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絶対に死ぬ命と絶対に死なない命

 命には死んでしまうに決まっている命と、絶対に死なない命と、二つあるのです。

 ところが現代文明は死んでしまうに決まっている命のことだけしか考えていないのです。

 皆様が現代文明を考えたのではありません。皆様はやむを得ず、知らず知らずの間に、現代文明の流れに押し流されているのです。

 どういう命をどのように生きるべきかということを、自分で考える自由を、与えられないままで生きているのです。

 皆様は死にたくないと思っていながら、死なねばならないと思っているでしょう。死にたくないという気持ちがはっきりありながら、死なねばならないと考えさせられているのです。

 そのように現代文明は人間の生命についての考え方を見事に束縛しているのです。拘束しているのです。

 昔の人間は現在のようではなかったのです。昔の人間は自分自身の考え方、自分の常識、自分の生活状態を、空じるということを考えていたのです。

 例えば、日本王朝時代に書かれた方丈記の中に、人間がこの世で家を造って住んでいるのは、動物が巣を造っているようなものだと言っているのです。

 また、有名な平家物語の冒頭の文句に次のように書かれています。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

  おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

  たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」

 この意味を簡単に言いますと、インドのお釈迦様のお寺である祇園精舎の鐘の音は、「永久不変なものはない」と言っているように聞こえる。

 お釈迦様が死を迎える時に、白くなって枯れた沙羅双樹の花の色は、栄えている者が必ず落ちぶれるという意味を現わしている。

 思い上がった振る舞いをする者は、長くは続かない。それは単に春の夜に見る夢のようだ。荒々しい強者も、ゆくゆくは滅びてしまう。それはいかにも風が吹くと飛んでいく塵と同じだというのです。

 現世に生きている人間は諸行無常の中で生きているのです。動物が巣を造るような生活を人間は行っているのだから、そういう状態を解脱しければならないという願いが、自ずから生まれているのです。

 ところが、現代文明は学校へ行かなければ人ではないように言われているのです。東大を出なければエリートではないというばかな考えができてしまっているのです。こういうことによって、人間の値打ちが勝手に決められているのです。

 現代文明は資本主義の流れと、共産主義の流れと二つの流れがあるのです。自由主義の考え方と共産主義の考えが、文明を造っているのです。

 文明が人間の命のあり方、考え方を規制してしまっているのです。そうして、本当の命を自分で自由に考えるという自由を与えられていないのです。

諸行無常

 諸行無常が今の日本人に分からないのです。諸行無常は色即是空ということです。物が存在すること、人間の肉体が存在することの根本的な原理が諸行無常です。

 般若心経を読んでいる人が、日本には一千万人もいますけれど、その内容が全く分かっていないのです。また、般若心経を読んでいながら全く信じていないのです。

 般若心経の中に五蘊皆空という言葉がありますが、人間が見ている世界は嘘である。また、人間が意識している世界も嘘だと言っているのです。無限界乃至無意識界ということを、堂々と書いているのです。これは諸行無常どころではありません。非常に強烈に人間の感覚そのものを否定しているのです。

 人間の感覚を般若心経は否認しているのです。般若心経は現代の人間の文明の中で、卓抜したすばらしい思想であると言えるのです。こういうすばらしい文化概念は他にはありません。

 しかも般若心経がまともに取り上げられているのは日本だけです。アジアには仏教国はたくさんありますけれど、般若心経の内容は問題にされていません。社会的な習慣として、または生活の儀式として仏教を取り上げていますけれど、思想として、また、人生観として般若心経を取り上げているのは、日本だけです。

 世界に最も優れた文化概念の思想が、日本だけにあるということは、非常に大きい問題です。

 白人社会では現代文明を正しく批判する能力を持っていないのです。アメリカ人でもイギリス人でも、ドイツ人もフランス人も、現代文明を正しく批判する能力を持っていません。ましてや人間の命に対して正常な、正当な考え方は現在の文明にはないのです。ただ生活することしか考えていないのです。

 こいうばかばかしい風潮が現在の日本にもはびこっているのです。そこで今の日本人は般若心経を愛しているけれども、信じてはいないことになるのです。

 もし皆様が五蘊皆空の意味がまともにお分かりになったなら、安閑として生きていられないでしょう。

 今の文明は全く生活主義一辺倒であって、生命の本質を全く考えようとしないのです。教育がそうなっているのです。政治もそうなっているのです。

 ですから、文明は信用できるものではないのです。皆様は一体何を信用して生きているのでしょうか。命という角度から見れば、政治も経済も、教育も信用できないのです。

 皆様が現在の状態で生きておいでになっても、必ず死ぬでしょう。死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっているような命を自分の命であるように思い込まされている。これが現代文明の大欠点です。

 現在の文明をそのまま鵜呑みにしていますと、皆様は命に対する自由な考え方ができないのです。精神的に不完全になっているのです。このことをよくお考え頂きたいのです。

 こういうことがはっきり言えるのは日本人だけです。日本でも般若心経の本当の意味が分かっている仏教家はいないでしょう。職業宗教家は金儲けのためにしているのです。

 宗教はすべて営業です。商売です。商売の道具として般若心経を使っているのです。命に対する正直な考えとして、般若心経を取り上げようとしていないのです。

 私たちのように正直に般若心経を見ていますと、商売にならないのです。現世的に考えれば、私たちはばかなことをしているのです。

ユダヤ人が文明を造ってきた

 こういう文明を造ってきた民族がユダヤ人です。ユダヤ人は非常に優れた民族です。良い意味でも悪い意味でも、そういうことが言えるのです。卓抜した能力をこの民族は持っているのです。世界の政治、経済、文化のリーダーシップを取っているのは、ほとんどユダヤ人です。好むと好まざるとに係わらず、現代文明はユダヤ人の感覚で指導されなければならないようになっているのです。

 私たちはこのユダヤ人の覚醒を促すために集められて、勉強しているのです。日本人はユダヤ人の外に立っているのです。日本はユダヤ人の係わりを持たずに成立してきたのです。ユダヤ人の厄介にならないで日本社会ができたのです。

 ですから、日本人はユダヤ人に対して、比較的自由に発言できるのです。ドイツやフランス、イギリスやイタリアはそうはできないのです。ユダヤ人の厄介にばかりになっていたのですから、ユダヤ人に対して自由に発言できないのです。

 そういう訳でありまして、日本からこそ、現代文明の間違いをはっきり指摘できるのです。日本からこそ、全世界に発言すべきなのです。

 軍備を拡大するよりも、本当の文化概念を突出するべきです。

 とにかく、今の人間は生きていながら、何のために生きているか分からないというばかな状態でいるのです。これは文明が悪いからそうなっているのです。死にたくないと思いながら、死ななければならないと思い込まされている。これは皆様の考え方が、知らず知らずの間に、現代文明の流れによって拘束されているということです。自分の命について、自由に考えることができなくなっているのです。

 そのように人生観が束縛されているのです。世界観、価値観が文明式に造られてしまっているのです。

 もちろん私たちはこの世で生活しなければならないのです。生活しなければならないのですが、生活することだけが人間の目的ではないのです。

 生活は生きるための一つの方便であって、人間がこの世でなさねばならないことは、命に対する冷静な判断です。命に対する冷静な考え方を確立することです。自分の命を学ぶことです。これが人間が生きている事がらの意味です。

 そのためにまず必要なことは、自分の常識を空じることです。そうして自分が生きている状態を冷静に判断することです。これが必要です。

 人間には記憶があります。記憶があるということは恐ろしいことです。記憶がなければその日その日の生活を送っていればいいのです。

 記憶があるということは、死んでからもなお人間の霊魂の続きがあるということです。皆様の肉体は焼いたら灰になりますけれど、記憶は焼けないのです。

 肉体は灰になりますけれど、記憶は灰にならないのです。皆様が現世において自分の命をどのように考えていたのか。どういう考えで生きていたかということが、そのまま皆様の死んだ後の運命になるのです。

 そこで現世に生きている間に、命を見極めなければならない責任があるのです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 私がお話ししているのは宗教ではありません。宗教はこんなことを言わないのです。宗教は死んでから天国へ行くとか、極楽へ行くというばかなことを言っているのです。

 死んでから天国へ行くというのは、実に無責任な言い方です。死んでしまうと、寺も教会もない所へ行くのです。他界するのです。現世でこそ寺も教会もありますから、宗教がいうことは通用しますけれど、現世を去ったら通用しないのです。

 現世で何を勉強してきたのかということが、皆様の記憶に問いかけられるのです。皆様は現世で何を勉強してきたのか。六十年、七十年、長い人は九十年、百年の間、現世で生活していて、命について何か分かったのでしょうか。生活のことは色々分かったでしょう。命の本質を見極めるために生まれてきたのです。

 だから生きていなければならないのです。生きていなければならないから、生活はしなければならないのです。しかし、生活が人生の目的ではないのです。

 生きているということは、命を経験しているということです。経験しているのですが、命をどのように経験しているのでしょうか。それが分からないのです。

 現代文明でごまかされてしまっているのです。大学教育で洗脳されてしまった人間には、生きているということの意味が分からないのです。命を経験していることがどういう意味なのか分かっていないのです。

 従って、命に対する自分の考え方を整理することが必要です。これが現在の日本人にはできないのです。

 そこで私は宗教ではない般若心経、キリスト教ではない聖書を皆様に提唱して、皆様の命に対する考え方の参考にして頂きたいと思っているのです。

 何のためにこういう話をしているのかと言いますと、魂に対するボランティアをしているのです。今の日本にどうしても必要なものは、魂に対するボランティアです。これをしているだけのことです。

 これをする人間が日本にいないのです。その役を私は買って出ているのです。

 最近の日本人は死んでしまえばそれまでだと考えていますが、明治以前の日本人はそうは考えていなかったのです。

 もし人間が死んでしまって、一切なくなるのでしたら、葬式をする必要もないし、墓を造る必要もないのです。死後があるから墓を造るのです。

魂とは何か

 魂とは肉体的に生きていること、そうして、肉体的な条件で理性や良心を使っていることです。

 仏教では魂が分からないのです。大乗仏教には一万七千六百巻という膨大な経文がありますが、その中に魂という文字が一字もありません。魂のようなことは書いていますけれど、霊魂は仏教にはありません。聖書にはあります。

 魂という言葉が聖書にはっきり書いていますが、キリスト教では魂という言葉を正確に説明できないのです。牧師さんも神父さんもできないのです。

 魂というのは本当の命を掴まえなければ分かりません。本当の神の実物を掴まえないと、魂に対するはっきりした説明はできません。私は幸いにしてそれができますので、はっきり申し上げているのです。

 イエスは地上に生きていて、キリストとされたのです。イエスは地上で生きていたのです。阿弥陀如来は地球上に生きていなかったのです。それは人間が抽象概念によって造り上げた抽象人格です。実在した人格ではないのです。

 イエスは歴史的に存在していた人間です。この人が生きていた状態が魂です。イエスは霊魂のあり方を、最も正確に示したのです。その結果、死を破ったのです。肉体は滅びても魂は死なないということが、復活によって証明されたのです。

 今皆様は魂がはっきり分からないと言われますが、商売をしたり、会社勤めをしたり、家庭生活をしたりしています。その状態を客観的に見ますと、霊魂になるのです。

 人生は霊です。人間の機能の実体が魂です。霊と魂が一緒にあるのです。だから霊魂というのです。

 魂は理性や良心が肉体的に機能している状態をいうのです。人間の肉体はやがて滅びます。しかし生きてきたという記憶があるのです。記憶は消えないのです。

 人間は生まれてきたのです。どこかから来たのです。そして、死んでいくのです。どこかへ行くのです。

 皆様が今生きているのは結果です。結果が現われるためには原因がなければならないのです。

 赤ちゃんは生まれて二十四時間以内に母親のおっぱいを飲みます。おっぱいの飲み方をどこで学んだのでしょうか。赤ちゃんはおっぱいの味を知っているのですが、どこで覚えたのでしょうか。

 赤ちゃんがおっぱいを飲むというのは、生まれるまでに本能的な生命力を与えられていたのです。味を比較する力を与えられていたのです。赤ちゃんが母親の胎内にいる間に、母親の血液の流れの音を聞いて、音楽のように楽しんでいたのです。

 そのように、人間はこの世に生まれる前に、生理機能、心理機能、五官を備えられたのです。見る力、聞く力が生まれる前にあったのです。

 皆様の五官の本質機能は生まれる前からのものです。今皆様が持っている味覚は生まれる前の味覚です。

 そのように人間の命は、生まれる前にあったのです。そして今もあります。これは死んでからもあるに決まっているのです。

 記憶があるということは、消しようがないのです。これが人間の魂の本性であって、肉体は消えてしまいますけれど、記憶はなくならないのです。だから神霊科学という方法で死んだ人の霊を呼び出して聞くと、色々答えるのです。霊媒によって死んだ人間を呼び出すと話ができるのです。

 肉体は現世だけですが、魂は永遠に続くのです。肉体は現世から消えるのですが、記憶は消えないのです。どういう気持ちで、どのように生きていたかということです。

 私たちがこの世に生まれてきたのは、命を経験するためです。命の本質を弁えることができますと、死なない命を掴まえることができるのです。これをイエスが証明したのです。

 魂の実力はイエスによってはっきり証明されたのです。

 宇宙には命を管理するものがあるのです。例えば、よく晴れた日に空を見ますと青く見えるでしょう。太陽が燦々と輝いているのです。

 太陽の光が現われているというのは、その原因がなければならないのです。太陽系宇宙が秩序整然として動いていること、物理運動が物質になっているということは驚くべき精密な働きです。

 この宇宙は人間の頭では考えられない精密機械のようなものです。精密性と驚くべき組織性、統一性があるのです。現在の人間の頭では理解できませんが、人間がいるというのは、そのような先天性に基づいて生まれてきたのです。

 皆様は理性や良心を持った人間として生きているのですが、理性や良心をどこから持ってきたのでしょうか。

 宇宙にはおのずからという大きいものがあるのです。これを般若心経では空と言っています。般若心経では空と言っていますが、空の説明が般若心経ではできないのです。だからどうしても聖書を見なければならないのです。

 皆様の理性や良心の働きというもの、魂の本質を管理するものがこの宇宙にあるのです。これを命の本源と言います。命の本源がなければ命が今あるはずがないのです。

 命の本源、命を管理するものをおのずからと言います。おのずからが自らとして自覚を持つようになったのが神です。

 人間が存在しているのは、存在の原理がなければならないのです。自分が今生きているという現状がありますから、これに対して原因がなければならないのです。これが生命の管理者です。

 これは神としか言えないのです。この神は日本で考える神とは全然違います。日本人の神は人間が勝手に造ったものです。神道には八百万の神があるのです。

 本当の神というのは、皆様の命の本源です。神とは命の本質です。皆様がいる以上、命の本質があるに決まっています。地球がある以上、地球の本体があるに決まっています。これを神というのです。

 物理学の原点、法律の原点、人間の原点、地球の原点が命なる神です。原点がなければ現在の現象世界が現われるはずがないのです。

 皆様が生きているのは、その根本的な原理があるに決まっているのです。イエスはこれを見事に生きこなしてくれたのです。

 現在の文明を信じ込んでいますと、自分の本源が全く分からなくなってしまうのです。そして、死んでからの世界が夢幻のように思えてくるのです。

 私の言うことも、地獄、極楽のいんちきの話のように思われるでしょう。死んでも記憶がなくならないというのは、商売のこと、仕事のこと、生活のことを全部細かく覚えているということではありません。

 常識的に働く記憶はこの世においていきますが、現世に生きていたという直感性の記憶だけはなくならないのです。ですから、霊媒を用いて呼び出せば出てくるのです。神霊科学はそういうことをしているのです。

 神霊科学はいんちきですが、一部には科学的原理があるのです。死んだ人はただ眠っているだけです。なくなったのではないのです。だから、この世を去った人を永眠したというのです。永眠することはありますけれど、消滅することはないのです。

輪廻転生

 「輪廻転生」をいう宗教はたくさんありますけれど、今生きている人間がまた生まれ変わってくるとか、五百年先にインドに生きていたという人がいますが、これはいんちきです。

 こういうことを考えたい人は考えたらいいのですけれど、もし人間が何回も生まれ変わることができるとしたら、今の人生を真面目に生きる必要はないのです。今生ではせいぜい遊んでいて、今度生まれたら頑張ろうと思ったらいいのです。

 ところが今度生まれるということはありません。かつてオペラに、「今度生まれたらロバに乗っておいで」という歌詞がありました。今度生まれたら男になってとか、女になってとか思っても、そういうことはないのです。

 宗教的に考える輪廻転生は嘘です。頼山陽が七度生まれて朝敵を倒すと日本外史に書いたので、人間は七度生まれるという思想が広まったのです。これはあくまでも頼山陽の考えであって、人間の命の実体ではないのです。

 私は宗教的な意味での輪廻転生を否定しているのです。それからもう一つ、輪廻転生を肯定するという意味で言いますと、死ぬということは眠ることです。

 皆様はこの世を去ると眠るのです。眠るのはやがて目を覚ます時が来るのです。今まで死んだ人々は眠っているのですが、もう一度目を覚ますことになるのです。

 これは厳粛な問題でありまして、現世ではすべてのことを公平に行うことは不可能です。この世は肉の幻の世であって、正直者が得をするのでもない、いいかげんなことをしていた人間が損をするのでもないのです。

 この世は良い人が栄えるとは言えないのです。悪い人が滅びるとは限らないのです。皆様は社会的な矛盾をお感じになったことはたくさんあるでしょう。

 今眠っている人間が目を覚まして霊魂の大審判を受けるのです。この時初めて、本当の公平が何であるかが分かるのです。

 そういう意味で、すべての人が目を覚ますという意味での輪廻転生はあるのです。しかし宗教で考えている、人間が何回も生まれ変わるという意味ではありません。そういうことを言う宗教はいんちきに決まっています。

 死なない命を掴まえる方法についてですが、これは入口と奥座敷と二つあるということができると思います。

 死なない命を掴まえる入口は般若心経です。般若心経の中に、「遠離一切 顚倒無想 究竟涅槃」という言葉があります。

 皆様が肉体的に生きておいでになる命は、本当の命ではないのです。これは経験するための命です。経験するための命と、本当の命と二つの命があるのです。

 皆様は経験するための命を今経験しているのです。これを生きているというのです。これは本当のものではないのです。だからやがて死んでしまうのです。

 人間が肉体的に考えますと、何が善で何が悪か分からないのです。だから五蘊皆空と言っているのです。人間が現世で考えている感覚は、必ずしも正当であるとは言えないのです。

 現世に生きている人間の感覚を顚倒夢想と言っています。逆立ちして夢のような考え方をしているのです。そういう考えから遠く離れなさいと言っているのです。

 現世の感覚を捨ててしまって、涅槃の境地に入るのです。涅槃というのはサンスクリットでニル・バー・ナーと言いまして、冷えて消えてなくなってしまうことをいうのです。ちょうど蝋燭の火が灯っていたのが、一陣の風によって消えてしまうのです。この状態が涅槃です。

 皆様が今生きておいでになる命は、蝋燭の火のようなものであって、風が吹いたら簡単に消えるのです。病気、交通事故、地震、津波によって、あっという間に消えるのです。こういうものを命だと思っているのが間違っているのです。仮の命です。皆様は仮の命があるから本当の命を掴まえることができるのです。

 仮の命を経験している間に、命の本物を見つけることが必要です。どうして掴まえるのか。例えば砂糖をなめたら甘いと感じます。甘いという味は何でしょうか。

 味とは何でしょうか。これは科学でも説明できないのです。実はこれが命です。感じるというのが魂の作用です。皆様の五官は魂がそのまま現われているのです。皆様が生きているということは、五官が命を経験しているということです。

景色とは何か

 晴れた日に大空を見ますと、真っ青に見えます。山があり、川があり、森や海によってすばらしい景色が展開しています。

 景色とは何でしょうか。これが命の本体です。宇宙の命の本体が、景色になって皆様の目にアピールしているのです。皆様に語りかけているのです。

 景色を見ることを観光と言います。光を見ているのです。景色という状態で、宇宙の光を見ているのです。

 景色の本体が永遠の命です。死なない命です。これを掴まえるのです。花がきれいに見えます。きれいとはどういうことでしょうか。おいしいとか美しいとか言いますが、これはどういうことでしょうか。

 なぜおいしいと思うのでしょうか。なぜきれいと思うのでしょうか。死なない命がそこにあるからきれい、おいしいと思うのです。これが霊魂が現世で命を経験している実体です。

 魂は五官の働きで証明されているのです。魂の働きが現世において、皆様の目を通して、耳を通して、舌を通して、天地宇宙の味わい、形、香りを見ているのです。これが現世で命を経験している内容です。

 美しいとはどういうことか。おいしいとはどういうことか。自分の魂が何を感じているのかということです。皆様に呼びかけている宇宙人格があります。命の本源があるのです。おのずからという本源があるのです。

 おのずからという天然自然の本源が、みずからとなって現われている。これが神です。おのずからあるべきものが、みずからあるものという自覚を持っている。宇宙に位があるのです。それが太陽の光線に現われているのです。太陽の暖かさに現われているのです。雷の森厳さに現われているのです。

 皆様の五官は生きている状態で大自然と接触しているのです。大自然と接触しているということは、死なない命に触れているということです。

 まず皆様に必要なことは、空(くう)を感じることです。現世に生きていることが空なのだということです。自分がひとかど物が分かったように思っているけれど、実は生活上の常識を知っているだけであって、本当の知恵ではないことを知るべきです。

 入口に入るということは、自分は命について何も知っていないということを知ることです。現世の生活は経験したけれど、命についてほとんど何も分かっていないということを知ることです。私は何も知りませんということを自覚するのです。

 般若心経で悟りを開きますと、自分の理屈を言わないで、素直に、自然に頭を下げようという気持ちになるのです。

 聖書は何を書いているか。何も言わずに神に頭を下げることです。命がそのまま神です。皆様の心臓が動いていることが神です。これを聖書は断言していますから、これを掴まえたらいいのです。

 心臓を動かしている方は能動的な神です。動かされている方は受動的な神です。両方共神です。人間は心臓が動いていることを自覚できるのです。生命意識を持つことができるのは人間だけです。

 人間の理性と良心は人間の心理機能の重要な部分ですが、人間の心理機能は神の心理機能がそのまま植えられているのです。

 神は人間の心臓を動かしているのです。太陽の光とか、地球が自転公転しているという事がらは、外側にある神全体の働きを意味するのです。

 宇宙にはおのずから宇宙があるという実体があります。存在という実体は人間の常識では分からないのです。

 存在するというのはどういうことか。これが哲学では説明できません。仏教でも説明できません。仏教は存在は空であると言います。空とは何かという、その説明が仏教ではできないのです。説明できないから空であるというのです。

 千聖不伝、不立文字というのです。千人の聖人でも説明できない。文字で現わすことができない。言わく言い難しというのです。これが空だというのです。

 空の実体は何なのか。色即是空、空即是色と言います。空の説明が仏教ではできないのです。これは聖書でなければ説明ができないのです。

 神を信じるということは、空を掴まえることです。人間の精神機能で空を掴まえるのです。

 皆様は心臓が動いていることを自覚することができます。これは皆様が神から出てきたからできるのです。心臓を動かしているものは神です。これを人間は意識することができるのです。

 皆様は死んではならないのです。絶対に死んではいけません。死んだら負けです。死なないように勉強してください。

 皆様の心臓には死なない力が働いているのです。だから死なない力を掴まえるだけの聡明さを持って頂きたいのです。聡明さを自分のものにするためには、まず自分の考え方を捨てることです。

 皆様の今までの常識や学問が間違っているのです。これは人間がこの世で生きる力であって、この世で生きることだけが人間ではないことをよく考えて頂きたいのです。

 人間は死にたくないという願いを持っているのです。これが本願です。本願が人間にあるのです。だから死にたくないとはっきり考えるのです。

 死にたくないと言ってみてください。ところが人々は人前で死にたくないとは言えないのです。これが霊魂が束縛されている証拠です。五蘊の中に埋没されているからです。

 死にたくないと人前では言えないと思われたら、家に帰って一人になって、ふとんの中で死にたくないとはっきり言ってください。これが神に対する本当の祈りになるのです。

 とにかく、皆様は死にたくない命を現在経験しているのです。心臓が動いていることによって、現実に神の力を経験しているのです。

 ところが、現代文明は自分の力で生きていると思わせているのです。これが間違っているのです。

 現世に生きているのは人生のほんの一部です。この世を去ってから永遠が待っているのです。永遠の時間のために、永遠の命を掴まえなければならない責任があるのです。自分の霊魂に対する責任があるのです。これをはっきり自覚して頂きたいのです。

 まず般若心経によって自分の妄念を空じるのです。蝋燭の火が消えたように、自分の妄念を捨てようという素直な気持ちになることです。

 素直な気持ちが一番良いのです。頭は良くても悪くてもどちらでもいいのです。素直な人が必ず勝つのです。真心が天に通じるからです。

二元論

 唯物論と唯心論があるという二元論は、ユダヤ人が造った理屈でありまして、善がある悪がある、生がある死があると、相対的に考えるのです。これが間違っているのです。

 物と心が別々にあるのではないのです。物も心も一つのものです。物理運動があって、これが物体になっているのです。物理というのは精神的なものと言わざるを得ないのです。ところが、物体は物質的なものです。物理と物体は一つのものです。

 それでは物理はどうして物体になるのか。物理とは何か。電気がありますが、これは何なのか。電子は粒子のようでもあるが、また流れのようでもある。これは一体何であるのか。

 電気現象の真髄が今の文明では説明できません。今の文明は物質と精神を分けて考えるという二元的な考え方をしているのです。

 ところが、般若心経の原理、聖書の原理は両方共一元論です。般若心経は色は空である。空は色であると言っているのです。

 皆様の肉体はあると思えばあるのです。ないと思えばないのです。皆様の肉体は呼吸機能と循環機能、消化機能、排泄機能が働いているのです。もしこの機能が働かなければ皆様の肉体は消滅してしまうのです。

 肉体は循環機能でありまして、機能性が肉体になって現われているのです。このように運動と存在は一つであって、運動の根本原理を知らなければならないのです。

 存在とはどういうことか。存在とは命です。これは聖書をよくよく勉強したら分かるのです。

 存在は目に見えるものであり、目に見えないものでもある。命が分からないままで自分が存在すると考えるのは、非常に傲慢な考えです。

 命の本体を掴まえないままで、自分が生きていると考えることは、全く錯覚です。現代文明は人間を錯覚の牢獄に閉じ込めているのです。ユダヤ人がこういうばかなことをしているのです。

 ユダヤ人を覆したら世界の文明はひっくり返るのです。これができるのは日本人だけです。ですから、日本人は、日本に生かされていることの有り難さを知って頂きたいのです。

 今の日本人は天皇制が何のためにあるのか分かっていないのです。天皇陛下ご自身がご存知ないのです。

 日本という国は不思議な国です。私が述べているのは右翼思想ではありません。右翼の人々も天皇制の本当の意味を知らないのです。

 まず私たちは命を知る必要があるのです。死なない命を掴まえるのです。皆様の魂はそれができる力を持っているのです。

 皆様の舌はこれはおいしいと感じることができるのです。甘口の酒と辛口の酒の見分けがつくのです。

 味が分かるということは、その人が霊魂であることを意味しているのです。

 味は人間が造ったものではありません。砂糖の味、塩の味は天然現象と言うしかないのです。この天然現象におのずからという人格があるのです。味に人格があるのです。

 おのずからに人格があるのです。これを神というのです。皆様の舌は神を掴まえているのです。味が分かるということは、神を掴まえる能力があることを証明しているのです。皆様がその能力を真っ直ぐに用いれば、死なない命を見つけることができるのです。

 素直になればいいのです。素直になれば般若心経のいうことが分かるのです。空じることができるのです。空じることができたら聖書を信じたらいいのです。

 キリスト教はだめです。自分を空じないで聖書を信じているからです。キリスト教の教義を教えているのであって、神の命が全く分かりません。だからキリスト教はいんちきです。

 皆様の五官の働きを素直に見ればいいのです。五官の働きはそのまま神を捉えているのです。景色が美しいことが分かるでしょう。これは天の命を知るための秘訣です。

 皆様がこの世に生きていることに素直になれば、また、真面目になって生かされていることを見れば、死なない命は必ず分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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