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此岸と彼岸

 般若心経の主題は空です。これは般若心経だけでなくて、仏法全体の主要テーマです。仏法というのは仏陀の法でありまして、仏陀という言葉は正覚、または正覚者を意味するのです。

 「仏とは 誰が言いにけん白玉の 糸の縺れを ほとくなりけり」という道歌があります。仏とはほとくことです。人間の人生をほどいていくのです。これが仏です。これが悟りの中心命題になります。

 これは死んでから浄土参りをすることではない。加持祈祷をすることでもない。仏教には加持祈祷も他力本願もありますけれど、第一義とする所が、正覚です。正しい悟りです。

 釈尊が悟りを開かれた。釈尊牟尼仏となられた。釈尊という一人の人物が、釈尊牟尼仏となった。悟ったのです。そこから仏法が展開してきているのです。

 現在仏教には真言密教のようなものがあります。他力本願のようなものもあり、禅宗もあります。禅宗にも色々あります。結局釈尊が悟りを開かれたことが、仏法の根本的な大原則になっているのです。これが仏法の中心であります。

 従って、般若心経に書かれている色即是空という考え方、また究竟涅槃という考え方が仏法の中心をなすテーマになるのです。

 現在般若心経はずいぶん広く用いられています。神道でも般若心経を説いている人はずいぶんたくさんいるのです。仏教でも、他力本願の人々は般若心経をお読みになる方は相当いるのですが、ほとんど各宗派を通じて般若心経を読まない人はめずらしいと言えるのです。

 日本人は般若心経が性に合っているのか、何かのしきたりかもしれませんが、とにかく般若心経を好んで用いているのです。婦人会の集まりで般若心経を用いている所もあります。青年団の集まりでも用いている所があるのです。

 それほど般若心経と心安くしていながら、本当の空が分かっているかと言いますと、全く分かっていないのです。全然分かっていないのです。

 世界的に言っても、日本人ほど般若心経を好んでいる民族は少ないのです。インド、タイ、ミャンマーには仏教はありますけれど、日本ほど般若心経を用いている国はどこにもありません。全くないのです。

 ミャンマーやタイの仏教は、般若心経には関係がないのです。だいたい儀式仏教でありまして、いわゆる伽藍仏教です。日本のように哲理を主んじるという風潮はほとんど見られません。

 ところが日本では哲理を主んじていて、般若心経を非常に重宝しています。般若心経は重宝していますけれど、般若心経の思想を全く問題にしていない状態です。これは妙な話です。

 色即是空というのは、物象的に存在するもの、現象的に存在するものは、全く実体がないものだと言っているのです。物象的現象は実体がないと言っているのです。実体がないからこそ、物象的現象であるのだということになるのです。

 色即是空、空即是色というのはそういうことです。実体がないからこそ物的現象であるのだと言っているが、これは一体どういうことなのか。物質的現象は実体がないということは、物理学の常識でも分かるのです。理屈でも分かるのです。

 ところが実体がないものがなぜ物質的現象になって現われているかということです。これが分からないのです。色即是空は分かるけれど、空即是色の方がさっぱり分からないのです。

 般若心経は広く用いられていますけれど、本意が闡明されていないのです。般若心経の冒頭には観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じた時に、五蘊が皆空であると照見して一切の苦厄を度したもうたとあります。

 五蘊皆空というのは人間が今見ている世界、感じている世界、考えている世界、行っている世界が全部空っぽだと言っているのです。

 そこで皆様に考えて頂きたいのですが、六十年、七十年とこの世に生きていらっしゃったのですが、今まで何をしておられたのでしょうか。何のために生きておられたのかということです。

 六十年、七十年の人生を振り返ってみると、商売をしたり、お勤めをしたりしておいでになった。それで家庭を支えてきた。子供を育ててきた。それで終わりです。

 人間は何を頼りにして生きているのでしょうか。皆様は何を頼りに生きているのでしょうか。国を頼りにしているかもしれませんが、国はいつかなくなるかもしれないのです。民族もなくなるかもしれないのです。

 国とか民族だけでなくて、世界全体に人間が住めなくなる時が来るのです。人間文明が地球上から消えてしまう時が必ず来るのです。これは早いか遅いかの違いがあるだけです。

 学者は今から百億年もしたら地球が凍結するかもしれないと言っています。百億年もしたらというのは、非常に未練がましい言い方です。これから百億年もせいぜい長生きをしてみたいという言い方です。地球上でだらだらと生きていたいという気持ちがあるでしょうけれど、百億年後になくなるということは、千年後になくなると言っても同じことです。百億年というのはただの言葉の遊技です。これは非常に悪い学問的な遊技です。

 百億年であろうと千年であろうと同じことなのです。要するに地球はだめになるに決まっているのです。

 だから国のためとか、社会のためと考えても、国とか社会がいつまで存在するのか分からないのです。そこで般若心経の色即是空という思想を、私たちは好むと好まざるとに係わらず、承認しない訳にはいかないのです。

 只今の人間文明はでたらめです。全くでたらめです。ただ生活のことばかりを考えているのです。生命のことを全く考えないのです。これが白人文明の徹底的な悪さです。

 物質文明は生活文明ではありますが、精神文明ではないのです。

 そこでもう一度皆様にお考え頂きたいことは、皆様が今日まで何をしてこられたのか、何のために生きておられたかということです。

 率直に、正直に、平明にお考え頂きますと、般若心経の思想の偉大さがお分かり頂けると思います。自分自身の生活が全く空であったということです。

 一家の主人は家族を養ってきたと偉そうなことを言いますが、それは世間様に養ってもらっていたから、月給がもらえたのであって、自分が偉かったのではないのです。自分だけの力でしたのではないのです。

 食べることくらいのことなら、犬や猫でもするのです。犬や猫でも食べ物を捜してくるのです。人間のやり方は商売をするとか、お勤めをするとか、上品な格好で稼ぐだけのことです。これは生物として当たり前のことをしているのです。働いて生活をするのは当然のことです。働かないで稼がない方が間違っているのです。当たり前のことを当たり前にして、それが誉れになる訳ではないのです。

 人間とは何かということをはっきり考えようとしないで生きていることが、無明煩悩の世界に生きていることを意味しているのです。

 現在皆様は生きておいでになります。生まれながらの人間が生きているというのは、本当の命の生活をしているのではありません。生きてはいるけれども命が分からないのです。命をはっきり知ってはいないのです。こういう状態で生きていることは、本当に生きているのではなくて、仮に生きているのです。本番ではなくて仮に生きているのです。

 そこで仮に生きている間に、人間とは何であるかをはっきり確かめて、成仏した者はノルマを果たしたことになるのです。

 人間とは何であるかがはっきり分かって、自分自身を完成した者は、仏として取り扱われるのです。仏というのは拝むべきものではなくて、自分がなるべきものなのです。

 釈尊は自分が仏になったのです。仏となった人を日本人は拝んでいるのです。拝みたい人は拝んでもいいのですが、仏を拝むのは仏になることへの手引きです。ただ仏を拝んでいただけで良いということではないのです。

人間完成

 皆様にぜひお勧めしたいことは、人間完成ということです。人間形成ではなくて、人間完成です。現在の学校では人間形成ということには熱心ですが、人間完成を誰も言いません。

 これを聖書では「新に生まれる」と言っているのです(ヨハネによる福音書3・3)。死んでから天国へ行きたいと考えている人はずいぶんいますけれど、本当に新しく生まれている人はめったにいないのです。

 般若心経を読んでいる人が般若心経を知らないのです。聖書を読んでいる人が聖書を知らないのです。こんなばかなことがあっていいのかと言いたいのです。全くばかげているのです。

 文明もばかげていますけれど、宗教もばかげているのです。

 新に生まれたら神の国を見ることができると、イエスが断言しています。新に生まれたと信じますと言って頑張っている人はいますけれど、本当に新に生まれて神の国をはっきり見ている人はいないのです。

 こういうのは神の前には通用しない信仰です。般若心経を読んでいながら般若心経を知らない。聖書を読んでいながら聖書を知らない。なぜこんなことになったのかと言いますと、般若心経は仏教の指導者の手に任されてしまった。聖書はキリスト教の指導者の手に任されてしまったからです。

 キリスト教の牧師は聖書の講義をする者、お寺のお坊さんが般若心経の講義をする者となっているからです。これが間違っているのです。

 般若心経や聖書は専門家が読むべきものではありません。だいたい般若心経の専門家とか、聖書の専門家という者があってはならないのです。釈尊は素人でした。イエスも素人でした。専門家ではなかったのです。

 釈尊は釈迦族の皇太子でした。仏教の玄人ではありませんでした。この人が修行をして悟りを開いたのです。イエスはナザレ村の大工の青年でした。大工の青年が神を信じて神に生きることを証明したのです。

 このように、釈尊もイエスも両方とも素人でした。今の牧師やお坊さんは玄人です。宗教で食べているからです。こういう人が聖書や般若心経を押さえ込んで生活しているのです。こういうことをしていますから、般若心経も聖書も両方とも間違って解釈してしまうことになっているのです。

 私たちは専門家の手から、そして、宗教家の手から、般若心経を奪い返すべきです。キリスト教の牧師の手から聖書を奪い返すべきだと考えるのです。イエスが聖書を信じたように、釈尊が悟りを開いたように、私たちも悟りを開くべきです。これが私が言いたい所です。

 専門家の手から般若心経と聖書を奪い返すべきです。奪い返すと言っても、彼らが読んでいるのは勝手ですけれど、専門家だけに講釈を委ねておくべきではないと考えているのです。

 私たち自身が素人の目で、素人の心で、率直な感覚で聖書や般若心経を学ぶべきではないかと考えて、その提案をしているのです。

 皆様に般若心経の空の実体をできるだけ細かくご説明したい。聖書にあるところの永遠の生命とは一体何であるか、神とは何か、人間とは何かということを、はっきり申し上げたいのです。皆様に永遠の生命の実物を、差し上げたいと思っているのです。

 これは死んでから天国へ行くという話とは違います。現在目の黒いうちに、生きている現在の状態において、永遠の生命の実物が、はっきり皆様のものになるということをお話ししたいのです。

 人間は現世に生きているだけが人生ではないのです。死後の世界があるのです。死んだら終わりだと盛んに言う人がいます。国学院大学を卒業して神主を長くしている人が、人間は死んだらそれでしまいだと言っているのです。死んだことのない人が何を言っているのかと言いたいのです。

 私たちが現在生きている状態の裏に死が張り付いているのです。今皆様の心臓が動いていますけれど、心臓が動いているというままの状態で、死が張り付いているのです。

 永平寺のご開山の道元禅師が、「生を諦め死を諦めるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。是時初めて生死を離るる分あり」と修証義の中で述べています。

生死

 現世のことを生死(しょうじ)と言っているのです。今人間が生きている状態を生死と言っているのです。

 現在皆様が生きている状態を、道元禅師は生死という言葉で現わしているのです。生きているということと死ぬということとは、一つのことだと言っているのです。生きることと死ぬことは一セットだと言うのです。これが人生というものなのです。このように考えたらいいのです。

 生きているという状態と、死ぬということを二つ合わせて人生になるのです。現世と来世を二つ合わせて人生だと言うのです。道元禅師はこのように考えていたのです。私もそう考えているのです。そのとおりだからです。

 現在皆様は今生きておいでになりますが、瞬間、瞬間、死に向かって近づいているのです。死ぬ時がだんだん近寄っているのです。生きつつあるということは、死ぬつつあるということです。

 阿吽の呼吸と言います。息を吸ったり吐いたりすることです。息を吸ったり吐いたりすることは、生きたり死んだりしているのです。私たちが現在生きているという状態の中で、既に死が明確に認められるのです。

 だから死んでしまったら何もないということは絶対にないのです。

 現世はあまりにも不公平すぎます。あまりにも矛盾が多すぎるのです。でたらめです。でたらめな現世、でたらめな人生はどこかで必ずバランスされなければならないのです。絶対にそういう時が来るに決まっているのです。それがいつどこでどのようにバランスされるのかということです。こういうことを究明することが、本当の人生です。

 結婚とは何でしょうか。結婚とは何かを知って結婚している人がいるでしょうか。でたらめに結婚しているのです。親子とは何か。夫婦とは何か。貞操とは何か。こういうことを全然知ろうとしていないのです。

 現在の文明は全くでたらめです。生活のことは考えますが、生命のことは全く考えない無責任極まる文明です。こういう文明から脱却して人生をはっきり見つめていかなければいけないのです。

 私たちは生きているうちに永遠の生命の実物を掴まえることができるのです。イエスが掴まえたように、釈尊が悟ったように、私たち自身も彼らと同じように宇宙の真理を捉えることができるのです。

 皆様は現在、現世に生きておいでになるのですが、現世に生きている命が、死ななければならない命だということを、自分でよくご承知になっているはずです。

 今生きている命が死ななければならない命だということを、百人が百人、千人が千人共承知していらっしゃるのです。現世に生きているということは、死ななければならない命を生きているのだということはよくご承知のことですが、ところが、また現世に生きている命が本当の命だと思い込んでいらっしゃるのです。これがおかしいのです。

 死ななければならないことが分からない人なら、現世に生きている命が本当の命だとお考えになっても、しかたがないのです。

 犬や猫は現世の命が本当の命だと多分思っているでしょう。死ななければならないと思っていないからです。犬や猫には死がありません。犬や猫が走り回っていますが、やがて動かなくなることはあります。これは死ぬのではないのです。生きている命の状態がなくなるだけです。走ったり食べたりすることがなくなるだけなのです。これは死ぬのではなくて、生きているという状態が消えてしまうだけです。

 人間の場合ははっきり死ぬのです。人間が生きているのは命を心得て生きているのです。生命意識があるのです。人間は生命意識を持って生きているのです。

 理性と良心が人間の中心になって働いていますので、人間は自分が生きていること、また他人が生きていること、天地自然が生きていることを知っているのです。花が生きていることを知っているのです。だから花を整えて花器にさして飾ることを、生花というのです。活けるというのは花を生かすことです。

 そのように人間は命を知っているのです。知っているから花を活かすことができるのです。

 命を知っている者がこの世を去ってしまいますと、死ぬことになるのです。犬や猫は命を知らないのです。この世を去っても死んだことにはならないのです。

 人間は命を知っています。そこでこの世を去ると死ぬことになるのです。生きているうちに、命とはどういうものかを心得てしまいますと、本当の命を受け止めてしまいますと、死ななくなるのです。般若波羅蜜多というのはそれを言っているのです。

 般若というのは何か。般若の面のことではなくて、上等の知恵、上智のことです。常識ではない上等の知恵を指すのです。高等の知恵で、仏典では阿頼耶識(あらやしき)とも言います。

 唯物論でいう阿頼耶識は普通の常識ではない高級な知恵をいうのです。

 普通では分からない、人間の常識では分からない知恵を持って考えると、向こう岸へ渡ることができると言っているのです。

彼岸

 向こう岸とはどういうものかと言いますと、海の向こうにある岸です。普通の人間が住んでいるのはこちらの陸です。陸の外は海になっています。海の向こうにまた陸があるという思想です。

 昔の人の考えでは、陸があって陸の果てに海がある。海の果ては恐ろしい滝になっている。その下には地獄があると考えたのです。

 今の日本は陸ですが、陸の果てには海がある。海の果てには滝があって海の水が落ちている。その向こうにもう一つの陸地があると考えた。これが彼岸です。

 彼岸へ渡るというのは死なない命を見つけることを言うのです。死なない命を見つけるための上智を般若と言うのです。この般若を用いて向こう岸へ渡るのです。これを般若波羅蜜多と言うのです。

 皆様は今生きていらっしゃいます。生きていらっしゃるというのはこちら側の岸にいるのです。これは第一の岸です。向こう岸は第二の岸です。第一の岸から第二の岸へ渡ることが般若波羅蜜多です。

 海とは何かと言いますと、空じてしまうことです。第一の岸で生きている者が一度自分自身を空じてしまうのです。自分自身を空じてしまえば、彼岸に行くことができる。これを言っているのです。

 第一の岸にいるままの状態で生きていると、必ず死んでしまうのです。そこで海を渡るのです。海を渡って向こう岸へ行けば、死なない陸地を見つけることができるのです。これが釈尊の悟りです。これが本当の仏法です。

 仏法は仏教ではありません。仏法は悟りを開く方法、悟りを開く道のことです。そのやり方のことです。これが仏法です。

 仏教というのは日蓮とか、親鸞とか、弘法大師、伝教大師とか法然、道元というような人がいて、これらの人々がお釈迦さんを信じて、釈尊の悟りを勉強して、自分が釈尊の真似をして自分の解釈を提示した。これが仏教になったのです。

 道元と親鸞とでは全然考え方が違います。道元は自分自身を空じること、仏の子になることを悟りだと考えたのです。親鸞は阿弥陀如来を信じること、阿弥陀如来の名号を念仏することが般若波羅蜜多になると考えたのです。般若波羅蜜多でも、道元と親鸞とでは考え方が違っているのです。

 こういうことを突き止めて考えていきますと、禅宗で考えている自力というものと、浄土真宗で考えている他力というものとが同じになるのです。同じことを両面から言っているのです。左から見た場合と右から見た場合とでは、景色が違うことになるのです。

 景色が違うのです。右から見た方を他力と言い、左から見た方を自力と言うのです。これが仏教でありまして、釈尊は空ということだけを教えたのです。

 他力でも自力でもない本当の空という教えは日本にはないのです。日本にあるのは、他力か自力かのどちらかになっているのです。

 自力、他力という言葉を使わない宗派もあります。真言宗では自力、他力という言葉を使いませんが、やはり他力という感じが強いのです。

 しかし純粋な釈尊の悟りは、日本にはありません。釈尊の悟りは第一の岸にいれば人間は皆死んでしまうから、こちら岸を出て、海に行きなさいと言っているのです。まず海に行くのです。此岸を離れて船で海へ行くことが空です。

 ここまで釈尊は教えたのですが、海の向こうに陸地があるが、どういう陸地かということをはっきり教えることをしなかったのです。

 向こう側に陸地があるということは言っていますけれど、どういう陸地があるのかということを、はっきり言っていないのです。

 観無量寿経は極楽浄土をにぎにぎしく書いています。迦陵頻伽(がりょうびんが)が飛んでいる。上半身は人で下半身が鳥である共命鳥と共に住んでいる。春、夏、秋、冬も、四季折々のすばらしい花が咲いているということを、観無量寿経に書いているのです。

 観無量寿経、大無量寿経、阿弥陀経の三つを三部経と言いますが、観無量寿経というのは造り事ではあるが、本当ではないという専門家がいるのです。大無量寿経と阿弥陀経の二つを勉強することが中心であることを他力宗では考えているのです。

 しかし向こう岸とはどういうものなのか、どこにあるのかを教えていないのです。想像でものを言っているのです。これが宗教です。人間の想像でものを言うということが宗教です。

 ところが皆様の魂には、死なねばならないことが分かっていながら、死にたくないという本心があるのです。

 死なねばならないことが分かっていながら、死にたいという気持ちがはっきりあるのです。死にたくないという気持ちがあることが、皆様方の心の中に彼岸があることを示しているのです。

 死にたくないというのは彼岸のことです。彼岸に行きたいという気持ちです。彼岸は死なない国です。此岸は死ぬに決まっている国です。

 死ぬに決まっている国に現在皆様はいますが、死なない国に行きたいというのが、皆様の本心、本願です。皆様は今死ぬに決まっている国にいますから、一度海を渡らなければ死なない国にたどり着かないのです。

 日本から中国へ行こうと思えば、海を越えなければ行けないのです。中国へ行きたければ、海を渡ることがどうしても必要なのです。般若心経はこのことを皆様に言っているのです。海へ行かなければ向こう岸へ渡れませんよと言っているのです。

 ところが皆様は彼岸へ行くことが難しい難しいと言われるのです。難しい難しいと言われるのは、此岸にいるままの状態で彼岸へ行きたいと考えているからです。これは無理です。

 日本は日本です。中国は中国です。言葉も習慣も伝統も違います。国そのものが違うのです。日本のことがそのまま中国でも通用すると考えることが間違っているのです。

 死ぬべき命と死なない命とでは、根本的に違うことになるのです。これを皆様にお話ししたいと思っているのですが、これは宗教ではないのです。

 皆様が現在住んでいる陸地は、現代文明という陸地です。文明という陸地に住んでいるのです。文明という陸地は、人間が造った理屈が通用する国です。人間が造った学問が通用する国です。

 人間が造った学問、人間が造った理屈は、文明でしか通用しないのです。皆様の息が切れてしまい、目が白くなってしまいますと、そういうものは一切通用しなくなるのです。

 彼岸は文明が通用しない所です。彼岸は人間が造った世界とは違うのです。神が造った世界、神本位の世界です。此岸は人間本位の世界です。人間本位の世界から神本位の世界へ行くのです。

 神本位というのは嘘も理屈も一切ない世界なのです。人間がいる世界では理屈は通用しますが、神の世界には理屈は通用しません。事実だけしか通用しないのです。

 神の国では事実、真実だけが通用するのです。人間の世界では自分の意見や世間の理屈が通用するのです。ところが神の国では真実だけしか通用しないのです。

 本当の真実を知ろうと思いますと、一度皆様の頭から人間の理屈を追い出してしまわなければならないことになるのです。これが般若心経の功徳です。五蘊皆空、色即是空というのは、人間の頭の中から理屈を追い出すというすばらしい功徳があるのですが、人間にとって空を悟ということは、何か恐ろしい気がするのです。

 この世に生きている人間が考えますと、自分自身を空じてしまうこと、自分の思いを捨てることが、非常に難しく危険で恐ろしい気がするのです。

 般若心経を毎日読んでいる人でも、本当に空が実行できる人はめったにいません。空というのは理屈が分かっただけではだめです。実行してしまわないといけないのです。

 目の前にどんなにおいしそうなご馳走が並んでいても、食べなければ本当に自分のものにはなりません。ご馳走を眺めただけではお腹はふくれないのです。

 般若心経の理屈というのは、いくら承知しても、自分自身が色即是空を実行しなければ、本当の空は分かりません。般若心経の説明を書いている本はたくさんあります。何百冊もあるでしょう。それは仏教で飯を食べている人、そういう立場の人が書いているのであって、皆嘘を書いているのです。

 理屈の説明だけをしているのです。色即是空は目に見えるものは空だという説明をしているのです。こんなことは言われなくても、文字をよく見たら分かるのです。

 色は現象している物質です。目に見える森羅万象です。これは本当はないというのが色即是空です。理屈の説明はわざわざ人に言われなくても分かるのです。

 ところが問題は自分自身が現在生きているということで、本当に空っぽの気持ちになれるかどうかです。これが仏教ではできないのです。

 仏教で色即是空を本当に考えますと、寺があることが空になるのです。衣を着て金襴の袈裟をかけていることが空になるのです。五重の塔を建てるとか立派な金堂を建てるということが空になるのです。

 寺の建築ということが空になるのです。ところが現在の日本の仏教では、立派な寺を建てることを大変奨励しているのです。

 皆様が写経をして千円をつけて寺へ送ると功徳があると言われて送ります。送りたい人は送ってもよろしいのですが、そんなことをしても千円損をするだけです。功徳があるかというと一つもないのです。

 今の宗教はただの宗教です。どんな宗派でも、どんな宗教でも、すべて宗教は人間が造った理屈です。この世では通用するでしょう。この世には神社仏閣がありますから、宗教は通用しますが、この世を去ったら一切通用しないのです。

 こんな分かりきったことがどうして日本人に分からないかと言いたいのです。日本人は宗教の教えは死んでからでも通用すると思っているのです。仏教でいう極楽へ行ける、キリスト教で天国へ行けるということが、死んでからでも通用すると思うから、たくさんの人が信じているのです。死んでから通用しないのなら、信じる人はいないはずです。

 釈尊の悟りはそういう嘘を一切言いません。釈尊の悟りは生きている人間の考えは、全部空だと言っているのです。これは本当です。

 人間はやがて死ぬに決まっています。死ぬに決まっている人間が考えることは、空に決まっているのです。これは分かりきったことです。釈尊に言われなくても誰でも分かることです。利口な犬でも分かると思うくらいに簡単な話です。当たり前のことです。

 般若心経は死んでしまうに決まっている人間の考えは、全部空だと言っているのです。これをはっきり言いますと、商売にはならないのです。寺が空なら何のために寺があるのかとなるのです。寺へ行かなくても家にいても空だと思えばいいのです。寺は一切必要がなくなるのです。

海へ行く

 般若心経は今皆様が住んでいる世界から海へ行くことを勧めているのです。今住んでいる所から海へ行くことが空です。

 ところが皆様は海へ行くことを嫌っているのです。この世にいるままの状態で彼岸へ行きたいとお考えになるのです。これは全くできないことをしているのです。そういう欲深いことを考えるから、宗教に騙されるのです。

 この世にいるままの状態で彼岸へ行けると盛んに言うのが宗教です。これは嘘です。宗教は嘘であると私が言う理由はここにあるのです。

 この世にいる人はまず海へ行かなければならない。これを承知して頂きたいのです。海へ行くとはどうすることか。今までの自分の考え方、常識、知識が間違っていることを悟るのです。死んでしまう命を命だと思っているからです。これはこの世の命です。

 この世の命と本当の命とは違うのです。この世の命を握ったままで本当の命を知ろうと思っても、これは無理なことです。

 例えば皆様は靴をはいています。この上にもう一足はこうとしてもできないのです。靴下だけならその上に靴がはけるのです。靴をはいていて、その上にもう一足はくということは、絶対にできないのです。皆様はできないことをしようとしているのです。

 そこで今はいている靴を脱ぐのです。そうして新しい靴をはき直すのです。これをして頂きたいのです。

 現世の陸地から海へ行くことは、死んでしまうことではないのです。そこで息が止まるまでに、目が黒い間に、この世の精神が働いているままの状態で、空を自分の中へ持ってくるのです。または、自分自身が空の中へ入ってしまうのです。

 空は人間の本当の命の持ち味です。皆様の目が見えることは当たり前のように思いますが、実は目が見えるということはとても不思議なことです。

 目が見えないピアニストの辻井伸行さんが、世界中で大活躍しています。全盲でありながら、すばらしいピアノの演奏をしているからです。この辻井伸行さんがインタビューで、「今一番したいことは何ですか」と聞かれたら、「たった一日でいいから、目が見えるようにしてもらいたい。お母さんの顔をしっかりと見たいです」と答えたのです。

 健常者にとっては目が見えることは当たり前です。しかし辻井さんは目が全く見えない。一生の間に、たった一日でいいから見えるようにしてもらいたい。この一言は目が見えるということがどれほどすばらしいことかを示しているのです。

 皆様は自分の力で目を造ったのではありません。自分の耳を自分で造った覚えがありません。ところが目の力、耳の力が皆様に備わっているのです。これが先天性の命です。先天性の命は五官のことです。これが死なない命です。

 皆様が生まれる前に、皆様に五官が与えられた。それを持ってこの世に生まれてきたのですが、この世に生まれてから物心がついてしまって、この世の常識、知識が当たり前だというように考え込まされてしまったのです。これが人間の迷いです。

 この世に生まれてから、皆様は迷いの中へ引きずり込まれたのです。この世に生まれてから後に持たされた迷いの気持ちが自分を盲目にしているのです。自分の気持ち、自分の思いが自分を盲目にしているのです。

 自分を盲目にしている自分の思いを捨ててしまうことが、海に行くことなのです。般若心経の空は海へ出ることです。キリスト教ではない聖書は向こう岸へたどり着くことなのです。

 海へ出ることと、向こう岸へたどり着くことの二つがどうしても必要です。これは宗教ではない本当の事実でありまして、文明を信じてはならないのです。

 自分自身が空になると言いますと、何か難しいもののように思いますけれど、簡単に言いますと、自分の考えを棚上げするという意味になるのです。ただ棚上げしたらいいのです。

 自分で自分の気持ちを無くしてしまおうとしますと、できないのです。棚上げするならできるのです。一時考えないことにするのです。今までの自分の気持ちを、一時考えないことにするのです。

 これは何でもないのです。自分の気持ちを持ったままで般若心経を知ろうと思っても、文字は読めてもその意味が分からないのです。そこで自分の気持ちを一時棚上げしようと決心をするのです。

 これだけでも相当勇気がいりますが、これは言葉を変えて言いますと、謙遜になることです。謙遜な気持ちになることです。自分はまだ分かっていないのだ、本当のことを知らねばならないという謙遜な気持ちになるのです。これが棚上げするというやり方の一つの方法になるのです。

 これは難しいことではありません。自分の考えを自分で問題にしない。自分の気持ちを自分で問題にしないのです。これは難しいことかもしれませんが、海を渡らなければ向こう岸へ行けないのですから、どうしても実行して頂きたいのです。

 死んでしまうことを思えば、一時自分の気持ちを棚上げするくらいのことはできるのです。

洗礼とは何か

 洗礼についてですが、洗礼の意味が分かっている牧師さんも神父さんも、日本にはいないのです。世界にもいないでしょう。

 かつて無教会派の大先生に内村鑑三という人がいました。これほど有名な人でも、洗礼の意味が正しく説明できなかったのです。彼は、洗礼は受けたい人は受けてもいいが、受けたくない人は受けなくてもいいと言ったのです。どちらでもいいと言ったのですが、これがおかしいのです。

 十円切手になるくらいの有名な先生が、なぜ洗礼が必要かというはっきりした聖書的な理由を説明することができなかったのです。聖書には「信仰によって生きる」と書いています。だから神を信じたらいいと言っているのです。

 水で体を洗うことがなぜ必要なのか。「心に信じて義とせられ」とありますから(ローマ人への手紙10・10)、心に信じたらいいはずです。なぜ体を水で洗わなければならないかということです。これが宗教では説明できないのです。

 イエスご自分自身が洗礼を受けたことによって証明されるように、洗礼は絶対に受けなければならないのです。けれど、その理由が分からずに受けても何にもならないのです。分からないままに洗礼を受けることが、宗教観念になるのです。

 洗礼は本人の切なる希望があって授けるものであって、牧師の方から勧めるのは宗教に決まっています。

 宗教は神の名によって人間の魂を盗んでいくのです。キリストの名によって魂を盗むのです。これは泥棒よりもまだ悪いのです。泥棒は金品を盗みますが、宗教は魂を盗むのです。これは最も悪い行為です。

 洗礼を受けなければならないとイエスが言っています。それではなぜイエスが洗礼を受けたのかということです。この説明がキリスト教ではできないのです。神の子であるイエス・キリストが生みたまえる一人子であるイエスが、なぜ洗礼を受けたのか。これがキリスト教の牧師には分からないのです。

 宗教は神を信じなさいと言っていながら、神を信じるとはどういうことかを説明しないのです。神とはどこにいるのか。神とはどういう方か。

 キリスト教にはキリストがいないのです。本当のキリストがいないのです。仏教には本当の仏がいないのです。本当のキリスト、本当の仏は宗教にはいないのです。

 洗礼の本当の意味をご承知頂くためには、神が天地を造ったという所からお話ししないといけないのです。天地創造の原理が分からなければ洗礼の本当の説明はできないのです。これが分かる牧師がいないから困ったものです。

 神の御霊によって神の言葉が本当に人々の命になるように説明ができなければならないのです。私はそれができますから申し上げているのです。私が威張っているのでもありません。私はご覧のとおりただの馬の骨のような人間です。ただの三文奴です。私が偉いのではありません。神の導きに従って述べているだけです。神の真理を真理として申し上げているのです。

 キリスト教の人々は永遠の生命が本当に分かっていないのに、口先だけで分かっていると言っているからいけないのです。キリスト教が言っていることが全部嘘だと言うのではありません。入口しか分からないのに、奥座敷まで知っているように言っているからいけないと言っているのです。

 キリスト教の牧師の信仰が間違っているのでありまして、信者の方が間違っているのではないのです。神学校という制度が間違っているのです。関西学院大学で教えている内容が間違っているのです。

 今皆様は何のために生きているか分からない。だからお先まっ暗な状態です。そういう状態が悪いと言われると、気分を害する人が多いのです。人間は命のこと、魂のことについて触れられたくないのです。霊魂の本当の状態にさわられることが恐ろしいのです。

 霊魂という言葉が日本には古くからあるのですが、分かる人がいなかったのです。霊という字と魂という字は違います。内容が違うのです。この説明がキリスト教の牧師さんにできないのです。宗教家の中で魂について説明できる人が一人もいないのです。

 仏教の中にも魂が説明できるお坊さんは一人もいないのです。学校の教師にも分からないのです。

 キリスト教の人々は魂という言葉をよく使いますけれど、魂とは何かが分からないのです。

 魂とは何かと言いますと、皆様がお生まれる前に皆様の五官の力が与えられた。例えば味覚、視覚、聴覚は、皆様が生まれる前に神によって与えられていた元の命です。生まれる前の命です。これを先天的というのです。

 先天的というのは生まれる前からあったということです。これは本能性とも言います。食べたり、見たり、聞いたりする五官の力は人間の本能性の力に繋がりがあるのです。

 そのように人間の本能性というのはこの世に生まれる前から持っていた力です。これが皆様の五官になっているのです。これが死なない命です。これを魂と言うのです。

 何かを食べておいしいと感じます。おいしいというのは魂の感覚です。

 生きている状態を玉の緒とか御霊と言います。これが働いている状態を魂というのです。五官の能力がある状態を魂というのです。

 美しい、楽しい、嬉しい、おいしいと言います。「しい」というのは御霊が働いている状態をいうのです。美しいとはどういうことなのか。これは皆様の魂が働いている状態をいうのです。

 美しいと思えることが、そのまま死なない命に繋がっていくのです。皆様は命があるから、美しい、楽しい、嬉しい、という言葉を使うのです。美しいの「しい」とはどういうことかを日本語の文法では分からないのです。文法では説明できないのですが、宗教ではない聖書なら説明ができるのです。

 本当の真理は学問よりも上にあるのです。常識や学問より上に真理があるのです。

 魂は人間が持って生まれた命の根源の機能です。霊というのは皆様が魂を持っていらっしゃる状態のことです。生活の状態、人間の営みが霊です。衣食住の人間の営みの状態が霊です、

 魂という機能に基づいて、人間は生きています。生きている状態が霊です。そこで霊魂というのです。

 魂に基づいて生きているのですから、魂霊という言い方が正しいようですが、昔から霊魂と言っていますから、私も霊魂という言い方をしているのです。

 霊というのは人生ということもできます。魂は機能ですから、人間であること、男が男であることです。これが魂です。こういうことをよくお考え頂きますと、自分の命がだんだん分かってくるのです。

 三十才や四十才の若い人に申し上げたいのですが、死ぬまでにまだ四十年ある五十年あると油断してはいけないのです。四十年、五十年と言いますと、長い年月のように思いますけれど、過ぎてしまえばあっという間です。あっという間にこの世を去る時が来ますから、少しでも早い間に死なない命を掴まえて頂きたいのです。

 肉体と霊魂がありまして、死んだら肉体は火葬場で焼かれて灰になりますが、霊魂は灰にならないのです。そこで困るのです。

 霊魂には何十年間の記憶があるのです。これは灰になりませんから、絶対に消えないのです。これが死んだ後の命になるのです。

 人間が現世に生きているのは、犬や猫のように生きているのではありません。善悪利害を判断して哀楽の念を持って生きているのです。そうすると何が嬉しかったのか、何が悲しかったのか、何が苦しかったのかが皆様に分かっているはずです。その記憶は火葬場へ持って行っても灰にはならないのです。

 現世は矛盾撞着によって混線しているのです。理屈に合わないことばかりです。

 女の人は本当の愛、本当の恋愛を知りたいと思っているのですが、それが分からないままで現世を去ってしまうのです。これが悪いのです。

 本当の愛とは何でしょうか。男は自分の仕事、自分の生活だけをしていたらいいという悪い癖があるのです。女の人はそうではないのです。繊細な感覚を持っているだけに、本当の愛を知りたいという気持ちが非常にはっきりしているのです。それが分からないままにこの世を去ってしまいますと、高い税金を取られることになるのです。

 私は皆様を驚かすために申し上げているのではありません。真実を申し上げているのです。人間の魂は生まれる前からの機能です。生まれる前からの機能というのは、この世を去ってからもあるのです。

 肉体は現世だけです。皆様の魂は生まれる前からのものです。生まれる前からのものは死んでからも残っていくのです。

 皆様が非常に思い病気にかかって、医者から見放されたという場合、また軍隊に入ってさんざんこき使われて、意識がもうろうとなりますと、欲も得もなくなるようです。常識的に利害得失を考える気持ちがなくなってしまうのです。純粋の命の根源にふれ合うような感覚になるのです。

 こういう経験は何かと言いますと、自分の命に直面しているということは言えますけれど、その時の自分の気持ちが、命をよく勉強していない人ですと、命を目の前に見ていながら命が分からないのです。

 生死の境を彷徨うような経験をしていながら、実は生も死も分からない状態になるのです。これは惜しいことです。ところが魂の目が開いている人には分かるのです。命を十分に心得ないでさんざん苦労しましても、その苦労が身に付かないのです。自分の魂の経験にはならないのです。人間の経験にはなりますが、霊魂の経験にはならないのです。

 人間と霊魂とは全く別です。皆様は人間として私の話をお聞きになっているのです。霊魂の目が開かれない状態で私の話をお聞きになっていますので、話の内容がもう一つ分からないと言われるのです。

 霊魂は固有名詞の人間とは何の関係もないのです。この説明をしますけれど、皆様は人間として聞いているのです。私は皆様の魂に語りかけるつもりで話をしているのです。皆様は魂としてお聞きになっていません。そこですれ違いになるのです。ここが難しいのです。

 私は皆様に本当の命を差し上げようと思っているのですが、皆様はそれをお受け取り頂けないのです。

 私が申し上げたいことは、人間として生きておいでになったらやがて死ぬに決まっているということです。だから人間として生きることをできるだけやめたいと思うことです。霊魂としての眼を開きたいと思ってお聞きになるなら、色即是空、五蘊皆空はおのずから分かるでしょう。

 魂の眼を開きたいという気持ちを持つことが必要です。心眼を開きたいと思って頂きたい。そうしたら、普通の人が分からないことでもお分かり頂けるようになるのです。

 皆様は現在、魂によって見たり聞いたりしておいでになるのです。花をご覧になったら美しいということが分かります。美しいことが分かるのは魂の働きです。

 ところが美しいとはどういうことかということの説明ができないのです。美しいとはどういうことなのか。何なのかが分からない。おいしいとはどういうことかが分からない。花をじっとご覧になると、美しい花の中に心が吸い取られるのです。

 花をじっと見ていると、花の色、形の中に言うに言われない世界があることが分かるのです。これが命の世界です。魂は命の世界を感じているのです。感じているから美しいと思うのです。

 美しいというのは魂が感じているのですから、人間の常識では説明ができないのです。常識は人間の肉の思いです。肉体的な感覚です。肉体的な感覚では美しさの説明ができないのです。しかし魂では分かっているのです。

 ところが命の世界へ入ることができないのです。皆様は人間として花を見ておいでになりますから、美しいとは思いますが、花の美しさの世界の中へ入っていけないのです。だから美しいということが霊魂のプラスにはならないのです。霊魂のプラスにするためには霊の眼を開かなければいけないのです。

 もう少し説明しますと、天気の良い日には太陽が輝いています。太陽の光線の明るさを皆様はよくご存知ですが、太陽の光とは何であるかをご存知ないのです。

 太陽の光は永遠の命をそのまま光として現われているのです。私は永遠の命を論理として説明していますけれど、太陽は永遠の命が実物になって照っているのです。皆様の霊は直感的に永遠の命の実物を、太陽光線として感じておいでになるのです。

 太陽光線を見ていながら、太陽光線の功徳が皆様には分からないのです。これは魂が死んでいる証拠です。

精神をやり直す

 聖書には、「悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉があります(マルコによる福音書1・15)。悔い改めてというのは、心を入れ替えてということです。精神をやり直してということです。

 精神をやり直すとはどういうことかと言いますと、今まで常識的に考えていたことをやめて、魂的に考えるようにすることです。太陽の光線を見ていながら、神の命が分からない。死なない命が分からない。

 太陽の光線の中で生きているということは、死なない命のまん中にいることです。ところが皆様は太陽光線のまん中にいながら、死なない命のまん中にいながらそれが分からない。これが霊魂が盲目である証拠です。盲目である眼を開くことが、とこしえの命を見ることなのです。

 皆様は魂としては花を見たり、太陽光線を見たり、霊の流れを見たり、大空を見たり、海を見たりしているのです。永遠の命は地球上にたくさんあるのです。

 食べたら味が分かります。食べ物の味が永遠の命になっているのです。魂が働いている状態を経験していながら、それが自分の命になっていない。これを迷いというのです。肉体人間は迷いの中に生きている。聖書的に言いますと肉の思いで生きているのです。

 般若心経にある般若波羅蜜多というのは、今までの考え方をやめてしまうことをいうのです。自分の考えは根本的に違っていることに気が付いて、本当に素直な素朴な気持ちになって、恥も外聞も忘れてしまって子供のようになってしまうのです。そうすると神が深い内容を教えてくださるのです。神は天地をなぜ造ったのか。何のために皆様の霊魂はこの世に出てきたのかという非常に重大なことでも教えてくださるのです。

 皆様は花が咲いている世界を目で見ているのです。目で見ていながら、花が咲いているという命の世界が経験できていないのです。魂が、花が咲いている世界へ入って行くのです。これが死なない世界です。

 花は人間に永遠の命を教えているのです。皆様は死なない命を持っておいでになるのです。食べておいしい味が分かる人は、死なない命を掴まえる能力があることを証明しているのです。

 おいしい、美しいことが分かっていながら、みすみすその命を棒に振って地獄へ行くことになると、これは気の毒なことになるのです。

 聖書の言葉は向こう岸へ渡ってしまった状態で書いているのです。般若波羅蜜多が論理的に解釈されますと、聖書の言葉になるのです。神の言葉になるのです。

 向こう岸というのは神の国です。神の国の感覚で説明しますと、人間には反対に聞こえるのです。「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」とありますが(マタイによる福音書5・40)、キリスト教では何のことか分からないのです。

 着物というのはその人の魂にまといついている状態をいうのです。下着に直にまといついている状態を言います。上着というのは下着の上に着るものです。

 下着とは霊魂が直に感じていることです。喜怒哀楽の気持ちとか、利害得失の気持ちとかを考えるのは魂ですが、この考え方は魂ですが、皆様の場合は受け止め方が人間的です。

 おいしいことを魂は経験しますけれど、人間がおいしいと思っていると、おいしいという説明ができないのです。おいしいことが分かっていながら、霊的においしいということが説明できないということが、魂が死んでいることを意味するのです。

 人間が肉体人間として感覚していることがいけないと言っているのです。人間は肉体人間として感覚しています。例えばセックスの問題を魂はどう感じているかです。人間は皆肉体感覚でセックスを経験しているのですが、これが性欲です。これがだめです。魂で経験しますとセックスの内容が変わってしまうのです。

 肉体的にセックスを感じていることが間違っているらしいということが、女性にはよく分かるようです。男でも分かりますが、女性にはもっとよく分かるのです。セックスが間違っているらしいと感じるということが、下着を奪われようとしていることです。神の御霊が、おまえのセックスに対する見方は間違っているということを示しているのです。

 ところが人間はそれを神に与えようとしないで、自分のセックスは自分のセックスだと思って、その気持ちを自分で握り込んでいるのです。これが罪を犯していることになるのです。

 日本人はセックスに関して全部間違っているのです。これが地獄へ行く原因になるのです。キリスト教はこういうことを言いません。キリスト教の牧師が間違えているのですから、また寺のお坊さんが間違えているのです。

 宗教家でセックスのことを徹底的に説明できる人はいません。神の御霊によらなければできないのです。女の人は現在のセックスについて、どうも生臭いと思っているのです。生臭いということは間違っていることが直感的に分かっているということです。直感的に分かっているということは、神がその人の下着を奪おうとしているということです。

 下着を渡す時に、上着をも渡しなさいと言っているのです。上着とは何かと言いますと、社会的に活動している状態、学校の教壇で教えている状態とか、仕事をしている状態が上着です。下着は夜、密かに行う行為です。夜、隠れてしているセックスも間違っているが、昼、公にしていることも間違っている。両方共神に渡してしまってへりくだれと言っているのです。

 セックスも生臭いが、社会的にしていることも生臭いと言っているのです。道徳に関する考えが間違っている。教育に関する観念が間違っている。世界観、価値観が皆間違っているのです。だからセックスの考え方が間違っているのです。下着を奪おうとしている神に、上着をも与えてしまいなさいと言っているのです。神に何もかも全部、どん底から神に渡してしまいなさいと言っているのです。

 現世の人間の行いはすべて肉体感覚で行っているのです。肉体感覚で人間が考えるとセックスは当たり前になるのです。しかし女性は生臭いものと思っているのです。セックスが根本的に間違っていることが女性は分かるのです。これが地獄へ行く原因になるのです。

 人間がしていることは人間自身がよく分かっているのです。天知る、地知る、我が知るのです。だから人間は死んだ後に霊魂の審判を受けることはどうしても避けることができないのです。この世に魂として七十年、八十年の間生きていながら、本当の霊魂のあり方を勉強していなかった。ただ生活のことだけを考えていたのです。

 下着も間違っていた。だから上着も間違っていたのです。世間では上着のことを問題にしません。今の日本人は上着だけでもしどろもどろです。いわんや下着においておやです。

 正直に考えたら分かるのです。神とは何かと言いますと、自分の命の本当のあり方です。皆様の命のあり方の本当の姿が神です。

 神が皆様の中にいるのです。皆様の命の中に神がいるのです。だから私たちは自分の生活をごまかすことは絶対にできません。

 目の黒いうちに、一切を神に放り出して生まれたままの姿で神の前に立つのです。

 人間は自分が生きていると思っています。これが一番悪いのです。皆様は自分で生まれたいと思ったのではないでしょう。従って自分が生きているのではないのです。

 人間の一生は自分の気持ちによって発生したものではないのです。それを自分が生きていると勝手に思い込んでいる。これが人間の罪の根本原因です。人を憎んだり、誤解したり、焼き餅を焼いたり、恨んだりするのは、自分が生きていると思っているからです。自分が生きているという気持ちがなかったら、焼き餅を焼かないでしょう。

 嘘をいうのは自分が生きていて、自分が得をしようと思うからです。自分が生きているというばかな考えを捨ててしまうのです。

 自分が生きているという思想を悪魔というのです。皆様は一人ずつ悪魔を自分の中に持っているのです。自分が生きているという気持ちを悪魔というのです(ヨハネによる福音書8・44)。

 悪魔が皆様の中に住みついているのです。これを殺してしまうためには、十字架がどうしてもいるのです。

 自分の気持ちが自分を騙しているのです。自分の思いが自分を盲目にしているのです。自分が生きていると勝手に自分が思っているからです。

 自分とは何か。自というのはおのずからと読むのと、みずからと読むのとでは、正反対の意味になるのです。皆様は自分が生まれたのではなくて、おのずから生まれたのです。おのずからが本当の自分です。

 おのずからというのは天然自然ということです。皆様は天然自然の処置によって生まれてきたのであって、みずからの自分によって生まれてきたのではありません。

 自分という字をみずからと読んではいけないのです。おのずからと読むべきなのです。おのずからというのは神に基づいてということなのです。神に基づいて生まれてきたから、神に基づいて生きるのは当たり前のことです。私は当たり前のことを言っているだけなのです。

 人間の常識、知識は間違っているのです。そこで般若心経によって空を考えて頂きたいのです。空が分からなければ、悔い改めるということができないのです。空が正しく分からなければ、悔い改めて福音を信じることができないのです。

 この世に生きている人間の常識と、死んだ後に通用する本当の真理とは全然違うものですから、これをよく考えて頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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