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色即是空と空即是色

 皆様が現在生きていらっしゃる命は、必ず死ぬ命です。これを皆様は後生大事に握り込んでいるのです。なぜそういうことをしていらっしゃるのでしょうか。

 皆様は自分の命が死ぬ命に決まっている命であることを、十分にご承知のはずです。死ぬべき命であることをよく知っていながら、その命にしがみついている。これはどういうことでしょうか。

 こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。これは何でもないことです。ちょっと落ち着いて考えれば、すぐに分かることなのです。魂になって考えたら分かることなのです。

 現代文明は人間の魂を殺しているのです。現代文明を指導しているのがユダヤ民族です。動物の世界には皆ボスがいるように、人間の世界にもボスがいますし、国家的にもボスがいるのです。

 ボスがいるのは当たり前です。人間が生きているのは何かのボスに引きずられているのですから、ボスがいることは悪いことではありません。ボスが間違えますと、それに従っている人々も皆間違ってしまうことになるのです。

 人間のボスであるユダヤ人が、肉体的に生きること、肉体の欲望を満足することが、人間の幸福だという妄想を描いているのです。

 レーニンは人間の幸福は欲望の満足であると言っています。しかし、レーニンはこういうことを本気で考えていたのではないのです。レーニンはそれほどばかではない男だったからです。

 いわゆる大衆を扇動するために、こういう言い方をしたに違いありません。これがユダヤ人のやり方です。ユダヤ人は自分たちの思想を実現するためには、あられもないことを言うのです。本当ではないことを本当らしく言うのです。

 唯物史観もそのとおりです。マルクスは唯物史観を本気になって考えていたかどうか分かりません。マルクスは物が世界を造っている、物が文明を造っているという理屈をさんざん言ったのですが、ユダヤ人はそういう薄っぺらなことをいう民族ではないのです。ところが、ある謀略の基に陰謀的な考えによって、人類を一つの方向に導いていこうという悪い考え方をしているユダヤ人がいるのです。

 その結果、人類全体がしどろもどろの状態になってしまったのです。訳の分からない文明に引きずり込まれてしまったのです。何のために人間が生きているのか全く分からないことになってしまったのです。

 死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思うように仕向けられて、それを信じるようになってしまったのです。

 今から三百年前の日本人はそんなことは考えていなかったのです。

 明治時代の前半までは、「生ある者は必ず死する。形ある物は必ず壊れる」とよく言ったのです。こういう考え方が常識だったのです。

 もっと以前の日本人は、人生を空じることくらいは当たり前のように考えていたのです。自分の命のあり方をよくよく吟味するという考え方です。こういう考え方が日本人の基本的な姿勢になっていたと言えるのです。

 最も本当の命の真髄を捉えたという人はほとんどいませんが、空という感覚は日本人の普通の考え方だったのです。

 この世の生活を第一に考えるという考え方は、明治初年頃までは非常に薄かったのです。現在ではこの世に生きているということ、現世でいわゆる欲望的な生活を送ることが、人生の目的のようになっているのです。

 現在文明によって日本人の魂が見事に殺されているのです。その結果、死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込まされているのです。

 これをおかしいと思われないでしょうか。皆様の命は死ぬに決まっているのです。今皆様が肉体的に生きている命は、死ぬに決まっているのです。もちろん、肉体は命の真髄ではないのです。命の入れ物です。肉体的な生命がある間に、本当の命を見つけさえすれば、死なない命を掴まえることはそれほど難しいことではないのです。

死なない命

 皆様はこの世に生まれた時には、死なない命を持っていたのです。もちろん赤ちゃんの時には、それを意識することはできませんでした。しかし生まれたての赤ちゃんは、死なない命を持っているのです。

 人間の魂は天から来たものです。天から来たばかりの命は死なない命です。しばらく生きていますと物心がついてきます。人間の常識がついてくるのです。そのために、生まれながらの状態がなくなってしまうのです。そうして物心の虜になってしまうのです。その結果、皆様は死ぬ命が自分の命だと思い込んでしまったのです。

 生まれたての赤ちゃんは、死なない命を持っているのです。それが赤ちゃんの顔に現われているのです。

 生まれたての赤ちゃんの顔と、大人になった皆様の顔を比べてみてください。大人の顔には死ぬに決まっている人相がありありと出ているのです。

 理屈ではなくて本当のことを考えて頂きたいのです。般若心経は本当のことをまともに考えさせるような言葉を書いているのです。ところが般若心経を読んでいながら、まともに自分の命のことを考えることが、今の日本人はできなくなっているのです。

 これは文明の仕業です。ユダヤ人文明、白人文明がこういうことをしてしまったのです。白人文明のリーダーシップを取っているのがユダヤ人です。

 白人文明を今日のようにしたのは、十五、六世紀からのユダヤ人の働きです。これがルネッサンスです。その結果、白人社会が全部物心ばかりを持つ人間社会になってしまったのです。日本人は文明の名において、教育の名において、白人の虜になってしまったのです。これがいわゆる文明開化と言われるものです。

 その結果、日本人は命を真面目に考えなくなってしまったのです。生活ばかりを考えるようになったのです。欲望ばかりを考えるようになったのです。日本人はそういう人間になってしまったのです。

 皆様は大人になり切ってしまいました。ユダヤ人がまず大人になって、白人が大人になって、日本人も他の国の人々も、全部大人になってしまったのです。

 今や文明全体が崩壊しようとしているのです。潰れていこうとしているのです。こういうことに皆様は気が付かないのでしょうか。

 死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込んでいる人間が何億人いようと、何十億人いようと塵灰みたいなものです。

 死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込んでいる。全く哀れな人間が全世界にいるのです。こういう文明を間違っていると思わないのでしょうか。

 般若心経はこれが間違っているとはっきり書いているのです。五蘊皆空という言い方で、はっきり言っているのです。

 今日の仏教はこれを知らないのです。こういうことを仏教は全く知らないのです。従って、文明が間違っているように、仏教も間違っていることになるのです。

 文明の間違いを厳しく言いますと、宗教が潰れてしまうことになるのです。キリスト教も、回教も、ヒンズー教も、仏教、ユダヤ教も、皆間違っているのです。宗教はどれもこれも人間を騙すためにあるのです。

 神ではないものを神と言い、仏ではないものを仏と言っているのです。何が何か、訳が分からないようにしてしまうのが宗教です。命のことを真面目に考えないように仕向けてしまうのです。これが教育、文化、文明というものです。ところが人間は、今の文明を批判するどころか文明を礼賛し、もてはやしているのです。人類全体が文明を賛美、礼賛しているのです。

 死んでしまう命を自分の命だと思うことは、最も愚かなことなのです。こういう間違いを皆様は押しつけられているのです。自分一人が間違っているのではありません。世の中全体の人間が間違っているのです。文明が間違っているからです。

 現代文明は根本的に間違ってしまっているのです。これは皆様一人ひとりの考えで間違っているのではありません。皆様は文明に引きずられて間違いを押しつけられてしまっているのです。これがばかばかしいのです。

 死んでしまうに決まっている命を自分の気持ちで尊んでいるのならしかたがないのです。業ということになるのでしょうけれど、実は皆様は自分一人でそういう間違いをしているのではありません。世の中全体が間違っているのです。文明が間違っているのです。

 その結果、皆様方は側杖をくらって、間違った方向へ引きずられて行っているのです。

 皆様は文明を冷静に考えたことがあるでしょうか。ただ文明がすることに、ずるずると引っ張られているのです。これがいけないのです。

 私は現在の皆様の生活状態が悪いと言っているのではありません。人間の心掛けが間違っていると言っているのです。

 もちろん生活はしなければなりません。生活のことを考えることが間違っているのではありませんけれど、人間は生活するためにこの世に来たのではないのです。

 肉体は一定期間使用すれば、やがて使えなくなるのです。肉体が使えなくなれば霊魂と分離されることになるのです。これはしかたがないのです。しかしこれは死ぬことではありません。生きる形が変わるだけのことです。

 ところが人間は、この世の生活のことだけしか考えていません。命のことを考えないで、肉体的なことしか考えていないのです。そこで欲望中心の生活になってしまうのです。これが現代文明の根本的な間違いです。

 アメリカやヨーロッパのしどろもどろの状態をご覧ください。全くめちゃくちゃになろうとしているのです。アメリカが潰れたら白人社会は全部潰れるでしょう。白人社会が潰れたら、世界全体の文明構造が潰れるのです。こういう危険性が、目の前に迫っているのです。

 これは命に対する考え方が間違っているからです。原因はこれだけです。命ということが、現代文明のリーダーと称する人々に、全く分かっていないのです。ただそれだけのことです。

 側杖をくらっている大衆はめちゃくちゃにされているのです。政治家が間違っているのですけれど、まず私たち一人ひとりが、命をもっと大切に考えなければいけないのです。

 今の大人が経験している命は、必ず死ぬに決まっている命です。今の大人の思想は根本的に文明に汚染されてしまっているのです。そして文明を奉じてしまっているのです。

 文明を奉じるのはいいでしょう。また、文明を活用するのはいいでしょう。しかし文明にかぶれることはいけないのです。文明はどんどん批判すべきです。

 死なない命を見つけるということは、自分の霊魂に対する責任です。この責任をぜひ果たして頂きたいのです。

 皆様はこの世に生まれた時には死なない命を持っていたのです。生まれたての赤ちゃんは死なない命を持っているのです。

 これは赤ちゃんの顔をよくご覧になったら分かります。赤ちゃんの顔は死ぬ顔ではないのです。死なない顔です。だからたまらなくかわいいのです。邪気が全然ありません。邪気が全然ないということは、物心を持っていないということです。

 人間の物心は邪気そのものです。大人の気持ちは物心そのものです。大人のことを英語ではアダルト(adult)と言います。アダルタラス(adulterous)になると邪悪そのものになるのです。

 大人の心は邪悪そのものになってしまっているのです。もし皆様がもう一度赤ちゃんの気持ちになりたいと思われるのなら、般若心経の五蘊皆空を実行して頂きたいのです。そうしたら、大人の気持ちから逃れて、赤ちゃんの気持ちに帰ることができるのです。大人の常識に捉われないで、心が赤ちゃんになることが十分にできるのです。十分にできるのですから、実行して頂きたいのです。

 十二因縁とか四諦八正道というのは仏教の概念ですが、これは大人の学問です。これを勉強すればするほど、人間の頭は大人の考えになっていくのです。そうして何が何か分からなくなってしまうのです。

 仏教教学は人間に命を与えないのです。仏教をいくら勉強しても人間は赤ちゃんになれないのです。理屈を言う人間にしてしまうのです。

 仏教大学を出てお坊さんになるのです。日本の仏教はお釈迦さんの考えとは全然違う方向へ行ってしまっているのです。

仏教を否定している般若心経

 般若心経は五蘊皆空と言っています。十二因縁と四諦八正道を否定しているのです。だから般若心経は仏教の概念ではないものを説いているのです。

 五蘊とは何か。人間は目で見たら、見たままのものがあると思っているのです。それに従って考えたり、学問を勉強したり、仕事をしたり、人と付き合ったりしているのです。

 人間は目で見ているという気持ちを中心にして、人間の心全体ができているのです。これを五蘊と言っているのです。これが大人の心です。

 五蘊が大人の気持ちです。私は赤ちゃんの気持ちで話しているのです。気持ちは赤ちゃんですが、言葉使いは大人です。話している内容は赤ちゃんの内容です。今の大人の命に対する考えを根本的に否定しているのです。

 般若心経は仏教の教学である十二因縁、四諦八正道をはっきり否定しているのです。無苦集滅道、無無明亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽と十二因縁をはっきり否定しているのです。

 だから般若心経は仏教の教学を否定していることになるのです。私の言い方は大人の赤ちゃんが話しているのです。しゃべり方は大人ですが、心は赤ちゃんです。赤ちゃんがものを言っているのです。

 大人の考えは五蘊皆空です。家族も、近所の人も、学校も職場も、皆大人ばかりです。皆様は大人の中で生きている。つまり五蘊の中で生きているのです。だから死なない命を見つけることは簡単にはできないのです。

 今の大人の状態から判断しますと、死なない命を見つけることは簡単にはできないのです。

 私は若い時から、世間の大人はとんでもない考え違いをしていると思ったのです。食って寝て、食って寝て、子供を産んで死んでいく。こればかり六千年もしてきたのです。

 食って寝て、食って寝て、大人になって死んでいく。子が親になり、子が親になって死んでいく。こればかりを繰り返しているのです。これはおかしいと思ったのです。人間は何かとんでもない間違いをしているらしい。

 宗教に根本的な間違いがある。教育に根本的な間違いがある。大人の常識の土台が間違っているのではないかと思ったのです。

 色々の本を読みましたが、どんな本を読んでも、本当の命のことは書いていないのです。仏教も勉強したのですが、結局仏教は商売をしていることが分かったのです。宗派神道も皆商売です。宗教はすべて商売をしているのです。

 般若心経を本当に信じたら、今の寺の中にはおれないことになるのです。寺どうしのお付き合いができなくなるのです。今の寺どうしのお付き合いは、五蘊でなかったらできないのです。欲がなければ付き合いきれません。

 ところが般若心経は人間の大人の考えは間違っていると言っている。これが五蘊皆空です。だから本当の命は今の宗教とは全く正反対のことになっているのです。

 私は色々なことを勉強しましたが、結局命は宗教の中にはありませんでした。人間の教えの中には命はありませんでした。

 般若心経は人間の教えではありません。人間の教えの外に立っているのです。観自在菩薩の悟りが般若波羅蜜多です。これは悟りであって教えとは違います。

 仏教は般若心経の字句の説明くらいはしますけれど、色即是空を本当に実行しているお坊さんは一人もいないのです。これを実行していたら仏教商売ができないからです。

 現在の間違った文明を造ったのはユダヤ人でありまして、ユダヤ人のことをよく勉強する必要があるのです。

 ユダヤ人問題は文明の中心テーマでありまして、この問題の本質が分かる人は日本には非常に少ないのです。ほとんど分からないと言ってもいいでしょう。

 日本は文明国の中で一番立ち遅れていた民族でありまして、日本がようやく世界の仲間入りをしたのは、日露戦争が終わってからです。それまで日本は白人社会の中では問題にされていなかったのです。今でも日本は政治的にはあまり重要視されていないようです。これは日本の島国根性がそのようにさせているのです。

 世界の歴史の歩みから立ち遅れていたこと、徳川三百年の鎖国政策で外国との門戸を閉ざしていたので、外国からの影響を受けることが少なかったのです。

文明をリードしているユダヤ人

 ユダヤ人とはどういう民族なのか、分からないのです。

 ユダヤ人というのは現代の文明をリードしている民族です。現代文明を賛美する立場で考えますと、ユダヤ人ほど傑出した民族はいません。現世の世界で一番すばらしいのがユダヤ人です。現世を現在の状態で引きずり回しているのがユダヤ人です。

 現世をこのように引きずり回しているということが、人間に理想を示していないということになるのです。現世に生きていることだけに能力を発揮しているのです。

 この世でメシア王国を造ることがユダヤ人の狙いです。この世に生きているということだけで考えますと、ユダヤ人ほど立派な民族はいません。

 ユダヤ思想というのは現世に生きている人間の生活を指導する考え方であって、この世に生きているという人から考えますと、政治的に、経済的に、学問的に、芸術的にユダヤ人ほど優れた民族はいないのです。日本人などは全く問題にならないのです。

 ところがユダヤ人が一番悪いのです。人間の命の捉え方を間違えたからです。

 イエス・キリストはユダヤ人です。世界の優れた学者、芸術家、音楽家、政治家、経済学者の中にはユダヤ人が数多くいるのです。世界歴史の中で特筆大書されているのはユダヤ人です。

 一番上等の人はユダヤ人です。一番悪いのもユダヤ人です。困ったことですが、これがユダヤ人です。どのように悪いのかと言いますと、生活主義、肉欲主義、欲望主義を世界にばらまいるからです。ユダヤ人が世界の指導をしたいからそういう行動をしているのです。

 共産主義思想を造ったのは、マルクスというユダヤ人です。ユダヤ人は共産主義という単純な思想を信じる民族ではありません。二重、三重の腹を持つのがユダヤ人です。日本人のような単純な人間とは違います。

 このユダヤ人に覚醒を促すことが、私たちの目的です。ユダヤ人さえ良くなれば、世界が良くなるに決まっています。ユダヤ人さえまともな状態に立ち帰れば、ユダヤ人の祖先のアブラハムの状態に立ち帰れば、驚くべき平和な世界になるのです。そうなるに決まっているのです。

 私はそれを狙っているのです。ユダヤ人を何とか立ち直らせてあげたいのです。ユダヤ人が一番大切な民族だと分かっているから、私はユダヤ人を叱っているのです。一番かわいいから、一番ぼろくそに言わなければならないのです。

 現世で一番悪いのがユダヤ人です。日本人もあまり良くないのですが、エコノミックアニマル程度です。とにかくユダヤ人はひどい民族です。このユダヤ人に反省を促すことが、全世界に本当の平和を到来させる唯一無二の方法です。

 日本がいくら立派になっても、政治的に、経済的に、有力な国になっても、とてもユダヤ人には及ばないのです。

 私はユダヤ人を愛しています。ユダヤ人の魂を愛していますから、ユダヤ人を本当のユダヤ人にしてあげたいのです。祖先のアブラハムのようなユダヤ人になってもらいたいのです。だからユダヤ人をぼろくそに言うのです。

 現世主義、欲望主義の立場から考えると、ユダヤ人は一番すばらしいのです。すばらしい大民族です。

 人間は命が中心であって、現世の生活が中心ではないのです。人間の本質は魂であって、生活が中心ではないのです。ところが生活中心が人間の生き方だと言いふらして、世界全体をその方向へ引っ張っていったのがユダヤ人です。

 ユダヤ人の考え方が悪いために、全世界が物質文明によって引きずり回されているのです。やがて物質文明は大混乱に陥るでしょう。

 このような私の話は複雑怪奇かもしれませんが、人間は現世に生きるために生きているのではないのです。命の真髄を見極めるために生きているのです。

 般若波羅蜜多が人間の目的です。彼岸へ渡ることが人間の目的です。生活することが目的ではありません。

 日本も経済大国になることが目的ではないのです。日本の目的は別になければならないのです。現在の日本の政治家は日本の目的を知りません。教育者も宗教家も知らないのです。日本という国が何のために存在するのか。これが日本の指導者に全然分かっていないのです。

 イエスはユダヤ人を良くしようと思っていたのです。ところがユダヤ人はイエスの真意を誤解してしまいました。彼らの大多数が現世主義の考え方をしてしまいましたから、イエスと正面衝突したのです。そしてイエスを殺したのです。このことが二千年たった今でも尾を引いているのです。

 ユダヤ人はなぜイエスを殺したのか。イエスを殺したことが良かったのか悪かったのか。このことが未だにユダヤ人の中で渦を巻いて苦しんでいるのです。これがユダヤ人問題がこんがらがっている原因です。

 日本民族には二通りの流れがあるのです。天皇の一族から別れた一族と、日本に土着していた民族があるのです。例えば大国主の命は日本に土着していた人です。

 産土神から出てきた流れと、天皇から出てきた民族の流れとがあるのです。これが混在しているのです。

 日本人と一口に言いましても、二つの流れがあるのです。ユダヤ人でも、現世主義のユダヤ人と、神の国の実現を狙っているユダヤ人とがあるのです。ユダヤ人が狙っている神の国は、全世界の完全平和です。

 戦争をなくすことだけではだめです。核兵器をなくしたらいいというのは、非常に安直な考えです。核兵器がなくなっても、戦争がなくなっても、人間の中にある泥棒根性はなくなりません。

 戦争がなくなっても、人間の中にある泥棒根性がなくならなければ、決して平和は実現しないのです。やはり強盗とか詐欺、人殺し等の犯罪はなくならないのです。刑務所が繁盛するようでは、本当の平和とは言えないのです。やくざが威張っている世の中は、本当の平和国家とは言えないのです。

 本当の平和というのは神の国を実現することです。最も優秀なユダヤ人はこれを狙っているに違いないのです。現在のユダヤ人社会の中で神の国を実現するという思想はほとんどないでしょう。

 ユダヤ人は本当に話したら分かる人々です。アメリカ人やイギリス人よりもっと物分かりがいいでしょう。

 ユダヤ人なら般若波羅蜜多、神の国のことを聞いたら分かるでしょう。日本人は般若心経を読んでいますが、本当に分かって、それを自分の生活で実践している人はめったにいないのです。

 文字の意味さえも正確に分かっていないのです。ユダヤ人は説明したらすぐに分かるでしょう。命のルーツがすぐ分かる人々だと思うのです。ユダヤ人は決して悪い民族ではありません。現在の物の考え方が悪いのです。

 かつて第二次大戦中に、六百万人のユダヤ人がヒットラーによって惨殺されました。六百万人の人が二、三年以内に殺されたのです。六百万人の人が理由なく殺されたということは、とんでもない大事件です。

 この大事件がユダヤ人の中で取り上げられていますが、ユダヤ人以外の国ではあまり問題にされていないのです。

 十万人や二十万人の人が一度に殺されたとしたら、世界中で大騒ぎになるでしょう。一九三七年の日中戦争当時に、日本軍が中国軍の便衣兵、敗残兵、一般市民などを殺したとされる事件がありました。中国側は三十万人殺されたと主張していますが、未だにこの事件で日本が非難されているのです。ところが、六百万人の人間が殺されていながら、大騒ぎになっていない。どういうことでしょうか。ここにユダヤ人問題の秘密があるのです。

 ユダヤ人は恨み骨髄に徹して無念残念に思っているのですけれど、欧米社会ではそれを深く追求しようという空気が見られません。ユダヤ人社会だけで問題にしているのです。

 欧米社会ではこのことを一向に問題にしていない。なぜ問題にしないのか。なぜ世界的な問題にならないのかということです。この問題については日本人も知らん顔です。これは日本人が歴史の流れについてはっきりした見方を持っていないということになるのです。

 ユダヤ人さえまともな考えに帰れば、彼らがアブラハムの思想に立ち帰えってくれれば、世界は見事に立ち直るでしょう。

 アメリカ人や日本人が考えている平和は甘い平和であって、本当の平和ではありません。核兵器がのさばっているようでは、本当の平和とは言えないのです。

 本当の世界平和というものは、人間の考え方のどん底がすっかり変わってしまうことです。神の国が実現することです。これはユダヤ人でなければ実現できないのです。

 ですから、ユダヤ人問題は大した問題です。現在の世界が腐っている原因はユダヤ人にあるのです。悪いのはユダヤ人です。世界を腐らせているのはユダヤ人です。世界を腐らせているユダヤ人が、まともな根性に立ち帰れば、世界に完全な平和が実現するのです。

 一人の人を立ち直らせようと思ったら、人類全体を立ち直らせる方法がいるのです。だから宗教はだめだと言っているのです。宗教ではできません。

 一人の人の命は、全世界の人間の命と同じ意味があるのです。同じ値打ちを持っているのです。七十一億の人間と一人の人間は本質的に同じものです。だから皆様の魂が本当の命を見つけるためには、全世界の歴史の流れの中心をしっかり掴まえなければならないのです。

 全世界を良くする思想でなかったら、一人の人間の魂を本当に良くすることはできません。一人の人間を引き伸ばしていくと世界全体の歴史になるのです。世界全体を絞ると、一人の人間になるのです。一人と全体は同じことです。

 ユダヤ人問題が分からないようでは、本当の般若波羅蜜多も分からないのです。

 ユダヤ人は全世界の中心民族でありまして、中心民族の考え方がひっくり返りますと、全世界の考えがひっくり返ってしまうのです。

 ユダヤ人以外の民族は、現在では神を信じることができますが、本来旧約聖書はユダヤ人に与えられたものです。

 日本人は聖書が分からない民族です。聖書は外国の宗教だと思っているからです。今のキリスト教は外国の宗教です。

 キリスト教の人々はキリスト教の見方で聖書の勉強をしています。聖書を見ないよりも見たほうが良いと言えるでしょうけれど、聖書は元来宗教ではないのです。キリスト教的な見方で聖書を勉強しても、本当の聖書は分かりません。

 ユダヤ人問題というのは、本当の聖書を見るための重要な鍵になるのです。イエスが十字架にかかったのは、ユダヤ人のためだけなのか、全人類のためなのかという疑問を出す人がいますが、ユダヤ人のためと言っても、全人類のためと言っても、本質的には同じことです。

 ユダヤ人は全人類の中心民族でありまして、この民族が本当に救われたら、世界が救われるのです。

 救われるという言葉を使いましても、二通りあります。人間として救われることと、霊的に救われるのと二通りあるのです。

 とにかくユダヤ人は世界の中心になる民族です。良い意味でも悪い意味でも、中心になる民族です。この中心民族のためにイエスが十字架にかかったということになれば、全人類に対して血を流したということになるのです。直接的にはユダヤ人のためだけですが、間接的には全世界のためになるのです。

 命の本質を掴まえるのは、それほど難しいことではありません。皆様は現世に生まれた時に、死なない命を持っていたのです。生まれたばかりの赤ちゃんは物心に関係なく命を持っているのです。

物心

 物心というのは五蘊です。五蘊というのはこの世の常識です。この世の常識ができてから、この世の命に取りつかれてしまったのです。

 この世の命は死ぬに決まっている命です。今生まれたばかりの赤ちゃんは、死なない命を持っていたのです。物心に取りつかれていないからです。

 物心は五蘊であって、これが悪いのです。皆様が大人になって五蘊皆空を実行されますと、物心に関係なく生活しようとしたらできるのです。そうすると、皆様は大人の知識を持っていながら死なない命を掴まえることができるのです。

 生まれながらの赤ちゃんのようになればいいのです。例えば花を見てきれいだとお考えになるでしょう。花を見てきれいだという直感は誰にでもあるのです。これが生まれながらの命です。

 ところが、きれいだという直感はありますが、それと自分の命とどういう関係になっているかが分からないのです。これが物心の悪さです。

 皆様は花を見たらきれいと思われます。おいしいものを食べたら、これはおいしいと思われるでしょう。おいしいと考える。美しいと考えることが、そのまま皆様の命に通じているのです。

 皆様の霊魂の本質は生まれながらの本質であって、おいしいとか美しいとかいう感覚は生まれながらの赤ちゃんの感覚そのものです。皆様はそういう五官の働きを持っているのです。

 五官の働きは魂の実体です。花を見てきれいだと思うことを聖書はキリストの言葉と言っています。美しいことがキリストの言葉です。おいしいことがキリストの言葉です。楽しいことがキリストの言葉です。これを良き訪れと言うのです(ローマ人への手紙10・14~18)。良き訪れというのはそういうものです。

 良き訪れを素直に受け取る魂は、生まれながらの赤ちゃんの状態です。これに気が付けば、常識がどれほどばかなものか、それに引きずられる必要がないということが分かってくるのです。そうすると皆様の霊魂の目を開くことができるのです。かわいい赤ちゃんになることができるのです。

 大人の常識を持ったままで赤ちゃんになるのです。これを般若心経は究竟涅槃と言っているのです。涅槃の境になれば赤ちゃんになれる。そうしたら彼岸に入ることができるのです。

 これが宗教ではできないのです。宗教はどこまでも人の教えを説いているのです。教えはありますが、命を教えていないのです。

 花がきれいだということは誰でも分かります。きれいだと分かることが、霊魂の救いにどういう関係があるのかということです。死なない命を持つためには、花がきれいだということをどのように受け取ればいいのかということです。宗教ではこれが分からないのです。

 宗教は天地自然の本源であるところの御霊(みたま)の働きがないのです。人間の命の本質はエネルギーです。思考という面でも、生理機能でも、エネルギーが命の中心です。

 エネルギーの本体を掴まえる方法が宗教にはありません。聖書には御霊を受ける、聖霊を受けるということが書いています。これを受けると、エネルギーの本体を掴まえることができるのです。

 般若心経に色蘊という思想があります。色は目に見える万物が存在することをいうのです。目に見えるものはすべて色があります。

 目に見えるものがそのまま実在しているという考え方を色蘊というのです。道徳も法律も、政治、経済、人間の利害得失は、すべて五蘊に基づいているのです。

 目に見えるとおりのものがあると考えることが問題です。目に見えるものがあるかどうか、般若心経はそれがないと言っているのです。

 色即是空、空即是色とあります。目に見えるものがあるのではない。目に見えないものが、あるように見えると言っているのです。空即是色というのは、空が色になっているのです。これは目に見えないものが目に見えるようになっているという思想です。

 これがお分かりになれば、色即是空と空即是色の関係がお分かりになるでしょう。

 目に見える世界は生きている間はあります。しかし目に見えるものは造られたものです。元はなかったのです。なかったものが目に見える格好になっているのです。

 造られたものはやがてなくなります。形あるものは必ず滅するのです。今皆様が見ている万物は、全部消えてしまうのです。しかし人間の魂はなくならないのです。これが困るのです。

 万物がなくなる時に人間の魂もなくなるといいのですけれど、そうはならないのです。

 万物がなくなっても魂がなくならないという理由があるのです。どういう理由があるかと言いますと、皆様の目の働きに理由があるのです。

 皆様の目の働きというのは、人格からきているのです。人間の五官の働きというものは、肉体機能として働く面と、心理機能として働く面と両方あるのです。

 目で見て美しいとか、食べておいしいというのは皆様の人格が肉体的に働いているからです。これを五官というのです。

 もう一つは、理性や良心となって精神的に働いているのです。これも人格です。精神的なものと肉体的なものと両方に皆様の人格が働いているのです。

人格とは何か

 人格とは一体何であろうか。善悪利害得失を考える皆様の人格とは何か。プライバシーとか、プライドとか、自尊心と言います。道徳とか倫理とかいうのはどこからきているかです。

 宇宙の命の本質は絶対人格を持っているのです。花が咲いているのは宇宙人格の現われです。宇宙人格の現われが宇宙のエネルギーになっている。それが花になっているのです。

 花の美しさというのは、宇宙人格の美しさです。また、マグロや鯛の味は宇宙人格の味です。マグロや鯛の味は魚屋さんが付けるのではありません。天然自然が味を付けているのです。

 天然自然とは一体何なのか。おのずからというものがあります。これが神の本物です。宇宙の命の本物です。宇宙の命には神という人格があるのです。太陽の輝き、空の青さ、海の青さ、花の美しさは皆人格の現われです。

 神の人格が空に現われているのです。稲妻の光に現われているのです。これが神という人格の表現形式です。

 人間は生まれながらにして、天然自然という形において、宇宙人格を知っているのです。皆様の人格には神の人格が植えられているのです。

 皆様は自分の人格がどこからきているかを考えて頂きたいのです。皆様の人格は自分で造ったものではありません。この世に生まれた時に、おのずから与えられたのです。おのずからとは何でしょうか。

 おのずからというのが神です。皆様の人格は神の人格と同じものを持っているのです。この世を去ったら皆様の肉体はなくなりますが、皆様の人格はなくならないのです。だから困るのです。

 そこで地獄に遭遇することになるのです。

 人間は一人ひとりの命が与えられているのではない。地球が自転公転している命、天地の命がそのまま皆様の心臓の働きになって現われているのです。目の機能、耳の機能になって現われているのです。

 皆様の生理機能、心理機能は宇宙機能です。これは神の機能と言ってもいいでしょう。皆様の中にある生理機能と心理機能が皆様の本体です。自分という人間がいるのではなくて、生理機能、心理機能が自分という形で現われているだけのことです。

 皆様の生理機能には、天地運行の原則がそのまま働いているのです。だから人間の生理構造はすばらしく神秘的なものです。すばらしい神秘的なものの本体は何かと言いますと、これが神です。

 皆様の目が見えることが神です。皆様は生理機能、心理機能の本質がお分かりになれば、宇宙の生命を自分のものとすることができるのです。

 ところが人間の常識、知識が、それを妨害しているのです。人間は自分の思いで自分が死んでいくことになるのです。こういうばかなことをやめて頂きたいのです。皆様はせっかく宇宙の生理構造を与えられているのですから、その意味をしっかり掴まえて頂きたいのです。宇宙物理というものは人体生理と同じものです。宇宙の物理と人体構造は同じものですから、このことの意味を掴まえて頂きたいのです。

 仏教では四大と言います。地、水、火、風の四つによって、万物は構成されていると言います。宇宙構造の原素が四大であると同時に、人間存在の原素が四大であるというのです。

 四大という言葉で人間の肉体存在を現わし、また、宇宙の物理存在を現わしているのです。これが仏教の思想です。

 これは非常に正しい思想でありまして、人間の肉体構造は四大です。地、水、火、風によってできているのでありまして、これは死なないものです。地、水、火、風に死はありません。

 皆様が生きているその本質を究明なされば、皆様は死ななくなる。これが本当の教えです。これは宗教ではありません。真実そのもです。現実は真実ではありませんが、現前が真実です。

 皆様は現前において生きておいでになるのです。今皆様の目が見えるのです。今皆様の耳が聞こえるのです。これは神が共にいますことになのです。皆様と一緒に神が生きているということです。この神に気がつけば、皆様は死ななくなるのです。

 神が共にいますということが、イエスの名です。イエスというネームがこうなっているのです。新約聖書はこのことを教えているのです。

 現在皆様は宝の山に入っておいでになるのですから、宝物を拾って頂きたいのです。

 私たちは本当のことを教えられているのです。これを色々な方法を通して訴えているのですが、訴えても訴えても、なかなか聞く人はいません。人間の常識、肉の思いが頑強にできているからです。

 聖書には、宇宙の本当の真理、神の教えを人々に伝えることは、水の上にパンを投げるようなものであると書いています。私はそれをしているのです。恐らく効果はほとんどないでしょう。

 ただ皆様のお気持ちに幾分かのショックを与えるだけでしょう。水の上にパンを投げたので、少しばかり波紋ができたというだけのことです。

 聖書を真面目に読んで頂きたいのです。聖書は神の思想を人間の用語で表現しているのです。文字は誰でも読めるような分かりやすいものです。聖書は、読むことは何でもないのですけれど、これを理解することはなかなか難しいのです。

 聖書の文章は神の思想でありまして、これが人間の語法によって表現されていますので、読むことはできますが内容がさっぱり分からないのです。これが聖書です。

 そこで聖書を勉強なさるのなら、私たちのようなボランティアがいると思うのです。

 般若心経は読んで字のごとくでありまして、色即是空、空即是色とありまして、よく分かるのです。よく分かるのですが、具体的に体得することはめったにできません。

空が分からない仏教

 現在の仏教には本当の空がほとんどありません。現在の仏教は空観が空疎になっているのです。空観の本質が空っぽになっているのです。そこで仏教が空洞化しているのです。

 本当の空がはっきり分かっているお坊さんはほとんどいないのです。なぜかと言いますと、今のお坊さんは仏教大学へ行って、大学で習ったことを寺で説いているのです。これは本当の仏法ではなくて、学説の受け売りをしているのです。それでは本当の般若心経が分かるはずがないのです。

 人間は空です。五蘊皆空が本当なら、人間が現在生きている事実は何かということです。皆様の常識、知識が空であっても、皆様が生きておいでになるという事実はあります。これは何なのか。

 空の実体は何なのか。これが分かるお坊さんが日本にはいないのです。もし一人でもいれば、今のような仏教の堕落はないのです。

 仏法の本質は伽藍ではありません。仏法と仏教とは違うのです。仏法が本当の真理でありまして、仏教はただの宗教です。このことをよくご承知頂きたいのです。

 皆様は太陽の光を認識することができるのです。空の青さを認識することができるのです。花の美しさを知ることができるのです。大自然の景色を見ることができるのです。

 大自然の景色を見ることができるのは、大自然を造った人格と同じ人格を皆様が持っているからです。だから大空の美しさが分かるのです。

 皆様には宇宙構造の根本原理である神の人格がそのまま与えられているのです。だから皆様の心臓が止まってこの世を去っても、皆様の人格は消えてしまう訳にはいかないのです。

 消えないものが皆様の人格の本質です。人格の本質は神です。全知全能の神です。神の絶対人格が皆様の人格として植えられているのです。だから死んでしまえばそれまでだという訳にはいかないのです。これを考えて頂きたいのです。

 宗教ではだめです。本当の命の源をしっかり掴まえなかったらいけないのです。自分が信じているからいいというのではない。信じても信じなくても、皆様の人格は宇宙人格の反映です。だから皆様がこの世を去っても皆様の人格は消えてしまわないのです。ここに霊魂の重大性があるのです。

 霊魂不滅という言葉がありますが、これはどういうことかということを具体的に説明できる人間が、日本にはいないのです。

 人間はどこから来たのか。この世を去ったら人格はどこへ行くのかが分かりさえすれば、皆様の命と宇宙の関係がよく分かるのです。

 皆様は現世で八十年、九十年生きるために生まれてきたのではありません。永遠に生きるために生まれてきたのです。皆様の人格の本質が人格どおりに完成されることを、霊魂の救いというのです。

 こういう考え方が今まで日本にはなかったのです。般若心経と聖書を一つにして、東洋の原理と西洋の原理を一つにして説明するということがなかったのです。東洋文明の根源と西洋文明の根源を一つにして取り扱ったことが、日本にはなかったのです。

 道元もだめでした。親鸞もだめでした。弘法大師も空也も一休もだめでした。人格が分かっていなかったのです。皆様は人格によって見ておいでになるのです。ところが目で見ている世界はやがてなくなるのです。皆様の肉体がなくなるからです。

 皆様の肉体がなくなることと、万物がなくなることと同じことです。人間の感覚を頼りにしたらいけないのです。人間の感覚は数十年間のものです。しかし宇宙は永遠です。

 皆様の人格は永遠の宇宙に参画して、宇宙の大構造に役立たなければならないのです。この世で仕事をすることはどうでもいいのです。

 皆様の本当の仕事はこの世を去ってから実現するのです。この世の命はやがて消えるに決まっています。ところが霊魂の本質価値は永遠のものであって、神と同じ仕事をすることが人間の霊魂の本質価値です。

 だから死んでから天国へ行くというばかなことを考えないで、もっと真面目に考えて頂きたいのです。

 目で見ているということは、大変なことをしているのです。耳で聞いているということは、永遠の命に係わる重大なことを現世で経験されているのです。五官の重大性を本当に考えて、人格完成をして頂きたいのです。

 皆様の人格と神の人格は同じものですから、神の完全さを皆様の人格は受け止めなければならないのです。これをイエスは実行したのです。これがイエスの復活です。

 皆様の現在の命と復活の命は違います。復活の命は死なない命であって、これを受け取って頂きたいのです。

 神の人格がそのまま自分の人格になるのでありまして、神と一つになれば死なないのです。これをして頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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