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神の国と神の義を求める(4)

 人間の魂は肉によって締め殺されています。肉というのは目に見える現象が実体であるという考え方です。この考え方によって魂が死んでいますから、本当のことが分かるはずがないのです。それなのに憎んだり、ひがんだり、焼きもちを妬いたりしている。ですから、人間は本当の仕合わせを一度も経験したことがないのです。

 神の福音は、本当に、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」なのです(コリント人への手紙2・9)。分かったと思うことが間違っているのです。

 人間は嘘の世界で生きていて、嘘で固められた根性を持っていますから、本当のことが分かるはずがないのです。

 般若心経が色即是空というように、目に見える現象世界は実体ではありません。現象的な物体はすべて電気現象です。これは瞬間的な現象で実体ではないのです。

 人間は自分がいると思い込んでいますが、自分が生まれたいと思って生まれたのではありませんから、生まれているのは自分ではないのです。もし自分が生まれたいと思って生まれたのなら、自分がいると思えるかもしれません。この場合でも、生まれた年代、国、性別、肌の色、身長、顔の形を自分で決めていませんから、今いるのは自分とは言えないのです。

 生理機能も心理機能も、すべて自分でコントロールしている人はいません。心臓を自分で動かしている人はいませんから、生きているのは自分ではないのです。般若心経は五蘊皆空と言っていますが、自分がいる、自分が生きているという考えが、空だと言っているのです。

 目に見える現象が実体であるという考えも、自分がいるという思いも嘘です。人間は嘘の世界に生きていて、嘘の根性を持っていますから、本当のことが分かるはずがないのです。

 自分を投げ出してしまえば分かります。無条件で自分の命をはっきり投げ出してしまえば分かるのです。そうすると、初めて神の国に入ることができて、本当の幸せが分かるのです。神の国に入らずにこの世に生きていて、つまらない夫婦生活をしていて、それが自分の生活だと思っている。これが大間違いです。

 キリスト紀元とはどういうことかです。大新聞には二○一四年と書いています。かっこをして平成二十六年としているのです。聖書を勉強している目的は、キリスト紀元を知ることです。それだけのことです。西暦とは何かということを知ることが目的です。

 自分が生きているということが、心に印されている焼き印しです。絶対に消すことができない印刻です。これは捨てる以外にない。肉の刻印とは関係がない魂を発見するしかないのです。

 生きているのは人間ではない。魂が生きているのです。

 人が生きていることが、救われているのです。西暦紀元に人が生きていることは、救われていることです。生きていることの他に救いはありません。生きていることをどのように受け取っているかです。

 生きていることの他に信じるべきものは何もありません。生きていれば、命が分かるに決まっているのです。命が分かっていたら救われるに決まっているのです。生きていながら命が分からないのは、全くのばか者と言わなければならないのです。

 正直になる訓練をすればいいのです。そうすると御霊を崇めるのが簡単にできるのです。神の国に入るというのはどうしたらいいのか。正直な感覚で聖書を読む訓練をすれば、勝手に神の国に入れるのです。正直になるのが一番いいのです。

 皆様の共通の欠点と言えるのは、キリスト紀元についての明確な認識がないことです。日本人は聖書的にいうと、非常に悪い民族です。皆様は生まれ姓が悪いのです。日本人は命の真意を心得ようとしません。人間の霊魂を真面目に考えないという、非常に悪い習慣があるのです。

 霊魂のことを考えないで生活のことだけを考えている。これが八百万の神を信じる社会の人間です。あの人がこう言った、この人がこう言ったと、生活のことしか考えないのです。魂のことを全然考えない。日本の宗教は現世主義ばかりです。商売が繁盛するとか、家庭円満のことばかりを考えている。健康であるとか、生活が豊かになることばかりを考えている。

 日本人は非常に現世主義です。アメリカ人、ヨーロッパ人でも現世主義ですが、霊魂のことを日本人より多く考えています。

 日本のように文明国でありながら、こんなに霊魂のことを考えない国民は他にはないでしょう。

 第一流の文明国でありながら霊魂のことを考えない。日本人は一番愚劣な民族です。皆様が生まれた国、生まれた家庭はレベルが低いものだったのです。これがキリスト紀元がはっきり分からない原因でした。

 新聞には二○一四年と書いています。二○一四年とは、キリストが生まれてから二○一四年も経ったということです。キリストが生まれたとはどういうことなのか。なぜキリスト紀元が設定されたのか。これを考えなければいけないのです。

 日本人は非常に因縁の悪い国民です。霊魂のことを考えないのです。真面目に神や仏のことを考えようとしないのです。現世の利益ばかりを考えている。そういう宗教が幅をきかせている国です。

 日本という悪い国に皆様は生まれてきました。このことをまずはっきり認めるのです。自分が生まれた国はそういう悪い国だった。育った家庭はそういう悪い家庭であった。悪いというのは霊的に非常に悪いという意味です。

 日曜日に何のために仕事を休むのか分からない。そういう悪い教育をしているので、どんどん悪くなるのです。人権ということを極端に主張した結果、子供たちが自分勝手なことをすることになってしまったのです。

 人権を主張してもいいのです。権利を主張するなら、当然義務を考えなければならないのです。義務を考えないで権利だけを主張するから子供が悪くなるのです。

 そういう教育方針が間違っている国、社会常識が間違っている国、霊魂のことを考えないで生活のことだけを考えるやくざな国に、皆様は生まれたのです。こういうことをはっきり考えてへりくだるのです。神の前に、私たちの生まれ姓が悪かったことを言い現わすのです。

 皆様の心臓が今動いているということだけで、救われているのです。だから一切心配する必要がないのです。

 人が他人を批判する時は、非常に正確に批判します。人を裁く時は、神の位に立って裁くのです。神の場に立って裁くからです。

 イエスが人を裁くなと言っているのは、神の場に立つなと言っているのです。その裁きによって、おまえが裁かれるというのです。神の裁きを人間がするからいけないのです。

 皆様の心臓が動いていることさえ分かれば、救われる。目が見えていることさえ分かれば、完全に救われるのです。

 今皆様が人を裁いたり、失望落胆したり、悲しんだり、苦しんだり、悩んだりしているのは、皆様が嘘の世界に生きているからです。この状態で死んだらどうなるのでしょうか。

 イエスは「汝の敵と和解せよ」と言っています。和解するとは、同意するという意味です。自分自身に敵意を持つ者に同意せよというのです。

 結婚した夫婦はお互いに敵意を持っています。皆様は結婚したことにより、妻は夫によりひん曲げられてしまい、妻も夫をひん曲げたのです。両方共悪くなっているのです。

 結婚は本当に悪いものです。男も女も悪くなるのです。だから、パウロは結婚に反対したのです。また、結婚している人でも信仰を全うするために、相手が反対していれば別れることもやむを得ないと言っているのです。だいたい夫婦が悪いのです。日本人の夫婦は神もキリストも大嫌いです。妻の信仰が悪いのは夫のせいです。夫が悪いのは妻が悪いのです。

 生活のことよりも霊魂のことを第一に考えるのです。私たちは生活するために生まれてきたのではありません。霊魂を全うするために生まれてきたのです。キリスト紀元とは何かを勉強するために生まれてきたのです。これが分かったら勝手に救われるのです。

 キリスト紀元に生きている人間は、すべて神の前に救われているのです。現に救われているのです。

 キリスト紀元を正確に自覚すれば、勝手に救われるのです。神の国に入れます。キリスト紀元は神の国が来ている時ですから、こんな結構な時代に生まれていながら、その意味が分からない人間は何と愚かな者かと言いたいのです。

 皆様は自分の良心に従わないという悪い癖があるのです。それは夫婦生活のためです。良心は皆様の信仰が不満足である、不十分であることを知っていますから、それを咎めているのです。

 皆様の良心は皆様の中にある神の掟です。良心は神の掟を代用しているのです。皆様は自分の良心に対して、これではいけないと思うでしょう。そう思っても同意していない。これがいけないのです。

 良心に同意するのです。皆様の良心は皆様の敵です。良心は霊(神からの働き)です。皆様の思いは肉(人間の考え方)です。霊なる良心が肉の思いをつつくのです。この敵に同意しなさいと言っているのです。

 皆様の生まれ姓が悪いのですから、生まれ姓に関係がない人間になったらいいのです。生まれた家庭とか生まれた国、生まれた民族に関係がない人間になったらいいのです。そうすると、神の国に入れるのです。

 学校で習わなかったと言っても、言い訳になりません。聖書を読んだらキリスト紀元くらいは分かるのです。再臨も分かるのです。皆分かるはずです。分からなかったら御霊(みたま)に聞いたらいいのです。

 生活のことは考える。色々と人の悪口は言うけれど、自分の悪口を一切言わないのです。自分の悪口をせいぜい言うのです。そうするといいのです。教えてもらわないから自分は知らないという、卑怯な言い訳を一切言ってはならないのです。

 神が言葉によって万物を造りました。被造物の頭になるのが人間です。人間は自分自身の存在をじっと内観すれば、万物のあり方がはっきり受得できるようになっているのです。

 人間は自ら自分の存在を検討する能力を持っているのです。犬や猫にはそれができません。自分自身を検討すれば、植物や動物を育てる知恵が分かるのです。万物の頭だからです。

 人間の頭はイエス・キリストです。イエスは、「私は父にいる」と言いました。私は父にいるという信仰で生きていましたので、人間全体の頭になったのです。

 「我父にあり」という以上の悟りはありません。我父にありという信仰をイエスが持ったので、キリストになったのです。アブラハムはここまでいかなかったのです。

 イエスは自分が万物の代表である、万人の代表であるという信仰を持っていた。だから「私の父、即ちあなた方の父」と言っているのです。

 聖書に、「キリストが肉にて殺された」とあります。イエスは信仰によって全世界の人間の代表者であると考えていたので、その考えを持ったまま十字架につけられた。そこですべての人間の肉(人間の思い)が、全部否定された。肉なる人間は、全部死んでしまったのです。

 イエスがそう信じたからそうなったのです。自分は万物の代表であるとイエスは考えたので、そのとおりになったのです。

 イエス・キリストの信仰は、神の信仰をそのまま代理していたのであって、イエスが信じたことは、神が信じたことと同じ値打ちを持っていたのです。

 我父にありという状態で信じたことは、父の信仰を代理しているのです。そこでイエスが肉にて殺されたことは、すべての人間が肉にて殺されたことになるのです。

 皆様がそれを信じても信じなくても、神がそれを信じているのです。地球を自転公転させている神が、すべての人間の肉は消えたと決めてしまったのです。ですから、皆様は存在していないのです。肉的な皆様は生きていないのです。

 宗教は人間の側から神を見るのです。真理は神の側から人を見るのです。反対になるのです。

 飲むとか食べるとかいうことは、人間の側から考えると軽いことになります。ところが、何かを食べようと考えても、神が与えなければ食べられません。

 神の方から考えますと、人間に何を食べさせるかということは、非常に重大なことなのです。神は自分が何をなすべきことを知っているのです。人間の方は神の心を全く知らないのです。

 何を飲み何を食べるかということは、人間の方から考えると軽いことですが、これが間違っているのです。仮に石をパンにするほどの力があっても、一番上等な人間かというとそうではない。石をパンに変えることができたとしても、神の口から出る言葉が人間の命だということが分からなければだめです。これが神の義です。神の義が分かっていれば、何もできなくてもいいのです。

 神の口から出る言葉が自分の命だと分かっていれば、その人は神の義が分かっているのです。何もできなくてもいいのです。ものが言えなくても、目が見えなくても、耳が聞こえなくてもいい。神の口から出る言葉が私の命だということが分かっている人は、永遠の命に生きているのです。

 何ができてもだめです。どんなに大きな業績を残しても、神の口から出る言葉が、自分の命だと分かっていない人は死んでいるのです。

 皆様に何を食べさせ、何を飲ませようかと、神が毎日心配しているのです。

 「命のことを思い煩うな」とイエスは言っています。命のことを心配するのは神の方なのです。それは神の仕事ではないかと怒っているのです。

 我父にあり、これだけでいいのです。我父にありという信仰があれば死んだ者が生き返るのです。ましてや、食べさせるのは神の方で心得ているのです。

 神が人間を養わなければならない責任があるのです。人間は神の国と神の義を求めなければならない責任があるのです。

 ところが、異邦人は生活のことを心配しているのです。生活のことを心配するというのは、神のことを考えていないことになるのです。自分がしなければならない責任を全然知らないのです。

 神の国と神の義を求めるのは人間の責任です。この責任を果たす者だけが人権を主張できるのです。救われる権利があると言えるのです。

 人間の責任、義務はどこにあるのか。働くことでも家族を養うことでもない。神の国と神の義を求めることなのです。この義務を果たせば、神は必ず人間を救います。救わなければならないのですし、養わなければならないのです。

 神の国を求めていない人間でも、神は養わなければならないと考えている。神は誠実なお方です。金のかの字だけを考えて、神のかの字を考えない者でも神は養っているのです。

 生んだ以上は、生かさなければならない責任が神の方にあるのです。

 人間は神の責任と自分の責任とを取り違えているのです。これが異邦人のばかさかげんです。生かされている自分のことは考えてもいいけれど、この世の自分のことは考えていけないのです。せいぜい考えないようにせよとは違います。この世に生きている自分のことを良かれ悪しかれ、一切考えてはいけないというのです。「地上にあることを思うな、天にあることを思え」と言っているのです。

 人間は神の国と神の義を求めなければならない責任があるのです。万物は神の国と神の義を求めることはできません。人間は万物に代わって神の国と神の義を求めなければならない責任があるのです。神の国が来れば、犬や猫、草木も皆救われるのです。万物が皆救われるのです。

 地球の土が呪われているので万物は苦しんでいるのです。万物の悩みがあるのです。キリスト王国が現われると、万物の悩みがなくなるのです。

 やがて気候、天候の条件ががらっと変わってしまいます。病気や疫病、天災もなくなるのです。風邪をひかなくなるだけでも有難いのです。

 現在の地球に病気や災害が絶えないのは、気候、天候が呪われているからです。土が呪われているために、気候、天候まで呪われているのです。

 地上のことを思わずに、第三の天のことを考えるのです。よく分からなくても第三の天のことを考えるだけでも健康になるのです。

 第三の天の神の右にキリストが座しています。第三の天のキリストを考えるのです。これが永遠の夫です。永遠の男性です。人間全体は永遠の女性です。永遠の夫が永遠の女性を愛す。これが本当の恋愛です。

 神が皆様を生んだ以上、絶対に責任を持ちます。肉体の命のことはもちろんのこと、霊魂のこと、永遠の問題まで神が全部処置をしてくれるのです。処置してしまっている。皆様を救ってしまっているのです。とこしえの命を与えてしまっている。それを皆様は受け取ろうとしないのです。現世の夫のことばかりを考えているからです。

 第三の天にイエスがいて、その命が今私たちに働いていると考えるのです。そう考えるだけで、生活の内容も、健康状態も全部変わってしまいます。これを実験したらいいのです。

 神が人間を造ったのは、愛の対象として永遠の命、永遠の栄光を与えようとして造ったのです。

 永遠の栄光を人間に与えるためには、神の国と神の義を求めなければならない。神の国と神の義を求めさせなければならない。神の国と神の義を求めることが、人間を造った目的です。そこで生活の方は全部引き受けると言っているのです。だから神の国と神の義を求めよと言っているのです。

 ところが、日本人は生活の方を一生懸命にしなければならないと考えている。神の国と神の義は放っておけというのです。放っておいてすむことではないのです。

 「命のために思い煩うな」とイエスは言っています。命の心配をするのは神の責任です。だから私たちは神の国を求めるのです。

 キリスト紀元は自分のことは一切心配しなくてもいいという時代です。神のことを心配したらいいのです。これがキリスト紀元に生活する人間の基本原理です。

 キリスト紀元では神の国が来てしまっているのです。神の国が来てしまっているから自分のことを考えなくてもいいのです。

 キリスト紀元が来てしまっているのに、なぜ救われなければならないと考えるのでしょうか。救われてしまっているのです。

 キリスト紀元が来てしまっているのに、ユダヤ人が臍を曲げているので、キリスト王国がまだ現われていないのです。これがけしからんのです。このことを心配したらいいのです。

 神の国と神の義を求めるのは、ユダヤ人がすべきことです。ところがユダヤ人がそれをしていない。そこで私たちがユダヤ人に代わって神の国を求めているのです。

 キリスト紀元になって、地球は既に神の国になっているのです。私たちは神の国に生きているという信仰によって、イスラエルに伝道するのです。そうすると、神の国を求めながらイスラエルに伝道していることになるのです。

 イスラエル伝道は一番必要なことです。「汝らまず神の国と神の義を求めよ」とあります。ユダヤ人に第一にこれをしなさいと言っているのです。

 これが第一にしなければならないことです。これをすると、何を飲むか何を食べるかということは、全く問題にならなくなるのです。私たちはもう救われているからです。

 生きている命を神に渡したらいいのです。これが霊を渡すということです。自分の人生を神に渡すのです。何も心配しなくてもいい。神が心配してくれるからです。

 その時その時に必要なものは、神が与えてくれるのです。神がその人が必要なものを知っている。必要でないものは与えません。

 キリスト紀元では、与えられるべきものは既に全部与えられているのです。神に養われているのです。だから安心して神の国と神の義を求めたらいいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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