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霊魂の審判

 かつて京都南禅寺の勝平宗徹管長が首を吊って死にました。南禅寺は京都五山の上におかれる日本の臨済宗の中の最も高い格式を持つ禅寺ですが、ここの管長が首を吊って死んでしまったのです。

 この人は職務として管長という地位を預かっていただけではなくて、雲水坊主に允可証明を与えていたのです。学者としても一流の人物でした。宗教家としても学者としても一流の人物である人が首を吊って死んでしまったのです。

 これはどういうことなのか。霊が分からなかったから死んだのです。霊が分かっていれば、自分で首を吊ることができないはずです。

 人間がいくら悟りを開いても、いくらたくさんの学校へ行っても、博士になろうが学者になろうが、管長になろうが、霊が分からないのです。

 これは現代文明の正体をよくご存知ないので霊が分からないのです。現代文明は非常に悪いものです。現代文明にかぶれている人は、現代文明を賛美するでしょう。現代文明のおかげで生活している人、例えば学校の教師とか、政治家、学者、俳優、テレビのコメンテーター、評論家、ジャーナリストたちは文明を賛美するでしょう。

 しかし、真面目に生きようと考えている人は、現代の文明に何か訳が分からないものがあることを感じない訳にはいかないはずです。

 文明は人間を生かして魂を殺しているのです。これが現代文明の非常に悪い点です。今の人間に魂が分からないのです。宗教家も分からないのです。

 仏教には魂という文字がありません。魂という字が仏典にはありませんから説明のしようがないのです。新約聖書には魂という文字がたくさんありますが、キリスト教の牧師は分からないのです。

 キリスト教の牧師はキリスト教の教義を勉強していますが、聖書そのものを勉強していませんから、魂という言葉の実体を現実的に説明することができないのです。

 宗教、学問を含めて現代の文明が人間を生かしてはいるが、魂を殺しているのです。これは重大な問題です。霊が分からない、魂が分からないということは、非常に重大な問題です。これは人間の本質について盲目になっているということです。

 霊が分からないということは、自分の本心が盲目になっているということです。本心というのは本当の願いです。これは本願と言ってもいいのです。人間の心は現在この世で生活していることに満足していません。いくらお金を儲けても、財産を造っても、そんなことくらいでは、人間の本心のどん底に安心がある訳ではないのです。

 現在の人間は生活主義で生きているのです。文明は人間の生活だけを考えているのです。生活主義の文明は政治、経済の面において、人間の生活の向上について一生懸命になっています。生活のことばかりを考えているのです。

 学校で教えていることは、人間の生活のことばかりです。社会に役立つ人間だけを養成しているのです。

生活主義と生命主義

 今の学問が悪いのです。人間文明には二つの傾向があるのです。生活主義の文明と生命主義の文明とがあるのです。現代文明は生活主義ばかりに熱中しているのです。

 現代の大学で教えているものは専門学ばかりです。専門というと上等のように聞こえるのですが、専門的というのは部分的ということです。

 例えば建築のことは建築の専門家が勉強しているのです。これは部分的かつ生活主義的ということです。この世で人間の生活が役立つことばかりを勉強しているのです。これが専門学です。

 現代文明は生活的に非常に進歩しているのですが、生命のことが留守になっているのです。今の人間は生活することに一生懸命で自分の命のことを考えるのは、ほとんど不可能です。

 「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、とにかく生活に追われているようでは、とても仏典の勉強とか聖書の勉強はできません。衣食が足りて生活が安定したら般若心経と聖書の勉強をしようとなるのです。衣食が足るということは結構なことですけれど、この言葉は孔子の時代なら言えたかもしれませんが、現代人はそうはならないのです。

 今の人は満足ということを知らないのです。お金はいくらでも欲しいし、財産も欲しいのです。衣食足るということがないのです。

 現在の人間は欲望主義で生きているのです。欲望の満足が人間の幸福だと考えているのです。口に出してこういうことをいう人はいませんが、腹の底ではこのように考えているのです。これが現代人の生活の原理になっているのです。これをユダヤ主義というのです。

 欲望の満足は人間の幸福であるというのは、レーニンの言葉です。レーニンというユダヤ人が、こういうことを堂々と言っているのです。人間の幸福は欲望の満足であるというのはレーニンの有名な言葉です。

 現代人は自分が賛成するかしないかに係わらず、生活主義の文明に引きずり込まれてしまっているのです。大学では生活主義以外の学を教えていないからです。だから人間は学問をすればするほど、生活主義的な生き方をするに決まっているのです。そうして大学を出た人々が社会の指導者になっている。だから生活一辺倒の社会になるに決まっているのです。

 命のことを全然考えていません。生活の中で命を考えるということは、全くできないのです。魂ということを全く考えずに生きているのです。

 文明は魂を殺しているのです。文明は人間無視をしているのです。魂を殺しているからです。人間と魂とは違います。どう違うかということです。

全体学

 例えば、皆様が椅子に座っています。私は話をしています。これを常識で見たら人間の行為になるのです。現在の学問で考えたら人間の行動です。ところが専門学ではなく全体学という見方があるのです。例えば孔子、孟子、老子と言った人々、あるいは釈尊の見方は、いわゆる先哲賢人と言われた人々の考えは、専門学ではなかったのです。全体学で考えていたのです。

 全体学というのは、人間の霊魂のあり方を根本から考えるという態度を含んでいたのです。

 人間はなぜこの世に生まれてきたのかというようなこと、私とはどういう人間なのか。何をすることが人生の目的なのか。こういうことを勉強するのが全体学です。その中にはおのずから科学的な分野がありますし、政治的、経済的なこともあります。法律的なこともあるのです。

 人間は現世に生きていることだけが目的ではないのです。人間の目的は現世にいる人間の目的です。ところが人間存在は現世に生きていることだけではないのです。死んでからというのがあるのです。生まれる前もあったのです。

 生まれる前があって現在の命があるのです。生まれてきたというのはどこかから来たのです。死んでいくというのはどこかへ行くのです。生まれてきた、死んでいくという考え方で人生を見るのです。これが全体学です。

 ところが現世における生活だけを幸福にしようと考えると、文明の生き方になるのです。現代文明はこの世に生きている人間の生活だけを盛り上げるのです。これが白人文明の最も悪い点です。物質文明の最も悪い所です。

 生活することはもちろん必要です。私は生活はどうでもいいと言っているのではありません。生活することは必要ですが、生活するということは、自分自身を完成するために必要です。

 ところが現代文明は白人文明に捉われてしまっている。白人文明を指導しているのがユダヤ人です。だから近世文明と中世文明が全然違ったものになっているのです。

 日本も徳川幕府以前の日本と現在の日本とでは全然違ったものになっているのです。徳川幕府以前の日本は全体学を学んでいたのです。全体学を基礎にして科学を勉強するとか、法律を勉強するとかいうことをしていたのです。

 全体学という素養があれば、科学も哲学も政治学もおのずから分かってくるのです。全体学をしっかり勉強しないで根本的な学識をつけないままで専門学だけを勉強する。そこで人間が皆おかしくなってしまっているのです。

 魂が全く分からない人間になってしまっているのです。常識で考えますと、こうして話をしている人を見ると、人間になるのです。常識とは何かと言いますと、般若心経で言う五蘊です。

 人間は目で見たとおりのものがあると考えている。これが色蘊です。目で見たことが原理になって、それをどのように受け取り、どのように思うか、どのように生活するかが、受想行識になっている。これが五蘊です。

 五蘊が皆間違っているのです。般若心経はこれを言っているのです。般若心経の思想を全体学というのです。

 全体学から考えて皆様の命は何であるのか。命とはどういうものかを考えるのです。全体学を勉強しますと、人間の命に対する素養がおのずからできるのです。

 自分は何のために生きているのかということを真面目にお考えになりますと、こうして話していることが人間ではなくて魂だということが分かってくるのです。見方が変わってくるのです。

 例えば花をご覧になるとします。前から見るのと、後ろから見るのとでは、全然違っているのです。そのように一本の花でも見る位置によって形が違います。人間が生きているということでも、見方によって違って見えてくるのです。

 常識で考えるとただの人間です。ところが現代学ではなくて人間の命を考える考え方で見ますと、人間ではなくて魂になるのです。皆様が椅子に座っていらっしゃるということが魂です。目が見えるということ、耳が聞こえることが魂です。考えたり、字を書いたりしていることが魂です。

 魂として自分を見るのと、世間並みの人間として自分を見るのとでは、命についての見方が全然違ってくるのです。

 ただの人間だという見方は後ろから見ているのです。魂という見方は前から見ているのです。前から見るのと後ろから見るのとでは違っているのです。

 現在のユダヤ人の中に、自分たちの考えが間違っていると思っている人が相当いるようです。ですから、現代文明は遠からず非常に大きい変化があると思いますけれど、とにかく現代文明のあり方は根本から間違っているのです。だから核兵器がのさばっているのです。

 共産主義と自由主義はいつも喧嘩をしていますが、これはイデオロギーの喧嘩です。ただ趣味の喧嘩にすぎないのです。この喧嘩によって核戦争が起きて、全世界が亡んでしまうようなばかばかしいことをしているのです。

 これが現代文明の悪さです。この世に生きることだけが人間の目的だと考えているのです。人間はこの世に生きることが目的です。しかし魂はそうではないのです。

 目で見たままの姿は人間ですが、生きているという事がらがあるのです。生きているという事がらは霊魂です。目で見たままの人間を人間として取り上げるか、生きているという事がらを人間として見るかです。善悪利害を判断して、愛とか恋とか言って生活している。これは何者かです。

 これはきれいだとか、美しい、おいしいおいしくないと考えている。花を見て美しいと言いますが、美しいとはどういうことかです。これが説明できないのです。魂として見ているから美しいと思うのです。魂が働いているから花が美しいことが分かるのです。

 美しいというのは人間の判断では分からないのです。科学では説明できないのです。おいしい、美しいということは科学では説明できません。これが分かることを霊というのです。

 皆様の生活の中心は何かと言いますと、美しいものを見たい、おいしいものを食べたい、楽しく生きたいと考えているのです。楽しいということは科学では説明できません。哲学でも説明ができないのです。霊でなければ説明ができないのです。

 皆様が生きているということが霊です。これをザ・リビング(the living)と言います。ただのリビングではなくて、ザ・リビングです。ザ・リビングというのは今生きていることの実体です。これが霊です。

ユダヤ主義

 これは難しいことではないのです。ちょっと目を開いて全体学の立場から考えるのです。現代文明のユダヤ主義ではなくて、人間存在を全体学から深く考えますと、初めて生命が分かってくるのです。

 生活がなければ生命は分かりません。生活することは結構ですけれど、生活することだけを目的にしてはいけないのです。生活することにおいて命を考えるのです。これができなければ何のために暮らしているのか分からないのです。何のために生活しているのか分からないのです。

 今の日本人の生き方は、死ぬために生きているようなものです。皆様の今までの生活を冷静に判断してください。何のために生きておいでになったのでしょうか。何か分かりましたのでしょうか。結局死ぬだけです。今までの皆様の生活をこのまま続けていけば、死ぬだけのことです。他に目的は何もありません。このことをよく考えて頂きたいのです。

 レーニンは本当は共産主義者ではなかったと思えるのです。共産主義を利用してロシア革命をしただけのことです。ユダヤ人は共産主義とか資本主義に凝り固まってしまうような安っぽい人間ではないのです。

 ユダヤ人は共産主義を発明したのです。マルクスは共産主義を考え出したのですが、彼自身は共産主義者ではなかったのです。

 ユダヤ人にはメシア思想がありまして、世界を統一することを考えているのです。世界を統一することがユダヤ人の目的でしたが、これが間違っていることに気付き出しているようです。

 日本では学者でもジャーナリストでも、これに気付いている人はいないようです。世界の動きが本当に分かっている日本人はいないのです。政治家も経済界のリーダーも知らないのです。

 人間が生きているということは、偶然のことではないのです。必然です。人間がこの世に生まれてきたことも、現在生きていることもすべて必然です。

 マルクスは人間が現世に生まれてきたことは偶然だと言っているのです。人間は偶然に生まれてきたと言っています。家の中にはたくさんの釘が打ってありますが、偶然に打った釘は一本もありません。

 人間が現世に生まれてきていることについて、生きていることについて説明ができないから、偶然という言葉でごまかしているだけのことです。これがユダヤ人の知恵です。このユダヤ人の知恵を日本人はもろに被っているのです。ユダヤ化されているのです。

 大学を出た人はほとんどユダヤ化されているのです。これはしかたがないのです。大学を卒業してもいいのですが、それに捉われてはいけないのです。自分の経験や自分の思想だけに捉われていると、訳が分からなくなってしまうからです。

 私はユダヤ主義に反対しているのではありませんし、味方をしているのでもありません。どちらでもいいのです。人間が生きているという事がらを正しく真正面から見ていくというだけのことです。これが般若心経の思想であって、この思想を基礎にしなければいけないのです。

 般若心経は基礎であって、全体学の完成ではありません。全体学の完成というのはイエスが死を破ったということ、復活したということです。これが全体学の完成です。

 五蘊皆空、一切空というのは基礎であって、完成の頂点は甦りということです。

 イエスが十字架につけられて、三日目に甦ったのです。これは歴史的事実です。これが人間完成の目標です。出発点が五蘊皆空です。般若波羅蜜多が入口です。これを入口にするのです。

 イエスが死を破って歴史的に復活した。人間は死ぬ命ではない、死なない命、完全な命を掴まえることができるということが人間完成の目標です。

 何が良いか悪いかではないのです。現在の人間は現世に生きていることしか考えていない。この考え方は人間存在から考えて適当なものではないのです。

 人間の歴史は闘争、闘争の繰り返しでした。組合と政府が喧嘩したり、国と国が喧嘩したり、民族と民族が喧嘩したりしてきたのです。お互いに自分が得をしようと考えたからです。こういう間違った考え方が現代文明を覆っているのです。

 自分自身に対する考えが間違っているからこういうばかなことになっているのです。現在の文明はそのあり方が根本から間違っているのです。

 現代文明は目的がないのです。今の文明には目的がないのですから、やがて壊滅することになるのです。滅んでしまうだけです。そうなるに決まっているのです。

 人間は死ぬために生きているようなものです。文明は滅びるためにあるのです。こういう愚かなことを繰り返していることをよくご承知頂きたいのです。

 今の人間の生き方が間違っているのです。国家経営の方針が間違っているのです。日本は何のために存在しているのか。日本という国が何のために存在しているのか、全然分からないのです。

 日本という国が国家目的を持っていないのです。人間が人生目的を持っていないのです。文明が目的を持っていない。ただ盲滅法に目的なしに生きているのです。このことをまずご承知頂きたいのです。

 古世文明は現代文明より多少ましな文明でした。十六、七世紀頃にユダヤ人が台頭してきまして、ユダヤ政策が文明の中に働き出したのです。それまでは人間の考えは素朴でした。何のために生きているかを考えることが、人生の目的になっていたのです。その答えがはっきり分からないとしても、そういうことを真剣に考えていたのです。

 般若心経を勉強することが、学問の一つになっていたのです。こういうことが学問の基礎になっていたのです。政治や経済も勉強していましたが、人間存在を考えることが世間の通念だったのです。

 現在では人間とは何かを考えることが全くばかみたいなものになっているのです。初めから生活主義、科学主義、法律主義、経済主義、政治主義です。生活のために勉強しているのです。勉強のあり方が昔とは全然違っているのです。

 百年以前の日本と、現在の日本とでは全く違ってしまっているのです。

人間はなぜ死ぬのか

 人間はなぜ死ぬのか。自分が生きているというばかな妄念を持っているから死んでしまうのです。人間は自分が生きていると思い込んでいるのです。こういうばかな妄念を持っているのです。これが人間のカルマです。業(ごう)です。業がなくならなければ本当の命は分かりません。

 禅宗では本当に業を果たすことができないのです。白隠禅師でもだめです。自分が悟っているからです。

 白隠禅師は自分が悟ったと思っているのです。南禅寺の勝平管長は自分が悟っていたのです。だからだめです。

 自分が生きているという気持ちがある間は、何を勉強しても、何を悟ってもだめです。自分が生まれてきたという考えが間違っているのです。皆様は自分で生まれたいと思われたことがないでしょう。そうすると皆様の意志によって生まれたのではありません。他の意志によって生まれてきたのです。従って自分の意志だけで生きているのが根本的に間違っているのです。まずこのことに気付いて頂きたいのです。

 皆様は自分が生まれたいと思われたのではありませんから、皆様の命は自分のものではないのです。もし命が自分のものであるなら、伸ばそうと縮めようと自由にできるはずです。髪の毛でも増やしたり減らしたりを自由にできるはずです。

 そのように人間の肉体も精神も、人間の魂も自分のものではないのです。これを自分のものだというように誤解しているのです。誤解を解けば自分の本当の命が見えてくるのです。

 皆様が赤ちゃんとしてこの世にお生まれになった時に、本当の魂のあり方を持っておいでになったのです。ところが物心がついてだんだんと悪くなってきたのです。物心が自分が生きているという意識を造っていったのです。

 皆様は物心で騙されているのです。今の人間はかわいそうに、生まれて世間に出たことによって、世間に騙されて死んでしまわなければならないような運命になってしまった。これが人間の業(ごう)です。この業を果たさなければ本当の命は見えないのです。

 本当の命を見るためには、自分の業を果たすのです。カルマをなくすことです。これを考えなければならないのです。

 カルマとは何か。自分が生きているという思いです。自分が悟る、自分が生きている。自分が幸せになりたいと思う。自分が極楽へ行きたいとか天国へ行きたいと考えるのです。これが人間の妄念です。人間の煩悩です。

 自分が幸せになりたいと思っている。この気持ちがあるだけでその人は幸福になれないのです。自分を握り込んでいるからです。

 自分という気持ちが皆様の中で一番重荷になっているのです。自分がいると思うから嘘をいうのです。焼き餅を焼くのです。おべっかをいうのです。ごまかしもするのです。自分がいると思うから犯罪行為をするのです。

 自我意識が自分と考えているのです。自我意識がどうしてできたのか。この説明が仏教ではできないのです。哲学でもできないのです。聖書には書いています。だから聖書を見ないと分からないのです。キリスト教ではない聖書を勉強する以外にないのです。

 自分はいつできたのか。自分の本性は何なのか。これが分かれば魂は救われるのです。キリスト教ではない聖書によってこの勉強をするしかないのです。

 素朴な感覚で熱心にお考え頂ければ、死から逃れること、そして命を見つけることはそんなに難しいことはないのです。

 死なない命というのは仏教でいうととても難しくなるのです。ところがイエスが十字架につけられて完全に死んでしまって三日目に甦ったのです。復活したのです。これは歴史的な事実です。

 西暦紀元、日曜日はイエスの誕生、イエスの復活によって始まっていまして、世界歴史からイエスを削除することはできないのです。

 世界歴史に基づいて、人間は死ぬものではないということを申し上げているのです。人間は必ずしも死ぬものではないというよりも、絶対死ぬものではないと申し上げているのです。

 必ずしも死ぬものではないというのは、努力して勉強したら死なない命を見つけることができるかもしれないということになるのです。これが必ずしも人間は死ぬものではないということです。

 私がいうのはそうではないのです。人間は本来死ぬべきものではないと申し上げているのです。

 老人医療の発達で長生きすることは良いことですが、長生きをすることが楽しくなるような生き方を指導するだけの用意がなければならないのです。ただやたらに長生きをすることが良いのではありません。これは政治の貧困です。政治に哲学性がない証拠です。

 人間は本来死ぬべきものではないのです。それを死なねばならないと考え込んでいるのが現代文明の悪さです。政府は生活のことは面倒を見てくれますが、生活の本質については全然考えようとしないのです。こういう欠陥があるのです。

人類の指導民族

 ユダヤ人は人類の指導民族です。例えば動物の世界にはボスがいるのです。猿にはボスがいるのです。政界にもボスがいるのです。

 個人的なボスもいますが、民族的なボスがいるのです。全世界には二百くらいの国がありますが、民族的なボス、国家のボスがいるのです。民族的なボスはユダヤ人です。表面には現われていませんから分かりにくいのですが、民族的なボスがユダヤ人です。

 ユダヤ人は普通の人間が考えられないことを考えるのです。ユダヤ人は霊と肉との中間を考えているのです。普通の人間よりもレベルが高いことを考えるのです。資本主義と共産主義というイデオロギーを考え出すのです。

 世界の指導民族であるユダヤ民族が間違えてしまったのです。四千年程から間違えていたのですけれど、ルネッサンス以降においてその間違い方が激しくなっているのです。そのユダヤ人が近世文明、現代文明を造っているのです。

 人間はなぜ死ぬのか。命について考え違いをしているから死ぬのです。いのちには生(せい)と命(めい)とがあるのです。命はこの世に人間が生きているのです。命令に従って生きているのです。人間が社会的に生きている状態が命です。

 生というのは天然のいのちです。死なないいのちです。生というのは大木が地面から植えている格好を意味するのです。人間は生の意味が分からないのです。天然自然のいのち、おのずからのいのちが生です。

 命はみずからの命です。生は天地自然の命です。例えば海の色は天地自然の色です。いのちの色です。天地自然のいのちは皆様の目で見えるのです。

 人間は目で天地自然のいのちの色を見ていながら、それを自分のハートで掴まえることができない。だから死んでしまうのです。これは残念なことです。

 天地自然のいのちが分かれば人間は死なないのです。命はこの世に生まれてきたいのちです。皆様はこの世に生まれた時には死なない命を持っておいでになったのです。ところが物心がついたために、死ぬ命の方に変わってしまったのです。これが人間の業(ごう)です。この業を乗り越えたら、間違いなく死なない命を掴まえることができるのです。

 皆様は目で花の色をご覧になることができます。花の色はいのちの色です。死なないいのちの色です。それが目で見えるのです。これをハートで掴まえたらいいのです。

 目で色が見えることを静かに考えて頂きたいのです。皆様が持って生まれた目の働き、耳の働きが、そのまま生です。皆様の五官の本能性は先天性です。これが霊魂の本体です。

 皆様の五官は先天性であって、先天性は生まれる前から持っていたということです。目で見ている働き、耳で聞いている働きが霊魂の直接の働きです。そこで魂というものをよくよく考えて頂きたい。命の真髄、命の五官をじっと見るのです。これが最高の座禅です。こんな座禅は日本にはありません。私たちだけにあるのです。

 最高の座禅によってじっと五官を見ると、自分の本体が分かるのです。これが分かりますと、魚を食べて味を感じる時に、これは先天性の味だということが分かるのです。

 先天性と後天性と二通りの人生観があるのです。本能性は先天性で、後天性は常識です。常識と五官の本能性と両方があるのです。

 常識性はこの世で生きるための学です。常識学です。常識、知識はこの世でしか役に立ちません。ところが本能性というのは、死んでしまってからでも続くのです。

 先天性は未来性をも意味するのです。霊魂、五官の本能性は生まれる前から現在、死んでからの未来へと続いているのです。

 生まれてきて肉体を持たされた。そして物心がついたのです。今皆様が肉体で生きておいでになりますが、肉体とは別に霊魂の働きがあるのです。霊魂は生まれる前からあったのです。先天性です。これは死んでからもあるのです。

 常識性はこの世に生きている間しかないのです。常識性で生きている人はこの世に生きている間しかないのです。この世に生きている間しかないのでお先まっ暗です。

 老人は人生の終わりに近いのです。現世を去ったらどうなるのか、お先まっ暗で分からないのです。だから死にたくない、死にたくないと思うのです。それなら若いうちに死なない命の勉強をしていたらいいのです。そうしたら死なない命が分かったはずです。

 この世の常識で生きないで、五官の機能をよく考えて頂きたいのです。皆様の目は色が見えます。空の青さが見えます。これはいのちの色です。死なないいのちの色です。人間はいのちを見ることができるのです。

 美しい景色を見たいと思います。山があり、森があり、川があり、野原を見ます。美しい景色です。景色とは一体何でしょうか。これが分からないのです。誰でも見ていながら誰も分からないのです。

 景色を見る旅行のことを観光旅行と言います。景色には光がそのまま現われているのです。天の命、地の命が一つになって光になって見えるのです。これを観光というのです。

 このように皆様には天地自然を見たり、感じたりする力があるのです。天地自然を感じるというのは死なない命を見ることです。見る力がありますから、見る力を自分のハートで掴まえるのです。これを信じるというのです。

 自分が生きている命を掴まえるのです。ここに神があるのです。人が生きているということが神です。皆様の手が動き、足が動き、心臓が動いていることが神です。これを悟るのです。

 イエスはこれを掴まえたのです。ところが皆様はなかなか掴まえられないのです。なぜか。みずからをしっかり掴まえてそれが自分だと思っているからです。

 自分がいると思っている。自分の命があると考えている。自分の命があると考える人は困った人です。これは人間の根本的な迷いです。これを五蘊というのです。般若心経がいう五蘊というのは自分が生きているということです。

 自分が生きているから嘘をいうのです。焼き餅を焼いたり、憎んだり、恨んだりするのです。自分が生きていなかったら焼き餅を焼く必要がないのです。

 苦しんだり悲しんだりするのは自分が生きているからです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 死ぬのは嫌だと思う。なぜ嫌だと思うのか。自分が生きているから嫌だと思うのです。地獄へ行くのは自分が行くのです。

 死ぬのは嫌だと思う理由は二つあります。一つは七十年、八十年の間、自分が生きていたと思っていたのです。これが間違いだったのです。自分が生きていたのではなかったのです。命が自分という格好で現われていただけなのです。この考え方を霊というのです。

 自分が何十年間この世に生きていたのではない。命が自分という格好で生きていたのです。自分が生きていたという事実はないのです。ところが自分が生きていると思っていた。騙されていたのです。誰に騙されていたのかと言いますと、聖書的に言いますと、死の権威を持つもの、人間の魂を死の方へ持っていく力を持っているものを悪魔と言いますが、この悪魔に騙されていたのです。

 キリスト教でも悪魔と言いますが、牧師が悪魔の説明をはっきりできないのです。牧師自身が悪魔の手先になっているからです。だから神の説明もできないのです。命の説明もできないのです。

 人間の集団によってこの世ができていますが、人間一人ひとりの心が五蘊の塊です。この世の組織は五蘊の集積です。五蘊が集まって五蘊の城を築いているのです。これが文明です。文明を信じていたら全部地獄へ放り込まれるのです。

 これがユダヤ人のトリックです。恐るべきトリックです。完全なトリックです。

 私は現代文明をぼろくそに言います。ぼろかすにいうのです。学問が間違っているとはっきり言っているのです。

 人間の霊魂は不滅です。死ぬのが嫌だと言います。なぜ死ぬのが嫌かと言いますと、死んでから何かがあるという予感があるからです。これが不滅の証拠です。霊魂は不滅です。

 人間の五官、生理機能、心理機能は先天性のものです。これが今肉体的に現われているのです。飲んだり食べたりしているのは生活に関する先天性の機能です。これが衣食住です。

 先天性は死んでからもあるのです。キリスト教は霊魂について説明ができないのです。霊魂不滅をはっきり説明できないのです。霊魂の説明ができないのです。

 皆様の五官の本能性が霊魂です。これが死んでからでもあるのです。顕在意識は死んだらなくなりますけれど、潜在意識があるのです。死んだらどうなるのかという思いがあるのです。

 この世は矛盾だらけ、不公平だらけです。この世では悪事を働いても、金持ちになったら偉い人間になるのです。正直に働いても一生貧しい人もいるのです。

 人間の不公平、矛盾はいつどこで精算されるのでしょうか。天網恢々疎にして漏らさずと言います。天が人間を公平に裁くということはあるに決まっているのです。もしこれがないのなら、したいことをせいぜいしたらいいのです。太く短く生きたらいいのです。しかし必ず審判される時があるのです。聖書を勉強したら、人間の霊魂がどのように審判されるかが分かるのです。

 命は自分のものではありません。まずこのことをよく考えて頂きたいのです。

観自在

 般若心経の冒頭に、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時とあります。この観自在は何を見たのかということです。

 自在を見たのです。自在を見たとは何を見たのかということです。自在の自というのは初めからという意味です。在はあるということです。初めから在ったということです。

 自一月一日日記を始めるとしますと、一月一日からが自です。ある根本がありまして、根本から始まったという意味のからです。

 観というのは見ること、感じること、見極めることです。見極めて自分のものにすることが観です。

 観自在とは何かと言いますと、自とは初めからです。在とはあったことです。存在の在です。初めからあったものを見たのです。初めからあったことを見たのであって、観自在菩薩が大変な秘密を見たのではないのです。

 当たり前のことに気が付いたというだけのことです。観自在菩薩行深般若波羅蜜多とありますが、観自在が生きている状態が勝手に般若波羅蜜多になったのです。あるいは初めからあることを行じていることに、気が付いていたという意味です。

 般若波羅蜜多を行じていることに気が付いたのです。観音さんは自分が生きていることに気が付いたのです。これが観自在です。

 自分が生きていることに気が付いたのです。本当の悟りというのは、気が付くことです。気が付くことが悟りです。皆様が生きていらっしゃることの中には、般若波羅蜜多があるから生きておられるのです。般若派羅蜜多がないものは、絶対に生きるということができないのです。

 皆様はいのちがあるから生きておられるのです。いのちとは何なのか。これが初めからあったものです。いのちが初めからなかったら、皆様が今ここに生きているという事実がないのです。

 地球が自転公転しているのは、いのちです。地球ができる前にいのちがあったのです。それが地球という格好で現われたのです。それだけのことです。

 皆様が生まれる前にいのちがあったのです。皆様の取り分だけのいのちがあったのです。それが皆様という格好でこの世に現われたのです。これに気が付けば死ななくなるのです。

 自分が生まれる前にいのちがあった。このいのちに気が付けば死ななくなるのです。いのちはだいたい死なないものです。死ぬものはいのちとは言いません。

 本当のいのちというものは死なないものです。死なないものが本当のいのちです。生(せい)というのが本当のいのちです。命(めい)は人間が現世に生きているいのちです。

 皆様が現在肉体的に生きておいでになる状態が命(めい)です。運命とか天命、寿命というのは命です。これは人間が現象的に生きているといういのちであって、いのちの本質を意味するものではありません。

 皆様が生きていることがいのちでありまして、生きているということを突きつめて考えると生になるのです。皆様が生きていることの本物を掴まえることができたら死なないのです。

 死ぬと考えている人、死ななければならないと考えている人は、自分の業(ごう)によって束縛されているからです。業とは何かというと肉の思いです。人間は肉の思いがあるから死ぬと思い込まされているのです。

 業とは何かと言いますと、四つの苦しみです。四苦八苦の四苦です。四苦というのが人間の業です。皆様が現世に肉体的に生きているということは業です。

 業はカルマでありまして、皆様が肉体的に生きていることが業です。肉体的に生きているということにこだわっている気持ちでは、本当のことは分かりません。

 自分には家族がいるとか、こういう仕事をしているとか、自分は五十才であるとか、日本人であるということにこだわっている感覚では自在を観じることはできないのです。

 自在というのは初めからあるいのちです。これを見たらいいのです。観音さんは見たのです。観音さんはこれを見たけれども、世界歴史の実体に当てはめて話しをすることができなかったのです。

 観自在というのは大乗仏教が造った人格です。龍樹が造った抽象人格です。人間の悟りを人格化する状態で言いますと、観自在、または観世音になるのです。これは人間の悟りの状態、般若波羅蜜多の状態を名前のような形で呼んだのです。これが観自在です。観自在という人間がいたのではないのです。

 人間が悟っているその気持ちの状態を抽象人格として呼んでいるのです。

 初めからあるいのちは死なないいのちです。皆様はこの世に生まれてきたので死ぬことになったのです。そこでこの世に生まれてきたということを空じるのです。この世に生まれてきたという気持ちを捨ててしまうのです。そうすると初めからのいのちがはっと分かるのです。これが本当のいのちを悟ることになるのです。そこで死ななくなるのです。

 死なない命と簡単に言いますが、そんなことは本当かなあ、そんなことはあるはずがないと思われるでしょう。生老病死にこだわっているからそう言いたくなるのです。

 皆様は今固有名詞を持って現世に生きています。現世に生きているという気持ちにこだわらないで頂きたい。人間はいのちがあったから、現世に生まれてきたのです。そこで生まれてきたということにこだわっていますと、やがて死ななければならないことになりますが、自分が生まれる前のいのちを見つけてください。そうすると死なない命が分かるのです。

 生まれる前のいのちを見つけることができましたら、死なない命が分かるのです。

 現在の物理次元の地球は必ず壊れてなくなります。いつか人間が一人も住めない状態になるのです。やがて地球そのものが解体してしまうでしょう。

 生あるものは必ず死するのです。形あるものは必ず壊れてしまうのです。形があるものは必ず滅してしまうに決まっているのです。

 人間が分かった、学問があると言っていることができるのも、結局地球がある間です。こんな小さなことではなくて、地球ができる前の地球、自分ができる前の自分を見つけたらいいのです。

 現在、本当の命が地球に現われているのです。地球そのものが生物です。地球は生きているのです。だから地震があったり、台風があったりするのです。

 今の地球ができる前に地球があったのです。これを見つけたらなくならない地球が分かるのです。このことを新約聖書は神の国と言っています。神の国と神の義を求めよという言い方をしているのです。

 イエスは神の国が分かったのです。だから死んだけれども復活した。死を破ったのです。死を破ることはできるのです。

 死を乗り越えることはできるのです。日曜日はイエスが復活した記念日です。このことをよくお考え頂きたいのです。

 般若心経を難しい難しいと言わないで、毛嫌いしないで、勉強してみようという素朴な気持ちになって頂きたいのです。

 観音さんが分かったことは皆様に分からないはずがありません。観音さんはごく普通のありきたりの人間です。世間並みの人間です。観音さんが分かったことが皆様に分からないはずがないのです。

 現世に生きている人間は例外なく生老病死に捉われているのです。生とは今生きている状態、または条件です。老は生きているとだんだん年をとっていくのです。病気になって死んでいくと考えている。現世に生きている自分を基準にして考えているのです。これが人間の業(ごう)になっているのです。

 人間はこの業に押さえ込まれているのです。肉体の他に魂があるのです。魂というのは五官が働いている状態を指すのです。五官は肉体的でなければ働かないのです。肉体的に五官が働いている状態が魂です。

 なぜ働いているかというと肉の本質が働いているのです。皆様が生まれる前のいのちが、今魂として働いているのです。

 生といういのちが魂になっているのです。生まれる前のいのちが今皆様に魂として現われているのです。これが五官の働きに基づく人生です。

 魂はこの世に生きるために生まれてきたのではないのです。この世で生活するために生まれてきたのではありません。生まれる前のいのちを悟るために生まれてきたのです。生まれる前のいのちを悟るか悟らないか、ただこのために生まれてきたのです。いのちの本物を掴まえることができるかできないか、命の本物を見つけて掴まえることが、皆様の人生全体の目的です。

 生活することが目的ではありません。いのちを見極めることが目的です。いのちを見極めなかったら死んでしまうのです。だから難しいと言っておれないことなのです。

 生活だけをしていたら必ず死ぬのです。現世でどれほど商売的に成功しても、どんなに地位や財産を築いてみても、現世の人間は死ぬに決まっているのです。

 生老病死という言葉に押さえ込まれているのですから、現世に生きていてもしかたがないのです。死ぬに決まっているのですから、この人生に見切りをつけて、なぜ般若波羅蜜多の気持ちにならないのかと言いたいのです。

 日本人はあまり運の良くない民族です。これは日本だけではない、アメリカでもイギリスでもドイツでも同じです。ユダヤ人以外の人間は皆運が良くない民族です。

 日本には地球がなぜ造られたのかということを、先祖代々知っている祖先がいなかったのです。本当のいのちを弁えている人が、日本にはいなかったのです。日本人の考え方はすべて現世に属する考え方です。ですから、日本人の考え方から解脱する勇気がまず第一に必要なのです。

 皆様の魂は皆様のものではありません。皆様が現在五官によって生きているという事実は、皆様方自身の所有物ではないのです。魂は天のものです。

 天に命があって、その命が私たちのいのちとして現われているのです。魂を自分自身の所有物のように心得て、自分はどのように生きても勝手だと言い、わがままな考えで生きていると、死んでから必ず霊魂の裁きを受けるのです。

 なぜなら、自分のいのちではないものを自分のもののように勝手に生きてきたのですから、これに対する税金を請求されるのは当然のことです。

 皆様の衣食住をご覧ください。立派な家に住んで、素敵な服を着ておいしい食事をしています。パソコンでインターネットをしたり、車を運転しています。これは神が肉体を持って現世に現われた生き方になるのです。もし神が肉体を持ったら、皆様と同じような生き方をするに決まっているのです。そういう尊い命を今皆様は経験していらっしゃるのです。

 何のためにそういう経験をしているのか。いのちを知るためです。例えばマグロの刺身を食べたらおいしいと思います。味とは何なのか。これが生まれる前の命の味です。

 安原貞室が、「これはこれはとばかり花の吉野山」と歌っています。吉野山全体が桜の花で満ちた状態が、皆様が生まれる前の命の状態です。

 地球ができる前の命が花という格好で現われているのです。花を見てきれいだとお考えになります。花を見てきれいだとお考えになることが、皆様の五官の本質が永遠の命を看破する力があるということを示しているのです。

 皆様の魂には観自在菩薩になるだけの力が十分にあるのです。ところが日本人は現世に生きることに一生懸命になっているのです。生老病死という人間の業に掴まえられているのです。それで自由に物事が考えられなくなっているのです。現世での経験によることしか考えられなくなっているのです。だから三島由紀夫は現世を去ってもまだ原稿を書いていると言っているのです。

道心に餌食あり

 皆様は現世に執着を持ちすぎているのです。働かなければ食べられないと思い込んでいるのです。道心に餌食ありという言葉があります。伝教大師、西澄の言葉ですが、道を求める心があれば、勝手に食べていけるのです。

 例えば鳥が生きている状態、魚が生きている状態を見たら分かるのです。これが本当の命のあり方を示しているのです。人間は現世においては義務みたいなものはありますけれど、現世で働くために生まれてきたのではありません。命の本質を見極めるために生まれてきたのです。

 観自在することが皆様の本当の目的です。これが本当の仕事です。それを忘れて商売人になったり、弁護士になったり、医者になったりしている。それが人間の本職ではありません。道を求める気持ちがあれば、生活は勝手にできるに決まっているのです。

 働く気持ちがない者でも生活保護によって生きていけるのです。皆様のように熱心に命を求めている方は、生活ができるに決まっているのです。

 皆様が第一に考えなければならないことは、命のことです。命が分かるか分からないかが、皆様の人生が失敗であったのか失敗ではなかったかが決まるのです。

 難しいことはありません。皆様は花の美しさが分かるのです。刺身の味が分かるのです。刺身の味が分かる人は、生まれる前の本当の命が分かるに決まっているのです。やる気になればできるに決まっているのです。

 皆様は天地の命を味わっているのです。命の本質は神です。命を人格的に表現したら神になるのです。神を機能的に見たら命になるのです。命と神とは同じものです。

 皆様は宇宙にたった一つの神の命を預けられているのです。命は神からの預かりものです。これを自分のものと考えていると背任横領になるのです。他人のものを自分のもののように考えているからです。

 人間は命を自由に使うことができます。そういう権利を与えられていますけれど、それに対する責任を当然考えなければならないのです。

 基本的人権をいうのなら、基本的な責任が当然ついてくるのです。この責任を果たすということは、観自在という気持ちに帰ることです。本当の命を知ることです。

 イエスが死を破ったという歴史的事実があるのです。イエスが死を破ったのなら、皆様も死を破れるに決まっているのです。

 今年は二○一四年ですが、これは死なない命を持った人がこの地球に誕生してから、二○一四年たったということです。イエスが世界歴史の基本原理になっているのです。イエスが復活したように、皆様も魂を復活させることができるのです。

 この世にこだわっているということは、生老病死という妄念に取り殺されているということです。これを蹴飛ばすことはできるのです。私のような者ができるのですから、皆様も十分にできるのです。

 日本にはこういうことを本当に実行している人間がいないのです。世界にもいないでしょう。だから私のような者が言わなければならないのです。

 人間を神の側から見るか、現世の側から見るかによって違ったものになるのです。現世に生きている人間という側から考えますと、悟るということが仏になるのです。悟ると仏になるのです。

 「仏とは 誰が言いにけん白玉の 糸のもつれの 仏なりけり」という道歌があります。生きている気持ちがもつれているのです。これをほとくことが仏です。人間の迷いを解くのです。

 これは人間が現世に生きているという側から出発しているのです。生老病死という場から釈尊は出発したのです。人間が生きているという場から出発したのです。

 神というのは命の本体です。皆様の心臓が動いています。心臓が動いていることが神です。神を信じるとか信じられないとか言います。神を信じるのは困るという人がいますけれど、困るどころか皆様の目が見えることが神です。心臓が動いていることが神です。

 皆様に命を与えているもの、地球を自転公転させている絶対力が神です。神から人を見ると、救うことが中心になるのです。これがキリストです。キリストとは神の計画です。神の地球計画の中心がキリストです。

 人間の立場から、何をどのように考えるべきかということは、要するに悟ることです。観法の定座に立つことです。これが人生の目的になってくるのです。そこで人間の側から見る見方と神の側から見る見方とは違ってくるのです。

 釈尊が悟りを開いた時には、まだキリストはいなかったのです。キリスト計画というものは、人間と地球を救うことが神の目的ですが、これが釈尊には分からなかったのです。

 キリストというのは神の計画です。天地創造の計画です。天地創造ということが日本人には分からないのです。以前に、アメリカのジョン・ヒューストン監督による「天地創造」という映画が作られましたが、これは全くのお伽噺でありまして、その映画を見ても天地創造の秘密は絶対に分かりません。

 地球が造られたということが明確に記されているのは旧約聖書の創世記以外にはありません。聖書を勉強するしかしょうがないのです。

 人間の歴史はだんだん変化しているのです。釈尊が生きていた時のあり方と、現在では全く違っています。現在では宇宙中継によって世界中のでき事が、一つの国のように報道されているのです。アメリカの事件やヨーロッパの事件がすぐに日本に報道されているのです。

 現在では地球は一つの国になっているのです。この時代に釈尊と同じ考えを持たねばならないと、なぜ考えなければならないのでしょうか。

 ところが現在の日本では、聖書はキリシタンバテレンだと未だに考えている人がいるのです。日本人は愚かなことを考えているのです。

 徳川幕府三百年によって日本人は大変な被害を被っているのです。良い点もありました。なかなか優れた政治をしたのです。同時に非常に悪い点もあったのです。

 とにかく徳川三百年によって、日本人の世界観が極端に塗り変えられてしまったのです。まず織田信長の時代の一期一会の考え方に帰って頂きたいのです。そうしたらキリシタンバテレンというばかなことを言わなくなるでしょう。

 とにかく日本人の考え方は世間が狭すぎるのです。スケールが小さすぎるのです。現世に生きていることしか考えないのです。非常にこだわりが強いのです。島国根性を持っていて、西郷南州と同じような考えをしているのです。

 日本だけのことを考えていたのではだめです。世界全体だけでなくて宇宙全体を考えなければいけないのです。

 キリストというのは歴史的な裏付けがあるのですが、仏には歴史的裏付けがないのです。だから抽象概念になるのです。キリストには歴史的な裏付けがある。歴史的事実において人間の命という問題とはっきり係わっているのです。

日曜日

 日曜日はイエスの復活記念日です。イエスが復活した記念の日です。日本だけは日曜を認めないと言ったら、世界とは付き合いができなくなるのです。だからどうしても日曜日を承認しなければならないのです。歴史的必然性において神の処置として世界歴史の表面に流れ込んでいるのです。これに反対してもしょうがないのです。キリスト嫌いと言っても、キリストを勉強しなければ救いがないのです。

 仏教には具体的な救いの保証がないのです。魂の救いについての保証がないのです。阿弥陀如来と言うけれど、歴史的な実体ではないのです。

 聖書にある神の国は皆様の生活の中にあるのです。皆様の舌が魚の味が分かるということは、本当の命が分かるということです。命を経験していながらそれが分かっていない。これは皆様の魂が死んでいる証拠です。

 今までの皆様の経験はだめです。皆様の考えが間違っていたからです。五官によって生きているとは何をしているかをよく考えて頂きたいのです。

 死とは何か。人間はなぜ死ぬのか。元々この宇宙には死がなかったのです。生が本当のいのちであって、いのちの本質は霊なるものです。霊というのは事がらです。例えば皆様の目が見える、耳が聞こえるという事がらが霊です。皆様の目や耳は霊なる働きをしているのです。

 目に見えないけれど無形の働きをしていることが霊です。こういう命が宇宙にあったのです。ところが聖書によりますと、悪魔が出現したのです。悪魔というのは悪そのものであって、日本語の悪魔というのは非常に優秀な訳だと思います。

 韓国語では悪魔のことを魔鬼と言います。魔鬼になりますと、魔だけを強調することになるのです。悪を意味しないのです。

 とにかく日本語の悪魔というのは、非常に優秀な訳です。悪魔というのは死そのものです。死を創造したのです。悪魔は最初は大天使であって、優れた能力を神から与えられていたのです。その絶大な能力は神が与えたものでしたが、その能力を自分の能力であるという錯覚をしたのです。

 自分の力が偉いと思ったのです。そこで神に対抗して自分自身を確立することを考えたのです。

 これが逆性です。逆性というのはあるべき本来の姿に対して自分の立場から自己を主張するのです。これが逆性です。あるべき本来の立場で考えないで、自分の立場で考えるのです。これが自我意識、つまり逆性です。

 逆性が死の法則です。死の法則が宇宙に発生したので、これを討滅、撃滅しなければならない必要性が起きたのです。この時に弁証法的原理が成立したのです。

 神はテーゼであって、神に対するアンチテーゼが悪魔です。神と悪魔との闘いは、宇宙全体のスケールにおける大弁証法です。このようにして神と悪魔との闘いが始まったのです。これが天地創造の原理です。

 この地球というものを考えてください。宇宙の星はすべてガス体ばかりです。惑星はすべてガス体です。ダイアモンドも元はガス体です。炭素に瞬間的に四千度の高温を与えると、ダイアモンドになるのです。金も銀もダイアモンドもすべてがガス体が変化したものです。

 地球は元々なかったのです。太陽的宇宙にだけ物質的な惑星があるけれど、太陽系以外の惑星はすべてガス体です。

 ガス体というのは生でもないし、死でもない。形なく空しいという状態であって、茫々漠々たる存在だったのです。ことごとく空だったのです。

 これに対して自分がいるという思想が発生した。悪魔によって自我意識が発生した。死の法則が発生したのです。そのために、命を現象的に創造しなければならない必要が起きたのです。

 命を現象的に現わさなければならない必要が起きたのです。現象的に現われた命を見て、神が正しいか、悪魔が正しいかを判断しなければならなくなったのです。

 皆様は現象的に現われた本来の命を見ているのです。花の姿、空の青さ、海の青さ、木々の青さ、太陽が輝いている状態は、現象的に現われた本当の命であって、これをご覧になって、現象は仮の姿であり、本当の命がこういう形で現われているということに気が付いた人だけが、神の子として取り扱われて、永遠の命に甦ることを許されるのです。

 色即是空が本当に分かった人は、空即是色が分かるのです。地球はユダヤ人を中心にして神の処置によって歴史が展開しているのでありまして、日本が中心になってはいないのです。アメリカも中心になっていないのです。ユダヤ人が中心になっているのです。これは神の世界経綸の状態です。

 死を撃滅するために神が天地を創造したのです。この神の思想がそのまま太陽になって現われているのです。

 日本人は神の約束を全然知らないのです。約束によって天地が造られているのです。約束によって地球が自転公転しているのです。聖書を自分の命として見ていないから、約束が分からないのです。

 皆様の中に生の法則が発生したら、皆様は生きるのです。生の法則があることを思うだけでいいのです。意志するのです。心を決めるのです。神が天地を造った時に、神は言葉を出しています。「神は光あれと言われた。すると光があった」とあります。(創世記1・3)。神は光あれと思った。思った時に言葉に出しているのです。皆様も思ったことを言葉に出してください。死にたくないなら死にたくないという思いを持つと同時に、それを言葉に出すのです。そうすると皆様の周囲に命の則が発生するのです。

 人間の精神構造はすばらしい力があるのです。自分の魂を生かすことも殺すこともできるのです。私は若い時にどうも人間は考え違いをしているらしい。根本的な考え違いをしているらしいと思ったのです。人間は何のために生きているのか。これを知りたいと思ったのです。これを知りたいと思った時に、私の中に新しい命の則が発生したのです。

 人間存在に対する基本的な疑いを持つことです。死にたくないとはっきり思うのです。そうすると皆様の中に命の則が発生するのです。

 自分の意志によってある世界を造ることができるのです。神がそうしたように、皆様もそうしたらいいのです。皆様の魂は神の子ですから、死にたくないと思えば、命の則が皆様の中に必ず発生するのです。私の経験によってそのように断言できるのです。

 志を立てれば必ずそのことが実現できるのです。皆様は今まで何のために生きているかということを、考えないで生きていらっしゃたようですが、この考えが間違っていたのです。

 新しい世界を勉強したいというお気持ちになってください。そうしたら皆様に命の則が発生します。これが命の光になりますから、ぜひこれを実行して頂きたいのです。

 そのためには素朴な感覚になって頂きたいのです。大人の思想が悪いのです。大人の思想をやめて幼子のようになって頂きたい。

 皆様は色々考えていますが、死んだら負けです。死なない人間になるのです。死にたくないとはっきり考えて頂きたい。そうしたら死なない命を発見できるでしょう。自分の精神機能を大切に扱ってください。釈尊やイエスのような気持ちで、自分の心理機能を扱うのです。そうしたら死なない命を見つけることは必ず出来るのです。

 皆様が生きているという命こそ、真理の輝きです。この命に光があるのです。皆様が生きているということが、そのまま皆様の永遠の生命になるのです。

 今までの妄念を捨てるという気持ちさえあれば、皆様の命が輝くようになるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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