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死なない命を見つけるために

 私は宗教の話をしようと思っているのではありません。世界の歴史の流れの中心の事がらをお話ししたいと思っているのです。これは生活している中心の事がらになるのです。

 このことを勉強している訳ですが、これは命の勉強をしなければ分からないのです。命の流れが色々な形になって歴史を造っているのです。これが世の中なのです。

 現在の人間は生活については非常に熱心ですが、生命のことを全く考えていません。日本というのはそういう国情です。

 日本人はエコノミックアニマルと言われています。生活のことや経済のことは一生懸命ですが、命のことを真面目に考えないのです。

 人間は何のために生活しているのか。働かなければ食べられないと言うでしょう。ところが働き蜂のように働いているけれど、肝心要の命のことを全く考えようとしないのです。

 生きるために働くということは分かります。なぜ生きなければならないかと言うと、これが分かっていないのです。これは大変な見落としをしているのであって、これは日本人だけの欠陥とは言えないのです。世界全体の文明人の基本的な誤りなのです。

 日本は明治、大正以来急速に発達した国ですが、富国強兵という考え方で国が豊かになること、兵隊が強くなることだけを考えていたのです。その結果、第二次世界大戦によってひどい目にあったのです。

 どうにか国がなくなることはありませんでしたけれど、ひどい目にあいました。なぜそういうことになったかと言うと、富国強兵という考え方の根本に、非常に危険な見落としがあったのです。日本の政府が国家経営について重大な見落としをしていたからです。

 どこが間違っていたかと言いますと、生きているということについて真面目に考えなかったのです。生活をすることについては考えていたけれど、生きるということについて真面目に考えなかったのです。その結果、日本はひどい目にあったのです。

 ところがまた、その繰り返しをしているのです。生活するということについては、曲がりなりに経済成長をしました。けれど、命の問題、生命の問題、何のために生きているかについては、全く考えようとしていないのです。この点について日本の政治家は非常に無責任です。

 政治ということは日本の古語で申しますと、まつりごとになります。これは人間の生活の実体を指すのです。人間の生活の実体はまつりごとです。まつりごとのお世話をすることが政治家の役目です。

 まつりごとというのはまつることです。御霊(みたま)をまつることです。人間が生きていることは魂です。ていねいに言いますと御霊になるのです。

 死んだ人間のまつりをすること、生きている自分自身のまつりをすることが命に関することに直結していたのです。万葉の時代、古今集の時代にはそういう考え方があったのですけれど、現在の日本にはまつりごとという生活概念は全くないのです。

 命のことを真面目に考えている人は、恐らく一人もいないと言っていいでしょう。生活のことは考えるが、命のことは考えないのです。これは全くばかなことです。

 命のためにこそ生活があるのです。生活のことは考えるけれど、命のことは考えないというのは、根本から間違っているのです。

怨念

 ずいぶん前に聞いた話ですが、北陸のある家で、兄弟が財産相続の問題について喧嘩を始めたのです。おやじが兄貴に味方をして弟を弾圧するようなことを言ったのです。そのために弟は無念残念の骨髄に徹して、首を吊って死んだのです。

 死んだ場所が悪かったのです。自分の家の玄関から奧へ入る通りの真ん中の鴨居に紐を吊って死んだのです。ところが、無念残念で死んだものですから、弟の怨念が死んでからでもまだぶら下がっているのです。

 普通に死んだ人は諦めて死ぬのですから怨念は残りません。ところが無念残念で首を吊って死んだ者の怨念は、簡単に消えてしまわないのです。此岸に思いを残しながら死んでいったのです。だから彼岸へ行けないのです。

 無念残念だから首を吊ったのです。財産が欲しいのにもらえないから死んだのです。つまり死にたくないから死んだのです。変な理屈ですけれど、死にたくないのに死んだのです。

 財産が欲しいというのは、死にたくないということです。ところがもらえないから首を吊ったのです。この世に生きていたいという思いが怨念になって首を吊ったのです。

 そこで彼岸へ行けないのです。怨念が鴨居にぶら下がっているのです。死んでからでもぶら下がっているのです。死骸は取り除いたのですが、怨念は残っているのです。玄関から入って奧の方へ通ろうとすると、怨念にさわるのです。死んでからでもさわるのです。

 霊に体があるのです。怨念の固まりが残ったからそういう特殊現象が起こったのですけれど、ぶら下がっているものがあるのです。それが体にさわるのです。

 人間の肉体はありませんけれど、何かがぶら下がっているのです。このことをお坊さんに話して拝んでほしいと頼んだのですが、お坊さんはどのように拝んだらいいか分からなくて困ったという話です。

 そのお坊さんは困ったのですが、とにかく般若心経なら何とかなる思って、般若心経を称えたのです。死んだ人の所の前で称えたのです。

 般若心経を五、六回称えたのです。そうしたら怨念らしきものがだんだん消えていったのです。そうして全然なくなったのです。家の人が通っても何も感じなくなったのです。そこで問題が解決したのです。

 人間の魂とはどういうものなのか。死ぬということ、現世に生きていること、死んだ後にどうなるかということを、日本人は全く考えていないのです。愚かな国民です。

 命のことが全く分かっていないのです。これでよく生きているものだと言いたいのです。

 日本人は肝心要の命を知らないのです。生活をしていながら命が分からないのです。皆様は今、宇宙の本当の命を経験しておいでになるのです。太陽の暖まりは何か。太陽の光と太陽の暖まりは命の本質をそのまま表現しているのです。

 太陽の光と太陽の暖まりを経験しているということは、命の実物を経験していることになるのです。ところが皆様は命の実物を経験していながら、命とは何かと問われると、返事ができないのです。日本人の中でこの返事ができる人は、一人もいないでしょう。

 仏教家は全部だめです。キリスト教もだめです。こんな状態でして、生活のことは考えるが生命のことは考えないのです。これは日本民族の一大欠陥です。

 はっきり言いますと、日本民族は欠陥民族です。今の文明はそれ程間違っているのです。学校では知能の啓発はしますけれど、人間の命のことは教えないのです。人生の意味については全く教えないのです。こういう見当違いの教育、見当違いの政治をしているのです。

 命の勉強が人間にとって一番必要です。そのためには般若心経と聖書の勉強が必要です。

 般若心経と聖書の二つを並べて勉強しますと、宗教にはならないのです。般若心経だけの勉強なら宗教になってしまいます。また、聖書だけの勉強なら宗教になってしまいますが、般若心経と聖書の両方の勉強をしますと、宗教にはならないのです。キリスト教でもないし、仏教でもないのです。現在日本で考えられている宗教概念とは違ったものになるのです。ここに命があるのです。

 人間は現世に生まれてきましたが、現世に生まれてきたことが業(ごう)です。

 人間が現世に生きているのは、生きていることについて命の実を結ぶために生きているのです。例えば花が咲きます。花は実を結びます。種を結ぶのです。種を結ばない花はありません。ところが人間は結びません。これが死んでからの霊魂の裁きに大関係があるのです。

 私たちは現世に生きるために生きているのではありません。花が咲くのは実を結ぶためであるように、人間としての実体を見極めて人間としての実を結ぶためです。

 皆様は生きているうちに、どうしてもしなければならないことがあるのです。このことを考えて頂きたいのです。これは宗教の話ではありません。死んでから地獄へ行く、極楽へ行くという話をしているのではありません。生きている間に命の実を結ぶことをお話ししているのです。

 人間の責任は、この世に生まれてきたという業(ごう)を果たすことです。苦しんで死んでいく人間のことを、ああ、あの人は業が果てていないと言いますが、そのとおりです。

 皆様は業を果たしているでしょうか。ぜひ業を果たして頂きたいと思うのです。そのためには、般若心経と聖書の勉強をして頂きたいのです。

 般若心経は空を説いています。空観というのはすばらしい思想ですが、これは生まれたままの人間は本来空であると言っているのです。

 この世に生まれた人間が、生まれたままの感覚で生きているということは、まだ実を結んでいないことになるのです。何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。これをよく考えなければいけないのです。

 若い方はよくお考えにはなりませんが、七十年、八十年とこの世に生きておいでになった方は、過去を振り返って頂きたいのです。今まで何をしてきたのでしょうか。生活はしてきたでしょう。自分自身の命のために何をしてきたのかということです。

 ただ命を保つことはしていたでしょう。ところが命の本性や本質については、ほとんど考えていらっしゃらなかったでしょう。これが日本人の為体です。

 生きるか死ぬかという大問題を解決しないままでこの世を終わることになりますと、その人は非常に困ったことになるのです。

 この世に生きることが人間の目的ではないのです。この世に生まれてきたということについて、命の本質を見極めることが、人間の目的です。すべての人間の責任です。

 人間の命は何であるのか。文明は何のためにあるのか。これを見極めることが、人間が業を果たす道なのです。

 人間の本質は魂です。魂はただ生きていたらいいというものではないのです。魂とは何かということを見極める責任があるのです。

 これを見極めないでただ生きている。皆様はこのままで生きていたらいけないということは感じられるでしょうが、どうしたらいいかが分からないでしょう。分からないままで生きている。世間の人が皆何となく生きているから、自分もこのままで生きていたらいいと考える。

 これは赤信号皆が渡れば恐くないというずうずうしい考え方と同じです。世間一般の人が生きているように、自分も生きたらいいと考えている。この世にいる間はそれでごまかせますが、この世を去ったら悲惨なことになるのです。このことをよくお考え頂きたいのです。

 人間の命をぎゅっと握っている者がいるのです。そうでなければ人間が生きていられはずがないのです。

 命の本質、命の本源が分かっていないままの状態でこの世を去ることになりますと、大変なことになるのです。この世に生きていたという責任を取らなければならないことになるのです。七十年も八十年もの世に生きていた責任を追求されるのは当然のことです。

 皆様の中に主観的に存在する自分と、客観的に存在する自分があるのです。主観的に存在する自分は、自分が生きていると考えています。

 はっきり言いますと、人間の命は自分のものではありません。これは決まり切ったことですが、これが分かっている人はほとんどいないのです。

神とは何か

 宇宙には一つの本質的な命があります。例えば皆様の目が見えるという事実、心臓が動いているという事実が命です。本質的に言いますと、それが命であって、人格的に言いますと神です。これは日本の神とは違います。日本の神は八百万の神です。これは人間が勝手に造った神です。

 人間が造った神ではなくて、人間を造った神、人間を生かしている神が本当の神です。命の本質、命の本性が神です。

 皆様の心臓が動いているという事実の原理が、神という人格になるのです。これは宇宙人格です。宇宙人格に宇宙生命があるのです。

 神が本当の命です。神の他に本当の命はありません。皆様の命には人格が添付されています。人間の命は神がそのまま生き写しになっているのです。

 人間存在を勉強すると神が分かるのです。逆に神を勉強すると人間が分かるのです。神と人間とは本質的に同じものです。大きさと深さは違いますが、人間は神の見本みたいなものです。

 人間は小さいのですが、神はとても大きいものです。神は無限無窮です。無限無窮の命が部分的に現われて、皆様の生命になっているのです。

 皆様は自分が生きているという主観的な概念を捨ててしまうといいのです。それは空なるものだからです。般若心経は自分が生きていると思っている感覚が空だと言っているのです。五蘊は皆空だと言っているのです。

 五蘊というのは人間が生きていて、色々と思ったりしている状態を言うのです。損だ、得だと思っている人間の思いが空だと言っているのです。

 人間の思いが人間になっているのです。自分が生きていると思っている人は、自分の思いで生きているのです。ところがいよいよ息を引き取る時になりますと、役に立たなくなるのです。

 息を引き取ったら、自分の思いは凍結してしまうのです。生きている間は色々と理屈は言えますが、現世を去ってしまうと、皆様の思いが凍結しますから、色々と理屈が言えなくなるのです。これが死です。

 客観的な命が分かりますと、自分が生きているのではないということが分かります。命の本質に繋がるような考え方ができるのです。宇宙の大生命に繋がるような命の見方になるのです。そうすると死を乗り越えられるのです。死ななくなるのです。

 日曜日はイエスが復活した記念日です。イエスが死を破ったということは、世界歴史を貫く驚くべき事実です。だから一年間に五十回前後もあるのです。

 毎週一回、必ず日曜日がやってきます。これは死を破ったという事実を証明している日です。人間は死を破ることができるということを、日曜日が証明しているのです。

 自分の命があるというばかばかしい錯覚を捨てることを、般若心経は提唱しているのです。人間が生きているという考え方が空だ、五蘊皆空だと言っているのです。

 人間の肉体は消耗品です。肉体には耐用年数があるのです。やがて心臓が止まることは自然現象です。これは死ぬことではありません。

 問題は脳波です。脳波が止まると死んでしまいます。ところが宇宙の大生命と皆様の思いとが繋がりますと、死ななくなるのです。宇宙の大生命は死なないのです。神の命は死なないのです。そこで神の命が何であるかが分かってさえいれば、皆様は死を乗り越えることができるのです。

 イエスはそれを実行したのです。自分の命をどうして乗り越えるか。これについては、キリスト教は全く説明しないのです。キリスト教の教義の説明はしますけれど、命の説明をしないのです。

 キリスト教はイエスの復活が分からないからです。皆様の脳波が生命の実体です。脳波が宇宙の大生命に繋がるような人生勉強をして頂いたら、皆様は生命に対する考え方が変わってしまうのです。そこで死を乗り越えることができるのです。

 なぜ人間は死ぬのか。死の本質は何か。これは生と比較対象してお話ししなければならないことです。

袖すりあうも他生の縁

 皆様はいろはカルタの中の、「袖すりあうも他生の縁」というのをご存知でしょう。袖ふれあうも他生の縁とも言います。たくさんの人が歩いていると、お互いに袖をふれあう時があります。

 袖ふれあうも他生の縁の中の他生という言葉がおもしろいのです。他生とはどういうことかと言いますと、人生には現世と過去世と未来世があるのです。

 人間は生まれてきたのです。過去世から来たのです。死んでいくというのは未来世へ行くのです。生まれてきたのはその原因があるに決まっています。因果の法則で申し上げても、原因がなければ結果が生じるはずがないのです。

 皆様が現在生きているということは、生まれてきたことの証拠になるのです。生まれてくるのはその原因がなければならないのです。

 皆様が今生きているのは、花が開いている状態です。人生という花が開いているのです。人生という花が開いているとしたら、その種があるはずです。

 過去は永遠の一部であって、過去、現在、未来の全体が永遠で、これは丸くなっているのです。未来の端が過去の始まりに繋がっているのです。

 なぜかと言いますと、命は宇宙の生命でありまして、宇宙生命が個々の人間に体験させられているのです。個々の人間という形で体験させられることを生まれてきたと言うのです。

 命は永遠なるものです。過去の始まりが未来の端にひっつているのです。命が輪廻する原理は、宇宙生命が分かれば勝手にお分かりになるのです。

 死ぬというのは死んでいくのです。どこかへ行くことなのです。これが他生です。他生とは現生ではない他の生です。他の生は過去の生と未来の生と二つあるのです。

 袖すりあうも他生の縁とは、人生は現世だけのものではないということです。もし人生が現世だけのものであるとしたら、墓を造る必要がないのです。死んでしまえばそれまでだと言うのなら、墓を造る必要はありませんし、法事をする必要もないのです。

 何のために墓を造るのでしょうか。何のために先祖の供養をするのでしょうか。もし現世だけが人生だとしますと、働かずに気楽に一生暮らしている人がいます。大金持ちの家に生まれた子供は、働かなくてもゆうゆうと優雅な生活ができるのです。

 反対に、働いても働いても貧しい人もいるのです。「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」という石川啄木の歌がありますが、この歌のような人生を送っている人もいるのです。

 人生は非常に不公平です。善悪共に不公平です。善人が必ず幸福になるとは言えないし、悪い人が不幸になるのでもない。悪いやつほどよく眠ると言うように、悪人が豪華な生活をしていることもあるのです。

 一体この精算はどこで行われるのでしょうか。人間は生きている間はできるだけ道徳を守らなければならないと考えていますが、何のために道徳を守らなければならないのでしょうか。

 現世は矛盾に満ちています。間違いに満ちているのです。現世は生きている人間の情報で一杯になっているのです。

 現代文明は完全に行き詰まっているのです。だから宇宙人がいるとか、UFOを持ち出さなければならないのです。これがユダヤ人のトリックです。

 現在の人間社会は、間違った情報が氾濫している社会です。学問も宗教も、道徳も倫理も、本当のことを示しているものは一つもありません。大学で教えている学問では、命が全く分からないのです。

 電気とは何かが分からないのです。電気の取り扱いはできますけれど、電気の本質の説明ができないのです。これが人間の学問です。

 そのように現代の文明社会は情報が混乱している社会です。だから宇宙人がいるというとんでもないことを言わなければ、文明を収拾できなくなっているのです。人間に夢と希望と感動、理想を与えることができないからです。

 本当の命が分からないから、そういう際物の情報を流すことによって、人間の心をごまかしているのです。困った社会です。嘘ばかりです。真実は全くないのです。なぜこうなっているのか。現在生きている人間は死んでいく人間ばかりだからです。

 死んでいくに決まっている人間が言うことが、本当だと思えるのでしょうか。六千年の文明は、死んでいった人間が造ったものです。

 イエスが死を破って復活したということは驚くべき大問題ですが、これを文明は全く無視しているのです。これは学問の中心テーマとして取り上げられなければならないものですが、学問は全く取り上げようとしていない。ただ生活のことだけを考えているのです。

 イエスが復活したということはどういうことなのか。人間が死なないとはどういうことなのか。死とは一体何であるのか。死んだら人間はどうなるのか。こういうことを真面目に考えることが、本当の学問です。

 学問はこれを全く考えようとしていない。私たちはこういうばかばかしい文明の欠陥を指摘せざるを得ないのです。

 今の文明は死んだ人間が造った文明です。学問も法律も、哲学も宗教も、死んだ人間が造った理屈です。こういうものを信じても、本当の命の足しには何にもならないのです。

 命とは何か。これを考えることが一番重要なことです。宇宙人がいてもいなくても、そんなことは命に関係がないのです。

 命さえ分かれば、すべてのことが明らかになるのです。死が分かれば命が分かるのです。

 現在、人間が生きている命は何かと言いますと、人間の思いが命になって現われているのです。肉の思いが肉の人間の状態になって現われているのです。

 肉の思いの人間とは、頭の中が情報で一杯になった人間をいうのです。この人間は既に死んでいるのです。だから死んだらどうなるかが分からないのです。これが命が分かっていない証拠になるのです。

 皆様はやがてこの世を去ることになるのです。そこで考えなければならないのは、死後の世界は何であるかということです。

 死ぬのは人間ではなくて、魂が死ぬのです。人間は肉体的に生きているものを指すのです。肉体的に生きている本質は何かと言いますと、魂です。この魂が盲になっているのです。何を考えていいのか。命とは何であるのか。善とは何か、悪とは何か。これが分からないのです。

 そういうあやふやな世の中が現世です。現世が本物と思っていると大間違いです。現世は生まれてきて死んでいく間のごくわずかの間です。八十年か九十年、長くても百年くらいです。

 地球上に生きている間に、命の本質をどのように考えるのか。これが一番重要なことです。命が本当に分かりますと、生まれる前の他生と、死んだ後の他生が分かるのです。なぜ人間が生まれたのか。なぜ日本に生まれたのか。なぜ今の両親の子供として生まれたのかが分かるのです。これが他生の縁です。

 死んでからどうなるのか。現世において何を考えていたのか。現世でどのような人生観を持っていたのか。自分の魂についてどのような認識を持っていたのか。その認識のあり方が、そのまま来世に繋がっていくのです。

 皆様の肉体は火葬場で焼かれたら灰になりますけれど、生きていたという記憶は灰にはならないのです。

 生きていたという記憶が死んでから繋がっていくのです。これが死です。死ということは、肉体の問題と精神の問題を二つに並べて考えなければならないのです。

空と復活の命を学ぶ

 死ぬか生きるかという問題は精神の問題です。私たちは生きている間に、精神的に命を見つけなければならないのです。今までこの世で生きていた肉体的な命ではない、もっと大きい命を見つけるのです。釈尊が考えていたよりも、もっと大きいものを掴まえるのです。

 釈尊は空を説いています。現世に人間が生きているのは空であると言っています。死んだらどうなるかについて、仏国浄土へ行くという言い方をしていますけれど、仏国浄土がどういうものなのか。科学的にどういうものなのかを全く説明していません。そこでどうしても聖書を勉強しなければならないことになるのです。

 仏教の空という悟りと、聖書の復活という救いの両方がどうしても必要なのです。宗教ではない命の実体を弁えようとしたら、こういう勉強をしなければならないのです。

 死ぬということはどういうことか。皆様の人生経験が、そのまま来世に持っていかれることになるのです。肉体は剥奪されますけれど、精神だけが来世に行くのです。現世にいる間に何を掴まえていたかが問題になるのです。死は他生に属するものと考えて頂きたいのです。

 般若心経の空と言いますと、大変難しいもののように思えるのです。仏典は難しい漢字で詰まっていて、とても難しいことを言っているようですが、実はそうではないのです。

 生きている人間はやがて死ぬに決まっている。これが空です。何を考えても、どんな生活をしていても、死なねばならないに決まっているのです。死なねばならないに決まっているというのが釈尊の考え方の中心になっているのです。

 そこで現世に生きるということを中心にしないで、もっと大きい命に向かって目を向けることが、仏ということです。

 仏というのはほとけることです。錯綜した人間の思いが解けることです。「仏とは 誰が言いにけん 白玉の 糸のもつれの ほとけなりけり」という道歌があります。

 人間の思いはこんがらがっているのです。それを解いていくのが仏教の悟りの中心です。それを解くためには空を捉えることが必要です。何のために生きているか分からないということは、目的なしに生きていることになるのですから、これを素直に認めると、新しい世界観が開けてくるのです。

 皆様は今現世に生きておいでになるのですが、これは命を見ているのです。ところが命を見ていながら命の国が分からない。命の国とは未知の国です。これを見つけるのです。

 皆様の中に未見の我があります。これはまだ見ていない自分自身です。現世に生まれてきて、現世で大きくなって現世で生活していたのは、現世における自分です。未見の我とは永遠に生きる自分のことです。

 皆様の中に生かされている自分があります。これが死なない自分です。生かされている自分と生きている自分とは、全然違います。生かされている自分は神の命によって生かされているのです。

 人間は太陽を見たり、米や野菜、肉や魚を食べています。魚の味というのは天然現象であって、大自然の命の働きです。大自然の働きによってできた魚の味が分かるということは、大自然の命が分かるということです。

 このことを少し落ち着いて考えると、本当の命が分かるのです。これが分かるためには、今までの自分の考えが空であったということを、まず認めることから始めなければならないのです。

 皆様は今まで生きている自分のことしか考えなかったのです。生かされている自分を真面目に考えようとしなかったということを、まず認識して頂きたいのです。

 生きている自分は死んでいく自分です。生きている自分の気持ちだけしか持っていない人は、必ず死ななければならないのです。

 皆様は魂のこと、霊魂のことを全くご存知ありません。従って死んだらどうなるのかさっぱり分からないのです。

 息が止まると、現世の経験がそのまま凍結されるのです。生きている間は自分の経験を修正することができますが、死んでしまったら絶対に修正できません。そこで生きているうちに、皆様の思想を修正する必要が絶対にあるのです。

 今のままでは皆様は死ぬに決まっているのです。このことをお考え頂きたいのです。

 般若心経の空というのは、生きている人間の考えは頼りにならないと言っているのです。このことをまず認めることが一番必要です。

 般若心経を読んでいるのですから、般若心経の精神を会得するくらいのことは、十分にできるのです。難しいと思わないで、生きている自分から離れて、生かされている自分を見て頂きたいのです。

 皆様は太陽を自分で造ったのではありません。空気を自分で造ったのではありません。水を自分で造ったのではありません。

 ところが太陽光線や空気は、無料で皆様に提供されているのです。人間が一日に消費する酸素は一万円くらいするでしょう。一日にそれくらいの酸素を吸わなければ生きていけないのです。ところが皆様はそれを無料でもらっているのです。

 皆様は現在天の命によって生かされているのです。ところが、それに対して感謝の念を持っていない。全く無自覚で生きているのです。こういう状態が、命を認識していないことになるのです。

 生かされている自分をお考え頂きたいのです。そのためには般若心経の空を観じることがまず必要です。幸いにして日本には般若心経があります。般若心経を人生観の実体として活用して頂ければ、皆様の命にとって多大の助けになるのです。

 その上に、イエスが復活したことをどうしても知らなければならないのです。これが分からなければ永遠の生命は絶対に分かりません。

 仏教には永遠の生命がありませんから、聖書を学ぶしかないのです。イエスが復活したということは歴史的な事実です。歴史的な事実を信じることは、絶対に宗教ではありません。

宗教は情報

 宗教ではない聖書の勉強が必要です。世界中のキリスト教が間違っています。カトリックもプロテスタントも両方共間違っているのです。

 宗教は結局情報です。霊魂に関する情報です。情報だけのことです。情報は単なる噂話、作り話です。誰かが造った理屈です。UFOみたいなものです。

 こういうものではなくて、皆様が現在生きているということ、目が何を見ているのか、耳が何を聞いているのかということをはっきり勉強して頂いたら、皆様は死ななくなるのです。

 肉体はやがてだめになりますが、脳波はだめになりません。脳波の改造をしたらいいのです。生きている間はこれができますから、ぜひして頂きたいのです。

 現在の地球は弁証法的に存在しています。弁証法というのは何かと言いますと、テーゼに対してアンチテーゼがあるのです。テーゼとアンチテーゼが両方共アウフヘーベンされる。そうするとジンテーゼができるということです。私はこういう話しをしているだけです。

 物質はすべて弁証法的にしか存在しないのです。こんなことは簡単なことです。弁証法は、何かが存在すると、それに対して必ず反対するものができてくるということです。

 例えば皆様が何かをお考えになるとしますと、それに反対する考え方が必ずあるのです。そこで自分の考えと反対する考えをつきまぜて、もう一つ上の考え方に到達するのです。これが弁証法です。

 皆様は現在生きています。これはテーゼです。これに対して死ぬというアンチテーゼがあるのです。皆様はいつ死ぬか分からないのです。

 人間は明日のことが全く分からないのです。明日のことが全く分からないということだけでも真面目に考えたら、永遠の生命が分かるのです。また、地球が実は存在していないことも分かるのです。

 人間は地球があると思っていますが、これは人間の認識でそう考えているのです。

 皆様は現在生きておいでになります。これは非常に危険なことです。死があるからです。生きているということと、死を抱き込んでしまうのです。これを空と言うのです。自分が現在生きているという状態と、死ぬに決まっているという事がらとを一つに考えてしまうのです。

 自分が現在生きていると考えていますが、今生きているという感覚が永遠に持続できるものではないということです。皆様の命、皆様の思想、皆様の経験はごくわずかの間しか通用しないということです。やがて通用しなくなるのです。

 これを見極めるためにはどうするかと言いますと、自分は死なねばならないということをはっきり見極めるのです。生きていながら死を考えますと、命が分かってくるのです。

 生と死を裏表にして張りつけますと、新しい命が分かってくるのです。これがジンテーゼです。生だけを考えていると死ぬのですが、生きていながら死を抱き込んでしまいますと、生と死が一つになってしまうのです。現在皆様が生きていらっしゃるという生命観が変わってしまうのです。これが般若心経の空です。

 聖書は誠の命をイエスの復活という形で歴史的に皆様に突き出しているのです。皆様に死なない命を提供しているのです。そこで未だ見ざる我が分かってくるのです。実はこれはイエスと同じものです。

 イエス・キリストと皆様は同じものです。釈尊の悟りの空を掴まえたら、自分とイエスが同じものだということが分かるのです。そこで永遠の命が分かるのです。

 地球の歴史には死を破ったという明々白々な事実があるのです。イエスが死を破ったという明白な事実が存在しているのです。この事実を皆様がご存知になれば、皆様も死を破ることは必ずできるのです。

 私はその経験をしているからお話ししているのです。私は死にません。肉体は朽ち果てますが、魂は死にません。

 人間も弁証法的には存在しているのです。皆様の命も地球も弁証法的に存在しているのです。

 今の地球は未完成の地球です。地震があったり、病気があったり、津波、台風があります。地球は非常に不完全な物体です。今の地球は未完成です。未完成の地球に未完成の人間が住んでいるのです。これは本当の世界ではありません。

未知の国と未見の我

 未知の国があるのです。イエス・キリストが復活したことによって永遠の生命の実体をはっきり証明したのです。未知の国を掴まえたら、未見の我が分かるのです。死なない自分が分かるのです。

 皆様は死にたくないでしょう。声を出して私は死にたくないと正直に言ってください。ところがなかなか言えないのです。なぜ正直に言えないのかと言いますと、生きている自分の思想に捉えられているからです。自分の迷いに捉えられているからです。だから人見知りするのです。命見知りするのです。神見知りするのです。

 死にたくないのにはっきり死にたくないと言わないのです。これが日本人の意気地なさです。そのように皆様の魂は萎縮しているのです。縮まっているのです。のびのび考えたらいいのです。

 東京は大都会だと威張っていますけれど、死ぬ人間ばかり集まっているのです。死人の都です。

 生まれてきた自分は必ず死ぬ自分です。死んでいくに決まっている自分です。そんなものをなぜ自分だと思うのでしょうか。

 もう一人の自分、死んでいかない自分を見つけるのです。神に生かされている自分を自分だと思ったらいいのです。

 生きている自分を自分と思うから死んでいかなければならないのです。死んでいかなければならない自分を、なぜ自分だと思わなければならないのでしょうか。

 死にたくないのに死んでいく自分を自分だと思い込んでいる。これは魂が萎縮している証拠です。ひがんでいる証拠です。皆様には恐ろしいひがみ根性があるのです。日本人には恐ろしいひがみ根性があるのです。

 率直に、大胆に、素直に、太陽の光を受け取らないのです。日本の歴史と伝統によって、日本の社会的常識によって、日本人の魂がいじけてしまっているのです。この状態を打破する気持ちを持って頂きたいのです。

 死んでいく自分を自分だと思わなくてもいいのです。死んでいくに決まっている自分は生きている自分です。自分が生きていると考えている人間は必ず死にます。

 自分が生きていると思わないで、生かされている、宇宙の命によって生かされていると思ったらいいのです。宇宙の命によって生かされている自分を見つけたらいいのです。現に皆様の舌は宇宙の命を味わっているのです。皆様の目は太陽という宇宙の命を見ているのです。

 皆様の五官は宇宙の命を見たり聞いたり、味わったりしているのに、その心が歪んでいる。自分はだめだ、自分は死なねばならないと勝手に思い込んでいる。そこで釈尊は一切空と言い切っているのです。五蘊皆空、色即是空と言っているのです。

 五蘊皆空、色即是空は今の日本人が絶対服膺すべき妙薬です。拳拳服膺すべき妙薬です。

 死にたくないという気持ちをはっきり持ってください。人前で言うのが恥ずかしいのなら、家に帰って布団の中で、「私は死にたくない、絶対に死にたくない」と言ってください。自分の本心を正直に、天真爛漫に認めるのです。これが生かされている自分を発見する入口になるのです。

 生きている自分は死んでしまいます。生かされている自分を発見したら死なない自分が分かるのです。

 人間は死ぬために生まれてきたのではありません。死ぬために生きているのではありません。未知の国、未見の我を見つけるために生まれてきたのです。

 世間の人が経験していない本当の命を経験するために、皆様は生まれていらっしゃったのです。このことをよくご承知頂きたいのです。

 皆様は今時間を経験しておいでになります。瞬間瞬間、時間が流れているのです。時間が流れているということだけでも、皆様にとってすばらしい事がらです。皆様は新しい時間を瞬間瞬間経験しているのです。真っさらな手が切れるような時間を経験しているのです。新しい時間をどんどんと天から供給されているのです。

 新しい時間を瞬間瞬間経験していながら、皆様の心は五年前の思い、十年前の思いを持っているのです。これが間違っているのです。新しい時間に対して新しい気持ちを持ちさえすれば、宇宙の命の一つになれるのです。

 瞬間瞬間に新しく生きたらいいのです。日に日に新しく生きたらいいのです。昨日の自分、十年前の自分を頭において、過去を引きずっていることがいけないのです。

 般若心経の原理に基づいて古い自分を捨ててしまう気持ちになってください。それをしても少しも損をしませんから。そうしたら死なない世界へ入ることができるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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