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命の実物

 現在の政治家は、この世の生活のことしか考えていません。本当の政治というのは、日本的に言いますとまつりごとということです。まつりごとというのは、人間の生活が御霊(みたま)の働きになっているということを示しているのです。

 神の約束とか、神の御名ということが、日本人には全然分かっていない。キリスト教でも分かっていないのです。神の実体とは何であるかということが分かっていないのです。

 キリスト教では、宗教観念ばかりをふり回しているのです。神の実物が分からないから、命の実物も分からないのです。キリストの実物も分からないのです。第三の天にキリストがおられると聖書に書いていますが、第三の天とはどこに、どのようにあるのか。キリストは、そこでどのようにしているのか。そういうことがキリスト教では説明されていないのです。 

 イエス・キリストと、現在地球上に生きている人間とが、どのようにつながっているのかということが、分かっていないのです。これがキリスト教というものなのです。

 イエス・キリストは、キリスト教のご開祖ではありません。イエスは、宗教家に殺されたのです。宗教家に殺されたイエスを、今の宗教家は拝んでいるのです。

 今、もしイエスがやってきたら、世界中のキリスト教はたたきつぶされるでしょう。釈尊も同じなのです。もう一度釈尊がやってきたら、現在の仏教はたたきつぶされるでしょう。

 宗教は、そんなものなのです。全くいんちきなのです。皆様は、宗教を勉強するのではなく、本当の命の実物を勉強して頂きたいのです。

 命の実物は何かということを端的に言いますと、皆様の五官です。目、耳、鼻、口、手です。これが一体何をしているのかということです。

 皆様は手でさわっていながら、耳で音を聞いていながら、音とは何か、味とは何か、色とは何か、形とは何かということが分かっていない。だから死んでいくのです。

 まず、今までの皆様の常識、学問が間違っていることをはっきり知って下さい。人間はすべて、無明によって死んでいるのです。罪によって死んでいるのです。罪の価は死であると聖書に書いています。キリスト教的に言えば罪です。仏教的に言えば無明です。無明とか罪によって、人間はもう死んでしまっているのです。

 まず、死んでしまっている人間であることを悟って頂きたい。そうすると生き返るのです。自分の魂が死んでいることを悟れば、生き返るのです。悟らなければ、死んだままになるのです。

 既に皆様方の魂は死んでいるのですから、命とは何かということを勉強して頂ければよいのです。

 これはどうしてもしなければならないことなのです。しなければならないことをしなければ、ひどいめにあいます。

 皆様は、神が分かるだけの能力を持っているのです。能力を持っていながら、目で何を見ているか、耳で何を聞いているかをご存じないのです。これが死んでいる証拠です。本当のことをいえばこうなるのです。

 死ぬのがいやでしたら、本当の命を見つけて下さい。命を見つけることが、人生の一番大きな仕事なのです。しなければならない事は、働くことではありません。お金もうけをすることでもありません。結婚することでもありません。命を見つけることが人生の目的でありまして、商売や生活は付録です。付録の方に一所懸命にならないで、本職の方を考えて頂きたいのです。

 命の本質を掴まえることはできるのです。人間は生まれた時に死なない命を持っていたのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、物心(ものごころ)に関係なく、本当の命を持っているのです。

 物心は五蘊であって、この世の常識なのです。この世の常識を持たされてから、人間はこの世の命に取りつかれてしまったのです。この世の命は、死ぬに決まっている命なのです。

 ところが、生まれたばかりの赤ちゃんは、死なない命を持っているのです。なぜかと言いますと、物心にとりつかれていないからです。

 もし人間が大人になってから、物心の悪さが分かって、五蘊皆空を実行しますと、物心に関係なく生活することができるのです。

 そうすると、大人の知識を持っていながら、死なない命を掴まえることができるのです。生まれながらの赤ちゃんに帰ればいいのです。それだけのことなのです。

 例えば花を見てきれいと考えます。その直感は誰にでもあります。これが生まれながらの命なのです。ところが、その直感が自分の命にどういう関係があるか全然分からなくなっている。これが物心の悪さなのです。

 人間は花を見ればきれいに見える。おいしいものを食べればおいしいと感じます。おいしいとか、美しいとかいうことが、そのまま命の本質に通じているのです。

 霊魂の本質は、生まれながらのものであって、五官の働きが魂の実体なのです。

 花を見てきれいだと思うことを、聖書ではキリストの言葉と言っているのです。楽しいこと、美しいこと、おいしいことが、キリストの言葉なのです。これを良き訪れというのです。

 生まれながらの赤ちゃんは、長き訪れを素直に受け取るのです。これに気がつけば、常識がどれほど間違ったものかが分かるのです。これが分かると、霊魂の目が開くのです。これが、命を掴まえる方法なのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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