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空の自分と実の自分

 大般若経は長短様々の般若経典を集大成したもので、六百巻余りの膨大な経典ですが、その内容を集約したのが般若心経です。大般若経を濃縮したものです。

 大乗仏教の本当の要点を述べたもので、般若心経をしっかり理解して頂ければ、大乗仏教の教義はおのずから分かるのです。

 書いたのは多分龍樹菩薩であると言われているのです。第二結集の時に龍樹によって書かれたと言われているのです。

 般若心経は現在の人間にご利益を与えるとは言っていないのです。他の経典、例えば法華経とか、維摩経とか、涅槃経、大般若経と色々ありまして、全体で一万七千六百巻あると言われています。これらをすべて勉強するのは不可能です。また、すべてを勉強する必要もないのです。

 私たちは人生の実質、実体、人間の命の実体を端的に究明することを目的にしていますので、仏教そのものの勉強を目的にしていないということをご理解頂きたいのです。従って各仏典の細かい説明は致しません。

 般若心経には大乗仏教の目的論的なものが示されていますので、般若心経を勉強しますと、仏教のだいたいの広さ深さが分かるのです。この点で宗教ではない角度から般若心経を勉強しているのです。

 般若心経には釈尊の悟りの内容が要約されています。仏法の中心を捉えるという考え方から申しまして、般若心経の勉強を致しますと、それでほとんど十分だと言えるでしょう。

 物事の考え方から申しますと、空という面からの考えと、実という面からの考えがあるのです。空を知るということは空に同じることです。これは実を知るために空に同じるのです。無という言い方もありますが、無と空とは少し違います。無は空のある面を見ているのです。空の反面を見ているのです。

 ところが空には両面がありまして、空っぽであるという面と充実している面とがあるのです。まだ現われてはいないけれど、充実した面が隠れているという空と両方あるのです。

 般若心経の色即是空という場合の空は空っぽの方を言っているのです。空即是色の場合の空は満ちている方を言っているのです。

 実になりますと、はっきり表面に現われている実体を指しているのです。聖書はこの実を書いているのです。大乗仏教の思想は大ざっぱな言い方をすると、こういう二つの面が言えるのです。

 皆様の人生をまともに勉強なさるとしたら、この二つの面を心得ていなければいけないのです。仏教だけを勉強なさっても本当のことは分かりません。仏教は譬であって、阿弥陀如来とか、大日如来というのは抽象人格です。具体的に存在していた人格ではありません。歴史的な実体ではないのです。

 仏教は思想的な勉強にはなりますけれど、命の勉強にはなりません。本当の命の勉強をするためには、どうしても聖書にご厄介にならざるを得ないのです。

 聖書は歴史を踏まえて書いているのです。ところが仏法は悟りを踏まえて発言しているのです。ここが違うのです。歴史の面からの考察と、悟りの面からの考察との違いがあるのです。

 私たちは命を究明しているのです。そのためには、人間が何のために生きているかという目的に向かって突入するような考え方を持たなければならないのです。ですから、仏典の一つ一つについて考察するということは致しませんのでご理解頂きたいと思います。

 色即是空の色は目に見える物質的存在を指しているのです。目に見えるものは空です。目に見えるという形で私たちが意識しているのは本当に存在するものではありません。

 現在では中学生でも知っていることですが、理論物理学の常識で考えますと物質は存在しない、ただ電子の運動があるだけであることになるのです。

実と有

 般若心経には実という言葉がありません。般若心経だけでなくて、大乗仏教全体に実がないのです。これが大乗仏教の特長であります。大乗仏教に無がありますが、有については説明がないのです。正当に言いますと、有という文字の本当の意味が分かって初めて無が言えるはずです。

 ところが仏教では有が分からないのです。有の譬のようなものはあります。例えば遍照金剛とか、毘廬遮那仏があって大宇宙全体を照らすと仏典にありますが、これは思想であって本当にある人格ではないのです。

 無ではない本当の有がどこにあるのか、仏教では分からないのです。これが仏教の特徴です。

 形があるものは色ですから空です。色は空である。ところが色ではない本当の有とは何なのか。現在空として現われているものがあるのです。例えば木が現われています。木が現われているというのはどういうことなのか。なぜ物質が存在するのか。色即是空であるなら、なぜ空が色として出ているのかということです。

 空が色として現われて原因が、仏教では説明できないのです。これはしかたがないのです。なぜしかたがないかと言いますと、法というのがありまして、悟ることなのです。仏というのは仏さんという人格ではなくて、悟るという目的を持っている人格です。これが仏です。

 聖書でいう神が仏教にはないのです。あるように言っていますが、第二結集で龍樹がそういう思想を仏典に取り入れたのであって、釈尊自身はそういうことを説いていないのです。

 釈尊の本当の思想は分からないのです。分からなくなっているのです。阿弥陀如来ということも、釈尊自身が説いたのか、説かなかったのか分からないのです。法蔵比丘というお坊さんが悟りを開いて如来になったと大無量寿経で説明しているのですけれど、これは釈尊のことを阿弥陀如来と言っているのであって、阿弥陀如来という神があったのではないのです。

 本当の有とは何か。仏教は無神論です。神がないのです。天地が造られたということを考えないのです。天地が既にあったと考えるのです。地水火風という四つの大きい力によって、大自然は既に生まれたと考えるのです。

 天地が自然に生まれたというが、自然に生まれたとはどういうことかです。これが仏教では説明ができないのです。仏教には天地を造った本人がいないのです。従って天地が造られたという思想が仏教にはないのです。

 天地は自然にできたと考えているのです。これが因縁所生です。因縁によって天地が生まれたというのです。それでは因縁の本体は何かというと分からないのです。これ以上は仏教では説明しないことになっているのです。曰く言い難しとなるのです。千聖不伝、ただ悟れとなるのです。

 聖書は初めに神が天と地を造ったとはっきり言っているのです。聖書は神が天と地を造ったと明言しているのです。聖書と仏法とでは根本から出発点が違うのです。出発点が違うからこそ比較対称して参考にすることができるのです。

 般若心経には有がありません。だから般若心経だけでは人間を完全に説明できないのです。

 人間自身の考え方は五蘊皆空です。空です。これは般若心経にはっきり書かれています。人間が現在生きていることが空です。

 人間は現在の状態で生きていてもしかたがないのです。本当に有が分からず生きていても、ただ死ぬだけです。死ぬに決まっているのです。だから人間が現在の状態のままに生きているということは、無意味なのです。

 そこでどうしても人間を空じてしまわなければならないのです。現在人間が生きているのはその原因がなければならないのですから、その原因を究明するという態度をとりますと、有が分かってくるのです。

 現在の人間が生きているままの状態を承認してしまいますと、神が分からなくなるのです。命が分からなくなるのです。

 本当の命を見極めようと思いますと、まず空にならなければいけないのです。空が分からなければ、実が分からないのです。空が分からなければ実は分からないのです。そこで般若心経がどうしても必要になるのです。

 般若心経に実はありません。神もありません。だから聖書を勉強しなければならないのです。

 仏教には人間が生きていることに目的がないという言い方をする人が相当多いのです。禅宗は人間が生きていることに目的はないというのです。天台宗でもそう言っているのです。

 仏教では人間が生きていることに目的がないことになるのです。だから現在の人間をアウフヘーベンしても、テーゼとしての人間がいることがはっきり分からないということになるのです。

 釈尊が生老病死ということを悟ろうと考えて発見したのが空の思想でありまして、人間が現世に生きていることが空であることが仏教の終極的な結論です。

 釈尊は人間がただ空であると見ていたのではないのです。もっと大きいものを見ていたようです。ところが有を見たのではないのです。

 私たちはただ単に教理的な勉強をするのではありません。人間が現在生きているという事がらを正確に、真実に究明しようとしますと、般若心経が言っている空は私たちに非常に大きい参考になるのです。

 仏教に空を越えた命があるかないかということを、仏教的に論じるということは、必要がないと思います。仏教は命を伝えるということよりも、空を見ることが目的だからです。従って、大乗仏教だけでは人間完成はあり得ないことになるのです。そこで般若心経の空の他に、命をはっきり提示している聖書が必要になってくるのです。

 本当に命を捉えている教学、教義はありません。端的に実体的に命を掴まえるということは、素人の方がいいのではないかと言えるのです。釈尊は宗教には全く関係がない素人でしたけれど、空という偉大な真理を発見したのです。

 贖罪論というのは新約聖書の思想ですが、旧約聖書という角度から考えてみても、肉の人間は存在していないことになるのです。新約の贖罪というのは肉の人間を認めないのです。これが般若心経の空と一致するのです。

 肉の思いは死であると言っています。肉体的に存在するということを自分だと思い込んでいることは、死であると言っているのです。

 大乗仏教は人間を肯定する面がありますが、空じることを前提にして肯定しているのです。

 贖罪には教義としての贖罪論と、聖書がストレートに提示している贖罪とがあるのです。贖罪という言葉は似ていますが、内容は全く違います。

 どのように違うかと言いますと、キリスト教の贖罪論は、罪人である人間がキリストを信じることによって、彼の贖いによって人間の罪が贖われる。罪がないものと見なされて救われるというのです。

 キリストの血潮によって私たちの罪が許されるというのです。これは間違ってはいないのですが、言葉が足りないのです。キリスト教の贖いによって救われるのはそのとおりですが、キリストが十字架につけられたということを、どのように承認するかです。十字架の承認のしかたが問題なのです。

 十字架はただ贖罪のためではなくて、肉体的に存在する人間が消えてしまうことを意味しているのです。「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない」とパウロが言っているのです(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。この考え方です。私はもはや存在しない。今いるのは自分ではない。キリストが自分という形で生きていると言っているのです。これが新約の贖罪論の特徴です。

 この点は仏典とよく似ていますけれど、少し違う点があるのです。私たちの命が正確に救われるということを、真実に探求することになりますと、正直に十分に検討して確かなことを掴まえなければならないのです。

 これは天地創造ということをお話ししなければ分からないと思います。聖書は約束が原則になっているのです。キリストが神から遣わされてきたというのは確かですが、この言い方だけではただの宗教観念になってしまうのです。

 日本人は神の約束は全く分かりません。日本人は約束の民ではありませんので、神の約束とは何であるかが分かりにくいのです。地球が地球であることが神の約束に非常に重大な関係があるのです。

霊魂不滅

 霊魂は不滅です。不滅というのは霊魂が救われるということとは違うのです。不滅ということは消えてしまわないということです。霊魂の本質は神から出たものですから、消えてしまうことはないのです。

 人間は神から出てきて現世に生きているので、人間の本性である霊魂は消えてしまわないのです。現世から去った後に人間の本性はどうなるかということをはっきり勉強しておかないとひどい目にあうのです。

 霊魂不滅というのは救われることとは違います。魂が救われるという意味と魂が裁かれるという意味と両方共不滅です。

 裁かれるというのは、苦しめられるという意味で不滅です。救われるというのは恵みに与るという意味で不滅です。

 不滅という言葉はとこしえの救いともとれるし、とこしえの裁きともとれるのです。どちらにしてもとこしえです。これが霊魂の本性です。だから私たちはどうしても命の実体を究明しなければならないのです。

 生とは何か。明治二十年(一八八七年)に出版された元訳聖書には、命のことを生と訳しているのです。とこしえの生(いのち)と訳しています。改訳聖書、口語訳聖書にはとこしえの命となっています。本当はとこしえの生というのが正しい訳です。

 生とは霊魂の本質的な命、神の命を指しているのです。命とは人間が現世に肉体的に生きている命をいうのです。生は命の本質を指すのです。

 生命と言いますが、生と命とは違うのです。そこで皆様は本当の生を認識なさるのが大切です。

 イエスを信じるとはどうすることか。キリスト教の人々はイエス様と言っていますが、自分という人間がイエス様を信じるということが基礎になっているのです。ところが、新約聖書はそう書いていないのです。ヨハネは、「彼を受け入れた者、即ち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」と書いているのです(ヨハネによる福音書1・12)。

 神の子となる力を与えられているかどうかが問題です。これがキリスト教にはないのです。神の子となる力を与えられないで、自分は神の子となったと信じているのです。これは一方的な信じ方です。信心合一にはならないのです。

 聖書の言葉どおりの経験をしなければいけないのです。彼を受け取ることです。受け取るというのは、英語ではレシーブ(receive)になっています。彼を受け取るとはどうすることなのか。イエスを受け取るとはどうすることなのかと言いますと、彼の名を信じる者となるのです。

 彼の名を信じるとはどうすることか。これが現在のキリスト教では全く開かれていません。日本のキリスト教で彼の名が分かっている牧師も神父さんも一人もいないのです。そこで宗教ではない聖書を勉強しないといけないのです。

 彼の名を信じるとはどういうことか。例えば仏説阿弥陀経に弥陀の名号のいわれを弁えて念仏申すなら、臨終の時に仏さんが迎えに来てくださると言っているのです。これと先程のヨハネによる福音書の一章十二節と、非常によく似ているのです。

 仏説阿弥陀経はどうも龍樹菩薩が書いたらしいのです。これは釈尊の説とは違うようです。新約聖書の内容がインドに渡ってから龍樹がこれと釈尊の悟りを、うまくミックスして書いたのではないかと思われるのです。

 阿弥陀如来の名号のいわれをよく心得て念仏申せとありますけれど、阿弥陀如来の名号のいわれとは何であるか。

 阿弥陀如来は初めから如来さんではなかったのです。法蔵比丘というお坊さんがいまして、この人が自分の本体を悟ったのです。どのように悟ったのかと言いますと、自分は空だと悟った。般若心経の涅槃と同じ意味で、自分が空であることを悟った。

 そして自分の実体は何かと悟ったのです。空の自分と実体の自分と二つあることが分かったのです。有というのは今ここに生きていること、そして考える力があることの二つです。今ここに生きているのを無量寿如来というのです。考える力があることを無量光如来というのです。

 無量寿如来は命のことです。無量光如来は知恵のことです。命と知恵の二つが私にあるということを悟って、これが自分の本体だと考えたのです。

 今まで自分という人間がいると考えたが、それが間違いだったということを悟ったのです。自分の本体はダルマカラー(法蔵比丘)という人間ではなくて、無量寿如来、無量光如来という二つの如来さんが自分の中にいることを悟った。これが阿弥陀如来です。ダルマカラーというお坊さんは消えてしまっているのです。

 ダルマカラーという固有名詞のお坊さんは消えてしまって、空になったのです。空ではない自分は、アミダーバー(無量寿如来)と、アミダーユス(無量光如来)です。無量寿如来とは命は永遠であると悟ったのです。

 阿弥陀如来は無限の如来です。これが自分の本体であることを悟ったのです。

 三部経の思想は般若心経の涅槃を踏まえてみないと分からないのです。他力本願の阿弥陀経や大無量寿経は般若心経を踏まえているということが確信できるのです。念仏思想でさえもそうなっているのです。

イエスの御名

 念仏思想というのは、イエスの名を信じるのと同じことなのです。イエスの名というのは、イエズースーと言いまして、神が救いそのものであるという意味です。

 神が救いそのものであるということがどういうことなのか。これが聖書によってはっきり教えられたら、初めてイエスの御名が分かるのです。イエスの御名が分からなければ、とこしえの命は分からないのです。

 これは宗教ではありません。宗教ではイエスの御名が分からないからです。カトリックでもイエスの御名を言わないのです。西欧のキリスト教では、イエスの御名を受けることが、何のことか分からないのです。

 イエスの御名を信じることが分からないのです。私はこれを教えられてびっくりしたのです。

 人間が生きていることの実体は、実はイエスの御名です。これは阿弥陀如来の考えと同じことになるのです。少しだけ違う点があるのです。どこが違うかと言いますと、法蔵比丘の場合には、無量寿如来、無量光如来と言いますが、これは人間が考えた概念です。

 ところがイエスの御名の場合には、神の救いが神の存在によって裏付けされているのです。阿弥陀如来の場合には裏付けがないのです。理論的には非常に明解ではありますけれど、歴史的な裏付けがありません。

 イエスの名を受けるということは、非常に明解な実体があるのです。実は皆様が今生きていらっしゃるということが、イエスの御名(実体)なのです。

 私たちにはイエスの御名を教えられているのです。だからキリスト教ではないのです。私は永遠の命を誰にでも差し上げますと言えるのです。

 イエスの御名は神が救いであることを具体的に経験することです。皆様が鼻から息を出し入れしていることが神であって、これを受け取る機能がイエスです。これが宗教ではない本当の命です。

 父なる神の御名と子なるイエスの御名と二つあるのです。この二つがはっきり日本に、神によって啓示されたということは、驚くべきことです。この二つを世界中のキリスト教信者は誰も知らないのです。

 主の祈りに、「天にいます我らの父よ、御名が崇められますように」とありますが(マタイによる福音書6・9)、これがキリスト教では分かっていないのです。

 御名を崇めるとはどうすることなのか。まず御名が分からないのです。崇めるとはどうすることなのか。主の祈りという重大なテーマがキリスト教では分かっていないのです。だからキリスト教は宗教であると言わなければならないのです。

 神と人の魂が一つになって生きているのです。神と人が同時に住んでいるのです。これをインマヌエルというのです。このことが分かりますと、皆様は神の実体が分かるのです。

 皆様が今生きておいでになるということが神を経験しているのです。毎日の生態を通して、できるだけ神を具体的に経験して頂きたいのです。そうして人々に神の実体を教えて頂きたいのです。

 神というのは命です。命が神です。皆様の心臓が動いていることが神です。目が見えることが神です。目が見えることの実体を捉えると、皆様の考え方が変わってしまうのです。神というのはそういう大きいものです。

 般若心経は人間にご利益を与えるとは全く書いていません。般若心経にご利益はないのです。般若心経を写経して千円をつけて寺へ送ると寺が喜ぶだけのことです。こういうことは全く無駄なことです。

 写経は自分の心に書くものです。紙に書くものではないのです。般若心経の使い方、聖書の使い方を今の人間は知らないのです。

 ところがもしキリスト教がなかったら、聖書が今日まで伝えられることがなかったでしょう。毎年、毎年、聖書が超ベストセラーとして世界中に販売されているのですが、こういう意味でキリスト教があったことは結構なことですが、聖書の真理を伝えなかったのはキリスト教の罪悪です。功罪相半ばというところでしょう。

 キリスト教はすべて悪いというのではありません。キリスト教の教義が悪いのです。キリスト教が伝えた聖書はすばらしいものですが、彼らが命なる神を教義として考えたことが間違っているのです。

 現在の文明は概念ばかりの世界です。概念以外には何もありません。学問という概念、宗教という概念、政治という概念、経済という概念、法律、道徳という概念はありますが、命はどこにもないのです。

 聖書に生ける神とあります。英語で言いますと、リビングゴッドと言います。リビングがゴッドです。生きているということが神です。これを掴まえたら理屈はいらないのです。理屈をいくら知っても、リビングが分からなければ、その人の信仰には命がありません。

 皆様が生きておいでになることがリビングであって、これが救いになるのです。皆様が生きておいでになるということが、そのまま救いになるのです。

 ただ条件が一つあるのです。自分自身が今まで生きていたことがはっきり間違っていることを認めて頂きたいのです。皆様の思想や勉強は命ではありません。私たちに必要なものは概念ではなくて命です。

 ミカンを食べるのは魂の命になるのです。こういうミカンの食べ方があるのです。これがイエスが経験していた命です。イエスがミカンを食べたらそのまま命になったでしょう。イエスは父なる神のやり方を知っていたのです。

 皆様には百四十億の脳細胞がありますが、その一部しか使っていません。神の実体が分かりますと、その使い方が分かるのです。信じるとはどういうことかが分かってくるのです。

 日本のキリスト教信者の中で、本当に信じている人は一人もいないでしょう。宗教観念を信じている人はいます。宗教の理屈を信じる人はたくさんいますけれど、神の実体を信じている人は一人もいないのです。

 本当の神を証すると、世間の人は誤解するに決まっているのです。世間の人が言わないことを言うのですから、一人自慢の褒め手なしとなるのです。パウロは世を惑わす者と言われました。イエスは気違いだと言われているのです。

 私は私の思想を述べているのではありません。生ける神の御名を述べているのです。私という人間はいないのですから、私の思想を述べる必要はないのです。

 皆様には現在生きているという事実があるのです。この実体を捉えようとしないために、自分の概念や宗教主義で満足しようとするのです。

 生きているという事実があるのです。目が見えるという事実があるのです。目が見えるという事実が本当のリビングです。

 生かされているというのは、般若波羅蜜多で言いますと、向こう岸のことです。向こう岸のことですから、生かされていると言えるのです。

 人間が生きているという事実はどこにもありません。人間の命は与件です。与えられた条件という意味です。皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。男に生まれたいと思って生まれたのではないのです。

 両親とか、性別、生年月日を変更することはできません。人間はぴんからきりまで全部与えられた条件ばかりで生きているのです。これが生かされているということです。

 自分の命は全くありません。ところが人間は自分が生きていると思っているのです。他力本願の阿弥陀経でさえも、自力によって悟りを開かなければ阿弥陀さんになれなかったのです。

 そのように他力の根底には自力があるし、自力の根底にはまた他力があるのです。他力、自力という分け方は日本の宗教の分け方でありまして、そういうものをあまり問題にしないで、皆様が現在生きておいでになるという事実を考えて頂きたいのです。

 ミカンを食べたら魂の命になるという事実を考えて頂きたいのです。皆様はせっかくこの世にお生まれになったのですが、生まれたということが業(ごう)です。私たちはこの世に生まれた以上、生まれたという責任を果たさなければ必ず裁かれるのです。

 皆様は生きておいでになります。また、生ける神の実体がよく分かるような能力を持っておいでになるのです。皆様には本当の命を見極めるだけの能力が十分あるのです。

 宗教や哲学に捉われないで、幼子のように素直になって勉強して頂きたいのです。皆様はまず地球ができたことを勉強して頂きたいのです。地球ができたということをはっきり教えてくれるのは、旧約聖書以外にありませんから、旧約聖書を勉強するしかしょうがないのです。

 聖書はいわゆるキリシタンバテレンと言われる人々が用いた書物ですから、日本人として聖書に頭を下げるのは心地よいものではなかったのです。しかし天地が造られたということを教えてくれるものは聖書以外にはありませんから、聖書を学ぶしかしょうがないのです。

 日本の古事記にも天地創造のことが少し書いてありますが、聖書とは比べものにならないお粗末なものです。だから聖書を勉強して頂きたいのです。

 皆様は現在生きておいでになります。地球は自転公転しているのです。つまり地球は生きているのです。地球が生きているから人間が生きているのです。地球に命が現象的に働いているのです。この命を掴まえるのです。

 自分が救われたいと考えていたらだめです。無心になるのです。できるだけ無心になろうとすることです。幼子のような素直な気持ちになろうとすることです。そうして神の御霊の導きを受けるのです。

 神の御霊が地球が生きている実体です。これはエネルギーの本質です。エネルギーの本質が神の御霊です。神の御霊は思想的に働いていますし、物理的にも働いているのです。

 理論物理学は神の御霊のほんの一部を説明しているだけです。

 皆様はせっかくこの世にお生まれになったのですから、命を勉強して頂きたいのです。宗教ではない、理屈ではない、自分が分かろうとか良くなろうという考えではなくて、命そのものを勉強して頂きたいのです。

 まず第一に考えて頂きたいことは、命は自分のものではないということです。自分が生きていると考えると、つい自分の悪い癖が出るのです。例えば人を憎むとか、焼き餅を焼くとか、約束を破るとかをするのです。自分がいると思っているからそういうことになるのです。

自我意識は悪魔が創造した意識

 自分がいるという意識が根本的に間違っているのです。自我意識というものは悪魔が創造した意識です。悪魔はどこのいるのか、どうしてできたのかということです。

 自我意識は悪魔が造り出した人格です。命は皆様のものではないのです。リビングという事実が皆様に与えられているのです。五官、生理機能、心理機能の働きがリビングになっているのです。皆様のリビングは皆様のものではないのです。

 これが分かりますと、自分自身を良く見せようとか、自分自身を人に理解してもらおうとかいうことを考えなくなるのです。

 命があるのです。命とは何かと言いますと、神です。命は世界に一つしかないのです。私たちは神の命を分与されているのです。分与されているのであって、自分の命はありません。従って、自分が悟らねばならないと思う必要はないのです。

 これが分かりますと、目が見えるということが生ける神だということが分かります。生ける神が自分という格好で生きているのです。これが分かりますと、自分の悪い癖が無くなってしまうのです。

 自分がいないのですから、人に自分を理解してもらう必要もないのです。理解してもらっても何もならないのです。

 命は自分のものだ、自分の命があるという考えは、現在の人間の根本的な大間違いです。錯覚です。これはなかなかなくなりません。自分がいないということを言い続けるということを、まずしてください。そうすると死んでしまうべき自分がいなくなるのです。

 自分がいないということを考えても、自分が生かされているという事実はあるのです。目が見えること、心臓が動いているということはあります。これが生かされているということです。客観的な事実です。客観的な事実がある以上、主観的な自我意識を放棄しても全く困りません。主観的な自我意識を放棄しても客観的な生命の実体はあるのです。あわてることは一つもないのです。

 自我意識を放棄しても、自分が生きているという事実は消えません。自分を放棄するには度胸がいりますが、最初にそう思い切るだけでありまして、断行したら何でもないのです。

 自分自身を脱ぎ捨てるのです。そうすると肉の思いがなくなってしまいます。腹が立つような思いがなくなるのです。こういうことを実演したらいいのです。実験したらいいのです。

 私たちが生きているという実体を掴まえるのです。自分の命ではない命を掴まえるのです。

 宗教は人間のために造られたもので、人間の幸せを考えるのです。宗教ではないと私が言いますのは、人間が造った理屈ではなくて、人間を造ったものの教え、天然自然の命から流れ出る教えをいうのです。

 すべて人間の行き着く所は、生きるか死ぬかということです。これが原則でありまして、成功したとか、失敗したとか、儲けたとか、損をしたということは一時の現象であって、すべて人間が行き着く所ではありません。

 今の日本にはたくさんの宗教がありますけれど、これは人間の教えばかりを説いているのです。誰かが何かの考えを持って教えているのです。そればかりです。

 ご開山やご教祖が造ったものが、今日の日本の仏教になっているのです。釈尊の本当の悟りは現在の日本にはありません。

 般若心経は釈尊の悟りを率直にそのまま伝えているものだということが、だいたい言えるようです。

 すべての経文には、最初に如是我聞という言葉があります。我かくの如く聞いたというのです。私はこのように聞いたというのです。これが経文の一番最初の言葉になっているのです。

 私はこのように聞いたというのですから、釈尊の弟子の聞き方によってそれぞれの経典が造られているのです。しかし般若心経には如是我聞という言葉がないのです。

 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時とあります。観自在菩薩が般若波羅蜜多を深く行じていたということを、最初から書いているのです。これは釈尊の悟りを最も端的に、率直に、正直に打ち明けて話をしたというのです。だから般若心経は宗教ではないと言えるのです。人間が造った教えではなくて、釈尊そのものの教えであると言えるのです。

 釈尊はいわゆる宇宙の原理のようなものを悟ったのです。人間が存在する事がらの本当の道理を悟ったのです。

 般若心経に五蘊皆空とありますが、五蘊皆空というのは、人間の考えはすべて空であるということを釈尊は主張しているのです。天然自然の本当の道理は、人間の考え方に関係なく存在するものだと言っているのです。これが宗教ではないと言える点になるのです。

 聖書も宗教ではありません。宗教はもう一度申し上げますと、人間が造った教えで、人間が幸福になるためにあるのです。従って現在の人間の感覚の心の迷いを端的に指摘しないのです。

 本当のことを言いますと人々が集まりませんから、人間の都合のいいことばかりを言っているのです。だから宗教は信用ができないのです。

 ロシアにドストエフスキーという文豪がいました。「真理は人間の幸福とか救いを問題にするのではない。従って真理を勉強すると、その人は幸福になるかどうかは分からない。それは真理であるならしかたがない」と言っているのです。

 かつて朝日新聞社に中江兆民という記者がいました。この人が、「本当のことなら腹が立ってもしかたがない」と言っているのです。

 真理は必ずしも皆様に都合の良いことばかりを言いません。都合の良いこともあるでしょう。また、都合の悪いこともあるのです。

 現在皆様は肉の思いで生きているのです。自我というのは元来嘘の意識です。自我意識は虚妄の人格であって、自分にとって都合の良いことだけを考えているのです。これは初めから間違っているのです。

 般若心経は自我意識を脱いでしまうことを強調しているのです。

 人間は理性を持って生きているのです。理性を持って生きているということは、理性を正しく活用すれば命の実質を弁えることは十分にできることを意味しているのです。

 例えば皆様が花をご覧になるとします。皆様は花の形を見ているのです。皆様の目に映っているのは形です。ところが心では美しいと感じているのです。

 美しいということは目に見えないことです。目に見えるのは形です。形とか色が目に見えるのです。

 皆様がなぜ花をご覧になるかと言うと、美しいからご覧になるのです。皆様の目に映っている肉体的な感覚と、美しいということは違うのです。

 例えば黄色い花があるとします。これは黄色くないから黄色に見えるのです。その花は黄色い色だけを拒んでいるのです。黄色い色を拒絶しているのです。黄色い色をはね返しているのです。はね返している色だけが、皆様の眼に映っているのです。このことはNHKのテレビ放映で詳しく説明していたのです。

 赤い花は赤くないから赤く見えるのです。その花は赤を拒んでいるのです。拒まれたものが人間の目に映っているのです。黒と白だけは別になります。黒と白以外はそうなるのです。

 人間の肉体的な感覚は、般若心経にありますように、顚倒夢想しているのです。遠離一切顚倒夢想とあります。人間が現世で考えている感覚、または知識は、全部ひっくり返っているのです。写真で何かを写しますと、白いものが黒く写るのです。これがネガフィルムです。これをもう一度焼きますと、黒が白くなるのです。現在はデジタルカメラが主流ですからそういうことはありませんが、昔のアナログカメラはそうなっていたのです。

 人間の肉体感覚はネガフィルムと同じような働きをしているのです。皆様の常識は肉の思いであって、人間の常識をそのまま信じてしまいますと、皆様はお気の毒ですが全部死んでしまいます。

 赤くないものを赤いと思い、善ではないものを善だと信じている。反対のことを信じているのです。だから何のために生きているのか、生きているのは何をしているのかさっぱり分からないのです。これが死んでいる証拠です。

 魂が正常に働いていないのです。魂があるべき姿をはっきり見ていないのです。見ていないのは魂が歪められているからです。これが業(ごう)です。この世に人間が生まれてきたことが業です。業で生まれてきたのです。

 業を果たさなければ人間の本当の魂の救いはありません。これは果たすことができるのです。皆様の理性は業を果たすだけの力を十分に持っているのです。

 ただ今日までの皆様の物事の教えられ方、例えば家庭教育、学校教育、宗教教育が皆間違っていたのです。間違ったことを教えられていたのです。困ったことですがこうなっているのです。

 人間の考えによって、人間の方針に従って教育しているのですが、人間の方針というのが全部死んでいく人間の方針です。死んでいく人間の考え方で、死んでいく人間を教育している。盲人が盲人の手引きをしているのです。これを全世界の人間がしているのです。

 本当の命を考える人も、教える人もいないのです。生きていながら命が分からないというのはそういうことなのです。

 魂が死んでいるというのは、自我意識、自分という意識で生きているからです。自分はいないのです。皆様は自分が生まれたいと思ったことはないでしょう。生まれたいと思わないのに勝手に生まれていたのです。従って自分というのはいないのです。初めから自分はいないのです。それを自分がいると考えていたのです。

 人間の考えは顚倒夢想しているのです。人間の考えは夢想であって、夢のような考えを持って生きているのです。夢のような考えを遠離してしまうのです。

 人間の常識を遠く離れてしまって、本当のことを見るというのが空です。

 現在の人間の魂は常識や知識によって押さえ込まれているのです。

 人間の常識や知識は間違っているのです。例えば人間は物質が存在していると思っています。物質は存在していないのです。このことは現在の中学校でも教えているはずですが、理論物理で考えますと、物質は存在していないのです。原子が存在しているのです。原子核の回りを電子が回っている。そういう原子が集まって物ができているのです。

 原子が集まって要素となり、要素が集まって物ができているのです。電子の運動はありますけれど、物質はどこにも存在していません。これが色即是空ということです。

 物質は存在していません。物質があるような感覚を人間は与えられているのです。ないものがなぜあるように見えるのか。これは聖書をよく勉強したら分かってくるのです。

 人間の常識、知識は肉体感覚で考えているのですから、この感覚は虚妄です。嘘です。嘘で考えている。そうして自分が生きていると思っているのです。自分が生きていると思っている人は必ず死ぬのです。

 自分はいないのです。このことがはっきり分かれば、釈尊の悟りはよく分かるのです。阿弥陀如来もよく分かるのです。イエス・キリストもすぐ分かるのです。

 キリスト教も仏教も人間の教えです。宗教はすべて教義を説いているのです。教義を教えるのが宗教です。宗教にはすべて宗教教義があるのです。教義は人間が造った理屈です。天然自然の法ではないのです。

 天然自然の法とは五官によって捉えている世界です。人間はこれを無視して勝手に教義を造っているのです。これが顚倒です。遠離一切顚倒夢想ということを考えて頂きたいのです。

 般若心経は彼岸へ到ることを提唱しているのです。般若というのは上等の知恵、上智をいうのです。額(前頭葉)には人間の栄知の働きの根源の機能があるのです。商売をするとか、家庭のことは額を使わないのです。

 額を使うというのは未だ経験しないことを考える場合です。「あなたは額に汗してパンを食べる」という言葉がありますが(創世記3・19)、この意味が分からないのです。

 額に汗してパンを食べるというのは、肉体労働をして汗を流すことだと思っているのです。ところが額に汗を流すというのは、人間が未だ考えていないようなことを考えさせられるという意味です。

 普通の日常生活のことなら、今までの習慣や経験で何とかやっていけるのです。いちいち考えなくてもいいのです。商売の段取りくらいのことは、今までの経験で十分できるのです。

 考えるということはどうすることか。人間の命とは一体何であろうかということを考えるのです。例えば男と女の問題です。男はなぜ女が好きになるのか。また、女はなぜ男に頼るのか。なぜ女は男に頼らずにおられないのだろうかを考えるのです。

 世間の考えだと、男が女を好きになるのは当たり前だと思うのです。ところがそうなるべき道理があるはずです。そうなるべき道理がはっきり分かっている場合は当たり前と考えてもいいのですが、当たり前になるべき道理が分からないままの状態で、当たり前と鵜呑みにしていることは、非常に間違った考えになるのです。

 地球がなぜ存在しているのか、これは学問では全然分からないのです。釈尊は地球が存在することが空だと言っているのですが、空の地球がなぜあるのか。これは仏教では説明ができないのです。そこでどうしても聖書の勉強をしなければならないことになるのです。

 聖書は万物が造られたこと、天地創造が書いてあるのです。仏教では天地の創造を言わないのです。仏教は無神論ですから天地創造を言わないのが当たり前です。

 ところが、天地があるのは天地があるべき道理がなければならないのです。地球は銀河系の中でも特殊な惑星です。地球は単なる物体ではなくて、地球全体が生き物なのです。生き物ですから無数の生物が繁茂しているのです。人間に命を学ばせるために色々な生命がいるのです。

 ところが人間は命を学ぼうとしていない。ただ自分が生きていると思っているのです。自分の家庭、自分の仕事、自分の財産があると思っている。だからいつも苦労しなければならないのです。

 自分の幸福、自分の家庭の幸福と思っていると、結局不幸になるのです。

 自分がいないことが分かりますと、神のまにまにという生き方ができるのです。客観情勢に従って生きる、天然自然のおのずからに従って生きることができるのです。これを実行すれば、苦労とか悲しみ、心配はなくなってしまうのです。こういう生き方ができるのです。

 これは宗教ではありません。宗教でもこれと似たようなことを言いますけれど、宗教は現世の人間が幸福になることを考えているのです。いわゆる現世利益一辺倒です。これは間違っているのです。

 いくら現世利益があって現世で幸いだと思っていても、現世に生きている人間は必ず死ぬのです。死んでどうなるのか。お先まっ暗です。

 本当の幸せというのは、現世でも来世でも永遠に通用するものでなかったらいけないのです。これが本当の幸せです。

 人生には未生、いわゆる生まれる前と、現生と来生、死んだ後の三つの人生があるのです。聖書の言葉で言いますと、「神から出て、神によって成り立っていて、神に帰るのです」(ローマ人への手紙11・36)。

 皆様の心臓が今動いています。目が見えます。これが神です。これを皆様は経験していらっしゃるのです。目が見えること、耳が聞こえること、心臓が動いていること、脳波が働いていることが神です。これが神の実物です。

 現在皆様は神の実物を経験しておいでになるのです。神の実物が命です。命は生まれる前も、現世も、死んだ後も続いているのです。この全体が命です。これが永遠の命です。

 来世がまた前世に繋がっているのです。この全体を円相というのです。例えば活花で、天地人と言いますが、この全体が円相です。

 円というのは宇宙全体を意味する抽象的な形態です。皆様の命は本来円相でありまして、このことが分かれば皆様は元いた所に帰れるのです。死んでからどうなるか。元いた所に帰るだけです。

 ところが神が分からないと困るのです。宙に迷うことになるのです。脱落する、落後するのです。これを霊魂の裁きというのです。これがひどいのです。

 現世で五十年か六十年生きていたら、注意して生きていたら、神の実物が分かるはずです。これは聖書の勉強をしないと分かりません。なぜ私が聖書の勉強が必要かと言いますと、聖書を勉強しないと本当のことが分からないからです。この地球ができたのですが、やがてこの地球は消えてしまうのです。人間社会もなくなってしまうのです。

 できたものはなくなるのです。これは当たり前のことです。地球はできたのです。人間は生まれたのです。生まれたものは死んでいくのが当たり前です。この全体が円相であって、宇宙の全体はこういうものになっているのです。

 神の実体がこの中心であります。皆様は現在神を経験しておいでになるのです。例えば皆様の理性をよくお考えになると分かるのですが、人間がこの世に生まれて文明文化という形態で、人間の歴史、記録を始めてからだいたい六千年になるのです。

 北京原人が誕生したのは五十万年前くらいです。しかし、人間が文明として文化的な記録とか学的な考えを始めてから、だいたい六千年経過しているのです。

 原人が生まれて文明ができるまでの間には流れがあるのです。この流れには一つの規則があります。これを仏教では法と言っています。法をダルマと言います。

 この世界には法があるのです。例えば交通法規がありまして、一時停止をしなければならないとか、Uターンしてはいけないとかいう規則があるのです。道路には道路交通法規があるのです。

 人間六千年の歴史の流れには、法の流れがあるのです。これが日本人には全然分かっていないのです。日本人はそういう大きいものの考え方ができないのです。これを神の約束というのです。

 地球が造られたこと、人間が発生したこと、このように世界の歴史が六千年間流れてきたこと、この歴史がこれから流れていくことは、神の約束を勉強しなければ絶対に分かりません。日本人はこの勉強をしていないのです。

 キリスト教でも聖書を説いていますけれど、神の約束の根本原理を説明する教会は一つもありません。神の約束を勉強している牧師さんが日本にいないから困ったものです。世界にもいないでしょう。

 もしアメリカにそういう牧師がいたら、アメリカが今日のように腐らなかったのです。アメリカが腐った原因は、聖書の勉強を真剣にしていないからです。

 キリスト教はあります。アメリカにもヨーロッパにも、南米にもたくさんありますが、神の約束、神の命を本当に勉強しているキリスト教の牧師は一人もいません。

 私は若い時から、人間は何のために生きているかを一生懸命に考えていたのです。人間が子供を産んで死んでいく。子供を産んで死んでいく。これは何をしているのか。人間は何のために生きているのかを考えたのです。善とは一体何であるのか。悪とは何であるかということです。幸福とは一体何かということです。

 人生には何か大きな秘密があるに違いない。世間の人が誰も考えない秘密があるに違いないと考えたのです。結局、神の約束が人間歴史の大眼目です。古い約束を旧約と言います。新しい約束を新約というのです。

 旧約と新約の原理が、世界中のキリスト教に分かっていないのです。聖書の勉強をしていますが、神の実物をしっかりと掴まえていないのです。

 キリスト教の牧師に神とは何かと聞きますと、神様は天地をお造りになったお方だと言います。天地をお造りになったお方には違いないのですが、天地を造った神は今どこにいるのか。皆様の命とどういう関係になるのか。これが説明できないのです。私はこれをはっきり教えられたのです。だからイエスと同じ生き方をしたら、絶対に死なないということがはっきり分かったのです。

人空

 皆様にもこれをぜひ掴んで頂きたいのですが、まず皆様の常識や知識が空であるということを悟って頂きたいのです。これを仏教では人空と言います。

 人空とは人間が存在することが空だというのです。これには我空と生空があるのです。自分がいないというのが我空です。また皆様が生きておいでになるということがないのです。これが生空です。これが釈尊の本当の悟りです。

 人空が分かりますと、初めて神の約束の偉大さが分かるのです。地球が自転公転している、太陽が輝いている、雨が降ることが宇宙の生命現象です。こういうことは神の約束を原理にして存在しているのです。

 地球を地球としている力、太陽を太陽としている力が本当の命です。この命を皆様が経験しておいでになるのですから、皆様が虚心坦懐になってお考え頂ければ、皆様自身が神の実物を掴まえることは必ずできるに違いないのです。私にできたことが皆様にもできるに決まっているのです。私みたいな者にできたのですから、皆様にも当然できるのです。難しく考えないで気楽にお考え頂いたらいいのです。

 私は宗教教団に入りなさいと言っているのではありません。宗教団体から出ることをお勧めしているのです。命の勉強をして頂きたいと言っているのです。

 円相が人生全体です。死んでからどこへ行くのか。死んだら前世に帰るのです。生まれる前の所に帰るのです。神から出て、神によりて成り立っていて、神に帰るのです。これが人間の一生です。哲学的にこのような論理を言っている人がありますけれど、論理ではなくて実体の説明が必要です。

 人間の命の内容を考えて頂きたい。例えば皆様の理性がどのように働いているのか。ハートとマインドの関係です。これを勉強して頂きたいのです。

 皆様が現在生きていおいでになる命の実物をしっかり掴まえて頂きたいのです。皆様はそれをしっかり把握しておいでにならないことを自覚して頂きたいのです。

 皆様は自我意識によって生きている状態ですから、死んでいるのです。死んでいる状態ですから危ないのです。このことを率直に皆様にご忠告申し上げたいと思うのです。

 般若心経に空という字がたくさんあります。旧約聖書伝道の書に、「空の空、空の空、一切は空である」という言葉があります(1・2)。この関係ですが、よく似た所と違った所とがあるのです。

 旧約聖書の空は、知的な角度から述べているのです。旧約聖書の伝道の書とか、箴言はダデデ王の子のソロモンが書いたものと言われているのです。

 ソロモンは非常に頭が良い人でした。普通の学問よりもはるかに高い感覚で物理や哲学で物事を直感していたのです。持ち前のすばらしい英知に基づいて書いたようです。

 ソロモンが述べている空というのは虚しいものだという意味です。人間がしていることは虚しいものだということを基礎にして述べているのです。雨の下において人間のなす所はすべて風を掴まえようとして努力しているようなものだと言っているのです。

涅槃

 人間の努力はすべて虚しいものだと言っているのです。ところが般若心経の空は、人間の五蘊が空だと言っているのです。人間の考え方が空だと言っているのです。

 般若心経の終わりの方に究竟涅槃という言葉があります。究竟涅槃という言葉は、サンスクリットでニル・バー・ナーと言いまして、これを中国で涅槃と訳したのです。

 ニル・バー・ナーといのは、冷えて消えてなくなることです。蝋燭の火がふっと消えてしまう状態が涅槃です。

 人間の思想は元来、蝋燭の火のようなものであって、一陣の風が吹けば、すっと消えてしまうのです。現世の自分の命が消えた後に、本当の命が分かるという思想を指しているのです。

 涅槃というのは指標でありまして、あちらの方だということを指差ししているのです。

 究竟涅槃というのは人間が考えている人間や万物は存在していないのです。一切空であって、五蘊皆空であって、向こうに何かがあると言っているのです。

 向こうに何があるかと言いますと、法があるというのです。ところが法の説明は仏教ではできないのです。宇宙がなぜ存在するのか。このことは仏教では説明できないのです。例えば華厳経とか維摩経では森羅万象の中にたくさんの仏があることを書いています。千々万々の仏があることを説いています。

 千々万々の仏とは何かと言いますと、一輪の花の中にもたくさんの仏があるのです。花の形も一つの仏ですし、色も如来さんです。花の香りがあります。花の中に味とか栄養価があるのです。一輪の花の中にもたくさんの仏があるのです。これが法です。

 これを知るためには、現在の人間の常識を空じてしまわなければいけないのです。常識は迷いです。迷いを捨ててしまわなければ、法が分からないのです。そこで究竟涅槃と言っているのです。こういう意味での空があるのです。

 ソロモンが言っている空は、人間の生活は虚しいものだと言っているのです。目的は般若心経と同じですけれど、ソロモンの方は虚しさを説いているのです。釈尊は空の実体はこれだと言っているのです。究竟涅槃を言いたいのです。この点が違っているのです。

 宗派神道というのは、本来の日本の純粋の神道とは少し違うように理解しています。似たような所はあるでしょうけれど、教義が違っているのです。

 太陽というのは聖書的に言いますと、一つの被造物になるのです。造られたものです。太陽は永遠不滅ではなくて、いつか消滅します。永遠無窮という訳にはいかないのです。

 太陽は現在目で見えるものです。目で見えるものはいつかなくなるのが道理でありまして、空の中に入るのです。

 実は本当の空と言いますのは、太陽よりも大きいのです。日本という国が存在する前から、日本の神道が存在する前から宇宙はあったのです。

 どうして太陽が太陽であるのか。実は太陽を中心にして太陽系宇宙ができています。地球に万物が存在するのも、すべて太陽の恵みです。

 地球の物理的な命は太陽が非常に大きいウエイトを占めているのです。ほとんど太陽のご利益みたいなものだと言えるでしょう。このことは聖書にも書いていまして、太陽は神の特別の被造物であって、地球を地球とするためには太陽が絶対に必要です。しかし太陽は神ではないのです。

 太陽は現世における命です。現世の生物を生物として生かしている力は現世的には太陽によるのです。

 命と言いましても現世の命ではありますけれど、未生の命ではないのです。未生とは私たちがこの世に生まれる前の命です。これは太陽に関係がありません。来世にも関係がありません。

 太陽は現世に生きているという意味での大きい原則であると言えますけれど、未生、現世、来世全体から考えますと、宇宙の永遠から考えますと、太陽も一つの空であることになるのです。

 日本には日本の宗教がありますから、お信じになるのはご自由ですけれど、日本の国は地球あっての日本です。日本が地球よりも偉いのではありません。

 かつて日本の軍閥が、日本の天皇は地球よりも偉いと言っていますが、こういう考え方はひいきの引き倒しでありまして、実は日本の天皇位というものはそんな簡単なものではないのです。日本の天皇位は旧約聖書に非常に関係が深いのです。

 太陽のエネルギーとは何であるのか。何のために太陽のエネルギーが地球だけに有効に働いているのか。火星や金星にも太陽エネルギーが降り注いでいるけれども、生物は全く存在していません。なぜ地球だけに生物現象があるのか。

 地球全体が一つの生き物になっているのです。地球にだけなぜ生物現象があるのか。なぜ太陽が地球にだけ働いているのか。これが神の約束の原理です。宇宙が宇宙であることの根本、太陽が太陽であることの根源が神の約束です。

 教えと真実とは違います。なぜ違うかと言いますと、教えは一種の翻訳的なものでありまして、道標のようなものです。真実は実体です。実体と教えとは違うのです。

 教外別伝、千聖不伝、声前の一句という言い方があります。曰く言い難しとも言います。禅的な角度からですと、曰く言い難しで通用するのです。

 聖書の角度から言いますと、曰く言い難しでは通用しないのです。できる所まで説明できるのです。例えば神の実体についても説明ができるのです。

 キリスト教は神の説明を絶対に致しません。教義では神の実体に触れることはできないのです。教義はどこまでも教義です。実質そのものではありませんから、教えにはなりますけれど実体にはならないのです。

 神の実体ですが、キリスト教で神とは何かと聞くと、神は信じるもので、理屈で割り切るものではないと言います。キリスト教の教義には神の実体の説明が全くありません。神は存在するということを初めから押しつけるような態度を取っているのです。

 これはキリスト教としてはやむを得ないのです。仏教にしても、法(ダルマ)は何かと聞きますと、法は法だと言うのです。それ以上答えないのです。法は法で絶対なのです。

 キリスト教にとって神は絶対です。絶対に対してかれこれ説明しなさいという言い方がけしからんのです。叱られることになるのです。

 ところが聖書には説明しているのです。教えは何のためにあるのかと言いますと、道標のためにあるのです。例えば野球で言いますと、トレーニング、練習みたいなものになるのです。本番の試合とは違うのです。練習試合とかシートノックをしているのです。これが教義です。

 教義をしっかり勉強することは必要なことですけれど、教義に救いがあるのではないのです。教義に本当の悟りがあるのではないのです。悟りは悟り、救いは救いです。神の実物を掴まえなければだめです。

 神の実物は何かと言いますと、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)という言葉があるのです。神の名前が神の実体です。神の名前、イエスの名前、キリストの新しい名前があるのです。

 イエスというのは名号でありまして、阿弥陀如来のようにイエスの名号はそのまま救いになるのです。他力本願の教義は、新約聖書の教義から相当大きい影響を与えられたものと想像されるのです。

 教義はある一つの方向を目指していることになるのです。しかし実体ではないのです。

 神の名とは何か。イエスは祈る時に神の御名を崇めさせたまえと言いなさいと言っているのです。神の御名を崇めるとはどういうことなのか。キリスト教では神の御名をはっきり説明しないのです。

 御名を崇めなさいとは言いますけれど、御名とは何か。どうしたら御名を崇めることになるのかを説明しないのです。私は現在それを実行しているので申し上げられるのです。

 新約聖書のヘブル人への手紙の十一章六節に、神がイズ(is)であることを信じなければならないという言葉があるのです。英訳でmust believe that he isになっています。神に来る者は神がイズであることを信じなければならないとあるのです。これが神の実体です。

 英語でいうビー動詞のam are isが神の実体です。皆様が人間であることが神です。あることがイズです。これが神です。

 神に来る者は、神がイズであることを信じなければならないとあるのですが、これがキリスト教では全然分からないのです。神が分かっていないから聖書が全然分からないのです。

 私が私であることが神です。あなたがあなたであることが神です。モーセが神に向かって、あなたの実質は何ですかと尋ねたのです。その時に神が答えたのはアイ・アム・ザット・アイ・アム(I am that I am.)です(出エジプト記3・14)。私はあるという者だと答えたのです。

 地球が地球であること、太陽が太陽であることが神です。太陽が神ではありません。太陽が太陽であることが神です。地球が地球であることが神です。これが本当の神です。

 現在皆様の心臓が動いていることが神です。これが神の実物です。実物と教義とはこのように違うのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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