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        神とは何か(1)

 

 聖書に次のように書いています。

 「イエスは彼らに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし子はいつまでもいる。だからもし子があなた方に自由を得させるならば、あなたがたはほんとうに自由な者となるのである。

 私はあなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉が、あなたがたの内に根をおろしていないからである。

 私は私の父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている』。彼らはイエスに答えて言った、『私たちの父はアブラハムである』。イエスは彼らに言われた『もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこの私を殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである』。

 彼らは言った、『私たちは不品行の結果生まれた者ではない。私たちには一人の父がいる。それが神である』。

 イエスは彼らに言われた、『神があなたがたの父であるならば、あなたがたは私を愛するはずである。私は自分から来たのではなく、神から遣わされたのである。どうして、あなたがたは私の話すことが分からないのか。あなたがたが私の言葉を悟ることができないからである。

 あなたがたは自分の父、即ち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼の内には真理がないからである。彼が偽りをいう時、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり偽りの父であるからだ。

 しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じようとしない。あなたがたの内、誰が私に罪があると責めるのか。私は真理を語っているのに、なぜあなたがたは私を信じないのか。

 神から来た者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神から来た者ではないからである』」(ヨハネの黙示録8・34~47)。

 ユダヤ人は私たちは不品行(姦淫)の結果生まれたのではないと言っていますが、ユダヤ人はイエスが男なしで処女降誕したことを勘違いして、ローマの兵隊による姦淫の結果生まれたと考えていた。それに対してイエスは正常な婚姻の結果生まれたと言っているのです。

 私たちには一人の父がある。それは神であるとユダヤ人が頑張っているのです。ユダヤ人も思想として神が父であると考えていたのです。

 キリスト教でもこういうことを言っています。神はお父さんであると言っていますし、天のお父様と言って祈っているのです。

 父とはどういう意味なのか。イエスが考えている父と、宗教で考えるいる神が父であるという言い方とでは、全然意味が違うのです。

 イエスは「私は神から出た者である」と言っています。神から出た者だ、神から遣わされた者だと繰り返し言っているのです。神から来た。従って自分がここにいることがそのまま神からであると言っている。

 何に基づいてそう言ったのか。ユダヤ人でも私たちは神から来たと言っているのです。イエスと同じようなことを言っているのです。ところが違うのです。ユダヤ人が言っている感覚とイエスが私は神から来た者だという言葉の内容とは、全然違うのです。

 ユダヤ人の場合、言っていることが全部嘘になっているのです。おまえたちの父は虚偽の父である。偽りの父であるということになるのです。これが悪魔である。イエスの父は誠の父であると言っているのです。

 誠であるか、虚偽であるかをどこでどうして見分けるかということです。

 今皆様が生活しておいでになるのは、やはりユダヤ人と同じ状態です。聖書を勉強していますが、真実そのもの、神そのものに生きておいでにならないのです。そうするとやはり悪魔の子になるのです。

 本当のセンス、感情を身につけることが必要です。ユダヤ人は現象的な感覚に従って生きていた。現象的な感覚に従って生きている場合は、どれほど忠実に、どれほど誠実に真実にふるまっても、陰日向なく正直に生きても、全部嘘になるのです。それは現象に従って生きているからです。現象に従って生きていたら全部嘘になるのです。

 イエスは現象に従って生きていなかった。神に生きていたのです。神に生きているということと、現象に生きるということとは違うのです。

 人間は誰でも正直に生きているつもりです。ところが現象に従って生きていれば正直でなくなるのです。なぜなら現象は実体ではないからです。現象は実体ではない。現実は真実ではないからです。

 こういう私自身でも現象は実体ではないと自分自身に言い続けているのです。一生涯言い続けなければならないのです。これでもう卒業したということはありません。私はこういうことを皆様にお話ししつつ、自分自身でその事実に生きることを実行しているのです。

 現象は真実ではない。はっきりそう言えるのです。

 例えば松の木があるとします。ああ松の木があると考える。これは現象主義の見方です。松の木があると考えて行動しているのです。

 松の木があると考えることは間違っていないのですが、松の木であるという考え方が間違っているのです。松の木が「ある」のではなくて、松の木で「ある」ものがあるのです。松の木であるそのものです。松の木の事がらです。それがあるのです。松の木が松になるためには、いろいろな機能条件が無数になければならないのです。枝ぶり、色、形、雰囲気ができるためには、多くの機能、条件が集まっているのです。人間はこれを全く見落として、ただ松の木があると考えているのです。

 松の木があるというのは現象意識です。肉の思いです。松の木であるものがあると考えるのが、霊の意識です。いちいち、時計であるものがある。コップであるものがあると考えている訳ではありませんが、問題は意識です。意識が松の木を鵜呑みにして、松の木であることを知って松の木を見ないで、松の木があるという現象体のみを見ている場合は、肉の思いになるのです。

 松の木があるということは、松の木であるべき機能、条件があるのです。これが人間の魂にはピンとくるのです。例えば松の木の幹をじっと眺めて、松の木であるものがここに現われている。松の木であるとはどういうことかと考える習慣を皆様がおつけになると、「である」ということがどういうことかが、だんだん分かってきます。

 松の木が松の木であるためには、太陽が太陽でなければならない。地球が地球でなければならない。風が風でなければならない。雨が雨でなければならない。こういって多くのことが集まって、松の木であることが発生しているのです。

 松の木であるということは、松の木だけがあるのではない。天地万物の働き、宇宙の必然性、神の創造の絶対性が松の木であることとして現われているのです。

 私たちは今、宇宙の必然を見ているのです。天地の絶対を見ているのです。天地の心が松の木であるとして現われている。私たちはそれを見ているのです。

 天地の心、造り主の御心、万物の必然性、宇宙の絶対性を松の木として見せているのです。それをじっと見ていきますと、松の木という存在ではなくて、松の木であらねばならないということが現われているのです。当為が現われているのです。当為とはそれがそれであらねばならないということです。

 松の木であるということは、松の木であらねばならないということです。

 それがそうでなければならない。そうしなければ仕事にはならないのです。字を書く時も、電話をかける時もそれがそうであらねばならないという方法を用いているのです。そうしなければ字が書けないし、電話もかけられないのです。字を書く時も、宇宙的な当為がなければ書けないのです。

 太陽だけがあってもだめです。地球だけがあってもだめです。風が吹いているだけでもだめです。風と雨と太陽とあらゆる条件が適当に化合しているのです。これが神の処置であって、物が集まってできているのではないのです。

 あらゆるものが集まる仕掛けがあるのです。その仕掛けが集まって、松の木という形になって現われているのです。仕掛け、仕組み、計画、組織、営みの全体が言(ことば)です。

 諸々の世界は神の言で組み立てられているとあります(ヘブル人への手紙11・3)。形の世界、色の世界、香りの世界、味の世界と諸々の世界がありますが、これは神の言によって組み立てられているのです。

 森羅万象には何万種類あるいは何億種類と言われる形と色があります。これが諸々の世界です。松の木を一本見ても、諸々の世界によって組み立てられていることが分かるのです。

 自分の常識とか妄念を取り去って、あるがままの状態で松の木一本を見ますと、そこにおのずから天地創造と神の御心が分かるようになっているのです。

 松の木一本が複合体です。万物が複合しているのです。人間の魂で見ると、松の木が松の木であることがピンと感じられるのです。松の木が松の木であることは、全く何でもないことです。当たり前すぎて分からないのです。

 イエスは「心の貧しい人たちは、幸いである、天国は彼らのものである」と言っています(マタイによる福音書5・3)。心が貧しい人と日本語で訳していますが、英訳ではthe poor in spiritとなっています。これは霊において貧しいという意味です。

 霊においてとは、物の考え方、思考方式においてということです。気持ちとか気分においてと考えてもいいのです。人間は気持ちや気分、思考方式、考え方において貧しくないのです。何か自分なりのものを持っているのです。自分の経験を基礎にするとか、自分の記憶を基礎にして考えている。

 ユダヤ人はユダヤ人の基礎がある。そういう土台で考えているのです。現象意識によるのです。世の中の動きとか今までの物の考え方はすべて現象意識によるのです。

 肉の思いに基づいて生きてきた。その経験を土台にして考えると皆嘘になるのです。「である」ことに基づいていないからです。松の木が松の木であるという基本的な問題に基づいて考えないで、第二義、第三義の状態を基礎にして考えている。

 目に見える松の木が、目に見える形にあるということは、第二義の問題です。「である」ことが集まって松の木ができているのです。

 宇宙の必然性という色々なことが複合され、松の木という状態が現わされている。ところが、現われている状態をそのまま肯定して鵜呑みにしてしまいますと、「である」ことを考えないことになるのです。松の木という現象だけを肯定していることになる。これは嘘です。

 「である」ことが松の木になっている。「である」ことが、「がある」ことになっているのです。松の木であることが基礎にならなければ、松の木があるという現象が起きるはずがないのです。ところが人間は松の木があるということだけを見ているのです。

 松の木があることだけを見ていますと、「である」ことが分からないのです。松の木があることの土台に、「である」ことがなければならないのです。「である」ことを見落として、「がある」ことばかりを見ている。これは嘘です。単なる現象意識になるのです。

 霊というのは第一義の問題です。第一義とはこれだけはどうしてもしなければならないことです。理屈をつけるとかつけないではない。そうでなければならないという絶対的な原則です。これに基づいて見れば嘘ではないのです。

 人間の行為だけを見ていると、その人が人間であるとか、見ている人が人間だとか、その人が神によって生かされているとか、宇宙が存在するから人間存在があるということを考えないのです。

 そこで、宇宙の存在原則に目をつけて物を見るという習慣を自分で養成するようにすればいいのです。

 「である」ことが、「がある」ことになっている。これが宇宙の絶対原則です。松の木であることがなければ、松の木が現われてこない。

 「である」ことと、「がある」ことが存となり在となっている。存在というのは宇宙の本性がそのまま現われているのです。これが神です。

 神の立場から主観的に言えば、I amになります。神自身の立場で言えば、that I amになります。人間の側から神を見ることになりますと、that he isになるのです。I amとhe isの関係になります。これが神です。

 I amまたはhe isが宇宙の絶対原則です。これ以上の原則はありません。I amということが絶対原則です。「である」ことが、「がある」ことになっている。これより根究の問題はありません。「である」ことの前はやはり「である」ことです。

 松の木であることの以前はやはり松の木であるのです。これが現在現われているのです。「である」ことの以前は考えられないのです。いくらドイツ観念論を振り回しても、「である」ことの以前はないのです。

 仏教では無と言います。無とは無が無であるから無があるのです。もし無が無でなかったら無であり得ないのです。

 「である」ことが絶対です。悪魔が悪であることが悪魔です。悪魔は悪魔にならねばならないように、神に仕向けられているのです。

 なぜ悪魔が悪魔になったのか。悪魔が神に反抗したからです。悪魔の心理状態が悪魔的になったのです。元は悪魔的でなかったものが、悪魔的な状態になった。その時に悪魔であることが発生した。

 悪魔自身が悪魔であることを承知した。そういう状態になった。そこで神はしかたなく彼の意識をそのまま認めて、悪魔が自分の意志を決定したのです。

 意志は、「である」ことを「がある」こととして格付けするものです。太陽であることを太陽として格付けることを名づけるというのです。

 創世記の第二章で、神はアダムがどのように動物に名づけるかを見られたのです。名づけるというのは意志の働きです。

 意志(will)は絶対です。皆様がどのような意志を持っているのか。自分の意志をどのように決定するかが、皆様自身の運命になるのです。

 悪魔でもそれを変更することはできません。悪魔は自分が悪魔であるという意志決定をした。そこで神は悪魔の意志決定を承知しなければならなくなったのです。そこで悪魔が発生したのです。

 意志は原則ではなくて機能です。原則は「である」ことです。「である」ものを「である」とするのは、その人の意志です。自分をキリストのものであると考えるのは、その人の意志です。その時に、イエス・キリストのものであるという事実になるのです。意志の決定を継続することを信仰というのです。

 人間には気分とか、気持ちとか、思考方式がいつでもあるのです。どう考えているか。どういう思いをしているかです。思い方、考え方が霊です。気分、気持ちが霊です。

 例えば信仰の霊、疑いの霊、病の霊と言います。病の霊に取り憑かれているとその人は病気になってしまいます。病の気分になるからです。病気の気とは霊のことです。

 人間の肉体にある故障が起きると、そのような気分が発生する。これはやむを得ないことです。人間の気分と肉体は不可分の関係にありますから、肉体が悪ければそういう気分になります。

 しかし気分の持ち方というのは、霊を貧しくしている場合と貧しくしていない場合とでは、気分がだいぶ違います。霊を貧しくしている人は、病も軽くすむのです。そういう人は、肉体的な気分にあまり支配されないことになるのです。

 自分の気分がまいってしまいますと、相乗作用が起きるのです。肉体的な故障と気分の故障によって、相乗作用が起きるのです。そういうことがないために、霊において貧しくするという訓練をして頂ければ、「である」という原理に立って見ることが容易になるのです。

 「霊に従いて歩む」とパウロが言っているのはそれです。肉の利害得失に捉われない、肉の善悪に捉われない、肉の喜怒哀楽に捉われないのです。喜怒哀楽、利害得失に捉われていると、「である」という原理が分からないのです。

 聖書がいう霊に従いて歩むというのは、神の御心に従って歩むことです。霊なる神に従って考えることです。これを霊の思いと言います。霊の思いは命です。霊の思いに従って見るということを皆様がされますと、誠の存在で見ることが自然に訓練されるのです。

 信仰というのは所詮訓練です。訓練する気持ちがなかったら、信仰は上達しません。訓練の仕方は霊を貧しくするということです。

 霊を貧しくするというのは、いつでも霊をからっぽにしていることです。自分の思いに捉われない習慣をつけるのです。喜怒哀楽、利害得失に捉われないように、いつでも訓練するのです。善悪の木の実を食べるなというのはこれをすることです。喜怒哀楽の感情にひっかかるなということです。

 これをいつでもしていますと、おのずから淡々たる心境で見ることができるようになるのです。言わなければならないことは、言いにくいことでもどんどん言えるのです。言ってはならないことなら忘れてしまいます。こういうことが勝手にできるのです。

 自分の気持ちに捉われて、人に十分に話しができないというのは、霊に従いて歩んでいないからです。霊が貧しくなっていないからです。子供は霊が貧しいから何でも言います。霊が貧しくなっていれば心にわだかまりがないのです。

 山上の垂訓の一番初めに、「霊において貧しい人は幸いである。天国はその人のものである」と言っています。山上の垂訓を正しく学ぶために、心を貧しくする必要があるのです。

 心を貧しくするというのは、霊を貧しくすることです。霊とは何かと言いますと、気持ちです。物の考え方です。いつでも白紙になるのです。自分の先入観で見ないのです。

 昨日まで好きではないと思っていた気持ちを変えてしまうのです。心を貧しくして、今までの自分の心に捉われない気持ちになるのです。そうすると今まで嫌いだと思っていた人に対して、割合に平然として接することができるようになるのです。気持ちがほどけてくるのです。そうすると相手の気持ちも解けてくるのです。こういう訓練を毎日するのです。そうすると魂がどんどん成長するのです。

 イエスはいつでもこれをしていたのです。私は神から出た者だと言っていた。神にいつでも定着していたのです。自分の気持ちをいつでも貧しくしていたのです。

 神から来た者とは、瞬間、瞬間神から来た者という意味です。私は生まれた時から神からという意味ではありません。いつでも、毎日、毎日神から出た者という意味です。これがイエスの心境でした。イエスはいつも神の御顔の前で生きていたのです。

 イエスは現象を実体としなかった。「である」ことを実体にしていたのです。天地が何のために造られたのか。自分が何のために生かされているのか。天地の心、天地創造の原理、人間存在の原則が、いつでもイエスの気持ちの土台でした。

 人間が人間であること、天地が天地であるという原則にイエスはいつでも立っていた。迷いがなかったのです。原則は絶対ですから変わらないのです。

 誰がどう思うと幸福も不幸もない。苦しみも楽しみもない。ただ「である」ことがあるだけです。この時初めて神の御名がはっきり見えてくるのです。

 「我はありてあるものなり」。この神の御名です。インマヌエルという神の御名、神が共にいますという神の御名です。これがはっきり見えてくる。

 そこでイエスは「私は神から来た者だ。だから私はいつもむなしくなって考えることができるのだ」と言っているのです。

 「おまえたちはそうではない。自分はユダヤ人であるとか、先祖代々の歴史があるとか、世間がこうであるとか、自分の立場があると言っている。それは全部嘘だ」と言っているのです。

 「おまえたちが習慣とか、立場を土台にして考えていることが悪魔の子である、偽りの子であることになる。だからおまえたちが考えていることは全部嘘になる」と言ったのです。

 「おまえたちは神が父であると言っても、おまえたちの心が神を父にしていないのではないか。『である』ことを見ているのか。この瞬間、本当にむなしくなって見ているのか。それができないからおまえたちが言っていることは嘘だ」と言っているのです。

 シュワリーゴッド(surely God)といくら頭で言ってもだめです。生活にシュワリーが出てこなければいけないのです。

 人間の心臓が動いていることが絶対的な事実です。間違いない事実です。これしかないという事実です。これが神です。

 本当の事実、真実に立って考えますと、わだかまりがなくなるのです。生まれながらの赤ちゃんの心境になれるのです。そうしたら神がありありと分かるのです。

     (内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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