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人間の尊厳について

 人間は死にたくないのに、死ななければならないと思っているのです。人間は全く間違った生き方をしているのでありまして、死ななくてもよい人間存在があるということに気が付いて頂きたいのです。そして、人間は死ぬことが決まっているのではないということを、真面目に考えて頂きたいのです。

 死ななければならないと思い込んでいるのは、戦争に負けることを承知していながら、戦争をしているようなものであって、これは敗北主義の考え方になるのです。

 死ななければならないのに、しかたがないから生きている。これは全く負け犬思想です。人間は負け犬であってはいけないのです。死ななければならないと考える必要はないのです。

 イエスは、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・25、26)。また、「私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者はいつまでも生きるであろう」とも言っています(同6・51)。

 釈尊はこういう言い方をしていませんが、人間の生活が空であることを強調しているのです。イエスは、私を見ている者は命を見ているのだと言っているのです。

 その証拠に、イエスは十字架によって殺されたけれども、死から甦ったのです。復活したのです。死を破ったのです。イエスは言うだけではなくて、実際に実行して死を破ったのです。

日曜日とは何か

 日曜日というのはイエスの復活を記念する日です。イエスは金曜日に十字架につけられて殺されたのですが、日曜日に復活したのです。

 今、全世界の人間は、好むと好まざるとに係わらず、知ると知らざるとに係わらず、日曜日に休んでいるのです。イエスの復活記念日を守るという習慣を与えられているのです。これは歴史的な必然性です。

 このような歴史的な必然性がどうして発生したのか。イエスのことは、私は知らないという人が多いでしょう。私は知らないと言っても、イエスの復活記念日に休んでいる。世界中の人間は日曜日を休んでいるのです。

 全世界の人間はほとんど日曜日に休むという習慣になっている。休んでいない人もいますけれど、文明生活をしている人々は、だいたい日曜日に休んでいるのです。

 このように人間文明がイエスの復活を記念する習慣を持ってしまっているという事実は、人間歴史の本質に驚くべき事がらが存在していることを示しているのです。

 こういう歴史の実体、文明の底に流れている必然性をお考えになりますと、皆様は死ななくてもよい人生があることを承知して頂くことができるのです。

 死ぬことがただ現世から去っていくということだけなら、大したことではないのです。ところがそうではないのです。人間の命とは何かということを知らないままで生きている。死ななければならない、死なねばならないと思いながら生きている人は、実は人間の命の本質が分かっていないから、そのように考えるのです。

 命の本質を知らないままで生きている。人間としての命の本質を知らないままで生きていますと、その人の人生は無駄に生きていたことになるのです。

 しかし、犬や猫のようではなくて、人間のように生きていたという事実があるのです。人間として生きていながら人間の本質を知らないで生きていた。これはけしからんことなのです。

 人間づらをしていながら、人間として正しい認識を持たずに生きていた。これは人間自身の一生を冒涜していたことになるのです。これは迷いです。こういう状態では、死んだら浄土参りができるということはあり得ないのです。

 私たちは万物の霊長としてこの地球に生まれてきました。従って万物の霊長としての責任を自覚しなければならないのです。これは当然のことです。

 人間は犬や猫のように這いつくばって餌を食べるような生活をしていません。椅子に座って料理されたものを箸やフォーク、スプーンを使って食べるのです。人間らしい状態で生活しているのです。

 自尊心を持って尊厳的に生きているということは、それだけの責任を感じなければならないことを意味しているのです。

 現在の日本人は全くけしからん生き方をしているのです。人間らしい生き方をしている人は、ほとんど一人もいないと言ってもいいのです。でたらめに生きているのです。こういう人は死んでから大変な罰金を取られることになるのです。

 死というものの意味を知らず、生というものの意味を知らずにただ漫然として生きている。こういう生き方ははっきり間違っているのです。

 死にたくないと考えること自体が、死を恐れていることになるのですが、なぜ死を恐れているかと言いますと、その人の魂が死んだ後に碌でもないことがあることを知っているからです。

 死んでしまえばそれまでだという考え方をしている人が、最近非常に多いようですけれど、これは大変な間違いです。全くでたらめな考えです。

 ある人が話していました。仕事が忙しくて夜通し働いていたのです。ふらふらに疲れていたのですが、仕事がたまっているのでそのまま夕方まで働いたのです。

 夕方に寝ようとしたら、お得意さんから急用があるので来てほしいという電話がかかってきたのです。他に行く人がなかったので、眠気眼で運転して得意先へ行ったのです。

 商談をして帰ろうとしたら、酒好きの主人が、ちょっと一杯だけ付き合いなさいと言って、酒を飲まされたのです。

 一杯が二杯になり、二杯が三杯になって、五、六杯飲んで眠くなったからと言って、失礼して運転して帰ったのです。ところが疲れていたせいか、酒がよく回って、訳が分からなくなって電柱に衝突して大事故を起こしたのです。

 意識不明の重体になって、救急車で病院へ運ばれたのです。奥さんが病院へ飛んで行ったのですが、主人は意識もうろうとしているのです。

 奥さんが「あなた、大丈夫ですか、しっかりしてください」と問いかけると、「こういうことになったのは自分が悪い。手術せず放っといてくれ、放っといてくれ」と言ったのです。

 医者は放っといてくれと言っても、放っておく訳にいかないので、手術をして何とか命を取り留めたのです。

 だいぶ回復してから、あなたは放っといてくれとしきりに言っていましたと奥さんが言うと、そんなこと言ったのか、全然覚えていないと本人が言うのです。本人は衝突した後のことを全く覚えていないのです。全く知らないと言うのです。

 衝突した時に助ける人がいなくて放っておかれたら、どうなったでしょうか。そのまま死んでいったのです。ところがああしまった、衝突したという意識は残っていくのです。

 脳波が止まってしまいますから、言葉には出せないのですが、心の中では衝突した、大変なことをしたと思い続けているのです。そうして、黄泉(よみ)の世界へ行くのです。死んだらしまいではないのです。ある種の記憶ははっきり残っていくのです。三島由紀夫の霊を呼び出すと、今でも原稿を書いているというのです。首が痛いとも言っているのです。このように死んだ人の意識ははっきり残っているのです。

顕在意識と潜在意識

 顕在意識は死んだらしまいです。皆様の常識、知識は確かに消えてしまいます。ところが潜在意識、魂は死なないのです。死ぬことができないのです。

 人間の魂というのは、宇宙の造化の主の分身、一族です。造化の主が死なないように、人間の魂もその一族ですから永遠に死なないのです。これを霊魂不滅と言います。霊魂不滅だからこそ恐ろしいのです。

 死んでしまえばそれまでというのであれば、簡単です。死んでしまえばそれまでです。良くも悪くもない。それで終わりです。ところが潜在意識は死なないのです。ただ他界して眠るだけです。顕在意識とお別れするだけです。

 そうして一時眠るような状態になりますが、眠っている者は必ず目を覚ますのです。そうなるのが当然のことです。目を覚ました後が恐いのです。

 人間でありながら人間とは何かを考えないで、せっかく命を持っていながら、命の本質を弁えないでぼやっと生きているというのは、怠慢しごくのことです。

 私たちは現在生きていますが、三つの生があるのです。第一に生命を経験しているのです。これは生の本質です。それから生存があります。これは生の状態です。そして生活があります。これは手段です。生には生命と生存と生活の三つがあるのです。

 普通一般の人は生活しか考えていないのです。今の文明はそういう間が抜けたものです。今の学問は非常に間が抜けた考えです。生活の手段しか考えていないのです。政治経済を見てください。生活の手段しか考えていないのです。

 そういう間が抜けたことを考えていますから、人間の霊魂は天によって裁かれることになるのです。霊魂が裁かれるのです。

 人間の霊魂は不滅です。不滅だから恐ろしいのです。死なないのです。死んでくれたら結構ですが、死なないのです。人間の記憶は永久になくならないのです。

 そこで皆様はどのように生きるべきかを、どうしても考えなければならない責任があるのです。

 文明は生活を豊かにすることだと考えられています。これは西洋人の考え方です。文明のことを英語ではシビリゼーション(civilization)と言いますが、市民生活、公民生活という意味です。

 日本ではシビリゼーションを文明と訳しています。文明というのは、生きている事がらを明らかにすることです。大自然と人間との関係を明らかにすることです。

 文というのは綾模様という意味でありまして、森羅万象のあり方、曼荼羅という意味があるのです。春になれば桜が咲くのです。

 「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」と山口素堂は詠んでいます。こういう感覚が文です。「春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」と良寛が詠んでいますし、「春は花 夏ほととぎす 秋は月」という道元の歌もあります。

 このような大自然の動きが綾模様です。この大自然の動きと人間の生命とは非常に大きい関係があるのです。

 皆様は自分の命を自分で生きているのではありません。宇宙の命を生きているのです。大自然の大生命がそのまま個々の皆様に分かれて働いているのです。だから皆様は生きているのです。

 犬や猫が生きているのも、皆様が生きているのも、同じ命に繋がっているのです。花が咲くのも、鳥が飛んでいるのも、皆、皆様の命の営みと関係があるのです。

 皆様には一人ひとりの特別の命があるのではない。山田さんの命、伊藤さんの命があるのではない。宇宙に大生命が一つあるだけです。その命が動物や植物、人間に分派しているのです。こういう状態が命の状態です。

 皆様は大自然の命はどういうものかということをよく見極めさえすれば、死ななくなるのです。皆様は大自然の真ん中に生きているのですから、大自然の命はどういうものかということを突き止めさえすれば死ななくなるのです。

イエスの復活は歴史的事実

 イエスがこれを実行したのです。そして復活したのです。イエスの復活は歴史的事実です。お伽噺ではありません。今年は2014年ですが、イエスが生まれたことによって、新しい紀元が始まったのです。皆様はこのように宇宙の大生命を弁えて、死を破った人物の歴史的な必然性において、生きているのです。

 それなのに死ななければならないと考えているのです。これは何とも間の抜けた考えなのです。

 そこで般若心経と聖書を学んで頂きたいのです。こういう言い方は押しつけになるかもしれませんが、押しつけになってもいいのではないかと思います。皆様は死んでしまいますから、死ぬことを思えば押しつけられることくらいはがまんをして頂きたいのです。

 これは皆様が生きるか死ぬかの大問題です。今の政治家や学者は皆様の命には全然責任を持ってくれません。生活だけのことを考えているのです。

 生活と生命とは違います。政治家や社会が皆様の生命の責任を考えてくれるのでしょうか。自分の生命のことは自分で考えなければならないのです。

 皆様は大自然の命で生きているのですから、大自然の命のあり方さえ弁えさえすれば、死なない命が分かるのです。

 皆様はせっかく現世に生きておいでになりながら、死ななければならないと考えている。めそめそと死んでいく。こんなばかな人生はありません。

 私たちは死ななくてもいい命を経験しているのですから、死んでいく人をこのまま見過ごしにできないのです。今の日本人は放っておけば皆死んでいくのです。これを私は見過ごしにできないので、こういうお話しをしているのです。

 人間は本質的には死ぬべきものではないのです。イエスが復活したという事実をはっきり勉強したら、人間は死なないものだということが分かるです。

 私はキリスト教の宣伝をしているのではありません。キリスト教はこういうはっきりしたことを言いません。キリスト教は宗教の宣伝ばかりをしているのです。

 私はイエスが復活したという歴史的事実を、皆様に提唱しているのです。

 般若心経を愛好している日本人はたくさんいます。一千万人もいるでしょう。般若心経を読んでいる人はたくさんいますが、五蘊皆空という事実を弁えている人はめったにいないのです。

 なぜこんなことになっているかと言いますと、般若心経は仏教のお経だと考えているからです。仏教のお経だと考えているから、まともに信じなくてもいいと考えているのです。

 般若心経を写経している人はたくさんいます。奈良の有名な寺では、般若心経を写経して千円を付けて送るとご利益があるというのです。百万写経と言いまして、百万人の人から千円を送ってもらっていますと、寺は十億円儲かるのです。これによって塔を再建したのです。

 写経すれば文字は覚えますが、その意味が分からなければ何の価値もないのです。お寺は大いに儲かりますが、写経している人には何の足しにもならないのです。

 五蘊皆空とはどういうことか。皆様の常識、知識は空っぽです。これは死んでからは通用しないのです。私たちは死んでからでも通用する考え方をしなければいけないのです。現世と来世を貫いて考えるのです。

 私たちは生まれる前、前世があったのです。そして現世があるのです。さらに、現世を去った後の来世があるのです。三世全体が人生です。こういう考え方で人生をお考えになれば、本当の命の意味が分かってくるのです。

 イエスは、「私はどこから来て、どこへ行くのかを知っている」と言っています(ヨハネによる福音書8・14)。皆様はどこから来て、どこへ行くかをご存知でしょうか。

 これは皆様が現在生きておいでになるという命を、落ち着いて考えて頂ければ分かるのです。青葉の青さ、若葉の匂い、鳥の声、花の色と香りを弁えるという根気があれば、イエスの復活について勉強しようという根気があれば、死なない命の実体が分かるのです。永遠の生命の実体が分かるのです。

 皆様は生理的には生きています。目が見える。耳が聞こえる。水が飲める。肉体的な生命現象としては確かに生きておいでになりますけれど、考え方が死んでいるのです。宇宙の命をはっきり掴まえていないのです。

 宗教にはすべて教義とか教理があります。これを説明するのが宗教です。神道には神道の教義がありますし、キリスト教にはキリスト教の教義があります。仏教には仏教の教義があります。同じ仏教でも他力宗と自力宗とでは教義が違うのです。密教と顕教とでは教義が違います。

 そのように教義を教えるのが宗教です。しかし本当の命を教えていません。本当の命が分からないからです。生とか死を扱う宗教ではありません。生とか死を扱うのが本当の宗教ですけれど、現在の日本の宗教はそういうことをしていません。教義ばかりを扱っているのです。信者を増やすことに一生懸命になっているのです。だから耳の痛いことを言わないのです。

 私のように本当のことを言いません。本当のことを言いますと、人々から嫌われるのです。しかし本当のことを言わなければ皆様は本当の悟りを開けないのです。

 宗教を信じている人で命を知っている人は一人もいません。宗教の教義ばかりを教えられているからです。

 仏典では人間は無明から生まれてきたと言います。大乗起信論によりますと、無明煩悩から生まれたのが人間だと言っているのです。これが死んでいく人間の基本的な思想です。

 般若心経にも無無明亦無無明尽とあります。無明というのは十二因縁の一番最初の言葉です。老死が一番終わりです。

 小乗仏教は十二因縁を説いているのでありますが、無明から人間は涌いてくると言っているのです。妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に沈んでいく。これは大乗起信論にあります。このように人間は無明から生まれてきたのです。

 ずばりと言いますと、人間がこの世に生まれてきたのは、両親の性欲によるのです。性欲は煩悩です。親の煩悩によって子供が生まれたのです。

 聖書には「私の母は罪の肉の内に私を身ごもった」とあります(詩篇51・5)。私の母は罪の中で、罪にありて私を孕んだと言っているのです。ダビデという名王がこう言っているのです。

 人間は無明煩悩から生まれてきたのです。そして無明煩悩で育ってきたのです。皆様の両親、兄弟、世間一般の人間はすべて無明から生まれて、無明の中で生きているのです。無明の中で生きていますから、命とは何かが分からないのです。これは死んでいる状態です。

 皆様は死んでいる状態ですから、いろいろ考えるよりも、命とは何かということを勉強して頂きたいのです。死んでから極楽へ行く、天国へ行くということではなくて、現在目の黒いうちに、命とは何かということを勉強する必要があるのです。

 現在の人間は生活のことだけを考えていますが、その状態が無明なのです。無明煩悩の状態です。無明煩悩の状態が既に死んでいる状態です。

 だから現在のままで放っておけば、死んでいくに決まっているのです。

 現在の人間の生き方はでたらめです。学問は人間の生命に関して一切責任を取りません。生命の保障を一切してくれません。学者も政治家も一切責任を持ってくれません。国民全体がただ死んでいくだけです。国民全体が無責任、無自覚の状態です。命について全く知ろうとしていないのです。命を知ろうとしていない状態が、既に死であると言えるのです。

 そこで皆様は無明を破って光り輝く命を見つけるにはどうしたらいいのか。命とは何であるかを勉強することが必要ではないかと思うのです。

 皆様はイエスの復活を日曜日という形で現在記念しているのですから、こういうことをお考えになって、人間歴史の底を流れているものをよく勉強して頂きたいのです。

 聖書に、「肉の思いは死である」という言葉があります(ローマ人への手紙8・6)。肉体人間が考えることはすべて死であるという意味です。

 肉体人間が考えることは、魂が考えることと違うのです。肉体人間が考えること、即ち常識、知識はすべて死である。本質的には死んでいるという意味です。

 肉の思いは死であるという言葉がはっきりお分かりになれば、命を勉強したいという気持ちになるでしょう。

 現在、教会で聖書は正しく説かれていません。キリスト教は皆間違っているのです。永遠の生命の実体、イエス・キリストの復活の命をはっきり教えてくれる人はいないのです。

 命は皆様の近い所にあるのです。イエスが復活したことと、現在大自然の中で生きておいでになることとは、密接な関係にあるのです。

 せっかく皆様は命を持っておいでになるのですから、この命を活用して命の本質を弁えるということをして頂いたら、必ず皆様には本当の命が分かって頂けると思うのです。

 死んでいく人間には死の本当の意味が分からないのです。命を知らない人間が命の本当の意味が分からないのと同じです。

 現在の人間は全く酔生夢死の状態です。酒に酔って生きているようなものです。夢の中で生きているようなものです。そういう生き方ではなくて、本当の人生とは何かをはっきり掴まえて頂きたいのです。宗教ではなくて、生きている人間の実体、本質をはっきり掴まえて頂きたいのです。

 現在の日本には宗教がたくさんありますが、本当は無宗教のような状態です。宗教と真理とどこが違うかと言いますと、宗教は現世の人間を相手にして、現世の人間に信じられることを述べているのです。現世の人間に信じられるようなことを言わなければ、宗教教団は成り立たないのです。イエスが述べたことが真理ですが、現世の人間には理解できなかったのです。

宗教を徹底的に攻撃したイエス

 イエスは宗教が大嫌いでした。宗教を蛇蝎のように攻撃したのです。そこでイエスは宗教家に殺されたのです。

 宗教家は真理を述べる者を非常に嫌うのです。宗教家は私のことを気違いだと言うでしょう。私は自分の思想を述べているのではありません。イエスの思想をそのままに述べているのです。だから宗教家に殺されかねないのです。

 日本には宗教に熱心な人がいませんから、生きていられるのです。日本の宗教は皆半死のものばかりです。日本のキリスト教も半分死んでいます。だから私につっかかってくるような馬力がある人はいないのです。

 ところがイエスの時代はそうではなかったのです。イエスの時代のユダヤは宗教国家でした。その真ん中でイエスは宗教の悪口を言ったのです。ぼろくそに言ったのです。そうしてとうとう宗教家に殺されたのです。

 イエスは宗教家に殺されたのです。宗教家に憎まれ殺されたイエスを、現在のキリスト教はご開山として祀っているのです。宗教はこういうおかしなことをしているのです。

 宗教家にとことん憎まれたイエスを、キリスト教のご開山として崇めているのです。イエス・キリスト様として祀っているのです。もしイエスがもう一度やって来たら、牧師を掴まえて叱りつけるに決まっているのです。

 キリスト教はイエス・キリストの名によって商売をしているのです。「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は経を売る。遊女は五尺の身体を売って、一切の衆生の煩悩を安んず。柳は緑、花は紅のいろいろか、池の面に月は夜な夜な通えども、水も濁さず、影もとどめず」と一休禅師が言っているのです。

 仏さんはダルマ(法)を売っている。親鸞とか道元、日蓮たちお祖師さんは仏を売っている。末世の僧はお祖師さんを売っていると言っているのです。これはひどい言い方かもしれませんが、本当のことです。

 私は宗教も尊敬すべき点があると思います。建物が立派なことです。国宝級の建物があるのです。もし仏教がなかったら、善光寺の本堂、中尊寺金色堂、円覚寺舎利殿、日光東照宮、明通寺、瑞巌寺といった国宝級の建築物は建立されなかったでしょう。

 こういうものは芸術的価値に尊敬する価値があると思いますが、精神的に価値があると言っているのではないのです。ことに仏教は天地の創造ということを考えないのです。造化を考えないのです。造化の主を考えないのです。

 地水火風という四つの元素があって、これが組み合わさって地球ができているというのです。宇宙は無始無終であって、初めもないし終わりもないというのです。

 創造ということを考えません。万物は造られたものではなくて、初めからあったもので、終わりまであると考えるのです。ところが科学的には地球が四十五億年前に誕生したことが証明されているのです。また、地球がなくなることも証明できるのです。

 形あるものは必ず壊れるに決まっているのです。地球はいつかだめになるのです。従って地球に人間が住まなくなる時が来るに決まっているのです。

 国も社会も滅びてなくなるのです。人間の文明もすっかり跡形もなく消えてしまうに決まっているのです。仏教はこういう終末を考えないのです。終末論がありません。

 彌勒という思想がありますが、これは終末ということとは違うのです。仏教には宇宙の原理となるべきもの、宇宙の大元となるべきものがはっきりしていないのです。

 大日如来という思想もありますけれど、これは釈尊没後にできた思想です。釈尊が述べた思想ではないのです。これは密教思想でありまして、顕教にはこういう思想はありません。

 大日如来、毘盧遮那仏(びろしゃなぶつ)は造化の主と似たような所はありますけれど、聖書の天地創造の神とは全然違うのです。

 地球が存在する以上は地球が造られたことがなければならないのです。造られなければ現在存在しているはずがないのです。

 原因がなければ結果が発生するはずがないのです。何かの形で造られたから地球が存在しているのです。

 存在している地球はやがてなくなるに決まっているのです。そうすると地球はなぜ存在しているのか。人間がなぜ造られたのかということを考えなければならないのです。こういうことは仏教では一切説明ができないのです。ここに仏教の欠陥があるのです。

 般若心経だけでは人生の本当の意味が分からないのです。般若心経の空という思想は非常に良い思想です。聖書にはない思想です。この点は般若心経に大いに学ぶべき点だと思います。

 本来空というのは非常に優れた思想です。五蘊皆空は本当です。現在の人間の常識も、知識も、社会生活も、地球自身でさえもやがて空になってしまうのです。五蘊皆空というのは厳然たる事実です。

 聖書はそういう言い方をしていません。地球がやがて滅びることははっきり書いていますが、空という言い方をしていません。本来空という言い方は、端的で、日本人向きで大変良いと思います。だから般若心経を学ぶことはとても良いと思います。これは仏教を学ぶことにはならないのです。

 般若心経は釈尊自身の悟りであって、釈尊は宗教家ではなかったのです。今のお坊さんとは違います。王国の皇太子でした。宗教の素人です。イエスも素人です。イエスはナザレの大工の青年でした。

 大工の青年とか王国の皇太子という全くの素人が本当の真理を発見し、主張しているのです。だから般若心経を仏教と考えてはいけないのです。聖書をキリスト教と考えてはいけないのです。こういう考え方をするから、本当のことが分からないのです。

仏典と聖書を一つにして学ぶ

 仏典にない所が聖書にあるのです。聖書にない所が仏典にあるのです。般若心経と聖書を組み合わせますと、本当のことが分かるのです。般若心経は一切空と言っていますが、しかし皆様が現在生きているという事実があるのです。地球が回っているという事実があるのです。これは空であると言って片付けておけないのです。

 空ではない事実があるのです。お腹がすいてご飯を食べたいという事実があるのです。本来空と言ってもお腹がすくのです。

 人間は現存しています。これは空と言ってすましておけない問題です。そうすると空ではない実体がどこかになければならないのです。私たちが現在生きている状態が空であるとしても、空ではない実体がどこかになければならないのです。これをイエスは神の国(彼岸)と言っているのです。

 神の国は目には見えませんが、人間の霊において感じることができる国です。例えば皆様は現世にお生まれになりました。男は男として、女は女として生まれておいでになりました。これは誰のせいでしょうか。

 生まれたいと思って生まれた人はいないでしょう。死にたいと思って死ぬのではありません。生まれてきた、死んでいくという事実があります。一体誰が支配しているのでしょうか。

 人間ではどうにもならない事実があるのです。このような事実を、聖書は神と言っているのです。これは当たり前のことです。神というのが嫌なら、絶対でもいいでしょう。こういうものがあるのです。

 地球は現在回っているのです。人間が回しているのではありません。地球が回っている事実を、本来空と言ってすましている訳にはいかないのです。地球が回っているという原理をどこで見つけるかです。これは科学では説明できません。哲学ではもちろん説明できないのです。聖書を見なければしょうがないのです。

 聖書を見なければ、天地創造の事実は絶対に分かりません。人間創造の原理は聖書以外に書いていないのです。そこで般若心経の空を前編として、聖書の神の国を後編として見るのです。

 釈尊を前編とし、イエスを後編として学ぶのです。そうすると本当の意味での人間存在の価値が分かるのです。

 人間は現世に生まれてきたのですが、これは責任を持たせられたということです。

 人間は自分の意志によって生まれたのではありません。従って自分の人生を自分の気持ちだけで生きていてもよいということにはならないのです。これは非常に簡単なことですが、この簡単なことが自我意識に妨げられて分からないのです。誰も皆誤解しているのです。

 人間は自分の意志によって生まれてきたのではありません。従って、命や人生は自分自身の持ち物ではないのです。自分自身の持ち物ではないとしたら、この人生を自分の欲望に従って、自分自身の考えに従って勝手に生きていればよいというものではありません。

 道元禅師が、「受け難き人身を受け」と言っていますが、これは天意によるものであって、人意によるものではないのです。従って、人間の文明は本来人意に従って構成されるべきものではなく、天意が何であるかを弁えて、天意に従って人間文明の基本的な構想が立てられなければならないものですが、ルネッサンス以降の文明は、人間の欲望と人間の自尊心と、人間の自惚れが中心になって構成されているのです。

 文明は英語ではシビリゼーション(civilization)と言っていますが、これは市民生活とか、公民の暮らしという意味になるのです。現世で人間が生活することが文明の目的になっているのです。

 学問も、政治も、経済も、すべて生活一辺倒の考え方で成立しているのです。これは大変間違っているのです。

 人間は死ぬと考えているのですから、死ぬということを考えますと、人間としての責任を自覚しないままでただ生を楽しんでいるということは、人生を私物化している感覚になるのです。これは人生の本質を冒涜していることになるのです。

 基本的人権と言いますが、基本的というのはどこから来たのか、人間とは何であるかを十分に究明しないで、基本的人権と主張しているのです。これが間違っているのです。

人間の尊厳

 国連憲章に人間の尊厳性を守るという言葉があります。しかし人間の尊厳というのは何であるかということです。人間とは何であるかよく分からないままで人間の尊厳と言っているのです。

 国連憲章やドイツ憲法は、政治家的な概念で人間の尊厳という言葉を使っているのですが、政治の概念で人間の本質が分かるはずがないのです。これは現世で幸せに暮らしたらよいという考え方なのです。

 こういう上っ面の人生観、世界観、価値観で人間の尊厳という言葉を造っているのです。これは民衆に媚びて民衆を煽て上げている考えなのです。

 人間とは何かということを究明しないままで人間の尊厳という言葉を使っている。これは人間の冒涜であると考えられるのです。

 尊厳の尊とはとうといという意味です。厳とはおごそかという意味です。人間の存在がなぜ尊いのか。人間の存在が尊いということは常識でも分かるのですが、その真意が分からない。人間の尊厳は人間自身が造り出したものではないのです。

 自分は生まれたいと思って生まれたのではない。従って自分の尊さを自分が造り出したという考えは、全く根も葉もない妄念です。これは論じるまでもないことです。

 ところが人間は尊いと考えるのです。尊いには違いありませんけれど、人間の尊さの根源を考えないままで、ただ尊いと思うことはただの自惚れにすぎないのです。

 人間の尊さの原理を弁えないままで人間がひとかど尊いもののように考えている。だから死後において、それに相当する税金を徴収されることになるのです。これが霊魂の審判ということなのです。そうなるに決まっているのです。

 人間の価値を弁えないままでただ人間として生を楽しんでいる。基本的人権と言って威張りかえっている。基本的人権というのは全く亡者の空威張りになっているのです。

 人間は生きる権利があると考えています。生きる権利があると考えても、心臓が止まったらそんな権利は主張できないのです。人間の命は人間が製造できないのです。死ぬというのは嫌だと考えても、死ななければならない時には、死ななければならないのです。

 生命とはそういうものですから、生きる権利があるという言葉は、人間が用いるべきものではないのです。人間は生かしてもらっているのです。いわば宇宙の居候みたいなものです。生かしてもらっているのですから、生きているという大きな顔をすることが間違っているのです。

 厳というのは、いかめしい、おごそかという意味です。きびしいという意味もあります。厳格な父親と言いますと、厳(きび)しさを意味するのです。人間がおごそか、きびしさを本当に感じるのならいいのです。

 例えば、人間は何のために生きているのか。生を楽しむため、欲望を満足させるために生きていると考えるのなら、人間の尊厳性の本質を知らないことになるのです。

 人間はただ生を楽しむために生きているのではありません。人間として生まれてきた目的を完遂するために生きているのです。

 人間が現世に生まれてきた目的ということは、仏教的に申しますと成仏することです。一人前の人間として自分自身の魂を完成することが成仏です。

 人間は自分自身を完成しなければならないのです。自己完成をする責任があるのです。これが厳です。

 人間であるということについて、厳しい考え方を持たなければいけないのです。もし基本的人権ということを言いたければ、基本的人責を十分に考えなければならないのです。人責とは人間としての責任ということです。

 基本的な意味での人間としての責任、自己完成の責任、人間完成の責任、成仏する責任があるのです。

 成仏する責任を考えないで、ただ生きている権利だけを振り回すということは、甚だしい傲慢になるのです。権利と義務は裏表の関係で張り合わされているのです。これは当たり前のことです。

 ところが人権を主張する人間が、人責をまともに考えようとしない。これは人生そのものを侮っていることになるのです。

 人間がこの世に生まれてきたということは、実は大変厄介なことなのです。生を楽しむことではない。マイホームを楽しむことではないのです。これは脂汗を流さなければならない程責任が重いのです。

 人間は理性と良心というすばらしい機能を与えられているのです。人間の心理機能は霊長機能と言うべきものなのです。霊長機能を与えられている人間は、霊長責任を担当しなければならない。これは当然のことです。

 飛ぶ能力を持っている鳥は飛ばなければならないのです。考える能力を持っている人間は考えなければならないのです。ただ考えればいいのではない。考えにも色々ありますけれど、現在の人間はだんだん考えることが嫌になりまして、あまり考えなくなっているのです。テレビとかラジオとかによって色々な知識を与えられて、それでいいと考えている。

 いわゆる耳学問で生活していけるのです。生活くらいはしていけるでしょう。こんなことではとても人間完成はできないのです。人間としての責任を全うすることはできないのです。

 責任を全うしないままの状態でのらりくらりと生きていたということは、死後において当然責任を追求されることになるのです。

 人間は死ぬのです。死ぬということをまともに考えなければいけないのです。生きる権利があるといくら言ってみたところで、死ぬ時は死ななければならないのです。

 人間は自分の身長を伸ばしたり縮めたりを勝手にできないのです。生年月日を変更することもできないのです。人間は絶対的な条件のもとに、神から人生を与えられているのです。造化の主から与えられているのです。

 人生は本質的に与件です。与えられた条件です。これが人生の本質です。ところが人間は自分で生きているというとんでもない錯覚をしているのです。この錯覚に基づいて、宗教という妙なものができているのです。

 人間は自分で勝手に生きていると思っているから、宗教ができるのです。そして死んだら極楽へ行けると思っているのです。死んだら天国へ行けると思っているのです。そんな資格を誰が与えたのでしょうか。

 イエスは「おまえたちは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。そういう心で神を信じようと考えては絶対にいけない」と言っているのです。ところがキリスト教はこれをしているのです。普通の人間の常識で神を信じて、死んだら天国へ行けると思っているのです。

 これはイエスの考えとは全然違います。全く違うのです。

 私は、聖書はキリスト教の教本ではないとはっきり断言致します。、般若心経は仏教の経典ではないと言っているのです。般若心経は仏法です。仏法と仏教は違うのです。

 神の福音とキリスト教とは全く違います。そこで私は宗教ではない般若心経と聖書を提唱しているのです。

 私たちは人間としての責任を全うしなければならないのです。これは人間としてこの世に生まれたことに対する本質的な責任です。自分自身の霊魂に対する義務です。これは人生のノルマです。

 人生にはノルマがあるのです。これを果たさずに死んでしまえば、必ず後から強制執行されるのです。これが地獄の刑罰です。宗教でも地獄と言いますが、私が言うこととは全然違うのです。

 人権を振り回している人間が、人責を考えないままで生きていたら、それに対する税金を徴収されるのは当然です、人間づらをしてこの世に生きていたことに対する税金を、手厳しく取り立てられることになるのです。

 私たちは目の黒いうちに、自己を完成しなければならないのです。そうしたら死ぬことがなくなるのです。

人間はなぜ死ぬのか

 人間はなぜ死ぬのか。考え違いをしているから死ぬのです。生き方が間違っているから死ぬのです。正しい生き方をしたら死なないのが当たり前です。

 命というのは死なないものです。死ぬに決まっているものは命とは言えないのです。現在の人間は生きてはいるけれども、命の本物を知らないのです。こういう状態です。こういう人間が基本的人権と言っているのです。これはまるで狂人が刃物を振り回しているようなことになるのです。これは危険なことなのです。

 現代では人権という言葉が、神様という言葉に置き換えられているのです。自分が世界で一番偉いと考えているからです。

 現在の人間は現象を実体と考えて、常識、知識を形成しているのです。ところが現象は実体ではないのです。生あるものは必ず死ぬのです。形あるものは必ず壊れるのです。形あるものは必ず壊れるから、現象は実体ではないのです。

 現在の物質現象は甚だ不完全なものです。人間自身も不完全なものです。不完全な人間が不完全な地球に住んでいるのに、人間は完全だと勝手に自惚れているのです。人間はこういう間違いをしているのです。

 この間違いに気付いて、人生を冷静に見る必要があるのです。そのためには般若心経の五蘊皆空を、はっきり捉える必要があるのです。

 般若心経は単なる思想であってはいけないのです。悟りでなければならないのです。悟りと思想とは違うのです。釈尊は自分の中にある仏性に従って悟りを開いたのです。そこで般若心経は観自在菩薩が悟ったと書いているのです。

 釈尊は自分が悟ったと言わないで、観自在菩薩が悟ったと言っているのです。人間の悟りではなくて、観音さんの悟りなのです。こういう言い方を般若心経はしているのです。

 自分自身の中にある仏性によって悟りを開いたのです。仏性は皆様の中にもあるのです。これは皆様の中にある魂の本心です。潜在意識、または深層意識というものです。魂の本心に従って直感すれば、常識で考えているものとは違った人生が見えてくるのです。

 潜在意識に忠実な気持ちを持って自分自身の人生をお考えになれば、人生が空であること、そして、死なねばならない人間であることを率直に認めれば、般若心経の本当の意味が分かってくるのです。

 色即是空に近づくことができるのです。皆様の中に隠されている潜在意識が顕在意識として現われてくることを悟りというのです。

 色即是空という釈尊の提案がそのまま自分の常識になることです。五蘊皆空という人間の実体的悟りが、そのまま生活感情になってしまうことです。これが本当の悟りです。

 今の仏教にはこういう悟りはありません。今の仏教はすべて商売です。新約聖書にはイエス・キリストの信仰でなければ救われないとはっきり書いているのです。人間が神を信じるのではない。イエス・キリストの信仰を持てとはっきり言っているのです。

 イエスは、「神の信仰を持て」と言っています。英訳では、have faith in Godとなっています。神の信仰を持てということになるのです。これを日本の聖書は、神を信じなさいと訳しているのです。訳し方が間違っているのです。宗教家が聖書を訳すとこういう間違いが起こってくるのです。こういう間違いが仏教にも聖書にもあるのです。

 私は般若心経と聖書を専門家だけに任せておくべきではないと思うのです。私たちの率直な本心に従って、人間の魂のあり方に従って、宗教的な考えに捉われないで、素直な単純な感覚で般若心経と聖書を学んでいきたいと考えているのです。

 そうして人間として現世に生まれてきた責任を全うしたいと思うのです。

 色即是空ということを簡単に説明しますと、物が存在するのではない。運動が存在しているという意味になるのです。原子の中にある原子核の回りを、電子が回っている。電子は原子核の回りを一秒間に一億四千五百万回、回っていると推測されているのです。

 もし電子が回転しなければ、物質構造は成立しないのです。従って物質があるのではない。運動があるのです。このことと色即是空は同じことです。

 今から二千五百年も前に、釈尊は色即是空と喝破しているのです。物質は存在しないとはっきり言っているのです。

 インド哲学者、仏教学者であった、故中村元東大教授は、色即是空について次のように言っているのです。物質的現象には実体がないと言っているのです。これが間違っているのです。こういう説明をすると、空という意味が分からなくなるのです。

 どう説明したらいいかと言いますと、物質的現象は実体ではないと訳したらいいのです。物質的現象は実体ではないのです。これはアインシュタインの学説と同じことになるのです。

 物質は存在しないのですから、唯物論、唯物史観は成立しないのです。物質は存在しないということを自然科学は証明しているのです。物質が存在しないということが証明されたので、原子爆弾が製造されたのです。水素爆弾も製造されたのです。

 もし物質が存在しないという理論が嘘であるなら、原子爆弾はできないはずです。原子爆弾ができているということは、物質が存在しないということを証明しているのです。

 色即是空ということは、ただの思想ではありません。本当のことです。これは宗教ではないのです。これを宗教の観念のように考えていることがおかしいのです。

 現在の皆様の生活を根本的に立て直すためには、断固とした宗教革命が必要です。仏教という概念、キリスト教という概念が全世界に瀰漫しているのですが、この概念を否定して、新しい本当の真理を究明することです。釈尊のように、またイエスのようにはっきりした確信を持って、人間の考えは間違っていると断定する勇気がいるのです。そうしたら皆様は死なない命が分かるのです。

 今の人間の一番大きな弱点は、死ぬということです。死という事実に対して今の文明も、今の学問も、全く無力です。無能力です。死に対して今の学問も、文明も考える力を持っていないのです。だから今の文明は、本当の意味では文明と言えるものではないのです。死を解決できないということが、今の文明が本物ではないことを示しているのです。

 人間にとって一番大切なことは、生か死かということです。これが一番大きいテーマですが、これをはっきり究明できない学問は信じるに足りないものになってくるのです。

 パウロは、「肉の思いは死である」と言っていますが(ローマ人への手紙8・6)、肉の思いというのは人間の常識、知識です。この間違いを十分に弁えさえすれば、私たちは死ななくなるのです。

 イエスは、「私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。イエスという人をよくよく勉強して頂いたら、人間が死ぬということはただの迷信だということが分かるのです。

 本当の命を皆様に了得して頂いたら、皆様の現実の生活のあり方が、根本から変わってしまうのです。そうして釈尊がしたような生き方、イエスが実行した生き方が皆様にもできるのです。

 人間は死ぬために生きているのではありません。現世の常識を持ったままの気持ちでぼやっと生きていると、必ず死んでしまいます。そこで悟らなければいけないのです。

般若心経は前編、新約聖書は後編

 しかし悟っただけでいいかと言いますと、そうではないのです。五蘊皆空が分かれば、現象が実体ではないということが分かりますが、実体とは何かということを般若心経では教えてくれないのです。そこで聖書を勉強しなければならないことになるのです。

 もし般若心経だけで足りるのなら、わざわざ聖書を持ち出す必要はないのですけれど、般若心経だけでは本当の命が分からないのです。

 現象は実体ではないとしますと、実体とは何であるか。こういうことを勉強しなければいけないのです。

 イエスは復活によって死を破ったのです。死を破ったことによって実体とはこういうものだと証明しているのです。これが神の言(ことば)です。

 般若心経と聖書はこのような関係になるのです。新約聖書は非常にレベルが高いのです。神の国の標準で書いているのです。だから初めから日本人が新約聖書に取り組んでもだめです。

 今のキリスト教の人々は皆考え違いをしています。今の人間の常識で聖書を信じようとしている。また信じたつもりでいるのですけれど、これは間違っているのです。新約聖書は非常に高い思想を命題にしているのですが、五蘊皆空をはっきり踏まえて、色即是空という前提に立って神の国を見なければ、本当の十字架の意味が分からないのです。

 そこで般若心経は前編になり、新約聖書が後編であると考えたいのです。ユダヤ人にはモーセの掟が新約聖書の前編でした。西洋人の前編はソクラテスです。アラブ・アフリカ人の前編はマホメットです。東洋人には釈尊が与えられているのです。

 新約聖書の神の国、仏典がいう彼岸に到達するためには、前段階としての踏み台がどうしても必要になるのです。五蘊皆空をはっきり捉えないままで聖書を勉強しても、偽善者になるに決まっているのです。

 現在のキリスト教は釈尊という踏み台なしに聖書を勉強しているために、皆偽善者になっているのです。これがキリスト教の本当の姿です。

 そこで私たちは般若心経と聖書の両方を勉強しなければならないと言っているのです。日本人は日本人らしく聖書の真諦を捉えたいと思っているのです。

 人間完成ということは端的に申しますと、人間は何のために生きているかということを究明したら分かるのです。

 キリスト教で言っている神を信じるという考え方は宗教になります。死んでから天国へ行くというのも宗教です。現在の人間が世間並みの常識や知識を持ったままで救われたいと考えているのですが、人間の常識や知識が五蘊です。

 自分の常識が自分を殺すことになるのです。このことをまずお知りになることです。

 今皆様が生きておいでになることがどういうことかということをよくお考えになりますと、空気を人間が造っているのではないことがお分かりになると思うのです。水を自分で造っているのでもない。森羅万象を人間が造っているのでもないのです。

 今こうしてお話しをしている間に時間が流れています。時の流れはどこから来るのかということです。こういうことを経験するために人間は生きているのです。商売をするためでもないし、仕事をするためでもないのです。マイホームを楽しむためでもないのです。

 生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのかをはっきり見極めるために、この世に生まれてきたのです。これを見極めれば死ななくなるのです。

 なぜかと言いますと、宇宙の大生命が皆様個々の命として現われているからです。例えば田中さんの命とか、加藤さんの命があるのではない。命は宇宙にたった一つあるだけです。この命が個々の人間に現われているのです。また、万物として現われているのです。鳥の命も、蟻の命も、雲の流れ、水の流れも、皆宇宙の命の現われです。

 宇宙の大生命が皆様の肉体に働いている。これを生理現象として経験しているのです。人間の生理現象は宇宙の命の働きです。

 現在皆様は宇宙の命を持っておいでになるのですが、この命は死なない命です。宇宙の命が死ぬというばかなことはないのです。

 皆様が現在生きておいでになるというこの状態を、本当に見極めさえすれば、皆様は死ななくなるのです。そのために一番手っとり早い方法は、イエスの復活を勉強することです。これは一番早い方法ですが、自分だけで聖書を読んでも分かりません。

 キリスト教はだめです。キリスト教は教義に従って聖書を勉強しているからです。

 イエスが行った奇跡をどう考えるかということですが、もし私がイエスのように病気を治したら、人々が押しかけるでしょう。マスコミが大々的に取り上げるでしょう。そうしたら聖書の命を受け取ろうという人がいなくなるのです。だから神は私にそういうことをさせないのです。そういうことをすることは、現在では邪道になるのです。

 イエスの時代には、奇跡によってキリストであることを証明しなければならなかったのです。今の時代に奇跡を行いますと、マスコミにもてはやされて超有名人になるでしょう。そうすると聖書の言葉の命が全く無視されてしまうのです。

 聖書の言葉をしっかり捉えることが大切です。聖書の言葉が皆様の命になることです。これが決め手です。これが聖霊を受けるということです(ヤコブの手紙1・18、21。ペテロの第一の手紙1・23)。

 聖霊を受けなければだめです。キリスト教の勉強はだめです。キリスト教の勉強はキリスト教の教義によって勉強しているからです。教義と真理とは違うのです。教義は教義、真理は真理です。聖霊は真理の御霊です。真理の御霊によらなければ真理は分かりません。

 真理の御霊によればイエスの復活がはっきり分かります。現在皆様はそれを持っておいでになるのですが、それが分からないのです。

 今のキリスト教で、イエスの御名をはっきり考えている人はいません。ザ・ネーム・オブ・ジーザス・クライス(the name of Jesus christ)が救いになるのです。

 ヨハネは書いています。「彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・12)。彼を受け入れた者、即ち彼の名を信じた者となっているのです。イエスを受け入れるということは、彼の名を信じることなのです。これが今のキリスト教にはないのです。

 彼を受け入れるということは、彼の名前の本質を受け入れるのです。彼の名前が意味する本質を受け入れるのです。

 名は体を現わすという言葉がありますが、イエスの名前はイエスの実体を現わしているのです。イエスの実体を皆様が本当に受け入れることになりますと、神の子になることができるのです。

 今のキリスト教は教義を教えてくれます。イエスを信じれば救われるとか、十字架の贖いによって罪がなくなると言いますが、それは教義でありまして、イエスの名前の実体ではないのです。神の実体ではないのです。神の実体、イエスの実体がキリスト教では分からないのです。

 神が分からない、イエスが分からないのは、本当の信仰ではないからです。神の実物が分かれば、人間は救われるに決まっているのです。

 ヨハネは次のように述べています。

 「なお、私が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(ヨハネの黙示録14・1)。

 人間の額とは何であるか。小羊の名とは何であるか。神の名とイエスの名がお分かりになれば、間違いなく永遠の生命がお分かりになるのです。

 これは皆様が現在持っておいでになるのですけれど、聖書の勉強の仕方が間違っているために分からないのです。

 もし皆様が永遠の生命の実物を掴まえたいとお考えになるのなら、求めて頂きたいのです。イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と言っています(マタイによる福音書7・7)。

 人間は自分が求めたいと思っていますが、この自分がという意識が間違っているのです。皆様は自分の意志によってお生まれになったのではありません。自分という意識がどこからきたのかということを冷静にお考えになりますと、実は自分はいないのです。

 人間は魂として人生を経験するために、この地球上にやって来たのです。神によって地球に生まれさせられたのです。地球上に生まれたのは、生きているということを経験するために生まれたのです。

 経験するということは、自分という人格がなければ経験できません。人間の魂に人格が与えられたのです。これが私という人称人格です。人称人格としての私がないことには経験の当体になるべきものがありません。経験するという以上、経験する当体がなければならないのです。これがなければならないのです。そこで私という意識が与えられているのです。

 この宇宙において、はっきり自分と言えるものは神ご自身だけです。神以外に自分と言えるものは一人もいないのです。従って、人間が自分と考えていることは偽人格です。なぜなら人間は自分の意志で生まれたのではないからです。また、自分の力で勝手に生きている訳にはいかないのです。

 人間は空気を造っているのでもないし、水を自分で造っているのでもないのです。お米、野菜、果物、肉、魚を自分で造っているのでもないのです。人間は自分一人で生きるという力は全く持っていないのです。

 空気や水がなかったら、どうして生きていけるのでしょうか。時間や空間がなかったら、どうして生きていけるのでしょうか。自分一人で存在するということは不可能です。ところが人間は自我を持っているのです。自分が一人で独自に生きていると思っているのです。この自我意識が根本から間違っているのです。

 ただ経験の当体としての人格がなければ、今日という日に経験できないのです。これは人称人格としての自分です。

 アイ(I)というのが人称人格です。アイ(I)とエゴ(ego)とは違うのです。自我はエゴです。アイというのは天地自然に従って生きている者です。これがアイです。アイとエゴは違うのです。

 私たちは天地自然に従って、おのずから生かされているのです。みずから生きているのではなくて、おのずから生かされているのです。おのずから生かされている私というのは、自主的人格ではなくて、客観的人格です。これが人間の生命の実体です。

 イエスの名というのはこれを証明する名前です。

 自分が生きていると思っている人は、自分が救われなければならないと考えるのです。自分が天国へ行きたいと考えるのです。これが人間の迷いです。自分がいるという考えは神に対立する考えです。

 自分とはっきり言えるのは、神だけです。人間には自分というだけの資格はないのです。自分の意志で生まれてきたのではありませんから、自分という人格は人間にあるはずがないのです。

 自分が生きているという事実はありません。皆様は知らず知らずのうちに、神のために生きているのです。だから自分の都合をいうことは間違っているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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