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神の国と神の義を求める(2)

 イエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」と言っています(マタイによる福音書6・33)。

 聖書本来の目的というのは、神の国を成就することです。アブラハムの約束というのは、人間に幸福を与えることが中心になっているのではなくて、神の宇宙計画が実現することです。

 神の宇宙計画の実現に伴って、アブラハム並にアブラハムの信仰に習う者たちが、約束による救いを与えられるのです。

 救いというのは、人間に幸福を与えるのを目的とするのではなくて、神の経綸の成就を目的とするのです。神の計画の成就に同意する者が、神の計画の完成と同じ方向で完成される。これが人間の救いになるのです。

 神には神の御心があり、計画があって万物が造られたのです。万物が造られたのは人間のためではないのです。

 人間の創造というのは、万物が創造された最終段階における創造を意味するのであって、人間が特別に造られたのではないのです。人間の創造というものが、神の万物創造の一環であるにすぎないのです。

 従って、万物の完成ということ、神の宇宙計画というものを別にして、人間の救いがあるはずがないのです。また、神の宇宙計画を別にして、天国も極楽もあるはずがないのです。

 神の計画の最終段階として人間が造られたということは、神の計画の全体の一部が人間になっているということです。

 人間が神の全体の計画を承知して、神の計画に協力する、参与する、神の御心を行うということを人間が承知するなら、神の計画に添ったように待遇される。これが救いです。

 承知しなければ、神の計画に賛成しない者、賛同しない者、協力しない者とみなされて、悪魔に対する仕打ちと同じ仕打ちを受けるのです。これが神による救いと裁きということの簡単な説明になるのです。

 例えば、天理教は天の理が親神様だと考えます。それを実行することによって人間の魂は救われる。悪因縁が解消されて白因縁になるというのです。つまり黒い罪でいっぱいの人間が、真っ白な状態にされる。そうして幸せになれるというのです。

 これは人間を救うことが目的になっているのです。天地が完成するとかしないとかを全然言っていない訳ではないのですが、とにかく人間の救いが眼目になっているのです。

 阿弥陀仏の本願でもそういう考えによく似ているのです。

 仏教には天地万物の完成というはっきりした目的がありません。草木国土悉皆成仏という言葉はありますが、一体草木国土が悉皆成仏して、万物が成仏してどういう世界が現われるのか。それからどうなるのかというようなことについては、全く明言していないのです。

 一万七千六百巻という膨大な仏教経典があると言われていますが、聖書はわずか六十六巻です。文字の数にしたら、仏典は比較にならないくらいに多いのですが、そこに天地が完成される目的とか、それと仏の宇宙計画の原理については、全然書かれていないのです。

 天地創造という思想が仏教にはないのです。人間創造という思想もありません。人間は自然にできたという考えなのです。

 そこで人間が救われることを目的にするのであって、これがいわゆる宗教です。

 聖書の思想というのは、人間の救いを目的にしているのではない。人間は万物の一部としてあるのです。人間は大自然の一部です。大自然が完成することと、人間が救われることとは同じ事がらであって、大自然の完成という方向に向かって協力することでなかったら、人間だけの救いは全くありません。

 従って、キリスト教で考えるように、死んだら天国へ行けるという思想は聖書では成り立たないのです。天地の完成に協力しないような感覚で、自分だけが救われようと考えてもだめです。

 「神の国と神の義を求めよ」というのは、聖書全体のスケールの原則に基づくものです。これをもう少し具体的な言葉で言いますと、神の国を求めよという言葉になるのです。神の国というのはこの計画の要点であり、神の計画が実現しつつあると同時に、神の国の進展があり得るのです。

 目に見える宇宙と、目に見えない宇宙とが平行的に存在している宇宙があるのです。目に見えない宇宙、進展しつつある霊なる国、または霊なる命の法則の全体をひっくるめて神の国というのです。

 これを求めるのです。求めるというのは捜し求めることであって、英語でシーク(seek)をしなさいと言っています。捜すというのは、毎日捜すのです。一度捜したらそれでいいというのではないのです。

 今日も捜し、明日も捜す。あさっても捜すのです。人間がずっと生き続けている間中、神の国を捜し続けるということが、神の国と神の義を求めるということになるのです。

 聖書には、ここまで分かればもう卒業ということはないのです。現世に生きている間、ずっと求め続けることが、聖書と人間の関係になるのです。

 こういう観点から聖書を学んでいく気持ちを決めなければいけないのです。

 仏教の他力本願、また天理教の考え方でも、だいたい現世で幸いを得ることを目的にしているのです。人間が救われることが目的になっているのです。あらゆる宗教が、現世に生きている人間が幸いになることを目的にしているのです。

 ところが、聖書はそれを目的にしていないのです。天地の完成、万物の完成を目的にしているのです。万物の完成に伴って、人間の完成もあり得るのです。

 人間の幸せということもありますが、万物の完成と共にあり得るということでありまして、人間の救いだけが中心になっているのではないのです。

 人間の救いが中心になっている訳ではありませんが、人間存在が中心になっているということは言えるのです。これはどういうことかと言いますと、万物の中で神の心を弁えることができるのは人間だけです。従って、人間を中心にしてもしなくてもいいと言っても、理性と良心とに基づいて、神を認識して神の万物創造に協力できるような態勢になり得るのは人間だけです。

 そういう意味では、神と人との交わりが聖書の中心の命題になりますけれど、人間が幸せになるのが中心ではないのです。

 もう一度言いますと、神と人間の関係が聖書の中心命題になります。例えば、イエス・キリストと父なる神との関係が聖書の中心命題になりますけれど、それは万物を完成するという大目的についての中心命題です。

 どこまでも神は天地万物の神であって、天地万物の救い、完成なくしては人間だけをひいきにして、人間だけに幸せを与えることはできないのです。

 死んだら天国へ行くと言いますが、万物を抜きにして天国があるはずがないのです。現世は現象世界と非現象世界との両面によって成り立っているのです。現象世界は非現象世界の現われです。見えるものは現われないものによって造られているのです。

 非現象なるものによって目に見えるものが造られているのです。目に見えないものがあって、目に見えないものが目に見える形になって現われているのです。

 現象的な事がらはすべて目に見えないものが根本になければ、目に見える状態が現われるはずがないのです。

 皆様はこの地球上に人間として生きています。ということは、目に見えない霊なる命、霊なる自分の命運があって、それが肉なる形で現われているのが人間です。

 そこで人間の霊なる命運とは何であるか。神と人との関係の原則は何であるか。人間は何のために現世で生活させられているのか。これを人間の立場からではなくて、天地万物の立場から人間存在をもう一度見直すような気持ちが必要です。

 そうして、目に見えない神の国と神の義を探求する必要があるのです。神の義とは神の正当性です。神の国とは神のあり方です。目に見えない事がらです。

 例えば、空の鳥を見よとイエスが言っています。鳥が神に養われているのです。鳥が生きていることは目に見えますが、神に養われていることは目に見えません。

 鳥が生きているのは現象体です。ところが、神が鳥を生かしているのは非現象です。これは目に見えないのです。

 人間が生きているのも現象です。生かされているというのは非現象です。事がらです。神に生かされているという事がらが、生きているという現象になって現われているのです。

 神の国の原則はどういうことかと言いますと、人間が生かされるには生かされるような法則があります。これが神の義です。神から見て正しいと考えられる則です。これに基づいて人間は生かされているのです。

 神の国と神の義を求めることが、人間本来の目的になるのです。こういうことがよく分からないと、自分が分かるとか、分からないとか、小さなことにこだわってしまうことになるのです。

 もっと大きい角度から、神の国のあり方はどういうことなのか、神と人間との根本原則はどういうことになっているのかということを学んでいけば、自分の欠点のようなものは、おのずからなくなってしまうのです。

 思い煩いとか、取り越し苦労とか、自分の中心の中にある悪い癖とか、くよくよするとか、気が小さいとか、短気とか、いつもいらいらしているとかいうことは、神の国と神の義を捜し求めていけば、勝手に治ってしまうのです。

 自分を良くしようと思わないで、神の国と神の義を求めていけば、人間の悪い性格はなくなってしまうのです。そういう角度から聖書を見て頂きたいのです。

 吉田松陰が「体は私なり。心は公なり」と言っています。これはどういうことかと言いますと、体は一人ひとり別の体です。私というのは一個人という意味です。ところが桜の花を見てきれいだと思う。きれいだと思うのは、誰にも通じるのです。「君に忠、親に孝」という意識は誰にでも分かる。

 そのように、善悪とか利害得失とかいう感覚は、誰にでも通じます。

 心は個人個人のものではなくて、公に共通するものだという意味です。これが実は神の国です。体は個々別々のものです。自分の体と他人の体とは体形が違います。自分の喉が渇いた場合、自分が水を飲まなければ癒されません。他人が代わりに飲んだからといって、自分の喉は癒されないのです。

 心はそうではないのです。自分の喜びを人に分かつとか、自分の苦しみを人に分かつとか、悲しみを分かつという言葉があります。そのように、喜びを共にするとか、悲しみを共にすることができるのです。

 心中する者どうしは、お互いが同じ気持ちになって心中するのです。そうすると、心は自分一人のものではない、公のものだと言うことになるのです。天下とか国家とか言って、広く通用するものが心ということになるのです。

 人間の体は、魂の入れ物であって、心は魂の働きです。そうしますと、人間の魂というのは、神が人間に与えた心理機能であって、この心理機能は公のものです。自分自身のものではない。公に通じるものです。公に通じるということは公のものだということです。

 そこで、私は好きですとか、私は嫌いですとか、自分自身の思いのままにあることを考えようとすることは、間違っていることになるのです。公という言葉をもっと広くして考えますと、ただ国家、天下だけでなくて、世界全体が公です。もっと広く言えば、宇宙全体が公です。

 天地万物、宇宙全体の感覚が、人間の心として植え込まれているのです。宇宙全体の精神的な働きが、人間の中に心として植え込まれている。これはすばらしいことなのです。

 そこで、人間の心の働きは、場合によってはその人が正しく自分の心を働かせるなら、天地万物に通じるはずです。人間の心全体は天地万物のものであって、例えば、人間の理性は天地万物に通じる理性です。だから、組織工学という科学的な方式によって、月まで人間が到達できるのです。心が天地万物に通じるからそれができるのです。

 物理的にできるということは、目に見えない心理的なことの譬になっているのです。

 もし皆様が神の約束に従って地球の万物を見たり、太陽や星を見ることができれば、太陽や星や地球が造られた原理が、そのまま皆様の心に働くようになるのです。そうすると、皆様の心の働きによって、太陽や月の動きでさえも変えることができるかもしれないのです。心が共通のものだから、こういうことになるのです。

 心は無形のものだというように考えられますが、だいたい無形のものが有形なものになって現われているのがこの宇宙です。

 命が現象になって現われているのです。これが人間の肉体です。神の天地創造という事がらが、現物になって現われているのが地球です。森羅万象です。

 神の天地創造という事がらが、目に見える地球になって現われている。つまり神の国が目に見える形で現われているのです。

 百率長のことが聖書に書いてあります。百率長が兵隊に、「行け」と言えば行き、「死ね」と言えば死ぬのです。上官の命令によって兵隊がそういう行動をするのです。言葉がそのような恐ろしい権威を持っているのです。

 普通の人間の言葉が、人の命を奪うかもしれない危険なことを命令するのです。兵隊がそれを実行するのです(ルカによる福音書7・2~10)。

 これは一体どういうものか。言葉とは一体どういうものかです。これは必ずしも口から出た言葉でなくても、文字で書いた命令の言葉でも同じことです。

 とにかく文字とか言語とかいうものは、それに現われたことが実現するのです。言葉が実現するのです。

 言葉が実現するということが神の国です。神の国と神の義を求めよとは、これを言っているのです。百率長はこれが分かったのです。言葉にそれほどの力があることを、見破ったのです。そして、「イエス様にわざわざ来て頂くには及びません。どうぞ御言葉をください。そうすれば私の僕の病気は癒えるでしょう」と百率長が言ったのです。

 これにイエスが驚いたのです。来て頂かなくても言葉だけで癒えると言ったのです。

 人間の日常生活の何でもないことの中に、神の国があるのです。そこでイエスがあなた方は互いに相愛せよと言ったのです。

 現在私たちが生きているということは、百率長が兵隊に命令することを、毎日、毎日しているのです。数えられない程しているのです。ところが、神の国が分からない。一体何をしているのかと言いたいのです。

 生かされているということは神からのことです。これが生きているという現実になって現われているのです。

 命が現象になって現われている。これが大自然です。山でも川でも、木々でも命がそのように現われているのです。命という隠れたものが、山、川という現象になって現われている。

 このように私たちは目で見ているものを通して、霊なる神の力、知恵、命を見ているのです。肉なる形を通して霊なるものを見ているのです。

 これができるのは人間だけです。そこでこれができる人間は、現象に従って歩まないで、霊に従って歩まなければいけないのです。

 「それを取ってちょうだい」と言えば取ってくれる。これが神の国だとすれば、ある人を愛して親切ていねいに扱ってあげようと思うのと、ある人を憎んでいじわるをしようと思うのとでは、宇宙に大きな現象が起きるのです。

 人間の心が悪くなりますと、宇宙そのものが悪くなるのです。とにかく、人間は大変な位置に置かれているのです。

 だから、皆様一人ひとりが神の御霊を受けて、聖書に満たされて、世間の人々に、皆様は神の国に生きているのだと言って頂きたいのです。また人を憎んだり、恨んだり、妬んだり、騙したり、苦しんだり、悩んだりしているのは、自分自身を勝手に地獄にしていることになることを、人々に言って頂きたいのです。

 この世に極楽を現わすことも現わさないのも、人間の心構え一つです。やがて地球全体を造り変えることもできるのです。

 現在の地球はこんなに悪くなりましたので、この地球を癒せる見込みはありません。ですから、新しい天地を来たらせることになるのです。

 「この文明を早く過ぎ去らせて、新しい天地を来たらせる。そのために私たちの行いを清くすべきである」と、ペテロが言っているのです。

 神の国を早く現わすために、私たちの心や行いを清くすべきです。

 空の鳥を見よというイエスの言葉を考えても、普通の人間が見ますと、鳥が飛んで餌を食べているとしか見えないのです。鳥が勝手に生きているとしか見えないのです。

 ところが、イエスはそれを評して、「鳥は蒔かず、刈らず、倉に納めない。蓄えることをしない。しかし神はその鳥を何年も生かしている。これが神の国だ」と言っているのです。

 人間の肉の思いで見ると現象しか見えませんが、イエスは現象に隠れている霊的事実を見ているのです。神が鳥を養っているという事実を見ているのです。これが神の国です。

 例えば奥さんが台所でジャガイモを切っているとします。ご主人がこれを見ると、ジャガイモを切っていると思います。ところが皮をむいて適当な大きさに切って、それを上手に味つけをして、肉じゃがにして食卓に並べるという事がらが、神の国です。

 こういうことは毎日、毎日、いやと言うほど経験しているのです。それでも、神が分からないのは、どういうことかと言いたいのです。

 神を信じるというのはとても簡単なことです。今ここに、目に見ていることが神の現前です。現前の他には何もないのです。

 私たちは毎日の営みを通して、宇宙を経験しています。神を経験しています。人間の生活の営みというのは、宇宙の営みの縮図です。

 これは人間の営みだけではありません。例えば、川にアユが泳いでいます。このアユの営みは宇宙の営みを小さくしたものです。天地宇宙の営みが、アユになって現われているのです。

 イエスが「野のユリを見よ、空の鳥を見よ」と言っていますが、これが宇宙の営みです。宇宙の営みがそのような形になって現われているのです。

 私たちは現実に神の国、宇宙の営み、天地宇宙の流れ行く姿を、毎日自分の生活で経験しているのです。人間生活はそのように全部宇宙の営みの一部としてあるのです。ところが、自分個人の生活があると考えるのです。自分の利害得失があると考えるのです。

 自分には自分の生活があると考える。そこで、自分の持ち物だ、自分の利益だ、自分の立場、自分の気持ちだと、やたらに主張することになるのです。

 そういうことを勝手に考えて、宇宙を否定して自我を主張する。その結果、地獄へ行かなければならないように自分でしているのです。勝手に地獄へ行くように仕向けているのです。

 女の人は自分を善人だと思いすぎています。自分の考え方は皆正しいと思うのです。その原因は何かと言いますと、私は損をしていると思うのです。結婚をして損をした。子供を育てて損をしたと、年中被害妄想を抱いているのです。

 女性にしてみればそう考えざるを得ない面があるのです。確かに男はわがままです。無責任です。ですから、女性が損をしている面はあります。

 しかしこれは、エバが神が絶対に食べてはいけないという善悪を知る木の実を、アダムに食べさせたことが原因になっているのです。

 神はアダムに、「食べるなと命じておいた木から取って食べたのか」と詰問したところ、「女がくれたから食べました」と答えたのです。神は女に「なぜ食べたのか」と聞いたら、「蛇が騙したので食べました」と言いました。

 そこで神はしょうがないから蛇を叱ったのです。「おまえは女を堕落させた。そこでおまえと女の間に恨みをおく。エバには産みの苦しみを増し、夫がおまえを治めるであろう。おまえは夫に従わなければならない」と言われているのです(創世記二章、三章)。

 夫(アダム)はおまえ(エバ)を治める。おまえは夫に服従しなければならないと言っているのです。

 これはエデンの園で、エバがアダムに善悪の木の実を食べさせたからです。これが女の宿命になっているのです。

 女は損だ。男は得だと言わなければならない原因はどこにあるのかと言いますと、女は蛇に騙されて、アダムを誘惑する方へ回った。蛇と同盟を結んだようになった。

 そこで、蛇と女の間に恨みがおかれたのです。これはどういうことかと言いますと、蛇というのは悪魔のことです。現世のプリンスは悪魔です。この世の君は悪魔です。

 この世は悪魔の思想が通用する場所です。

 男はこの世の君ではないけれど、この世の君のような立場におかれているのです。これは日本だけではない。世界中同じ状態です。

 男が政治、経済、社会の中心になって指導しているのです。男がこの世の頭になっているのです。蛇がこの世の頭であるということと、男が頭になっているのとは、同じ位置におかれているのです。

 蛇と女の間に恨みをおかれたということは、男と女に恨みがおかれたような形になるのです。そこで女は蛇を恨むような形で、いつでも夫を恨まねばならないような心理状態になるのです。

 結婚するまでは夫に優しくしてもらったが、結婚して化けの皮がはがれた。詐欺に会ったと考えるようになるのです。

 世間の女は誰でもそうなっていることを女は知っているのです。結婚する前に、結婚したらそうなることを知っているのです。それでもなお結婚したがるのです。

 女は結婚したら不幸せになることを知っていながら、なお結婚せずにはいられない気持ちになる。これが蛇と女の間に恨みをおくという神の預言の成就なのです。神の預言が成立しているのですから、しょうがないのです。

 自分は損だと思ってもしょうがない。だから損だと思うことを一切やめて頂きたい。私は善人だと思うことをやめて頂きたいのです。

 損だと思うことをやめたら、善人だという気持ちもなくなるでしょう。子供に当たったり、夫に当たったりしなくなるでしょう。もっと良い奥さんになるでしょう。

 現在、男と女の待遇に不公平があると思っていますが、男女の間における矛盾を女が呑みさえすれば、女の人はすぐに救われるのです。

 ですから上等の亭主を持っているより、安物の亭主の方が矛盾が多くあるから、呑みやすいことになるのです。

 矛盾を呑むということは、苦い盃を飲むことです。苦い盃を飲めば、自分の中にある矛盾が消えるのです。これが罪の許しです。

 「女は夫に従えば救われる」と聖書にあるのです。矛盾を呑むということは、自分自身の罪が消えてしまうことです。

 会社に行けば、必ず矛盾に遭遇します。その矛盾を呑めば、自分自身の中にある矛盾が消えるのです。自分の中にある矛盾を消そうと思ったら、矛盾を呑むことです。

 矛盾を呑むということが、十字架を負うということです。日々十字架を負うことによって、自分の罪が消えてしまうのです。

 日々十字架を負えば、日々罪が消えるのです。ところが、人間は十字架を負わないで、勝手に苦しんでいるのです。私は損をした。詐欺に会ったと思っているのです。

 ご主人はせいぜい良いご主人になるようにして頂きたい。奥さんが自分のことを聞いてくれないとすると、これは主人にとっての矛盾です。そこで奥さんの態度を全部許すのです。全部呑むのです。

 亭主の悪いところを奥さんが呑む。奥さんの悪いところを亭主が呑むのです。そうすると、お互いの罪が消えてしまうのです。これが「汝らお互いに相愛する」ということになるのです。

 夫婦のお互いの罪が消えるということは、宇宙に甚大な影響があるのです。人間が愛し合うということは宇宙にすばらしい影響があるのです。神の国を実現するための大きな影響があるのです。

 目には見えないけれど、お互いに愛し合うということは、すばらしい力になるのです。

 個々の人間の働きが、自分自身の生活を幸福にするし、同時に社会と世界を幸福にすることになるのです。

 世界を幸福にするというのは、今の文明を良くするということではありません。文明はどんどん崩壊していくのです。

 私たちが行いを清くすると、神の国が早く来るという意味です。神の国を早く到来させるためには、現代の文明が早く滅びることになるのです。

 悪いものが早く悪くなって、良いものが早くやって来るという意味です。神の経綸が促進されるために、私たちの行いが清くされなければならないのです。

 もう一つお話ししておきますと、神が空の鳥に餌を与えて養っておられるように、人間にも必要なものが毎日与えられているのです。

 空の鳥を見て、神がそれを養っておられることが分かったら、川の魚を見てぴんぴんはねている所を見たら、自分にも食物が与えられに決まっていることが分かるのです。

 そこで何を飲み、何を食べ、何を着るかという煩いをやめて、鳥や魚を養っておられる神は、人間を養いたもうに決まっていることを信じて頂きたいのです。ことに、皆様は神の国と神の義を求めておられますから、神が味方をしているに決まっているのです。

 神の国と神の義を求めたら、そうなるに決まっているのです。

 とにかく人間は、自分が損をしないか、死ぬのではないか、病気になるのではないかと、戦々恐々として年中脅えているのです。それは神を信じないからです。空の鳥を見ないからです。

 戦々恐々としている空の鳥は一羽もいないのです。大自然が悠々と流れ動いている状態を、人間は理性がありながらそれを見ようとしないのです。

 人間は大自然の真髄を見極めるために、理性が与えられているのです。大自然の流れ、空の鳥、海の魚が生かされている状態を見極めることが理性の役目です。それさえできれば、神が味方になってくださることが分かるに決まっているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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