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命の周波数

 人間は理性を持って生きています。理性を持って生きているということは、理性を正しく活用すれば、命の実質を弁えることが、十分にできるということです。

 例えば、花を見ているとします。人は、花の形を見ます。目に映るのは、形です。ところが、形を見ていると思わないで、美しいと感じます。美しいとは、目に見えないことなのです。目に見えるのは、形なのです。色です。

 人は、なぜ花を見たいのかというと、美しいから見るのです。そうしますと、目に映っている感覚と、心に映っている物とは、違うのです。

 黄色の花があるとします。黄色に見えるというのは、黄色ではないから、黄色に見えるのです。

 なぜ、花が黄色かと言いますと、黄色を拒んでいるのです。黄色を拒絶している。黄色をはねかえしている。はねかえった色だけが、目に映っているのです。これは、以前、NHKの教育テレビで詳しく説明していましたが、人間の目に映っている色、赤い色は赤くないから赤く見えるのです。黒と白だけは別ですが、それ以外の色は、こうなっているのです。

 そのように、人間の肉体関係は、般若心経に書いていますように、一切顚倒夢想しているのです。

 人間が現世で考えている感覚、知識は、全部ひっくりかえっているのです。ちょうど、写真のネガフィルムのように、白いものは、黒く映るのです。これをもう一度焼きますと、黒いものが黒くなるのです。人間の肉体感覚は、一応、ネガフィルムと同じような働きをしているのです。現在はほとんどデジタルカメラですから、フィルムを使用していませんが、昔のアナログカメラはフィルムを使用していたのです。

 人間の常識は、肉の思いであって、常識をそのまま信じてしまいますと、全部死んでしまうのです。

 本当に、赤くないものを赤く思い、黒くないものを黒いと思って信じている。だから、何のために生きているのか、生きているとは何をしているのか、さっぱり分からないのです。これが、人間が死んでいる証拠なのです。

 魂が、正常に働いていない。魂が、あるべき姿を、はっきり見ていないのです。見ていないということは、魂がゆがめられているということです。これを仏教で言いますと、業(ごう)というのです。

 この世に人間が生まれてきたのは、業なのです。業を果さなければ、人間の本当の救いはありません。業を果すことは、できるのです。

 理性は、業を果す力を、十分に持っているのです。家庭教育とか、学校教育、社会教育が、皆、間違っているのです。人間が考えて、人間の方針に従って、教育をしているのですが、人間の方針というのは、全部死んでいる人間の方針なのです。死んでいる人間の考え方で、死んでいる人間を、教育しているのです。盲人が、盲人の手引きをしているのと、同じことなのです。それを、全世界の人間がしているのです。

 現在の日本では本当の命のことを考える人も、教える人もいないのです。生きていながら命が分からないというのは、それであって、魂が死んでいるとは、自我を本当の自分だと思っていることなのです。自我意識は、嘘なのです。それは自分ではないのです。自分はいないのです。

 人間は誰も、自分が生まれたいと思って、生まれてきた人はありません。生まれたいと思わないのに、生まれてきた。従って、自分は、初めからいないのです。

 そのように、現在の人間は、夢のような思いを抱いて、生きているのです。夢のような思いを抱くことを、遠離してしまうこと、人間の意識から遠く離れてしまって、本当のことを見るのが、般若心経の空です。

 現在の人間は、常識、知識を信じています。物質があると人間は思っていますが、物質は存在しないのです。宇宙には、いのちがあります。いのちは、生命と言いまして、生(せい)のいのちと、命(めい)があります。生とは、いのちそのものの、本来のあり方、例えば、太陽が輝いていることです。温度において、又、エネルギーにおいて、光において、いのちが現われているのです。

 日本人は簡単に、お天とうさんと言っていますが、これは永遠無窮の、周波数の本源なのです。

 人のいのちは、物理的に言えば、周波数によってできています。思いは、周波数なのです。思いを変えると、周波数が変わるのです。

 命とは人間がこの世に生きていることです。生とは、命の本質です。地球が、自転、公転しているエネルギー、太陽が輝いているエネルギー、空気が流れているエネルギーが、生なのです。

 人間は、命を経験しています。命を経験することによって、生を掴まえるのです。そうすると、死ななくなるのです。

 人間は、今、命という周波数を経験しています。これが人間の思いですが、般若心経によって、人間の思いを空じてしまうこと、聖書によって、神の命を経験すること、この二つを実行しますと、今まで生きてきた自分の気持ちが、変ってしまうのです。周波数が変化するのです。

 周波数が変ると、命が変るのです。その証拠に、イエスは死を破ったのです。イエスの復活は、彼自身の思想によって、自分の命を、別の命にしてしまったのです。

 イエスが、どういう方法でそれをしたかということは、聖書を勉強すれば分かるのです。自分が今まで生きてきた命ではない命が、はっきり分かるのです。

 イエスが復活したのは、歴史的事実であって、イエスが復活したことによって、人間は死なないものになったのです。

 すべての人は、死なない命を持っているのです。しかし、人間は、それを受けとっていない。自分の思いをかえないから、死なない命が現在ありながら、それが分からないのです。これは愚かなことです。だから、死んでいくのです。

 復活の命が、すべての人に、与えられているのです。人間は死なないものだということが、歴史的に決定してから、二〇〇〇年以上になるのです。二〇〇〇年も前に、人間は死ななくなっているのです。それを、人間は知ろうとしないのです。

 日本人は、仏教徒だと思っている。しかし、仏教の本体は、空なのです。空を悟ることが、釈尊の悟りなのです。

 釈尊は、一切空とはっきり言っています。明けの明星を見たことによって、そういえることになったのですが、空ということも、イエス・キリストが分からなければ、分からないのです。

 命には、意志があります。ウィル(will)です。ウィルがワード(word)を生んだのです。ウィルとワードとは同じものなのです。ところが、二面性がはっきりあるのです。神の言葉が、理性として現われているのです。だから、自分の理性を、冷静に平明に用いれば、理性が永遠の命を知る力があることが、分かるのです。

 人間の理性は、神の言葉と同じ本質を持っている。これが、神にかたどって人を造ったということになるのです。太陽が輝いているという神のエネルギーを、理性で分解することができるのです。

 このように、人間は、神の実物を、理性で捉えることができるのです。人間の人格は、神の人格と本質的に同じものなのです。だから、死なない命を見つけ出すことは、十分できるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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