を得る。これがエホバの祭壇であるとあります。

 つばめが巣を得ることがなぜ祭壇になるのでしょうか。この神が皆様に期待しているのです。つばめが巣を得たという祭壇と、神がモーセに話しをした幕屋の祭壇と、ヘブル人への手紙の十三章十節にある祭壇と三つの祭壇があるのです。ユダヤ人にはこれが分からないのです。

 つばめが巣を得た。これがエホバの祭壇である。これが説明できるキリスト教の牧師がいないのです。

 皆様は神の信頼を受けている。皆様が頼りなくても神は皆様を立てようとしているのです。皆様は人間として生きているが、霊魂として生きていない。これが悪いのです。人間として聖書を読む癖がついている。これがいけないのです。

 自分を認めようとする癖がある。人権的な感覚がある。これではとてもユダヤ人の指導はできません。

 つばめが巣を造る。つばめがエホバの万軍になっているのです。つばめの方から言えば、これはエホバの万軍だということになります。エホバの方から言うと、万軍のエホバになるのです。エホバの万軍と万軍のエホバと両方あるのです。

 皆様は言われても実行しない。なぜ実行しようとしないのでしょうか。自分を人間だと思っているからでしょう。人間とは何か。悪魔が造った動物です。こんなものが救われる見込みがないのです。

 自分が分かろうとすることがいけないのです。分からないのが当たり前です。分からないから信じるのです。

 不安がある自分が救われる必要はない。不安がある自分を放したらいいのです。「古き人を脱ぎ捨てて、心の深みまで新たにされて、新しい人を着る」のです(エペソ人への手紙4・22~24)。

 心の深みまで新にされてというのは、精神の霊を新にすることです。精神の霊を新しくするというのは、今までの物の考え方を全部やめてしまうということです。自分が分かって納得しても実行しないことがいけないのです。

 信仰とは神の思想です。リビングのメーカーの思想です。信仰という思想でリビングを造っているのです。だから信仰がない者は神のリビングを受け止められないのです。

 人間が信じるのではない。人間が信じられるはずがないのです。人間はリビングのメーカーではないのですから、神の信仰を持たなければいけないのです。

 リビングとは人間だけを生かしているのではない。万物を生かすこと、地球を自転公転させていることがリビングです。地球がリビングの入れ物です。地球は生きているのです。

 地球に無機物は一つもありません。あると思っているユダヤ人が愚かです。地球そのものが生きているのです。生きている地球から生まれたもので、無機物があるでしょうか。無機物的存在は一切ありません。

 石や鉄でも風化します。ダイヤモンドでさえも風化します。有機物ですから風化するのです。地球には新陳代謝しないものは一つもありません。どんなものでも新陳代謝します。なくなるのです。

 形あるものは必ず壊れる。ユダヤ人の学説より仏典の言い方の方が正確です。

 すべてのものは有機的に存在しています。有機的ということが神的ということです。

 神の御座から電気が出ています。いなずまが出ています。いなずまは物理的な機能をすると同時に、心理的にも機能しています。例えば女性が椅子に座っていますと、それだけで心理的に機能しているのです。これが電気の働きです。

 すべてのものは電気の働きです。森羅万象も、人間の思考作用も電気の働きです。電気の働きでないものは一つもありません。テレビに出ているドラマもすべて心理構造的な電気の働きです。

 だいたい電気という言い方が正しくないのです。電気という言い方をするから、物理的にしか解釈されなくなるのです。他の言い方をすべきです。新しい言い方をすべきです。

 思春期というのは電気を心理的に感覚する時です。神と接触する感覚を思春期というのです。春というのは命の芽生えであって、命の芽生えを直感するということは、人間の霊魂が神に対して目を開かれようとしている状態です。これが思春期です。

 これは電気を最も鋭敏に、純粋に感じる感覚です。この電気が御座から出ているのです。電気が皆様の舌にも働いているから味が分かるのです。

 果物の味が分かるのです。果物の味も電気ですし、味わっている機能も電気です。電気と電気が触れ合っているのです。これが味覚神経の働きです。

 人間の霊魂は電気を電気として認識する最もすばらしい直感性の働きです。霊に従いて歩むというのはこのことを言っているのです。霊というのはこのように物理的に説明できるのです。

 私たちは現実的にまた、現前的に神を十分に説明できるのです。ですから現実において神とはっきり交わることができなければいけないのです。

 つばめが巣を造ることがエホバの祭壇だと言っています。エホバの祭壇とは何かと言いますと、人間の霊魂と神の霊が交わる所です。人間の魂と神の御霊が交わる場所です。

 神はモーセに言っています。「おまえは牛を殺してその血を持って来なさい。祭壇にその血を注ぎなさい。そこで私はおまえに会ってやる」と言っています。祭壇は血を注ぐ場所であって、神が人に会う場所です。

 つばめが巣を造る。これがエホバの祭壇であると言う。エホバがそこにいるのです。こういう受け止め方が神の受け止め方です。

 神はただの事がらです。これがエホバの祭壇です。ヘブル人への手紙では「私たちには一つの祭壇がある」と言っています(13・10)。イエス・キリストの十字架が祭壇です。そこで人間の霊魂と神の霊が交わるのです。

 肉の私たちが十字架によって消えてしまわなければ、神と交われないのです。神と心安くなりたければ十字架に行くことです。そうしたら神と心安くなれるのです。

 こういう神を掴まえるのです。これがプレゼンスの神です。イエスの十字架によって神と人と交わえるし、すずめの巣によって神と人が交わえるのです。モーセの場合ですと、燃える柴によって神の方から交わろうとしたのですが、モーセに分からなかったのです。

 神はいと近くにいますので、皆様は肩肘を張る必要はありません。無理に分かろうとする必要はないのです。皆様の心臓が動いていることが神ですから、気楽に付き合ったらいいのです。気楽に心を明け渡したらいいのです。力む必要は少しもないのです。

 現実は神です。現実の他にどこにも神はありません。今、今、今というこの今こそ、神と私たちの祭壇です。最も具体的な神、最も実体的な神の御名の栄光を、霊魂でしっかり掴まえるのです。

 花が咲いているのは御名の栄光です。これがエホバの祭壇です。ここに神がいるのです。

 私たちはいつでもエホバの祭壇の前に置かれているのです。現実がエホバの祭壇です。私たちが意識してもしなくても、私たちが生きていることがエホバの祭壇です。

 このことをパウロは次のように言っています。

 「あなた方の体を神に喜ばれる、生きた聖なる供え物として捧げなさい。それがあなた方のなすべき霊的な礼拝である」(ローマ人への手紙12・1)。

 私たちが生きているままで、生活しているままで、エホバの祭壇になっているのです。この祭壇で体を聖なる供え物として捧げるのです。これが誠の礼拝です。

 人間は生きている間、二十四時間礼拝できるのです。イエスはエルサレムでなく、神の宮でもない。どこでも神を拝む時が来ると言っています。それが今来ているのです。

 人間の前は肉です。神の前は霊です。同じ前でも肉もあれば霊もあるのです。「わが前に歩みて全かれ」という言葉をどのように読むべきかです。

 生きていることが神だということを、もっと真剣に考えて頂きたいのです。

 人間を造ったのは悪魔です。魂を造ったのは神です。どちらを取るかによって永遠の運命が決まるのです。

​   (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

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