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復活

この世の快楽ということは、気持ちが脱線しているために、現世の快楽に魅力を感じるのです。自分の気持ちが肉の思いにとりつかれて、現世の快楽が非常に価値があるように思われるのです。と言って、私が禁欲主義でなければならないと言うのではありません。

人間が生きている以上、肉体的なものが存在します。肉体的なものが存在する以上、性欲とか食欲とか言うものがあるのが当り前のことです。聖書もこのことにつきましてはっきり言っていますが、結婚を禁じているのではありません。

五官又は、六官というものが魂の状態です。生理機能と心理機能が命そのものなので

す。肉体人間がいるのではなく、肉体人間という形で生理機能と心理機能があることが、人間存在の実体なのです。

人間存在の実体をはっきり見ていけば、今まで考えていない自分が見えてくるはずなのです。これは、誰にも簡単に分からないことなのです。もし、簡単に分かれば、イエスが十字架にかかる必要はなかったのです。

人間は、誰も自分で生れたいと思って生れて来たのではありません。従って、自分の意志によって生きているのは間違いです。自我意識が、現世に遍満しているサタンの本体だと言っても良い位なのです。悪魔の本拠地だと言っても良いのです。

自我という意識は完全に間違っています。それから脱却することが必要でありまして、イエス・キリストの十字架という問題は、それから抜け出すために、是非通らなければならない問題なのです。

イエス・キリストと共に十字架につけられることが、新約聖書の非常に大きな命題になっています。一人の人がすべての人に代わって死んだことは、すべての人が死んだことだと、パウロは断言しているのです。つまり人間は生きていないのです。

もしあなたが、イエス・キリストの十字架を信じられるとすれば、このことがはっきり分かるのです。新約聖書には、こういう秘密のような所がありまして、こういうことをご理解なされば、自分自身の思想を根本的に転換することは可能なのです。こういうことをお考え頂きたいのです。

私の言っていることが絶対だと言うのではありませんが、イエスが復活したという事実が絶対なのです。

死を破って復活したのは、イエス以外にはないのです。釈尊でも復活していません。マホメットも孔子も、皆死んでいるのです。

日曜日はイエスの復活を記念する日なのです。日曜日に休むのは、イエスの復活を記念しているのです。現在では、世界中の人間が復活を記念しているのです。そういう意識があってもなくても、とにかく日曜日に休んでいるのです。そういう世界的な事実があるのです。

イエスが復活したことは、歴史的な事実なのです。ただ聖書に書いてあるとか、自分が信じているとか言うことではなく、客観的な事実なのです。客観的な事実を、お受け取りになることが必要なのです。

その前にどうしても必要な事は、現在の人間の思想から抜け出すことです。そのために、色即是空の思想が必要になって来るのです。

今は、色々な思想がたくさんあります。しかし、死を破ったというのは、イエス以外にはありません。私は、大学の先生達に、なぜイエスの復活の研究をしないのかと言うのです。イエスの復活はただの一例だから、学の対象にするのは困ると言うのです。私は、ただの一例ではありますけれども、西暦紀元の基ですから、学の対象にする必要があるのではないかと言うのです。

イエスが、死を破って復活したことを、世界の歴史が認めていますから。これをなぜ学の対象にしないのかということです。現在の大学は、勇気を持っていないのです。

今の文明は、人間の命を考えていません。ルネッサンス以降の文明は、はっきり間違っています。命が人間にとって一番大事な事であるのに、一番大事な事を文明は取り上げようとしていないのです。

医者は病気を治す事には熱心ですが、命には全然責任を持とうとしないのです。こういう間違った意識が文明意識ですから、このような感覚を信じてはならないのです。思想とか主義とか言うものは、その人の精神から出た排泄物なのです。私達は、他人の排泄物を信じる必要はありません。生きているという事実を信じればいいのです。

生きているという事実、心理機能と生理機能を見るのです。これが実はイエスということです。これが分かれば、永遠の生命の実体が分かるのです。

これを聖書では、イエスの名、イエスの御名(みな)と言っているのです。イエスの名が分かればいいのです。そうすると神の子となるのです。これは、聖書をよく読んでいけば分かるのです。

復活についてもう少しふれておきますと、これは自然科学の根本原理からみても、充分説明できることです。新約聖書でパウロが、ダマスコ門外で太陽よりも明るい光を見て、盲になったと書いていますが、宇宙に新しい光の原理が生れたという、はっきりした事実があるのです。

パウロの経験から考えまして、新約聖書の提供する自然科学のスケールをご存じないと、イエスの復活がもう一つ信じられないことかも知れません。

新約聖書が私達に教えようとしているスケールは、全くすばらしいものです。現在の地球が存在すること自体が、仮の姿だと言っているのです。

神の国は、悠遠無双であると思いますが、なぜそれが分からないかと申しますと、生れる前の人生を知らないからなのです。

人間には生れる前の人生があったのです。これはいわゆる輪廻転生というものではありません。そして、現在の人生があり、それから、死んでから後の人生があるのです。

生れてきたというのは、どこかから生れて来たのです。死んで行くというのは、どこかへ行くことなのです。過去生と現生と未来生の三つをワンセットにしたものが、本当の人生なのです。

現世だけの人生をあまり思いつめると、生きていることがばからしくなります。人生、生きるに価せずということになってくるのです。

現世だけを人生だと考えますと、さっぱり訳が分からなくなるのです。何のために生れて来たのか、何のために生きているのか、又、死んだ後にどうなるのか。こういうことが全然分かっていないのです。

地球は、森羅万象という生命体によってできています。生命体が充満しているのです。つまり、地球そのものが生き物なのです。地球から生れてくる物は、全部生きているのです。植物でも、動物でも、地球から生れてくる物は全部生きているのです。これは、地球自身が生き物だからなのです。

宇宙でこういう現象は、地球だけなのです。地球以外の星は、皆死んでいるのです。地球だけになぜこのような特異現象があるのか。銀河系の宇宙にも、生き物が満載されている星はないでしょう。そうしますと、なぜ地球だけにこういう特殊現象があるのかという問題なのです。

こういうことが新約聖書の重要な問題でありまして、そういうスケールで物を考えますと、人生は、過去、現在、未来全体を貫いているものであることが分かるのです。

この地球上に、やがて人が一人も住まなくなる時代が来るに決まっていますが、その時地球は一体どうなるか。だいたい宇宙とは一体何であるか。神が天地を創造したのは何を造ったのかということなのです。

こういう根本的なことが分からないと、本当のことが分かりません。もっとスケールを大きくなさいますと、このことがはっきり分かってくると思いますが、キリスト教ではここまでつっこんで話をしないのです。

仏教でも、本当の空が分かっている坊さんは少ないと思います。例えば、色即是空は分かるのです。現在存在する物質が空であることは、自然科学でも、理論物理学でも分かることなのですが、空即是色が分からない。

もし現象が空であるとすれば、空であるものがなぜ現象として現われているかということなのです。空即是色が説明出来ないのです。

そういう訳でありまして、宗教界の人々は一つの概念にとりつかれているのです。私のようなことを言っていましたら、宗教は商売にならないのです。

本当の事を言うと、人はめったに聞きません。嘘を言いますと、多くの人が聞くのです。世の中はこのようにインチキなのですが、本当に人生を考えている人はめったにいないのです。やはり自分がこの世で幸福になることばかりを考えているのです。

幸福につきましても、人間はとんでもない考え違いをしていることがあるのです。死んでからも人生があるのですから、どうぞ現世だけが人生だとお考えにならないで、もっと大きいスケールでものを考えて頂くことが必要です。

イエスはその点において模範的な世界観、価値観を私達に提供してくれたのですが、イエスの世界観、価値観をあなたご自身のものになさることです。そうすれば、本当の喜びが分かってくるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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