top of page

RECENT POSTS: 

FOLLOW ME:

  • Facebook Clean Grey
  • Twitter Clean Grey
  • Instagram Clean Grey

仏教と仏法

 東洋人の世界観は悟りを中心にしています。悟りというのは、現世に生きている人間を、初めから無条件で認めて、その人間が悟ること、知ることが仏教の認識になっています。

 中国の儒教でも、初めからこの世で人間が生活していることが、前提になっているのです。人間がいることを初めから規定してしまっている。人間が存在することについて、疑いを持とうとしていないのです。

 孔子も「我未だ生を知らず、いわんや死においておや」という無責任な言い方をしているのです。つまり生きていることを知ることで、精一杯で、生活すること、世間並に生きることが、儒教の精神です。仏教も同様です。

 ところが、釈尊はそうではない。釈尊は現世に生きている人間の存在が空であると言っています。人間がいることがいいとか悪いとか、悟るとか悟らないというのが問題ではなくて、現世に人間がいること自体が空である。地球があることが空なのだ、現象世界が空なのだと言っている。

 色即是空というのは、森羅万象があることが空なのだと言っているのです。これは人間の生き方がいいとか悪いとかいう、儒教の精神とは全然違うのです。現在の仏教にはその精神はありません。

 日蓮宗では人間が現世に生きること、立派な社会を造ること、立派に生きることを、すばらしいことのように考えています。日蓮の思想はそういう思想なのです。だから政党ができるのです。

 ところが釈尊は、人間が現世に生きていることが空だと言っているのです。これが究竟涅槃です。

 五蘊皆空とは、人間の五官の感覚が空だと言っている。人間がどんな政治をしても、どれだけ利口であっても、人間が生きていることが空だと言いたいのです。これが般若心経の思想です。

 日本の仏教には、そういう思想がありません。日本の仏教は、人間の存在を認めているのです。人間が幸福になることが、仏教の精神であるかのように考えています。これが仏教です。人間が仏になることが、仏教の精神になっているのです。

 釈尊は人間が仏になろうが、悪魔になろうが、人間がいることが空だと言っている。これが釈尊の悟りです。般若心経はそれを言っているのです。

 般若心経の本当の精神は、未だかつて日本で説かれたことがないのです。日本は仏教国だと言いますけれど、般若心経を知らないのです。

 般若心経の本当の精神は、現世に人間が生きていることに対して、疑問符をはっきりつきつけているのです。人間が生きていることに対して、疑問を投げつけている。こういう思想は日本の仏教にはありません。どの宗派にもありません。

 釈尊の思想は、現世があること、地球があること、人間が生きていることが、空だと言っているのです。これが一見明星の思想です。

 釈尊の大哲学は、日本には正当に伝わってきていません。釈尊の流れをくんでいる人たちが、釈尊の思想がさっぱり分からないのです。それを日本的に理解して、日本的に説いている。これが日本の仏教です。これは仏法ではなくて仏教です。

 釈尊が説いたのは仏法です。仏法というのは、地球があること、人間が生きていることが空だということです。

 皆様が生きておいでになるその命は、間違いなく死ななければならない命です。死ぬに決まっている命です。釈尊はそれを言っているのです。死ななければならない命に生きている皆様は、何をしているのか、釈尊はこれを言いたいのです。

 皆様が今現在生きておいでになるその命は、死ななければならないに決まっている命です。皆様が現在物事を認識しておいでになるその認識のしかたは、学問でも、常識でも、伝統的な記録にしろ、人間の考えは一切死んでしまうに決まっている人間の意識です。それを承知して頂きたいのです。善も悪もどちらも死ぬのです。このことを真面目にお考えにならなければ、聖書を本当に勉強することはできません。

 聖書を本当に勉強するというのは、現世に生きている皆様方自身が空であることを、正当に正確に認識した後でなければ、聖書の本当の勉強、イエスがキリストであることは分かりません。

 キリスト教はこれを言わないのです。人間存在が空であることを、キリスト教は一切言いません。キリスト教は欧米人の宗教であって、欧米人は人間が空であるという思想を、非常に嫌がるのです。人間が空であるとは、一切考えていません。アメリカ人でもイギリス人でも、現世のこと以外は、考えないのが彼らの世界観です。

 欧米人の世界観が、現代の文明を造っているのです。現代文明に関する限り、学問でも常識でも、現世に生きていることばかりを考えているのです。

 ところが聖書は、「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)と言っています。何のために悔い改めるのかと言いますと、時は満ちた、神の国は近づいたからです。

 神の国が近づいたと、イエスが伝道を始める時に言ったのです。イエスが十字架につけられて復活した今日では、現実に神の国が来ているのです。

 日曜日はイエスの復活記念日であって、イエスが復活したことによって、キリスト紀元が世界歴史の暦年算定の基準になっています。これが分からないのです。

 キリスト紀元というのは、人間が死ななくなったので、イエス・キリストの生誕を人間歴史の機軸にしたのです。暦年算定の基礎にしたのです。これが西暦です。従って、西暦紀元というのは、イエス・キリストが復活したことをふまえて、成立しているのです。

 イエス・キリストが復活したことは、人間が死ななくなったことを、前提にしているのです。

 死んでしまうようなものは、人間ではありません。死なないことを自覚するのが人間です。これがキリスト紀元の原点です。

 キリスト紀元になって、もう二千年以上になりますが、未だに人間が死んでいくのです。ところが、人間は死ぬのが当たり前だと思っています。神の処置、歴史の流れと、人間の常識とはこれほど違うのです。

 歴史の流れでは、キリスト紀元になっています。キリスト紀元というのは、キリストの復活をふまえて成り立っているのです。キリストの復活をふまえて成り立っているとすれば、キリストの復活が人間の命の原点でなければならないのです。

 ところが、今の人間は死ぬのが当たり前だと思っている。こういう点から、皆様の常識の基本原理を、入れ替える必要があるのです。

 死んでしまうのは、皆様が西暦紀元を全く認めていないからです。皆様が生きておいでになる社会は、客観的に西暦紀元を認めていますけれど、個々の人間の常識としては、西暦紀元の本質を全く認めようとしていません。こういう点から、考え方を根本的に入れ替えるつもりでなかったら、般若心経や聖書の勉強は、ただの遊び事になるのです。

 皆様は死なない命を本当に掴まえたいというお気持ちがあるのでしょうか。これをまずお考え頂きたい。死なない命を掴まえようとするお気持ちが、本当にあるかどうかです。

 私は皆様に、どうしても死なない命を掴まえて頂きたいと願っているから、こういうことを言わなければならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

bottom of page