top of page

RECENT POSTS: 

FOLLOW ME:

  • Facebook Clean Grey
  • Twitter Clean Grey
  • Instagram Clean Grey

はじめに

 新約聖書に次のような譬話があります。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物を皆売り払い、そして、その畑を買うのである」(マタイによる福音書13・44)。

 人生は宝捜しです。ある人は恋人という宝を捜すでしょう。またある人は社長という宝を捜し、ある人は国会議員、総理大臣、大統領という宝を捜すでしょう。そういう宝ものは、苦労して得ても、死ぬと同時になくなってしまうものです。

 本当の宝とは何であるのか。死んでもなくならないもの、永遠に続くもので、それが地球と人間の中に隠されているのです。その掘り出し方の前半分を釈尊が発見し、後半分をイエス・キリストが発見しました。私たちもこの両者の教えに忠実に従えば、世界でたった一つの宝もの、すなわち永遠の生命の実物を手にすることができるのです。

 皆様が現在生きていらっしゃる命は、死ななければならない命です。人間は死ななければならないことが分かっていながら、死ななければならない命を自分の命だと思い込んでいるのです。

 なぜそういう愚かなことをしているのでしょうか。死ぬか死なないか分からない。ひょっとしたら、死ぬかもしれない。また、死なないかもしれないというのでしたら、現在生きている命を自分の命だと思っていれば、まぐれあたりに死なないようになるかもしれません。

 ところが、皆様が今生きていらっしゃる命は、百人が百人、千人が千人共、必ず死ぬに決まっている命です。そのことはよくご存知です。ご存知ですが、そういう生き方をやめようとしません。なぜやめようとしないのでしょうか。

 人間は自分が生きていると考えて、自分の命があると考えています。なぜ自分の命があると考えるのでしょうか。自分の命は一体どこにあるのでしょうか。

 命は天地宇宙の本質です。万物の本質が命です。人間の本質はそのまま宇宙の本質に通じているのです。

 自分の理屈、自分の立場、自分の記憶、自分の都合、自分の常識を棚上げにするような気持ちがあれば、死なない命を見つけることは何でもないのです。ただそれだけのことです。自分の理屈や自分の言い分を棚上げにしないで、自分が生きていると考える。だから、死んでしまうのです。

 皆様は自分の命を、自分で裏切っているのです。せっかく死なない命を持っていながら、自分が生きていると思っているために、それを踏みにじっているのです。自分が生きていると思っているだけで、人間は百%死んでしまうことになるのです。そういう愚かなことをやめさえすればいいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

bottom of page